捨てられ元王妃のセカンドライフ ~王宮メイド始めました~
◇1
今日、私は王妃の座を退く。
譲位にともない息子のヴィンスが国王となるからだ。
新たな時代の幕開け――。
「まだ若いが、立派な王になられるだろう」
「この国の未来は明るいですわね」
厳かに戴冠式が行われ、外賓からの評判も上々だ。
夫のジョーセフが、ヴィンスの頭上に大きなサファイアの輝く王冠を載せた瞬間、やっと肩の荷が下りたような気がした。
思い返せば王家に嫁いで二十年、いろいろなことがあったわ……。
国王夫妻が不慮の事故により急逝したため、私とジョーセフは結婚後すぐに国政の重責を担うことになってしまった。慣れない執務に悪戦苦闘するなかでの懐妊。そんなドタバタの隙を突かれて、危うく隣国と戦争になりかけたこともあったっけ。
私は世間知らずな公爵家の娘だったし、同い年のジョーセフは絵を描くことが唯一の趣味で、決して為政者向きの性格ではない。
私たち夫婦は若さと体力を頼りに、ただがむしゃらに頑張るだけの凡庸な国王と王妃だったけれども、忠臣たちに支えられてどうにかここまでやってこられた。
反面教師なのかしら? 息子たち……ヴィンスとショーンは、しっかり者だ。王太子妃のフィオナちゃんも優秀だから、何も思い残すことはない。
以前からジョーセフが「絵の一枚すら描けない多忙な生活から、一刻も早くオサラバしたいんだ」と願っていたこともあり、長男ヴィンスの成人を機に早めの譲位が決定したのだ。
明日から夫婦で気ままな隠居生活。もう政務に追い立てられることはないし、朝寝坊だってできちゃう。のんびりとお茶を飲み、好きなだけ本を読んで過ごそう。絵を描く夫の傍らで、なんてちょっとワクワクしていた。
それなのに――――。
「やっと自由になったんだ。今後はラスキン夫人と離宮で暮らす。マライア、君もこれからは好きに生きたらいい。僕らは政略結婚だったろう? 法律上、王族の離縁はできないけど、引退後まで僕と一緒にいなくてもいいんだよ」
夫にそう告げられて目の前が真っ暗になった。
確かに親に決められた結婚だったけれど、私たちはずっと仲良くやってきたし、愛し合っているのだと信じていたから。
「いつか君をモデルに絵を描きたいんだ」
あなたは優しくそう言ってくれていたのに――。
それがラスキン夫人ですって? ああ、あの子爵家の未亡人のことね。
彼女の夫が亡くなってから、まだ数か月しかたっていないはず。なのに、いつの間に恋仲になったんだろう。
そんな素振り、まったくなかったじゃないの。ひどい人ね……。
私のショックをよそにジョーセフは、祝賀行事が終わるや否や王宮の敷地内にある小さな離宮へ引っ越していった。
◇2
それからというもの私はちっとも楽しくなかった。
念願の朝寝坊をしても、時間を気にせず流行の恋愛小説を読めるようになっても、心はずっと悶々としたままだ。
どうして捨てられたんだろう? 私の何がダメだったの? そんなむなしい疑問ばかりが頭の中を駆け巡っている。
今日は気晴らししようと久しぶりに夜会へ参加してみた。けれど、いつも隣にいた夫はもういないのだ。
『お一人でいらっしゃるなんて、王太后陛下はお寂しいのね』と、皆から憐みの視線を向けられているような気がして、すこぶる居心地が悪い。
ホールでは貴族学院に在学中のショーンが、クラスメイトの令嬢たちとダンスに興じている。彼にはまだ正式な婚約者がいないから、王家と縁を持ちたい家の娘たちは気に入られようと必死だ。
きらびやかな衣装、ステップを踏みながら、時折会話を交わす楽しげな表情。
ぼんやりとショーンのダンスを眺めながら白ワインを飲んでいると、先日まで王家の親衛隊長を務めていたドナルド・アッカー男爵に声をかけられた。
「マライア様、何か憂い事がおありですか? 私でよろしければ、いつでもお力になりましょう」
普段滅多に話しかけてこない彼にまで気遣われるなんて、私ったらよっぽど『かわいそう』なんだわ。
「ありがとう、ドナルド……いえ、アッカー卿。でも大丈夫よ。引退して急に暇になったから、まだ慣れていないだけ。あなたもそうなのではなくて? 何も代替わりに合わせて親衛隊を辞めなくてもよかったのに」
無理して微笑みかければ、ドナルドは澄んだ空色の瞳を細め、ご心配なくとでも言うように悪戯っぽい笑みを返す。
「陛下もそう思われたのでしょうね。本日、貴族学院の教授に任命されまして、騎士科にて生徒の指導にあたることになりました」
「あら、ヴィンスが? 隊長として忙しかったあなたが、のんびり教職だなんて、この国も平和ねぇ。ついでに縁談でもお世話してあげましょうか」
彼は三十路になっても一向に妻を娶ろうとしない。鍛え抜かれた躯体は若々しく国王の覚えもめでたいのだから、その気になれば美しい令嬢たちが我先にと花嫁候補へ名乗りを上げるだろうに。
「やめてくださいよ。私は一人が性に合っているんですから」
「そんなことを言って、本当は意中の女性がいるのではないの?」
ちょっと揶揄ったつもりなのに、ドナルドの顔がたちまち赤く染まる。あらま、図星だったかしら。
私の知る限り、この国で剣技にかけては彼の右に出る者がいない。その勇士が片想いだなんて……と思うとなんだかおかしくて、ふふふとつい笑い声を上げてしまった。
久しぶりに笑ったからだろうか。たちまち心が軽くなっていく。
「せっかくの夜会だし独り者同士、踊りましょうよ」
私の自虐的な物言いに怪訝な顔で眉をピクリと動かしながらも、ドナルドは優雅に手を差し伸べた。
「マライア様、お手をどうぞ」
その手を取って久しぶりにダンスを楽しむ。
音楽に合わせてステップを踏むと、気分が爽快になる。私の人生はこれからなんだ。うじうじ悩んでなんていられないぞ、ってね。
そうだ……私はもともと頭で考えるよりも体を動かすほうが得意なのだ。王妃のときは、お淑やかにするのがお仕事みたいなものだったから忘れていたけれど。
こんなところで燻っていたって何も解決しない。行動あるのみよ!
翌日。
私は嫌がる侍女のキャシーを引きずって国王の執務室へ突撃した。
本来ならアポなしで押しかけるのはルール違反なのだが、国母の私を止められる者などいるはずもない。
「だからって、どうしてメイドになるという発想になるんですかっ!?」
仕事の邪魔をされて不機嫌なヴィンスが声を荒げる。だが、動じたりはしなかった。だってそのセリフ、二度目だもの。
一度目は、今朝キャシーと護衛のコンラッド・ベイルに話したときに「どうか、おやめください」と懇願されてしまった。
「ジョーセフの生活を直接この目で確かめたいのよ」
そのためにメイドとして夫の離宮へ潜入するつもりなのだ。手っ取り早くヴィンスの協力を仰ぎにやって来たのだが、どうやら彼も反対みたい。
キャシーはおろおろと「お諫めしたのですが……」と消え入りそうな声を発し、身を縮こまらせている。
彼女は行儀見習いとして面倒を見ている遠縁の娘だ。まだ若いので経験が浅く、ちょっとしたことで狼狽えてしまう。
まあ、あと数年もすれば、ほかの侍女たちみたいに図太さを身に着けて、でんと構えるようになるだろうけど。
「母上の懸念はラスキン夫人でしょう? 彼女は侍女として正式に雇われています。一緒に働くつもりなんですか」
「だから愛人でしょ? すでに侍従がいるのに仕事なんてあるわけないじゃない。大丈夫、掃除係として潜り込めば顔を合わせる必要はないはずだから」
侍女だなんて、愛妾を手元に置くために歴代王が講じてきた常套手段だ。
我が国は一夫一婦制で、夫婦は愛を育むことが美徳とされている。王侯貴族は政略結婚も多いので皆が皆、愛が芽生えるとは限らないのだが、王と言えど表立って妾を持つことはできない。そのため、こうした抜け道があるのだ。ジョーセフもそれに習ったのだろう。
夫と愛人のイチャイチャを目の当たりにすれば、きっと見切りをつけることができるはず。この際、キレイさっぱり心の整理をつけて新たな人生を始めよう。
そう、これは自分の幸せのために必要なプロセス――。
「たとえ侍女が父上の愛人だとしても王族にはよくあることだし、国政に影響もないんだから騒ぎ立てるほどのことでは……」
「あ、そう。フィオナちゃんによく言っておくわ。ヴィンスはそういう考え方だから、浮気するかもしれないって」
「うわぁ~、母上、それだけはっ。俺がフィオナ一筋だと、わかっていてそんな意地悪を!」
動揺するヴィンスは、フィオナちゃんに首ったけだ。学生時代、クラスメイトだった彼女に猛アピールの末、なんとかプロポーズを了承してもらったというのは有名な話である。
それまで何人かいる王太子妃候補の一人だったフィオナちゃんは、優秀な頭脳を活かして将来は自ら事業を興すつもりだったそうだ。自立心旺盛な彼女のことだから、ヴィンスに愛想を尽かせばとっととこの王宮……どころか国を出て行ってしまうかもしれない。息子はそれを恐れているのだ。
「ほほほ、次にお茶会で会うのはいつだったかしらね?」
「……父上からは、『大作を描くつもりだから邪魔をしないでくれ』と頼まれているのですがねぇ。それに母上は掃除なんてできないでしょう? 自由に生きていいと言われたのなら、好きなことをして暮らせばいいのに」
わかりやすく脅すと、ヴィンスが肩を落としてぶつくさ言う。
「掃除はできないけど、魔法が使えるの。ちょいと呪文を唱えれば、一瞬でキレイになるわ。そんじょそこらのメイドより有能よ。好きにしろと言うなら、そうさせてもらうまでのことだわ」
魔法は王家の血に連なる者なら多少なりとも使うことができる。
建国記によると、初代国王が国を興す際に女神に祝福されて、浄化と治癒をつかさどる聖魔法を授かったのだとか。
実家のウェストン公爵家は王家の流れをくんでいるので、私も浄化魔法で掃除洗濯くらいはできるというわけだ。
「はぁ~、しょうがないな。母上は言い出したら聞かないんだから。くれぐれも見つからないようにお願いしますよ。いいですね?」
母親の強情さに呆れ果てたのか、ヴィンスは諦め顔でサラサラとペンを走らせ書面に判を押した。
内容は私を離宮のメイドとして採用することのほかに、仮名を使いバレないように変装すること、王太后の不在が外に漏れないようにすることなど、注意事項が十項目もある。たぶん覚えられないけど、まあ、いいか。
「上手くやるから心配しないで」
ニッコリ笑って答えると、すごく不安げな顔をされてしまった。
「何かあったら、メイド長のリンジーに相談してください」
「はいはい」
その晩、リンジーからメイド服が届けられ、仕事内容の説明を受けた。
キャシーに手伝ってもらい、プラチナブロンドの髪を纏めてメイドキャップの中に隠し、眼鏡をかける。化粧で頬にちょいちょいとそばかすを足せば、王宮メイドの出来上がりだ。
鏡に映る自分の姿に「けっこう似合うじゃないの」と満足した。
◇3
先々代の王妃が建てたという小さな二階建ての離宮には、キッチンと食堂、応接間のほかに、二間続きになっている夫婦用の寝室と二つの客室しかない。そこを隅々までキレイにするのが私の仕事だ。
「マイラさん、寝室が終わったら玄関ホールの掃除をお願いします」
「承知しました」
ジョーセフの侍従を長年務めているエイベル・ホッジ子爵に指示されて、私は従順な返事をした。
彼はジョーセフから全幅の信頼を得ていて、この離宮でも采配を振るう。
マイラと名前を変え離宮に通い始めて五日ほど過ぎたが、私の顔を知っているはずのエイベルに、まだ正体がバレていない。この調子なら今後も大丈夫だろう。
王宮の私の部屋は、キャシーとコンラッドが留守番をしてくれている。キャシーには「お考え直しください、マライア様ぁ~」と最後まで泣きつかれてしまったけれど。
「誰もいないわよね? よしっ、とりあえずここの掃除を終わらせちゃおう」
キョロキョロと辺りを見回してエイベルがいなくなったのを確認してから、掃除魔法の呪文を唱える。
「くるくるりーな♪」
すると、またたく間にシーツや枕カバーは新しいものに取り替えられ、窓ガラスと床がピカピカになった。楽勝だわ。
それにしても……と、必要最小限の調度品しかない小ざっぱりとした夫婦用の寝室を観察した。愛の巣と言うには質素すぎる。
「一人、なのよね?」
てっきり愛人と一緒なのかと思いきや同衾の気配はなく、内扉で繋がった隣室はアトリエとして使われていた。ラスキン夫人は客間の一室をあてがわれ、場所も一階と二階に離れている。
これは一体どういうことだろう。まさか本当に侍女としてここにいるの? しかし、彼女が働いているところをまだ一度も見たことがない。
私は訝りながらも、使用済みのシーツと枕カバーをランドリーボックスに入れた。これは、あとで洗濯係が回収に来るので指定の場所へ置いておけばよい。
それから玄関ホールへと向かう。
寝室のある二階の廊下は庭に面していて、窓から一望できる。薄紅色の薔薇が咲き誇り、白いベンチに座る貴婦人が一人……と少し離れたところにその様子をスケッチしている夫の姿があった。
「ラスキン夫人だわ」
彼女、美人なのよねぇ。豊かな金髪、染み一つない白い肌に、緑の瞳は宝石のよう。膝の上に置かれた刺繍図案集に視線を落とせば、長いまつ毛が愁いを帯びて庇護欲をそそる。ページをめくる細長い指。
うん、『絵になる』わ。そのうえ私より一回りも若くて……これじゃ夫が夢中になるのも仕方ないだろう。
私が誇れるのは、侍女が懸命に手入れをしてくれたプラチナブロンドの髪だけで、瞳は平凡な薄茶だし、お世辞にも美人とは言えない。
きっと彼の『大作』に、私は似つかわしくないのだ。
ジョーセフは優しい笑みを浮かべながら、せっせと鉛筆を動かしている。
ダークブロンドの髪に切れ長の青い瞳、すっと伸びた鼻梁……涼やかな顔立ちの美貌は、結婚した頃と少しも変わらない。
けれど、もうその笑顔が私に注がれることはないのだろう。
そう、あなたは彼女を選んだのね――。
そもそも私とジョーセフの結婚は、私が王家の血を引く公爵家の娘であることと、魔力が少しばかり高かったから決まったようなものである。代を重ねるごとに血が薄まり、このままでは魔法の継承が途絶えるのではないかと危惧する声が上がったためで、美醜とか頭の良さは関係ない。
その魔法も無事、二人の息子に受け継がれた。私はもう誰からも必要とされていない……なんて、ね。なんだか世界で一人ぼっちになった気分。
「いけない、いけない。掃除しなくっちゃ!」
私は沈んだ気持ちを振り払うように、玄関ホールに続く階段を勢いよく駆け下りた。
その晩、キャシーに髪の手入れをしてもらいながら、留守中の報告を聞く。丁寧に髪を梳かれ、ヘアオイルから漂ってくるラヴェンダーの香りに癒される。
「オリヴィア夫人からお手紙が届いています」
「ああ、きっと晩餐のお誘いだわ。ほかには?」
「あとは王妃様の侍女がスケジュールの確認にいらして……三日後のお茶会は予定どおりでよろしいですか?」
「予定どおりで結構よ。その日はお休みだから」
メイドの仕事は週に一度、規定に則った休日がある。それがちょうど三日後だったな、と思いながら返事をしたとたん、キャシーの口がへの字に曲がった。
「まだ続けるのですかぁ? 数日もあれば、離宮の様子を探るには十分だと思いますけど」
「働き始めて一週間も経っていないのよ? そんなにすぐに辞められないわ。後任だって手配しなくちゃいけないし、一度引き受けた仕事を投げ出すなんて迷惑よ」
「……なんですか、その無駄に強い責任感は。後任なんて、すぐに見つかりますよぉ。陛下に頼めばいいじゃないですか。マライア様ぁ、そうしましょうよ」
「嫌よ。またぶうぶう言われそうだもの。それにねぇ、なんかスッキリしなくて」
「スッキリ、ですか?」
「もっと決定的な瞬間を見たいのよ。キスしてるところとか。抱き合っている場面に出くわしたら、さすがに離宮へ行く気も失せると思うわ」
一つ屋根の下で暮らしているのに、手を触れあってさえないなんて納得いかない。なんだか中途半端だわ。
「そんなものですかねぇ」
キャシーはため息交じりに言った。
「そんなものなのよ」
私もため息を吐いた。
自分がこんなにも諦めの悪い、粘着質な性格だなんて知らなかった。
けれど、決め手が欲しい。
あなたを忘れ去る。その勇気を持てるだけの何かが――。
◇4
「聞いたわよ。ジョーセフ様のこと。ラスキン夫人と一緒なんですって?」
晩餐に招待されてお忍びで実家に戻ると、兄の妻で親友でもあるオリヴィアが手ぐすねを引いて待ち構えていた。私の好きな牛肉のパイ包み焼きと金色に澄んだコンソメスープ、極上ワインまで用意されている。
兄と甥は留守にしており、予め人払いされた食堂には二人きりだ。時々、私たちはこうして気の置けない女同士の時間を楽しむ。
「聞いたって、誰によ」
「あら、ワタクシの兄は誰だと思って?」
オリヴィアが、ふふんと自慢げに鮮やかな赤毛をかき上げた。キリッとした灰色の瞳は心なしかギラついていて、狼に狙われた子ウサギのような気分にさせられる。
彼女の兄は宰相だ。この国のことについては、即位したてのヴィンスより詳しいのではないかしら。彼はジョーセフが侍女を雇ったと知って、オリヴィアに私の様子を尋ねたのだろう。
「好きに生きろって言われちゃった。退位と同時に捨てられるなんて情けない。もう噂になっているのね。いい笑いものだわ」
私は観念して白状する。
「あなたのことは噂になっていないから安心して。今、社交界はラスキン夫人の噂で持ちきりだもの」
「だからそれは、ジョーセフの侍女になったという内容ではなくて?」
オリヴィアは公爵夫人として社交に力を入れているので、世情に明るい。その彼女が言うことには、ラスキン夫人はまだ子爵邸にいると世間で認識されているらしい。
「彼女、子どもがいないでしょう? それでラスキン子爵の弟が爵位を継いだのだけど、彼に色目を使ったとか。男に見境がない悪女だとか」
「そんな噂、聞いたことなかったわ。本当なの?」
「この数か月で急に広まったのよ。ちょうどラスキン子爵が亡くなった頃からかしら。領地に向かう途中の事故なのに、それすらも彼女のしわざだという声まであったの。あなたは戴冠式の準備で忙しかったから、知らなくても無理ないわ。彼女の喪が明けたら求婚したいって殿方が大勢いたらしいけど……」
「だったら誰かに嫉妬されたんじゃない? だから悪評を広められたのよ」
この国では配偶者が亡くなると三か月ほど喪に服す習慣がある。祝い事や社交の場を避け、故人の死を悼むのだ。
ラスキン夫人の美しさは社交界でも評判だった。夫のラスキン子爵は生前、周りからずいぶんと羨ましがられていたようだから、彼女を妻に迎えたい男性は多いだろう。嫉妬する女性がいたとしてもおかしくないし、本人不在の間に悪い噂が広まるなんて作為的なものを感じる。
「そうかもね。けれど浪費家なうえに使用人に横柄だとまで言われたら、誰も求婚しないでしょうねぇ」
「使用人に横柄だなんて……彼女、そんな人じゃないわ」
事実、ラスキン夫人は慎ましやかな女性だ。たまに廊下ですれ違っても横柄な態度だったことは一度もないし、浪費を疑うような華美な服装もしていない。物静かで、いつもは本を読むか刺繍をして過ごしている。
愛人の味方なんてしたくないけど、目下の掃除係にまで「いつもありがとう」と謝意を示すのだもの。これじゃ悪口なんて言えやしないわ。
「あら、マライア。彼女と話したことがあるの?」
「……な、ないわよ。なんとなくそう思っただけ」
いけない。メイドをしていることは秘密だったわ。危うく話しそうになって、口を閉じた。
「でも喪が明けて早々に離宮に引っ越すような人だから、まんざら嘘ではないのかもよ」
子がいない未亡人は、持参金を返還されて実家に帰ることが多い。だが、ラスキン夫人は嫁ぎ先の子爵邸からそのまま離宮へあがったようだ。家に戻れない理由があったのか、それとも待ちきれずにジョーセフが彼女を呼び寄せたのか……。
「ああ、マライア、そんな顔しないで……。ジョーセフ様なんて、こっちから捨てておやりなさいな。あなたも素敵な恋人を作って、人生を楽しめばいいわ」
そう言ってオリヴィアは、急に黙ってしまった私を慰めた。
「ジョーセフとはずっと苦楽を共にしてきたの。そんなにすぐに割り切れない……それに私に恋人なんてできっこないわよ」
だって、もう若くないもの。同じ年でも美男のジョーセフとは違う。
どんどん気分が暗くなっていくので、酔わなきゃやってられないとばかりに、私は赤ワインをグイッと喉に流し込む。
「相手だったらアッカー男爵がいるじゃない。先日の夜会でも一緒に踊っていたんでしょ?」
オリヴィアの口からドナルドの名前が出た瞬間、ゴフッと喉を詰まらせて盛大にむせた。
「ゲホッ、ゲホッ……ド、ドナルド!? あり得ないわっ。なぜ彼が……」
彼が私の恋人になることは絶対にない。だって五歳も年下だし、それに――。
動揺のあまり、ワイングラスを置こうとして側にあった酒瓶ごと倒してしまった。赤い染みがテーブルクロスに広がる。
「だ、大丈夫!? ちょっと誰か、拭くもの持ってきてっ!」
オリヴィアが叫び、わらわらと使用人が集まってきた。にわかに場が騒然となる。
「く、くるくるりーなっ!」
こんな時こそ魔法の出番だ。
私は急いで呪文を唱えて自分の失態をなかったことにした。けれど、なんだか急に疲れが襲ってきて、デザートを食べずに王宮へ帰ってしまったのだった。
◇5
気づけば薔薇の見ごろが終わりを迎えようとしていた。
私は今日も雑巾を手に掃除するふりをしながら、離宮の夫を観察している。メイド生活にも慣れた。案外この仕事、向いているのかも。
このところジョーセフは、アトリエにこもりきりだ。
片やラスキン夫人は部屋で刺繍をしていて、ジョーセフを誘うようなことは一度もなかった。
やっぱり悪女だなんて嘘なんだわ。というか、なんで別行動? キャッキャウフフの甘~い蜜月はどこへ!
本当ならば今頃は、夫に見切りをつけて新たな人生を始めていたはずだったのに……すっかり予定が狂ってしまった。
「あのぉ、そろそろアトリエの掃除をしたいのですが」
「今後、アトリエの掃除は必要ありません。ジョーセフ様は、絵が完成するまで誰も入らないようにと仰せです。マイラさんも従うように」
しびれを切らしてエイベルに探りを入れると、予想外の立ち入り禁止を言い渡された。どうやら夫は、いよいよ『大作』に取りかかったらしい。
「え、ですが……」
反論しようとした私を警戒するかのように、エイベルは剣呑とした表情を浮かべた。
彼はジョーセフの身の回りの世話をするだけでなく、襲撃を受けた際は応戦することもある。万が一に備えて鍛錬を欠かさないから筋肉質で体格がよい。そのうえ顔つきも精悍なので、睨まれるとすっごく怖いのだ。
「何か?」
「い、いえ。ただ、窓の閉めっぱなしは、お身体によくないと思っただけですっ」
間諜ではないかと疑われてはたまらないので、慌てて言い訳をする。
この離宮は人の出入りを制限していて、かなり警備が厳しい。ヴィンスの協力がなければ、私はここへ潜り込めなかっただろう。
「なるほど……あとで私からジョーセフ様に伝えておきます」
「そ、それに、適度な運動もしませんと、睡眠の質にも影響するのでは……」
何を言っているのだ、私は。
昔からエイベルは、ジョーセフの命令に従順すぎるきらいがある。だから、つい心配になってしまって余計なことを。
「そういえば以前、王太后マライア様も同じことをおっしゃっていました。きちんと眠らないと作業効率が落ちてしまうのだと」
エイベルが納得したように頷く。
私は自分の名前が挙げられてドキッとした。
政務に忙殺されていた頃に、そんなことを言った気がする。ちゃんと眠って頭をシャキッとさせないとミスが多くなって二度手間になるわよ、って。
だってジョーセフったら一度仕事を始めると、誰かが止めるまでそのままなんだもの。
「そ、そ、そうですよ。作業に没頭すると寝食を忘れがちになりますから、周りの者が気をつけて差し上げないと。ですが、それだけ夢中になれることがあるのは羨ましいですね」
「在位中のジョーセフ様はお忙しくて、なかなか絵を描く時間が取れなかったのです。愛する人の姿をキャンバスに納めたいと前々から願っておられたので、あまり邪魔をしたくなかったのですが……ふむ、健康にも配慮せねばなりませんね」
愛する人――。
ラスキン夫人をスケッチしていたジョーセフを思い出して、胸がチクンと痛くなる。あの優しげな瞳はやっぱり……。
そうよ。まずは絵を仕上げてから、本格的に彼女との生活を始めるつもりなのかもしれないわ。
そしてその絵を見た時こそ、私はやっと心の整理がつくのだろう。だとしたら、することは一つ。
「ええ。私でよろしければ、お手伝いさせてください」
「マイラさんは、いい人ですね」
エイベルの顔から険がなくなり、にこりとした柔らかな笑みになった。
そのあと私はエイベルに庭のテラスの掃除を命じられ、箒で掃き始めた。
庭師が出入りする屋外は、人目につきやすく魔法が使えないので、ここだけはこっそりリンジーの指南を受けて自力で掃除をしている。
「マイラさん、今日も花びらを持っていくかい? もう最後だから少ないけれど」
「ありがとう、いただくわ。もう薔薇の季節も終わりなのね」
薔薇の手入れをしていた庭師のトムから、白いハンカチに包んだピンクの花弁を差し出されたので、私はお礼を言って受け取った。
トムとはここで働き始めてから話すようになり、薔薇が好きなのだと言ったら、いらなくなった咲き終わりの花をくれるようになったのだ。
私はこれをお風呂に入れたり、ポプリにして寝室に置いている。絹の小袋にポプリを詰めてジョーセフの枕元にも忍ばせたので、きっとリラックスしてもらえるだろう。
「王宮の中庭に遅咲きの薔薇があるから、よかったら分けようか」
「いえ、もう十分よ。ポプリもたくさん作れたから、離宮の寝室に置かせてもらっているの」
嬉しい申し出だったが、私は首を横に振った。
中庭の薔薇は王妃であるフィオナちゃんの管轄だから、咲き終わりの花と言えどもこちらの勝手にするつもりはない。
私が王妃だった頃は、その赤い薔薇でポプリを作らせ、お茶会で夫人たちにプレゼントしていた。キレイな薔薇は、交友を深めるための便利なアイテム。たくさんあったほうがいいのだ。
「マイラさんが作るの? メイドってそんなことまでするんだね」
大変な仕事だ、とトムは感心している。
「私はただの掃除係よ。ポプリは趣味のようなもので仕事ではないわ」
私は笑って答えた。最近では暇に飽かせて自分で作るようになったので、趣味と言って差し支えないだろう。
「でも偉いよ。気配りが細やかだ。きっと先王陛下もお喜びだろうね。ここのメイドはマイラさんだけなの? ほかの人を見かけないけど……」
「交代制なのよ。たまたま私のシフトがトムさんと被っているだけで、ここの担当は何人かいるわ」
私は調子を合わせて適当に答える。メイドが私一人だけだなんて、本当のことをわざわざ教える必要はないもの。
「へえ……」
「そろそろ行かなきゃ。ハンカチは洗ってお返しするわね」
私はもう一度、薔薇のお礼を言ってから踵を返した。
そうだ! この花びらはフィオナちゃんにあげよう。トムは中庭の薔薇の手入れも任されているようだから、彼のことを知っているかもしれない……なんてね。
王妃というのは忙しいから、こういう口実でもないとなかなか会いに行けない。ほんのちょっとの間、顔を見るだけよ。
そんなことを思いついて、仕事のあと一旦自分の部屋で着替えてからフィオナちゃんを訪ねた。
義娘と会うのに女官を通してやり取りがあるのは、面倒だが仕方のないこと。お茶会だって何日も前からスケジュールが組まれているし、一般的な家族の距離じゃないのよね。
でも「まあっ、離宮の薔薇ですか。中庭の赤薔薇も美しいけど、こちらのピンクも可愛らしいですわ」と喜んでもらえたので良しとしよう。
「そうでしょう? たまたま近くを通りかかって、トムという庭師に分けてもらったの。王宮の中庭の手入れもしているそうだから、気に入ったのなら来季は直接取り寄せるといいわ」
私は上機嫌で言った。この情報を伝えたかった。メイドをしていることはフィオナちゃんにも内緒なので、偶然手に入ったということにしておくけど、次からはトムから直接もらえるように。
「トム……ですか」
記憶にないのか、思い出そうとするかのように彼女の視線が右斜め上を彷徨う。王宮使用人は大勢いるので、全員の顔と名前が一致しないのは仕方がない。私も覚えてないし。
「ええ、三十過ぎの茶髪の男よ。あ、ハンカチは洗って返すから持って帰るわ」
「いえ、代わりにこちらをお持ちになってください。わたくしからのささやかなお礼です」
フィオナちゃんは侍女に合図して、新しいハンカチを持ってこさせた。肌触りのよい白いコットン製で、ほのかに花の香りがする。庭師への返礼品にまでこの気配り。さすがだわ。
ヴィンスと結婚してくれてありがとう、と改めて思った。
◇6
ボコボコと湯面に泡が沸き立つ。
私は温めたポットに茶葉を入れてから勢いよく湯を注いだ。すぐに蓋をして蒸らし、その間にケーキを皿に並べる。
ジョーセフが好むミルクティーの濃さになるように少し長めに抽出し、白いカップに茶殻をこしながら最後の一滴まで注ぐ。
以前は執務中の彼のために、こうしてよくお茶を淹れたものだ。
あの頃のカップは一客だったけれど、今は二客。銀のトレイに載せて食堂のテーブルへ運ぶ。
「ジョーセフ様、お茶の用意が整いましたわ」
「うむ。今日の菓子も美味しそうだな。では、いただこうか」
窓から庭を眺めていたジョーセフが振り返り、席に着く。「君も座りなさい」と促されて、私はおずおずと向かい側に腰を下ろした。
どうしてこんなことになっているのだろう?
こんなことって? つまり私の目の前にジョーセフがいて一緒にお菓子をつまんでいる、この状況のことよ。
確かに根の詰めすぎは身体によくないとは言ったし協力するとも言ったけれども、一緒にお茶するとまでは言っていない。
エイベルに苦情を申し入れたら「息抜きもジョーセフ様の健康には大切なことでしょう?」と笑顔で躱されてしまった。
ヴィンスも「自業自得です」とにべもない。
誰も助けてくれないので、もう二週間もこの調子である。
おかしいわ。だって、こういう時こそ愛人の出番ではないの?
やっぱり、あれがいけなかったのかしら。
二週間前。
この日はいつもより暖かで、開け放たれた窓から爽やかな風が吹いていた。
あまりに心地よかったものだから、私はいつものようにジョーセフの寝室で呪文を唱えたあと、無自覚に鼻歌を歌っていたらしい。壁一枚隔てたところで夫が絵を描いているというのに、完全に気が緩んでいた。物音一つしないから、集中しているのだろうと思っていたのだ。
そして、ちょうど取り替えたシーツを丸めて両手で抱えたときだった。
「それは、なんという曲?」
突然、後ろから話しかけられて、びっくりした。顔を確認しなくても誰の声かわかる。
まずい。魔法、見られてないわよね? 正体がバレてしまう。この王宮でちゃんとした掃除魔法が使えるのは、私と息子たちだけだもの。
私はのろのろと振り向き、深く頭を垂れた。
「あー、楽にしていいよ。君がいつも部屋を掃除をしてくれているメイドだね。名前は?」
ジョーセフがアトリエに繋がる扉から顔を覗かせ、のんびりと尋ねる。元国王の威厳を欠片も感じさせない天真爛漫さは相変わらずだ。
私は姿勢を正し、ハラハラしながら「マイラでございます」と答えた。
「マイラか。実は歌を聴くのは久しぶりでね、曲名を忘れてしまったんだ」
魔法についての言及がないので、どうやら見られたわけではないらしい。
ホッと胸を撫で下ろしている私を尻目に、ジョーセフは「思い出せそうで、思い出せないんだ」と、こてりと首を傾げてこちらを見つめた。
うっ……ちょっと、それは反則でしょ!
知らんぷりしようと思ったのに、捨て猫が助けを求めるような彼の視線にきゅんとなる。私はこの瞳にめっぽう弱いのだ。
「モデュイのワルツ第三番、通称『春風のワルツ』です」
渋々質問に答えると、ジョーセフは目を丸くする。
「モデュイの曲なんてよく知ってたね。君、ひょっとして貴族?」
貴族と言われてヒヤッとした。
そりゃそうよね、ただの掃除係は流行の宮廷音楽なんて知らないわ。だから答えたくなかったのよ。
「……貴族ではありませんが、フィアロン家に縁の者でございます」
私は一応王族だし、親戚のキャシーはフィアロン伯爵家の娘なので嘘ではない。
「ああ、フィアロン伯の」
ジョーセフが納得顔になったところで、撤退を試みることにした。私は嘘がヘタだから、このままではボロが出そうで危険だもの。
「ではお掃除が終わりましたので、私はこれで失礼します」
ペコリとお辞儀をして回れ右をする。逃げるようにそそくさと部屋から出て行こうとして「えー、ちょっと待ってよ」と引き止められた。
「どうしてフィアロン家の縁者が下級メイドをしているんだい? もしかして生活が苦しいのか? 夫と子どもは? 伯爵に援助を拒まれたの?」
「うっ……」
矢継ぎ早に質問されて口ごもる。
しまった! 伯爵の縁者なら平民でもそれなりに裕福だろうし、下働きなんて不自然よね。
怪しんでいる感じではなく、むしろ案じているような口調なのだが、ジョーセフは妙に勘が鋭いところがあるので侮れない。
私は脳みそをフル回転させて、なんとか返答を捻り出した。
「じ、実は、先日夫に捨てられて働き始めたのです。子どもは二人おりますが、生活苦と言うほどのことはありません。メイドの仕事が好きなので……」
そのとき、私のお腹がぐうと鳴った。寝坊して朝から何も食べていないせいだわ。恥ずかしくて顔から火が出そう。
私を見ていたジョーセフの顔が、とたんに憐れみの表情に変わった。きっと、満足に食事をしていないと思われたのだろう。
「そろそろ休憩しようと思っていたんだ。エイベルは今忙しいだろうから、マイラ、君にお茶の準備を頼めるかい?」
「か、かしこまりました」
以来、ジョーセフのティータイムの用意を私がすることになってしまい、そのたびに「一人で食べるのは寂しいから」とお相伴に与っているのだ。
「……イラ……マイラ、聞いてる?」
「は、はい!」
我に返り、私は咄嗟に大きな声で返事をした。
ジョーセフは「ぼんやりしちゃって、どうしたの?」と言いながら、私の淹れたミルクティーを一口飲み満足げな顔になった。そしてケーキの皿に手を伸ばす。
「だからさ、この赤いケーキのことだよ。リンゴかな? アップルパイとは違うみたいだけど」
「キャロットケーキですよ。クルミとシナモンが入っています。ニンジンは栄養価が高く手に入りやすいので、昔からケーキ食材としても庶民の間で使われているのです。子どもたちにも人気で、小さい頃は私もよく食べていました」
離宮の食べ物は、すべて王宮の調理場から届けられる。ジョーセフの希望なのか、ティータイム用の菓子は、お腹にたまるずっしりとしたケーキが多い。
自分はあまり食べないのに、私のお腹を満たそうとの気遣いなのだろう。困っている人を放っておけない……優しい人なのだ。
「へえ、マイラは博識だねぇ。ニンジンなのか。初めて食べる……ん、シナモンが効いていて美味しい」
「えっ、初めてなんですか? それは……人生損していましたね」
「あはは、確かに大損だ。甘いものは『虫歯になるから』と教育係に禁止されていたからね。菓子類を食べるようになったのは、わりと最近のことなんだよ」
ジョーセフが「君も食べなさい」と勧めるので、私もキャロットケーキを口に運ぶ。このケーキは我が国の伝統的な焼き菓子なのに、食べたことがなかったとは。
よくよく考えれば私とジョーセフは、こうしてゆっくりとお茶の時間を過ごしたことがほとんどなかった。執務の合間に軽食をつまむ程度で、会話も政治のことばかり。長い間一緒にいたのに、存外知らないことが多いと気づく。
たとえば、昨日は夫が自分の両親とプライベートで食事をしたことがなかったこと、一昨日は好きな画家が抽象画の巨匠であることを知った。
私は毎日積み上がっていく新しいジョーセフが新鮮だったけれども、彼にとってこれは、いちメイドとの気まぐれな交流にすぎないのだ。
今ここにいる私が、妻のマライアだったらよかったのにと残念でならない。
本当はこんなふうに他愛ない会話を楽しみながら、穏やかに暮らしていきたかった。
ほかの誰でもない、あなたと一緒に――。
◇7
ジョーセフとのティータイムで残ったケーキを「お子さんたちに」と渡され、それをコンラッドとキャシーに差し出すとき、私は少しばかりの罪悪感に苛まれる。
お菓子を心待ちにするほど幼い子ではないとは言いにくいし、まさか本物の我が子……ヴィンスとショーンにあげるわけにもいくまい。
「いや~、すみませんね。毎日のようにお菓子をご馳走になってしまって」
コンラッドは大きな口を開けてキャロットケーキをパクつく。彼の食欲は底なしなので、食べ物がムダにならないのは助かる。
キャシーは「マライア様の留守中に届けられるお茶菓子も、私たち二人で食べているんです。太っちゃいますよぉ」と嘆きつつ、ちゃっかり一切れキープした。
今日のお茶菓子はアーモンドクッキーだったそうだ。離宮とは違うメニューだから「やっぱり一口食べたい」となるらしい。
和気あいあいと二人がケーキを頬張るのを眺めながら、私はソファにもたれかかった。そして、二つ目のケーキに手をつけようとしているキャシーに言う。
「私の侍女になったら太ったなんて、フィアロン伯爵に怒られちゃうわ。キャシー。あなた、自分がなぜここにいるか、わかっているわよね?」
「それはもちろん、王太后マライア様の後見を得て良縁をつかむためです!」
キャシーの答えは立派だが、頬がケーキでパンパンに膨らみリスのようになっている。
うん、そういうところだからね。
キャシーの実家は、伯爵位にありながらいまいちパッとしない。元王妃の母方の遠縁にあたるとはいえ、母はすでに鬼籍に入っているからそれほど親しい関係でもないし、国の要職にも就いておらず、領地も“並”である。
キャシーの姉はその美貌と淑女ぶりが評価されて、無事に裕福な伯爵家へ嫁入りした。しかし、当のキャシーは到底淑女とは言い難く自力では良縁を望めない……というので、王宮侍女として箔をつけに来ているわけである。
王太后、つまり王家との橋渡しが期待できるため、多少粗忽でもキャシーの価値はぐんと上がるのだ。
譲位が決まったあとにフィアロン伯爵からダメ元の嘆願書が届き、無下にできず「まあ、一人くらいなら」とキャシーの面倒を見ることにした。だが、この娘、なかなかのマイペースなのである。
「よろしい。で、成果は?」
夜会は男女の出会いの場だから、なるべく出席するように言い含めてある。愛し愛される結婚は、女の幸せ。私が勝手に見繕うより、実際に会って判断したほうがいいだろうと思って。
ところがキャシーは「う~ん」と顔を曇らせている。
「どうもピンと来る人がいなくて……。父からも、そろそろお見合いをと急かされているんですけど、なんだか乗り気になれないんですよねぇ」
「フィアロン伯爵のほうは、しばらく抑えておけるけど、あまり余裕はないわよ? 同年代の殿方の婚約も、これから続々と決まっていくのだから」
グズグズしていると行き遅れてしまう。
危機感を煽ってみたものの、キャシーに「はーい」とのんびり返されて気が抜けてしまった。
「女性は大変ですよね。その点、私みたいな三男坊は気が楽です。継ぐべき爵位はないし、跡継ぎも期待されず結婚を急かされることもないですから」
コンラッドが、にこやかに言う。
彼は伯爵家の息子だ。二十歳を過ぎても婚約者がいないのは、爵位を継ぐ長男に娘を嫁がせたい親が多いからだろう。爽やかな好青年なのに、実にもったいない。
我が国の爵位継承権は初代の子孫、それも嫡出の男子のみで長子優先と決められている。財産もすべて跡取り一人が相続するため、次男三男や相続権すらない庶子は人気がないのだ。
「羨ましいです。父は貴族家の嫡男との結婚を望んでいるようですけど、正直、自信がないんですよね。私は女主人という柄ではないですから。成果が出ないまま、毎回兄に夜会のエスコートを頼むのも申し訳なくて……かといって勝手にお見合いを決められるのも、ちょっと」
キャシーがため息を吐く。
「お兄さんに頼みにくいなら、私でよければエスコートしましょうか?」
「えっ、いいんですか? ご迷惑じゃ……」
コンラッドに提案されて、項垂れていた顔を上げたキャシーは、ぽぽぽっと頬を薔薇色に染めた。
「キャシー嬢なら大歓迎ですよ。ただしダンスはあまり上手くないので、がっかりされるかもしれませんけど」
はははと頭を掻きながら、白い歯を見せて笑うコンラッド。
「がっかりなんてしませんよぉ」
「ははは」
「うふふ」
私は今、何を見せられているのかしら。いつの間にこの二人、こんなに距離が縮まったの? 本人たちに自覚があるのかどうかは怪しいけれど、キャシーがお見合いを渋るのは……なるほど、そういうことね。
「あなたたちは仲がいいのね」
私の指摘に、キャシーとコンラッドは「いえいえっ、普通ですよ、普通」と慌てたように声を揃えた。
これが普通だったら、苦労しないわ。
「ジョーセフとラスキン夫人も、このくらい息ピッタリだとわかりやすいのに」
思わず愚痴をこぼしてしまった。
するとキャシーが思い出したように「そういえば、先日ヒューム伯爵令嬢のお茶会で、ラスキン夫人の噂を耳にしました」と言う。また悪女だのと、いつもの陰口かと思いきや、そうではないらしい。
「ブラドル侯爵家に嫁ぐみたいです。けれどご子息のシリル様はまだ二十歳で、ラスキン夫人より四歳も年下なんです。シリル様は家柄もいいし、性格も穏やかで美男だからモテるんですよ。なのにどうして年上の未亡人と結婚するのかと、令嬢たちがショックを受けていました。泣き出す人までいて大変だったんです」
「それは変ね。政略的なメリットがあるならともかく、悪評のある未亡人との結婚をブラドル侯爵が許すとは思えないわ」
通常なら再婚よりも初婚の女性を選ぶ。隣国の王女のように三度も政略結婚した例もあるので、女性の実家に力があれば別だが、ラスキン夫人には当てはまらないだろう。彼女は確か……私は必死に記憶をたどる。
「あれ? ですがヒューム伯爵はラスキン夫人の伯父だった覚えが……。マライア様、伯爵の弟のヒューム男爵は、過去に王家の親衛隊長を務めていたはずです。そのヒューム家の令嬢が話したとなると信憑性があるのではないですか」
コンラッドに言われて、やっと思い出した。
親衛隊は隊長を任ぜられると慣例的に男爵位が授けられるため、家を継げない貴族令息の入隊希望者が多い。
伯爵家の次男だったヒューム男爵もそのようにして自力で爵位を得たあと、息子と二代にわたって国王の護衛に就いたのだった。彼を目標とする隊員も多く、親衛隊の中ではちょっとした有名人だ。
ヒューム男爵は先々王の護衛中に命を落とした。その後、跡を継いだ息子……そう、名前はクリフ・ヒューム。
彼は一時、ジョーセフの護衛だったから私も知っている。妻子はなく、病でこの世を去ったのはもう十年近く前のこと。確か、年の離れた妹がいて社交界デビュー前に結婚したはず……。
「ラスキン夫人は、ヒューム男爵の娘だったんだわ……」
シェリーと呼ばれていたのを一度だけ見たことがある。まだ十歳にも満たなくて、ちょっとお転婆で、今のたおやかな彼女の姿とはまったく結びつかなかった。
実家がなくなっていたから、喪が明けたあとのラスキン夫人には帰る家がなかったんだ。もしかしたら、伯父の家に身を寄せられない理由があるのかもしれない。
けれどジョーセフは、なぜ私に一言も相談してくれなかったのだろう。そんなに私のことが信用できなかった?
明日、本当のことを……ジョーセフの本心を訊いてみよう。
メイドに身を窶して夫を探るような遠回りなことはせず、始めから素直にそうするべきだったのだ。
あのときは、離宮に引っ越していくジョーセフを黙って見送ってしまった。「行かないで」と、体を張って止めていれば何かが変わったのかもしれない。
わかってはいても、彼に縋って拒絶されるのが怖かったのだ。
私は臆病者ね――。
◇8
お茶の時間に正体を明かして話をしよう。
そう決意して目覚めた朝、私はベッドから降りて簡単な朝食を取ってから、いつものように支度を始めた。
キャシーに手伝ってもらってメイドキャップを被った直後、トン、トン、トンと来訪を知らせる小さなノック音がした。
「着替えの途中に誰かしら?」
私はメイド姿が見られないように衝立の裏に身を隠し、キャシーに合図を送る。
キャシーは頷き、扉を細く開けて応対した。
「マライア様、メイド長です」
「入って」
こちらに振り向いて伝えるキャシーにではなく、直接リンジーへ指示を出す。
するとリンジーが緊張した面持ちで、扉の隙間からするりと身を滑り込ませてきた。肩で息をしているから、走ってきたのだろう。
「何ごとなの?」
私は衝立から顔を覗かせて尋ねた。
リンジーは「おはようございます」とお辞儀をしてから早口で答える。
「国王陛下からのご伝言です。先ほど、離宮に不審者が侵入しました。よって、本日のメイド業務は中止して――」
「なんですって!」
私はギョッとなってリンジーの言葉を遮るように声を上げてしまった。
まさか、襲撃? 夫が……ジョーセフが狙われたの!?
そう口に出す前に勝手に体が動き、部屋を飛び出していた。
「マライア様っ、お待ちください!」
「マライア様ぁ、まだお仕度中です。どちらに行かれるんですかぁぁ?」
二人があたふたしながらコンラッドを呼びに行く気配を背に、私は急いで離宮へ向かう。幸い人影はなく、廊下を走る無作法なメイドを咎める者はいなかった。
裏庭を抜けて離宮が目前に迫る。事態が収束したのか、特に騒ぎになっている様子はない。息が切れて苦しいけれど、懸命に足を動かした。
「待て」
入口で見知った顔の親衛隊員に止められた。王族の警護が親衛隊の仕事だから、ジョーセフのいるこの離宮も彼らの管轄なのだ。
「ジョーセフは……ジョーセフは無事なのっ!?」
私が呼吸を調えながら尋ねると、若い隊員の眉がきゅっと吊り上がった。
「下級メイドの分際で、先王陛下を呼び捨てにするとは不敬な」
しまった! メイド服を着ていたんだったと気づいたけれど、今ここで引くわけにはいかない。
私が正体を明かすためにメイドキャップを脱ごうとしたのと、隊員がこちらに手を伸ばすのが同時だった。手首をつかまれ拘束される。そのとき。
「その手を放しなさい。こっちにおいで、マイラ」
玄関ホールからジョーセフの声がした。
「ですが、このメイドは――」
「僕の奥さんなんだ。これは秘密だから黙っていてくれたまえ。もっともここでの出来事は、箝口令が敷かれるだろうが」
「え……? 奥さ……」
隊員がポカンとした顔を浮かべ、つかんでいる手の力が緩んだ。
その隙に私は拘束を逃れ、メイドキャップを取って顔をさらす。まだ化粧をしていないから、わかるはずだ。
「し、失礼しましたっ、王太后陛下!」
隊員は慌てたように横に退き、ピシッと敬礼する。
その前を通り、私はジョーセフのもとへ歩いてゆく。ふわりと上着をかけられ、肩を抱かれた。
そうして離宮に入る瞬間、チラッと後ろを振り返ると、私を追って走ってくるコンラッドとリンジーの姿が見えた。勝手に部屋を飛び出してきたから、護衛のコンラッドはさぞかし焦っただろう。あとで謝らなきゃ。
「僕はこのとおり無事だよ。まったく君ときたら、いつまでたっても落ち着きがないんだから。こんなに血相変えてやって来たら、正体がバレるだろう? そうならないように、ヴィンスに伝言を頼んだのに」
廊下を歩きながら、他人に聞かれないように耳元でコソコソとジョーセフが言う。
だから私もコソコソと話す。
「私がメイドのマイラだってこと、気づいてたの!? いつから?」
「まあ……最初から? 絵描きの観察力、見くびってもらっちゃ困るよ。マライアとは親よりも長い時間、共に過ごしたんだからね。それに君は嘘がヘタだし」
「うわ……」
「下女が上等な絹袋のサシェなんて持ってくるか? 君の淹れるミルクティーも、いつもの味だったし。美味しかったけど、ちょっと抜けてるだろ。極めつけは、匂いだな」
「に、匂い?」
「そう、君の匂い。間違えっこない」
ジョーセフが私の首筋に顔を寄せ、クンと犬のように鼻を鳴らす。
くすぐったい。でもこの距離感、安心する。
「ねえ、ジョーセフ。なんでラスキン夫人と住むなんて言ったの? てっきり愛人だと思ったわ」
思いきって尋ねるとジョーセフの足が止まった。そして肩を抱き寄せていた腕を解き、向かい合わせになる。
「愛人なんて一言も言ってないだろ……君を解放しなければいけないと思ったんだよ。この先の人生、好きな人と添う時間くらいは残されているから」
「だから、それはあなたが愛人と過ごす時間のことでしょ?」
「違うって。君とドナルド・アッカーだよ」
「はあ? どうして私がドナルドと」
私とドナルドとの関係については、オリヴィアも何か誤解しているようだったけれど、その理由がわからない。私は一言だって彼のことを『好き』だなんて言っていないわよ?
「ほら、今だって呼び捨てだし、君はいつも彼のことを目で追っていたじゃないか。僕はずっと隣にいたんだよ? そのくらい気づくさ」
ジョーセフは、スンと拗ねたように横を向いた。これじゃ、まるで嫉妬されているみたいだ。
もしかして、ずっと誤解していたの……?
私はジョーセフの両頬に手を当てて顔をこちらに向けさせた。そして、はっきりと言う。
「ドナルドは、私の異母弟よ」
驚いたようにジョーセフの目が見開かれた。初耳だったのだろう。
だとすると、お父様はずいぶん上手くドナルドの出生を隠したことになる。今となっては、それが恨めしい。
「私の母が私を産んですぐに亡くなったのは知っているでしょう? その頃に雇われた養育係の一人がドナルドの母親なのよ」
実母を知らない私は、彼女……ヘレナに育てられたようなものだった。乳母や何人もいた養育係が私の成長とともに屋敷を辞していくなかで、彼女だけがずっとそばにいてくれたのだ。
優しく大らかな女性で、私はヘレナを慕い本当の母親になってほしいと思っていた。お父様もいつしか想いを寄せるようになったのだろう。私が五歳のとき、ドナルドは誕生した。
けれど、すでに王太子妃候補だった私のために二人は結婚できなかった。「貴賎結婚により、お嬢様の末来に傷をつけるようなことがあってはなりません」と、お父様のプロポーズをヘレナが固辞したからだ。
ドナルドは母方のアッカー姓を名乗り、自力で親衛隊長の地位に昇って男爵位を得た。
なので私には、本当なら弟は嫡出子として堂々とウィンストン公爵家の次男を名乗れたはずなのにという負い目がある。いや、勝手に不憫がっているだけなのかもしれない。つい過保護に接してしまっていた。
「私が愛しているのはジョーセフ、あなたよ。とっくに伝わっているものだと思ってたわ」
「そ、そうか」
私の両手に顔を挟まれたまま、ジョーセフの頬が赤らんだ。
「ドナルドについてはお父様から秘匿を厳命されていて、オリヴィアも聞かされていなかったみたい。でも私は王太后になったし、今はお父様も隠居してヘレナと二人で穏やかに暮らしているから、もういいわよね? こんなことなら予め話しておくべきだったわ」
「いや、僕が訊けばよかったんだ。勝手に身を引いて離宮に閉じこもってしまった。ごめん」
「私もよ。愛人ができたんだと嫉妬して、こんな格好で探りに来たんだもの。ねえ私たち、話し合いが足りていなかったと思わない? 今度からはちゃんと話してよ、私も話すから」
「そうだな。話さないと伝わらないこともある」
それからジョーセフは、私の手を引いてアトリエに入った。
大きなキャンバスの描きかけの絵。そこには私とジョーセフ、まだ幼かった頃のヴィンスとショーンが描かれていた。幼子を抱く妻とそれを優しげに見つめる夫……幸せに満ちた家族の姿だった。
「忙しすぎて家族の肖像画を依頼する余裕がなかったから、いつか自分で描こうと思っていたんだよ」
愛する人――。
私の瞳から、自然と涙が溢れた。
◇9
侵入者に狙われたのはラスキン夫人だった。
離宮を警備していた親衛隊員が、すぐに気づいて取り押さえたので大事には至らなかったものの、彼女の恐怖は相当なものだろう。げっそりとした表情で応接間のソファに腰かけている。
エイベルがハーブティーの入ったカップを持ってきて、落ち着くから飲むようにと気遣う。
「王太后様にまでご迷惑をかけてしまい、なんとお詫び申し上げたらいいか……」
私とジョーセフが扉から入ってきたのに気づいて、ラスキン夫人は震える声で謝罪した。
「あなたが謝る必要はないわ。ラスキン夫人……いいえ、シェリー・ヒューム嬢、あんなに小さかった少女がこんなに美しく成長していたなんて。もっと早くに気づくべきだったわね」
私はラスキン夫人の隣に腰を下ろし、抱きしめた。
「いいえ、兄に連れられてお会いしたのは、もう十五年も前のことですわ。覚えていてくださっただけでも恐れ多いです」
ラスキン夫人が私の胸の中で答える。震える体を落ち着かせるように、背中をトントンと叩いた。
ジョーセフは、おもむろに向かいの席に腰かけてから口を開く。
「彼女が行く当てがなくて困っているとエイベルから聞いたんだ。クリフに『何かあったときは妹を頼む』と遺言されていたからね。それでここの侍女に」
「持参金を返してもらえず、かといって伯父のところへ身を寄せることもできなかったのです。伯父は、わたくしをすぐに嫁がせようとするはずですから」
「ブラドル侯爵家のご子息と縁談が調いそうだと聞いたけど……」
いずれ誰かに嫁ぐのであれば悪くない縁組のように思えるが、ラスキン夫人は座り直して姿勢を正すと首を横に振る。
「ご子息ではなく、ブラドル侯爵の後妻ですわ。伯父は、親子ほど年の離れた相手にわたくしを売ろうとしているのです」
ジョーセフの説明によると、ブラドル侯爵はラスキン夫人の美しさに魅せられている………ぶっちゃけ、年甲斐もなく若い女に惚れてしまった。それを知ったヒューム伯爵は、新規事業への出資を条件に無理やり彼女を嫁がせようとしているらしい。しかし、令息シリルとの縁談だと勘違いしたヒューム伯爵令嬢がお茶会の席で話してしまったため、年頃の貴族令嬢を中心に二人の婚約の噂が広まっているのだという。
「ヒューム伯爵は焦っただろうな。せっかく夫人の悪評を広めて求婚者が出ないようにしていたのに、令息のほうと婚約の噂が広まってしまうとは。ブラドル侯爵の逆鱗に触れないうちに連れ戻したかったんだろう。侵入者は庭師の男だったよ。病気の娘を人質に、伯爵から命じられたようだ」
「トムが……」
トムは専任の庭師が休養することになったため、急遽臨時で雇われた者なのだそうだ。
今回事なきを得たのは、トムの顔に覚えがなく怪しいと思ったフィオナちゃんが、念のため親衛隊に注意を呼び掛けておいてくれたからだという。優秀な彼女は、王宮使用人全員の顔と名前を記憶しているのだとか。
そして裕福なはずのラスキン子爵家が持参金を返還しないのは、ヒューム伯爵かブラドル侯爵の圧力がかかっているせいではないかと、今、調査中だという。
「持参金さえ戻れば、ここを出てどこかで静かに暮らそうと考えていたのです。ですが、こんなことになってしまって……ヒューム伯爵家はどうなるのでしょう?」
「あなたは、どうしてほしい? 離宮と言えども先王陛下のいる場所に侵入者を送り込んだのだから、反意ありとみなして家ごと取り潰すこともできるけれど。それともヒューム伯爵の処刑をお望みかしら?」
ラスキン夫人の問いに私は質問で返す。
処刑という過激な言葉にジョーセフはビクッと肩を揺らせ、ラスキン夫人も「い、いえ」と慌てたように首を振った。
ジョーセフの後ろで静かに控えているエイベルもギョッとしている。
「伯父はあんな人間ですが、従妹のことが心配なのです。夫を亡くして泣いていたときに慰めてくれて……心優しい子なんですよ。それに庭師の男も脅されていたようですし、何もされませんでしたから厳罰は望んでいません」
「そう、よかったわ。これは私たちのためにも、内々に処理したほうがいいでしょうね。先王陛下が離宮で侍女を愛人として囲っていたなんて噂が立ったら、ジョーセフはともかく、私とラスキン夫人の名誉に傷がつくもの」
『譲位したとたん、夫に捨てられた元王妃』『未亡人になってすぐに元国王を篭絡した悪女』。こんな噂が出回らなかったのは、ヒューム伯爵によるラスキン夫人の別の噂で社交界が持ちきりだったからだ。
きっとオリヴィアも私の醜聞が出回らないように、裏で手を回してくれていたのだろう。
私が睨むとジョーセフは「ごめん、そこまで考えてなかった」と小さくなった。
エイベルも「すみません」と頭を下げている。
「私がジョーセフ様に頼んだのです。調査が終わるまでなら特に問題ないと判断したのですが、浅慮でした。しかも王太后陛下自ら、メイドとして様子を探りにいらっしゃるとは思いもしませ――」
「お黙り、エイベル!」
めずらしく、しおしおと謝罪の言葉を並べているかと思いきや一言多いんだから。よく見ると口角が上がっている。エイベルはちょっとひねくれた性格で、王妃時代もこんな調子でチクチクとよく嫌味を言われていたっけ。
それにしても、どこでエイベルにバレたんだろう? 変装は完璧だったはず。
不思議に思っていると私の疑問に答えるようにラスキン夫人が「あの……」と囁いた。
「お声が同じだから、そうに違いないとエイベル様が。先王陛下を心配して、自らお世話なさっているのだろうと感心しておいででした」
「なっ……」
まさか皆にバレていたとは。恥ずかしさで顔が熱くなる。
それを見たジョーセフが、ぼそっと呟いた。
「君は嘘がヘタだからね」
その後。
ヒューム伯爵は家督を息子に譲り、領地の端にある別邸に蟄居した。事実上の幽閉である。一歩でも外に出れば家を取り潰すと伝えてあるので、厳しい監視下に置かれていることだろう。
ブラドル侯爵のほうは、ラスキン夫人に持参金を返さないよう子爵に圧力をかけていたことが判明したため『そんなに後妻がほしいなら、年の離れた年上の未亡人を嫁入りさせる』と脅してやった。ついでに息子にも同じ条件の縁談を用意すると通達したので、侯爵家では大騒ぎだったらしい。跡継ぎが望めない縁組の王命は避けたいと、ラスキン夫人に正式な謝罪をしたうえで多額の慰謝料を支払うことになった。もちろん持参金も無事に戻ってきた。
庭師のトムは国外追放となった。ラスキン夫人の嘆願もあり、外国での仕事を紹介したのだ。
そしてラスキン夫人は、私の侍女として引き取ることにした。いつまた嫌な縁談を押しつけられないとも限らない。ここでなら守ってあげられるから。
なぜかドナルドが「姉上っ、ラスキン夫人が姉上の侍女になったというのは本当なんですかっ?」とびっくりしていて、それからよく王宮に顔を見せるようになった。私の弟だということはもう隠す必要がないので、徐々に世間に広まりつつあるようだ。
「ドナルド、頻繁に顔を見せてくれるようになったのは嬉しいけど、私は暇じゃないのよ。これから出かけなきゃいけないから、その手土産のお菓子はラスキン夫人と食べてちょうだい。あ、キャシーにも少し残しておいてあげてね。今、所用で外出中だから」
私がラスキン夫人に「お願いね」と相手を頼むと、ドナルドの顔がほんのり赤く染まった。
「お任せくださいませ」
ラスキン夫人に丁寧に見送られ、私は離宮へ向かう。
『大作』を描き終わるまではと、ジョーセフがまだ離宮で寝泊まりしているのだ。だったら、私も今までどおりに過ごそうかと思って……。
「くるくるりーな♪」
結局メイドの仕事を続けている。
ピカピカになった部屋を見ると気持ちがいい。うん、やっぱりこの仕事、私に向いていると思う。
取り替えたシーツをランドリーボックスに入れたところで、ジョーセフがやって来た。
「マイラ、お茶にしよう」
「ええ、ジョーセフ」
私たちは毎日、食堂でミルクティーを飲みながらお菓子をつまむ。
窓からの陽射しが日に日に強くなっているから、もう少ししたらテラスでアイスティーというのもいいかもしれない。
「ドナルドったら、今日も来ていたわよ。あれで貴族学院の教授なんて務まるのかしら?」
「ラスキン夫人のことが好きなんだろう。彼はクリフの部下だったから、その妹をずっと想っていたとしても不思議ではないよ」
「なによ、独身主義者みたいなことを言ってたくせに。姉をダシに恋を実らせようだなんて甘いわよ」
「でもラスキン夫人には、いい気分転換になるんじゃないか?」
「まあ、それもそうね。キャシーの縁談も決まりそうだし、皆が幸せになってくれるといいわね」
先日、私の護衛はどうかとフィアロン伯爵に話を持っていったのだ。コンラッドは跡継ぎではないけれど、ベイル家との縁組は有益ということで思ったよりあっさりと了承を得られた。
今頃、キャシーとコンラッドは、お見合いの真っ最中だろう。内緒で進めたから、二人とも驚いているに違いない。
キャシーの愕然とした表情を想像してしまい、ふふふと笑い声が口からこぼれた。
ジョーセフは「嬉しそうだね」と呟きながら、銀のスプーンを手に取る。
「このピンクのゼリーはなんだろう? まさかトマトじゃないよね」
「ストロベリーババロアよ。イチゴは今が旬だから。もしかして、これも初めてなの?」
「オレンジのゼリーは食べたことがあるんだけどね」
ジョーセフはそう言って、ひと匙すくって口に入れた。気に入ったのだろう。顔がほころぶ。そして、こてりと首を傾げて「君も食べたら?」とこちらを見るので、胸がきゅんとなる。
うっ……やっぱり、この瞳に弱いのよねぇ。
私は促されるままババロアをひと口食べた。
「美味しい……」
「この甘酸っぱいイチゴのソースがいいね」
ジョーセフは満足げな様子で笑顔を見せる。
そう、こんなふうに他愛ない会話を楽しみながら、穏やかに暮らしていきたいのだ。明日も、明後日も。
絵を描くあなたの傍らで、ずっと、一緒に――。
(完)
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
※誤字脱字報告ありがとうございます。
※12/12 総合ランキング7位、異世界恋愛6位。名前を間違えるミスや読み辛い部分があったにもかかわらず、たくさんのブクマ&評価を入れていただき感謝します。