少女が神秘の庭園で祈りを捧げたら冒険が始まった
澄んだ水が静かに揺れる泉のほとりに、少女はひとり静かに佇んでいた。
まだ朝日が昇らない時間に、朝の散歩の終着点、庭園の東端にある泉に来ていた。
彼女の小さな手が合わさり、目を閉じると、心の奥底からの願いが言葉となって溢れ出した。
「どうか、愛しの人よ、わたくしを助けて……」
少女の声は、泉の上をそよ風に乗って広がり、周囲の静寂に溶け込んでいく。祈りの声はやがて消え去り、何の反応もないまま静寂が戻った。
名をセリという。セリは、小柄な少女だ。年頃は、まだ咲き始めたばかりの野の花のようで、繊細でありながら、その中には驚くべき強さと美しさが秘められている。
彼女の衣装は動きやすさを重視したもので、柔らかなリネン素材のシャツが彼女の華奢な体を包んでいる。シャツの袖はまくり上げられ、日々の作業に没頭する彼女の手元を自由にしていた。
日差しを遮るための帽子は、今は傍に置かれているので、肩口で切り揃えられた燃えるような赤い髪は風になびいている。
セリには、以前の記憶がなかった。ただ、穏やかな生活が続く中で、何か心の底から湧き出てくる感覚が常にあった。
「なんでだろう……。この静かな日々が幸せなはずなのに、心が満たされない感じがする」
セリは、いつも泉にやってきて自分の内なる声に耳を傾けたが、心の奥底にある渇望感は消えなかった。
「泉よ、私に足りないものは、なに?」
その問いかけと共に、ゆっくりと昇り始めた朝日が泉に光を降ろし、泉の水面は黄金色に輝き始める。水面に不思議な風景が映し出された。
「これは……?」
水面には、広大な砂漠が広がっていた。黄金色の砂が太陽の光を反射し、波打つ砂丘がどこまでも続いている。砂漠の中央には巨大なオアシスがあり、青々としたヤシの木々が風に揺れていた。そこに集う人々が楽しそうに水辺で遊んでいる光景が映し出され、まるで別世界のようだった。その奥には、長い歴史を感じさせる壮大な遺跡が見えた。
水面は青い海へと変わった。果てしなく広がる青い海原には、白い帆を張った船が波間を漂っていた。空には色とりどりの鳥たちが舞い、水平線には神秘的な島影が見えた。視点は徐々に海の中に移動し、海底に沈む神秘的な神殿が現れた。古代の石造りの神殿には美しい彫刻が施され、海藻が絡みついていた。巨大なクラーケンの影が見え隠れし、冒険者が遺跡の中を探索し、失われた秘宝を探し求める姿が映し出されていた。
水面は壮大な山脈へと変わった。雪に覆われた山々がそびえ立ち、その頂上からは澄んだ空気と広大な景色が広がっていた。山の麓には小さな村があり、村人たちが穏やかに暮らしていた。山道を登る村人たちの姿が映し出され、その険しい道のりと絶景がセリの心を強く引きつけた。山の上には、彼らが崇拝する大きな木製の舟が朽ち果てて座礁しており、長い年月を経て静かにその姿を晒していた。
「こんな場所があるなんて……」
セリは驚きと興奮で胸が高鳴るのを感じた。泉の中に映し出された風景は、彼女の心に強い印象を残した。
「見てみたい、行ってみたい!」
その風景に対する憧れが、彼女の中に冒険心を芽生えさせた。その時、後ろから柔らかい声が響いてきた。
「セリ、またここだったんだね」
セリと共に働いているユウだ。彼はとても物静かな青年で、セリにとっては、ずっと一緒にいても気を使わない、まるで兄のような存在だ。ユウは続けて言った。
「何度祈っても無駄だよ。ここで祈っても何も変わらないんだ」
ユウの声が聞こえたとたんに、泉に映されていた風景は消え、穏やかな水面に戻っている。きっとユウからは何も見えなかっただろう。振り返ることなく、セリはその声に答えた。
「それでも祈らずにはいられないの」
ユウは困惑した表情を浮かべ、セリに近づく。
「なぜ?ここはただの泉だよ。女神が棲んでるわけでも無い。祈りなど捧げても何も叶わないよ」
「私にもわからないわ。何を祈ってるのか、何に祈ってるのかさえ。それでも祈り続けることで自分を保っているの」
ユウは彼女の頑なな態度に、内心でため息をついた。彼はセリの横に立ち、同じように泉の水面を見つめた。
「セリ、何か辛いことがあるのなら、僕に話してみてよ。何も答えない泉よりは役に立つと思う」
セリは少しの間沈黙し、そして静かに言った。
「辛いとか、楽しいとか、そういう感情がもう分からないの。ただ、ここにいることが永遠に続くのが怖いだけ」
ユウはその言葉に驚き、彼女の顔を見つめた。セリの目は遠くを見つめており、その瞳には深い孤独と絶望が宿っていた。彼はどう言葉をかければいいのか分からず、ただ彼女の隣にいることしかできなかった。
セリの祈りは、彼女の内なる声の叫びだった。その声は誰にも届かず、静寂の中に消えていく。しかし、彼女は諦めずに祈り続ける。その姿にユウは困惑しながらも、彼女を見守るしかなかった。
◇ ◇ ◇
深い森の奥深く、その神秘の庭園がひっそりと佇んでいる。
中心の二階建ての洋館を囲むように、東西南北に伸びる石畳の通路が四季を象徴するエリアを区切っている。
春のエリアには、フロレリスの木が満開。リリフィラやブルームベルが咲き誇っている。
夏のエリアでは、グリーンワールドの木陰にサンブレイズやヴァイオレットスカイが咲いている。
秋のエリアには、ファイアリーフの木々が紅葉し、ムーンライトブロッサムが彩りを添えている。
冬のエリアには、フロストパインの木々が雪に覆われ、クリムゾンベリーが鮮やかに映えている。
この庭園は四季の美しさを凝縮した特別な場所で、訪れる者を幻想的な世界へと誘う。
セリは気がつけば、この神秘の庭園で庭師をしていた。それ以前の記憶はない。どうしてここに居るのか、自分がどこの誰なのかもわからない。
共に働いているユウは何か知っているようだけれど、彼が教えてくれるのは庭園の世話のやり方だけ。それ以外のことはただ微笑んで黙ってしまう。ついには尋ねるのを諦めた。
セリは、他にやることもないので、庭園の世話をしている。まるで記憶はないが、以前からそうであったかのように、作業は澱みなく自然に手が動く。
そして、毎朝の散歩の終着点、泉のほとりで祈りを捧げていた。ユウにも言ったが、セリはどうして祈ってるのか、わかってない。
ある日の朝、ユウは祈り終えたセリに問いかけた。
「セリ、君の祈りは一体何を求めている?本当は何かを変えたいと思っている?」
その時のユウは、いつもとは違った雰囲気で、苛立ちを隠そうともせずに、セリにぶつけて来た。面食らって言葉を失くすセリ。
セリには、ユウが何を気にしてるのか、わからなかった。日頃のユウはとても穏やかで、セリが何か失敗しても、決して怒らずに気遣ってくれる。何をしようとも、セリの好きにさせてくれる。
なのに、泉に祈る、ただそれだけの事は繰り返し、問いかけてくる。まるでその行為に怯えているかのように。
セリはしばらくの間、彼の問いに答えなかった。しかし、やがて静かに口を開いた。
「何かを変えたいとは思ってない。今の生活に不満や不安は無いわ。ユウと二人で庭園を世話してるのは、とても心穏やかで、静かで、安心してる。こんな生活が続けば良いのに、そう思ってる」
その答えに、ユウは満足そうな表情で答えた。
「大丈夫、この生活はずっと続くよ」
「そう、良かった」
セリは嘘をついた。
本当は、ユウが「ずっと続く」と言った時、ゾッとした。今の生活に不安がないのは本当だ。その点は嘘じゃないが、しかし不満はある。
問題なのは、その不満が何なのか、セリにもわからないことだ。
何も変化のない毎日が、セリの心を蝕んで、何も感じなくしていくようだ。
「私の祈りは、自分自身を見つめる時間なの」
ユウはその言葉に驚き、セリを見つめた。
「自分自身を?」
セリは静かに頷いた。
「そう。祈ることで、自分の中にある感情や思いを整理しているの。ここでの生活は確かに平穏だけど、毎日、小さな発見や驚きはあるわ。その一つ一つを大切にしたいの」
ユウは微笑んで、彼女の言葉を受け止めてくれる。
「そうか、セリには必要なことなんだね。でも、一つ聞かせて欲しい」
「何?」
「泉に何か見える?」
セリは内心でどきりとしたが、態度には現さなかった。何気なく泉を見てから、なんでもないように言って退けた。
「ええ、見ていたわ」
「……何を見たんだ?」
「自分の顔よ。あのお屋敷はなんでも揃ってるようで、なぜか鏡が無いんだもの。朝の身だしなみを確認したくて」
「え?」
「この泉はいつも綺麗な水面だから、朝日が出る前ならちょうど良く反射して見えるの。日が上ると影ができて、見えなくなるから」
「そ、そうだったんだ。それならそうと早く言って欲しいな。鏡は倉庫にしまってあったと思うから、探しておくよ」
ユウは明らかにホッとした様子で、笑顔でセリに応えた。セリも、内心ではホッとしていた。
「そう?ありがとう!さあ、屋敷に戻って朝ごはんにしましょう?」
そう言って、屋敷へと戻っていく。
セリにとって、ユウは一緒にいても疲れないし、安心できる存在だ。ユウはとても良い人だ。
ユウが、セリを大切にしてくれてるのは、よくわかってる。でも、そこに親愛の感情を感じることはない。セリにとっては共に働いている、それ以上ではない。
ユウが言うように、いつまでも平穏で、こんな関係が続くのだとしたら。
それって悪夢みたい、とセリは思った。
◇ ◇ ◇
穏やかな日差しが庭園全体を包み込み、花々が鮮やかに咲き誇る。
セリとユウは、いつものように庭園の手入れに励んでいた。花壇の手入れや雑草の抜き取り、木々の剪定といった作業は二人の日課となっていた。
セリは高い木の枝を切り落とそうとしていたが、枝が思ったよりも硬くて手こずっていた。彼女は力を込めやすいように太い枝に登って、それに跨り、体を伸ばして細い枝を剪定用のハサミで切ろうとしていた。
「大丈夫?」
ユウが近づき、声をかける。
「うん、大丈夫。でも、この枝がなかなか切れなくて。ハサミじゃなくて、ノコギリにすれば良かったかも」
「じゃあ、怪我しなうちに降りてきて。僕がノコギリを持ってくるから」
「うん、わかったわ」
セリは息を切らしながら答えた。
ユウは少し笑って、「無理しないで」と言って、セリの下に立ち、彼女を心配そうに見上げている。セリが跨った枝から降りるために足を上げたとき。
「きゃっ!」
セリの悲鳴が響き、彼女はバランスを崩して、その小さな体が宙に投げ出された。しかも、足を上げた反動で、頭が地面に向かって落ちていく。
しかし、その瞬間、ユウが咄嗟に手を伸ばし、セリを抱きかかえ、力強くセリを受け止めた。セリはすっぽりとユウの腕の中に収まり、地面への落下は免れた。
ユウの力強い腕がセリをしっかりと抱え、二人の目が近くで交わった。セリの胸はドキドキと高鳴り、その感情に戸惑いを覚えた。彼女はユウの顔を見つめ、その瞳に吸い込まれそうになった。
「大丈夫?」
ユウは優しく問いかけた。
「う、うん、ありがとう、ユウ」
セリは恥ずかしそうに答えた。
ユウは何事もなかったかのように彼女を立たせると、「気をつけて」と一言だけ言って、ノコギリを取りに屋敷向かって歩いていく。
セリはその後ろ姿を見つめ、自分の心に生まれた感情に困惑するのだった。
◇ ◇ ◇
翌日、セリは庭園での作業に取り掛かっていたが、ユウの姿が見えなかった。彼がどこにいるのか気になり、探し始めた。
「ユウ、どこにいるの?」
セリは庭園の中を歩き回りながら、彼の名前を呼び続けたが、見当たらない。そして泉のある庭園の東端に近づいてくると、そこに人影が見えた。
セリがゆっくり近づくと、ユウが泉を覗き込むように屈んでいた。その様子にセリは意外に思った。ユウはこの泉をただの泉だと常々言っていたのに、そんなに熱心に、何を見ているのだろう。
セリはそっと彼の隣に並んで、泉を覗き込んでみたが、何も見えない。以前にセリが見たみたいに、水面に何か映ってるのかと思ったのだが。
「ユウ、何か見えるの?」
声をかけると、ユウはひどく驚いたようだ。驚愕の表情で振り返った。
「!」
その瞬間、今度はセリがびっくりした。一瞬だけ、ユウの瞳が深紅で、かつ縦長の瞳孔であったように見えた。まるで人ならざるモノの瞳のようだ。
しかし、それは本当に一瞬だけのことで、ユウはいつもの穏やかな表情で、セリを見つめ、少し微笑んだ。
「ごめんね、ちょっと考え事をしていたんだ」
「何を考えていたの?」
セリは優しく問いかけた。ユウはしばらくの間黙っていたが、やがて口を開いた。
「セリ、君のことをもっと知りたいと思っていたんだ」
セリは驚きと喜びが入り混じった表情で彼を見つめた。
「私のことを?」
ユウは静かに頷いた。
「君は僕に、今の生活に不安や不満はないと言った。でもね、僕には君が何か辛そうにしているように見える。その理由を知りたい」
セリは少し考え込み、やがて呟いた。
「私はなぜ、ここにいるの?ここはなんなの?」
「ここは神秘の庭園。君は恐ろしい事を体験してしまったがために、ここに逃げ込んできたんだ。この庭園だけが唯一の安らげる場所なんだ」
ユウはそう説明してくれる。セリは何も覚えていないが、何か恐ろしい事があったという事だけは確かなようだ。セリの体が小さく震えている。
ユウは優しくセリを抱きしめてくれる。ユウの暖かな腕の中で、セリは安心を感じていた。
「怖がらなくて良い。ここに居る限り安全だから。君が恐ろしい事を思い出してしまわない様に、今まで黙っていたんだ。でも逆に、その事が君を不安にさせていたんだね。悪かったよ」
「恐ろしい事って、なに?」
セリは恐る恐る聞いた。それを知らなければならない気がしたのだ。しかしユウは首を振って、優しく諭す。
「今はまだ、思い出さないほうがいい。心の傷が癒えて、君がしっかり受け止められるだけの強さを取り戻せたとき、自然と思い出すから」
「あなたは誰なの?」
「僕はこの庭園の守り人さ。そして今は君の守り人でもある。この庭園は永らく主と認める存在が不在だったけど、君を主と認め、受け入れた。今は君がこの庭園の主だ」
「私が、あるじ?」
セリは驚いた。いつの間にか、この庭園はセリのものになっていたらしい。
「そうだ。君が望むモノだけがこの庭園に住まう事を許される。君が望まないモノは追放できる」
「そう、なんだ……」
「だから、君が恐れるモノは決して、この庭園には入れない。もし入ってきたとしても、庭園や僕が君を守る。だから、今はただ、安心して暮らしてほしい」
セリは、ユウの言葉に頷き、そして感謝した。
「ありがとう。今はわからない事があるけど、強くなったら思い出すと言うのなら、それを信じるよ」
「ああ。これだけは覚えていて。僕は君を必ず守るから。そのためになら、何でもするよ」
「うん、わかった」
◇ ◇ ◇
その日から、ユウとセリはさらに深い絆で結ばれるようになった。
二人の間には言葉以上の理解と信頼が育まれていった。セリの心には新たな希望が芽生え、庭園での生活にも少しずつ変化が訪れ始めた。いつかすべてを思い出す日が来ると信じて。
庭園での作業中も、二人はお互いに助け合い、支え合うことが自然な形となっていた。
ある日、セリは再び高い木の枝を切り落とそうとしていた。前回の出来事を教訓にして、今度は慎重に足場を確認しながら作業を進めていた。しかし、再び足を滑らせてしまった。
「また…!」
セリの叫び声が響き、再び地面へと落ちそうになった。しかし、今回もユウが咄嗟に手を伸ばし、彼女を抱きかかえた。
「大丈夫、何度でも君を守るから」
ユウは優しく言いながら、彼女をしっかりと抱え直した。
セリは驚きと感謝の気持ちで彼を見つめた。
「ありがとう、ユウ。あなたがいてくれるから、安心していられる」
ユウは微笑み、彼女を立たせながら、言った。
「君のことを守るのが僕の役目だからね」
その瞬間、セリの心の中には強い感情が湧き上がった。彼女はそれが何なのかを理解することはまだできなかった。
しかし、その感情が彼女にとって大切なものであることだけは確かだった。
◇ ◇ ◇
突如として庭園に嵐が訪れた。
空が暗雲に覆われ、雷鳴が轟き、風が激しく吹き荒れる。セリとユウはその異変に気づき、急いで庭園の中心にある屋敷に避難した。風雨はますます強まり、屋敷の窓が激しく打ち付けられた。
「こんな嵐は初めてだね、ユウ」
セリは窓の外を見つめながら言った。
「確かに。何か不吉な予感がする」
ユウも外の景色を見つめていた。
その時、庭園の西端付近で何かが動くのを見つけた。人影だった。激しい雨に打たれながら、その人影は確かに動いていた。
「誰かいる!」
セリが叫んだ。
「まさか、嵐に乗じて侵入者が!」
ユウは驚き、すぐに家を飛び出そうとした。
「待って、ユウ!危険だよ!」
セリはユウの腕を掴んで止めようとしたが、ユウは振りほどいて、雨具を身に纏い、外に飛び出した。
セリも雨具を身に纏ってから、慌てて後を追うが、ユウは叩きつけるような風雨をものともせずに人影に向かって走っていく。とてもじゃないか追いつけない。
ユウが人影に辿り着き、何かを叫んでいるようだが、必死に追いかけるセリにはその声は届かない。
けど、次の瞬間に、驚くような光景を見た。
ユウが手を大きく振り上げて、人影に向かって振り下ろそうとしているのだが、その手が、人の手ではないように見えた。筋肉が隆起して黒く歪み、長く伸びた爪はすべてを切り裂くような。
思わず、セリは叫んだ。
「だめ!」
叫んだセリも、よくわかってないが、とにかくユウを止めなきゃいけないと思ったのだ。
その声が届いたのか、ユウは振り下ろそうとした手を止めて、こちらを振り返って、セリが近づいていることに気付いたようだ。振り上げた手をゆっくりおろし、体で隠すように覆うと、次に見た時は人の手に戻っていた。
セリも、その人影に近づいた。そこには、ずぶ濡れで倒れそうになっている青年がいた。彼の顔には疲れと苦痛の表情が浮かんでいた。
「大丈夫ですか?!」
セリが声をかける、ユウは無言で青年を睨み付けている。青年はセリを見て驚いた表情を見せて、言った。
「君は……。ここは神秘の庭園と呼ばれる秘奥か?」
「そうよ。こんな嵐の中を、森を抜けてきたの?」
セリは、立っているのも辛そうな青年に近づいて肩を貸そうとしたが、ユウがそれを押しとどめ、代わりにユウが青年に肩を貸した。
「嵐は想定外さ。ちっ、運が悪かったぜ。だが、目当ての場所に辿り着いたのなら、運が良かったのか」
「とにかく家に入りましょう!自己紹介はそのあとで!」
「ああ、そうしてくれ!オレはもうヘトヘトなんでね!」
彼は荒々しい口調で答えたが、セリを見たその目にはどこか優しさがあった。
セリが言うので、ユウはしぶしぶだが、青年を支えながら家に連れて行った。青年はずぶ濡れなので、ひとまずエントランスホールに留まってもらい、セリは急いでタオルと温かい飲み物を用意した。
「助かったぜ、ありがとうな。オレはロイだ」
「私はセリ、彼はユウよ」
「そうか。セリは美しいな。オレは美しい女性と年寄りには優しくすることにしてるんだ」
ロイと名乗った青年に美しいと言われて、セリは頬を赤らめた。ロイは粗雑な態度とは別に、セリに対しては優しい眼差しを向けた。
「あなたは何者なの?どうしてここにきたの?」
セリは疑問を抱きながら尋ねた。
「俺は冒険者さ。この神秘の庭園のことを聞いて、森に入って一ヶ月以上はずっと彷徨っていたんだ。でも、こんな嵐に巻き込まれるとはな」
ロイは苦笑いしながら答えた。ユウはロイを警戒しつつも、彼の話に耳を傾けた。
「この庭園を目指した理由はなんだ?」
「聞いて驚くなよ。この庭園には神秘的なお宝が眠ってるって話を聞いたんだ。そのお宝を一目拝んでみたくてね。頂戴できればなお良いな!」
ロイは荒っぽく笑った。
セリはロイの話に興味を抱き、彼にもっと話を聞きたくなったが、ユウがそれを遮るように言った。
「お前が望むようなモノはここにはない」
「そうかい?だが、隠されたお宝を隠そうとするものは、たいてい皆が口をそろえて同じことを言う。ここにはない、とな。自分の目で確かめるまでは、諦めないぜ」
「無いものをどうやって確かめるというんだ、ないものはない」
「追い出したいのはわかるが、そうも行かないんだろ?」
「っく!」
「知ってるぞ、ここが神秘の庭園なら、迷い込んだ者は1日だけ滞在が許される。それが何者であっても。それが制約だろ?」
セリは聞いていて疑問に思った。ロイは神秘の庭園の事をよく知っているようだ。制約とはなにを意味するのか、セリはユウから聞いた事がない。
「不本意だが、その通りだ。だが、おまえが制約を破るのなら話は別だ!盗人め!」
珍しく声を荒げるユウを見てセリはびっくりしながら、ユウの手を引いて、少しロイから距離を取った。
「ユウ、どうしたの?いつものあなたじゃないわ。何を怒ってるの?」
「あいつの態度が気に食わない。セリ、1日経ったら、あいつを追放してくれ。できれば今すぐにでも追放してほしいが、制約を守りたい。今夜だけは私がじっと見ておくから、あいつに何もさせない。安心してほしい」
ユウは、彼がセリに危害を加えるのではないかと恐れているようだ。しかしセリは危機感をまったく感じていなかった。
「いえ、さすがに嵐の中に放り出す事はできないわ。それにそんな悪い人じゃないと思う」
セリはユウを宥めながら、そっとロイを見るが、ロイはその視線に気づき、ニカっと笑ってこっちを見てる。なんだか憎めない人だ。
「……美しい、と言われたから?」
ユウが拗ねたように言うので、あわててセリは弁解した。
「そ、そうじゃないよ。でも、不思議と懐かしい感じがするの。ああいう人は嫌いじゃないわ」
「……セリが許すと言うのなら、それに従うよ。でもあいつに絶対に気を許さないで」
そう言うとユウは、少し離れてロイをじっと睨んでいる。セリはロイに近づき、言った。
「嵐が過ぎるまでと言わず、いつまで居ても構わないわ」
「おお、ありがたい申し出だ。世話になるぜ」
「でもこれだけは忘れないで」
「なんだ?」
「私が望むモノはこの庭園に住まう事が許される。私が望まないモノは追放できる。この庭園の主である私が望む秩序は、平穏よ」
セリは精一杯の威厳のある声で言ったつもりだが。
「そうか、従うよ」
ロイは微笑ましいものを見るような優しい目で、セリを見つめてた。失敗したらしい。
ロイは粗雑な態度を見せつつも、セリに対しては優しい表情を見せている。その様子に、セリは不思議と懐かしい印象がして、ユウが言うような警戒すべき人物とは思えなかった。
「……」
セリがロイをじっと見つめている。ユウもロイをにらんでいる。
二人に観察されながらも、構うことなくロイは荷物を降ろして、濡れた服を脱ぎ始めた。
ロイは一見して、冒険家としての風格を漂わせていた。日に焼けてあちこちに古傷の残る肌は長年の旅路を物語り、エントランスの床に脱ぎ捨てた革のジャケットは、数々の戦いをくぐり抜けてきた相棒なのだろう。だらしなく伸ばしたひげや、嵐でぼさぼさになっている髪は、元より整えている様子はなかった。
セリが用意したタオルで、乱暴に体を拭きながら、時々、セリを方に視線を向けて観察しているように見える。セリは、ロイの瞳に品格と知性を示す煌めきを感じた。この男、ただ価値あるものを手にして一獲千金を狙っているだけの存在には思えない。見せかけの粗暴さと相反する、繊細さを感じる。
「セリはここで何をしてるんだ?」
体を拭きながら、ロイが何気なくセリに聞く。
「庭園の世話をしているわ。水をまいて回ったり、雑草を抜いたり、枝を落としたり――」
「退屈だな」
「え?」
セリは急に言われた言葉にどきりとした。その一言に、まるで心を鷲掴みされたかのような衝撃を受けていた。ロイはにやりと笑いながら、続けて言う。
「それとも、好きな本を読んでいれば退屈しないか?それも本心ではないだろ」
「し、知ったようなことを!あなたは私の何を知ると――」
「さあ。知らない。だが、経験豊富な冒険家の俺にはわかるのさ、冒険を望む者の目は見ればわかる。そして、決まって俺は言うのさ」
「……なんていうの?」
「さあ、俺の手を取れ、一緒にいこう、冒険がお前を待っている、と」
セリの前に、ロイは手を差し出した。
セリは、冒険と聞いて心にときめくものを感じ、思わずその手をじっと見つめた時、ユウがそれを遮ってロイを押し飛ばした。
「やめろ!」
「ユウ?」
「主を騙そうとするんじゃない!何が冒険だ!お前はここから主を連れ出して、傷つけるつもりだろ!」
ユウは、セリを背中にかばうように、セリとロイの間に入る。
「そんなつもりはない。無理強いはしない、俺の手を取った者しか誘わないさ」
ロイは落ち着いた様子で、ユウに受け答えしながら、両手を広げる。
「部屋を用意する!一緒に来い!そして部屋から出てくるな!」
「はいはい、従うよ。セリ、また話をしよう。冒険の話を聞かせるよ」
「……」
「じゃあな」
ユウに連れられて、ロイがエントランスを去っただけで、急に静かになった。
しばらくして、ユウが戻って来て、呆然としていたセリを抱きしめながら、優しく言った。
「セリ、あいつの言葉に耳を貸さないで。明日になったらすぐに追放して。それで平穏な日々が戻ってくるから」
「大丈夫よ。嵐が去ったら、勝手に出ていくわ」
セリはそうユウに言いながら、でも、心の中にはロイの言葉が深く残っていた。彼が何者であり、なぜこの庭園に来たのか、その謎が彼女の心に強く刻まれていた。
◇ ◇ ◇
次の日も、嵐が吹き荒れていた。
風の音が窓ガラスを激しく叩き、雷鳴が遠くで響く中、ろうそくの灯りだけが三人を照らしていた。セリ、ユウ、そしてロイがテーブルを囲んで座っていた。
「こんな嵐の中で外に出るなんて、よほどのことがないとしないよね」
セリが静かに言った。
「俺は冒険者だからな。嵐だろうが雪だろうが、興味がある場所には行くって決めてんだ」
ロイは豪快に笑った。
「ならば、すぐに出て行けばどうだ?」
ユウが眉をひそめながらロイに言葉を投げつける。だが、ロイはまったく気にせずにセリに話しかける。ユウからは「すぐにでも追放しろ」と再三言われたのだが、嵐だからと言い訳で先延ばしにしている。
だが本心は、ロイの話を聞きたいとセリは思っていた。
「冒険の話を聞かせよう。まずはオレが最も思い出深い話だ」
「それはどんな話?」
セリは、身を乗り出して、ロイの話を楽しみにしていたが、ユウはそんな様子のセリを見て、嫌な予感を感じていた。こいつは、二人の平穏な世界を脅かす存在だと、警戒していた。
「ある国の王族からの依頼で、どんな病気も治す秘宝『アクアの涙』を探しに、海底の遺跡に行ったときの話をしよう。その遺跡は、かつては地上にあった古代都市の遺跡なんだが、神の怒りに触れて一晩で海に沈められたと言われている」
「え、一晩で海に?神様の天罰で?いったいどんな理由で怒りを買ったの?」
「さて、それはもう今となっては誰にも分らないな。ただ残された文献から推測はできる。その国はあまりに進んだ魔法技術で、神の世界に行くための門を開こうとした、と言われてる」
「す、すごい!そんなこと出来るの?!」
「俺は出来たじゃないかと思う。そうでなければ、神は無慈悲に都市を丸ごと海に沈めるなどという恐ろしい罰を与えなかっただろう。その魔法技術がどこにも残されていないということが、その話の真実味を語っているのさ」
「ふん、ばからしい」
水を差すようにユウがそう呟くが、セリもロイも気にした様子もなく、二人の話は熱を帯びていく。
「そ、それで、ロイはどうやって海底に沈んだ神殿に行くの?だって、泳いで行けるわけでもないんでしょう?」
「もちろんそうだ。それは海の深く深く、日の光も届かない真っ暗な海の底にあるのだから。俺は小さな潜水艇を手に入れて、神殿を目指したんだ」
「潜水艇って、海に潜るための船よね?そんなのどうやって手に入れたの?」
「いろいろと人脈があるんでね、金はかかったが、今回は王族の仕事だからな。経費はすべて王族がもってくれるというので、遠慮なく潜水艇を仕入れることができたのさ」
「海底に神殿は、本当に沈んでいたの?」
「ああ。あった。深海に広がる遺跡の光景は、見たこともないほど美しかった。でも、同時に恐ろしくもあった。そこには巨大なクラーケンが巣食っていて、俺の潜水艇を触手で巻き込もうとしたんだ」
「クラーケン!?大きなイカの魔物ね!それって、どうやって倒したの?」
「クラーケンは強い光に弱いんだ。俺は水中でも眩しく光を放つ魔法道具を使って、クラーケンを怯ませた隙に、海底神殿へと進んだのさ」
「すごい!さすが冒険家ね!それで秘宝はみつけたの?」
「遺跡の奥深くに、青い輝きを放つ『アクアの涙』を見つけた。祭壇に祀られていたんだ。その神秘的なオーラを見た瞬間、これが本物だと確信したよ」
「わあ、私も見てみたい!きっと素晴らしい美しさね。その秘宝はどうしたの?」
「無事に地上へ持ち帰り、王族に届けた。『アクアの涙』の力で、国内に蔓延していた病魔を討ち払い、多くの人々が救われたんだ。王族からは感謝され、その報酬として王女との婚約を許された」
「王女様!きっとお綺麗なのよね?」
ロイは目を細めて、穏やかな表情になっていった。
「そりゃもう、俺が冒険で見つけて来た数々のお宝よりも美しい。『アクアの涙』よりもなお、王女は輝いているような方だ。その髪は燃えるような赤で、古き民の血を引くという魅惑的な瞳は不思議な輝きを見せる」
「王女様はロイの事をどうお思いだったの?突然の婚約でしょ?」
「王女様とは以前から親しくさせてもらっていたんだ。王女様は冒険の話が大好きでね。よく冒険の話をお聞かせしていたから、大変喜んでくれた」
「そうなんだ!じゃあ、ロイの冒険はそこで終わり、王女様と幸せに暮らしたはずじゃないの?」
「いや。俺は次の冒険の準備を始めた。休む暇なんてないからな」
「どうして?王女様と幸せな暮らしが約束されたも同然じゃない。危険な冒険に出る必要はもうないはずよ?お金だって……」
「約束された平穏を捨てて、俺は冒険を選ぶのさ」
「どうして?」
「俺は冒険家として名が知れていて、秘宝を求めて依頼されることがたくさんある。その時点でも、いくつもの依頼を受けたまま、『アクアの涙』を優先したに過ぎないんだ」
「そっか。てっきり冒険家って自分勝手に好きなところに冒険してると思ったのに、実は誰かに頼まれて危険を冒してるんだね。王女様は悲しんだんじゃない?」
「たいへんに悲しまれた。だが、どうにか説得して、わかってもらえた、と俺は思ってたんだ」
「どういうこと?」
「……その話はまたの機会にしよう。とにかく王女様には必ず戻ってくると約束した。王女様は笑顔を作って、送り出してくれたんだ」
「そうなんだ。でも王女様はかわいそう。婚約者と会いたい時に会えないなんて」
「そうだな。本当にそうなんだ。今も強く後悔しているよ。――それでも、俺は好奇心と冒険心に突き動かされているだけだ。誰かを助けることができるなら、それに越したことはないからな」
セリは夢中でロイの話に聞き入っていた。ユウは不機嫌そうに二人を見つめながらも、楽しそうにしているセリを見て、そっと見守ることを選んだようだ。
「もっと冒険の話を聞かせて!」
「ああ。いいぞ。そうだな、海の話をしたから、次は空の話をしようか」
◇ ◇ ◇
その日は、嵐が夜まで続き、ロイの話をずっと聞いていたセリは、すっかりロイの冒険譚に魅せられていた。
夕食のあとで、ロイを部屋に押し込むように追い出したユウは、セリに言った。
「セリ、聞いてくれ」
いつものユウとは違い、セリに強い口調で話しかけてくるので、怒られてしまうのかとセリは少し戸惑いながら、ユウに向き合う。
「う、うん」
「ロイの話は、面白かったか?」
「うん!それはもう、とても面白かったわ。どれもこれも、ドキドキするような冒険ばかり!」
「そうか。冒険の話が好きなのか?」
「そうみたい、私も知らなかったけど。以前の記憶がないから、前からそうだったのか、それともロイの話を聞いて好きになったのか、わからないわ」
「君が望むなら、明日、この屋敷の図書室に案内するよ。冒険譚の本もある」
セリはびっくりした。この屋敷に図書室があるなんて知らなかった。どうして今までユウは黙っていたのだろう。
「ぜひ案内してほしいわ」
「わかった、ではまた明日」
そう言って部屋に戻っていくユウを見たセリは、図書室の存在をセリに明かした事をユウは快くは思っておらず、苦渋の決断をしたかのように思えた。
◇ ◇ ◇
次の日も、嵐だった。
さすがに庭園の木や花壇が気になってきたセリは、少し様子を見に行こうとユウに相談したのだが、ユウは首を横に振り、心配そうに言った。
「こんなにも嵐が続いた事は初めてだから、セリが庭園のことを心配するのはわかるよ。僕も心配してる」
セリもユウも、共に一生懸命に庭園の世話をしてきた仲間だ。ユウが庭園のことが心配だと言う気持ちは同じだと言うことに、セリは安心する。
「だったら!」
「でもね、嵐の中でもし何もかも吹き飛ばされていたとしても、僕たちは嵐の中では何もできない。ただ危険を冒すだけ。今は嵐が去るのを待つことしかできないよ」
「ユウの言うとおりだ。勇敢さと無謀さは違う。ただ心配事を増やすだけなら、待つのも勇気なんだよ」
ロイがそう言うのを、意外に思えたセリは聞いた。
「あなた、昨日は嵐だろうが雪だろうが興味がある場所には行く、って言ってなかった?」
「ああ。そう言ったけどな。でもそれは危険に見合ったお宝があるときだ。庭園の様子を見るだけなら、嵐の後で良いだろ?」
「そう……」
「セリ、昨日言った図書室に案内しよう」
そうだった。ユウは今までセリに黙っていた図書室の存在を、不本意ながら明かしてくれたのだった。でも、どうして急に図書室を案内してくれる気になったのだろう。
「ユウ、どうして今まで黙ってた図書室の事を打ち明けてくれたの?」
「セリに、この庭園の事で隠しておくものなどない。ただ案内する機会が無かっただけだ。今回は冒険の話が好きだというので、冒険の本がある事を思い出した」
ユウはそう言うのだが、セリは庭園のことは未だに分かっていないことの方が多いと思う。きっと何か別の思惑があるようには思うが、ユウは答えてくれそうもない。
「冒険の話に夢中になってる主を見て、庭園に引き止めるために、止むを得ずにだろうな」
ロイがボソッと言った言葉に、ユウは強く睨みつけていたが、反論はしなかった。
「しかし、図書室があるんだな。俺も行っていいか?」
「ダメだ!」
セリが答えるより先に、ユウが強く拒否した。それはセリにも有無を言わさない、断固たるものに思えた。
「そうか。残念だが、従おう」
そう言って、ロイは椅子に座った。何故かユウの方を見ながらニヤニヤしており、そしてユウの方も悔しそうにロイを睨んでる。セリには、ユウとロイがお互いが視線で会話してるみたいに見えた。
セリが感じたままでセリフを添えるなら、ロイが「お手並み拝見といこう」と余裕の笑みを浮かべているのに対し、ユウは「今に見ているが良い」と負け惜しみを言ってるみたい。
「ふたりは、知り合いなの?」
セリが思わず尋ねたが、ロイはただ首を振り、ユウは返事すらせず、セリの背を押して、図書室へ向かうため、退室を促す。
この二人はきっと互いを知っている。でも親しいと言うわけでもなさそうだ、どちらかと言えば、宿敵のような。
セリは二人の関係性が気になったが、ユウが促すので図書室へとユウの案内で向かった。
◇ ◇ ◇
図書室は長い廊下を進んだ先にあった。
まるで別世界に足を踏み入れたかのような壮麗な空間だった。高い天井に向かってそびえ立つ壁一面の本棚は、まるで知識の塔のように威厳を放っている。
棚には隙間なく並べられた豪華な装丁の本がずらりと並び、金や銀の装飾が施された背表紙が、微かな光を受けてキラキラと輝いていた。
歴史と知恵が詰まったこの部屋は、まるで時が止まったかのような静寂に包まれている。
部屋の中央には、重厚な木製の机が置かれており、その上には古い巻物や地図、羽ペンとインク壺が整然と並んでいた。机の一角には、大きなガラス瓶に入った異国の植物や、珍しい鉱石が置かれており、探索者の好奇心をかき立てる。
「すごい!こんな部屋があったなんて!」
さっそくセリは本棚に進み寄って、背表紙をなぞるように見て行き、まずはどの本を手に取ろうか、わくわくとしていた。
「その辺りは歴史書が多い。セリのご所望の冒険書などはこっちだ」
そう言ってユウが図書室の一角を指差しているが、セリはその声が聞こえてないかのように、本棚から目を離さない。
本棚には埃一つも積もってない。これだけたくさんの棚があるのに、まるでついさっき埃を叩いて落とし、掃除したみたいに綺麗だ。
「ねえ、ユウ。ここはいつもあなたが掃除していたの?言ってくれれば、私も一緒に掃除したわ」
「いや、この図書室はドアを開かない限り封じられ、外界から切り離されて、時が進まなくなる。だから、掃除の必要はないんだ」
「すごい!だからどの本の装丁も色鮮やかなのね!まるで作ったばかりみたいに輝いてるもの!」
セリは少し棚から離れて、本棚全体を見回しながら、さて何を読もうかと漠然と考えていたとき、視界の中で輝きを見た気がした。
「ん?」
「どうした、セリ」
「ちょっと気になる本が……」
もう一度、本棚を見回してみると、一冊だけ青白く輝いて見える本があった。それはずいぶんと高い位置にあったので、棚にかけられた梯子を移動させながら、輝く本に吸い寄せられるように近づく。
「セリ、高いところにあるのなら、僕が取ろうか?」
ユウにはその輝きは見えていないようだ。
「大丈夫よ」
そう言って、梯子を登り始めるセリは、輝く本に近づくにつれ、光の中にあるのは、それは他の本に比べてとても小さい事がわかってくる。他の本が隙間なく並べられているのに比べて、まるで慌てて隠したかのように、雑に本棚の隙間に押し込んだかのように見える。
手に取ってみる。輝きは薄れて行き、本の正体が見えてきた。本というより、これは……。
「どうしてそれがここに!?」
まだ梯子に登ったままのセリの手元を凝視しながら、下でユウが驚愕の表情を浮かべていた。
それは、小さな手帳のようだった。
水にさらされたことがあるのだろう、著しく歪んでいた。表面は泥や汚れで覆われ、かつての美しさはすっかり失われていた。ページをめくるときは、まるで壊れやすいガラス細工を扱うかのように慎重にしなければ、紙が破れてしまいそうだった。
「これが何かわかるの?」
「い、いや、わからないが何かの手違いで紛れ込んでしまったらしい。セリ、それは私が処分するので、渡してほしい」
「え、どうして?」
「君が読むべきものではないからだ。ほら、冒険について書かれた本を探しにきたのだろう?あちらにたくさんあった」
セリははじめてユウの行動を不審に感じた。今までこんな事は一度もなかった。ユウは明らかに動揺して、セリの持つ手帳をセリには読ませたくならしい。
手帳のことは気になる。今すぐにでも開いて読んでみたいが、しかしユウが嫌がっているのなら、無理に読まなくても良い。
「いいわ、これはユウにーー」
「そいつは制約違反なんじゃないのか?」
図書室の入り口から、ロイの声がした。振り返ると、図書室には入らず、開け放ったドアの向こうからこちらを見ている。
「お前はここには入るなと言ったはずだ!」
ユウが強く叫ぶ。しかし意に返さず、ロイは涼しい顔でユウに言った。
「ここの主であるセリから、主の所有する物を取り上げてーー」
「あれはここの物ではない!」
「これは異なことを言う。主人が望むモノは住まうことが許され、望まないモノは追放される、だろ?ここにあるモノはすべてセリの物さ」
ロイとユウが言っていることが何一つ頭に入ってこないが、二人は私を中心にして、互いに真っ向逆の立ち位置にいるのはわかる。
「これは私のものだと言うの?」
「違う!あいつの妄言だ!」
ユウが叫ぶ。こんなユウは見たことがない。それほどまでに、この手帳は私が読んではいけない物だということか。
セリは梯子からゆっくり降りて、小さな手帳をユウに差し出した。
「……」
黙ってユウは手帳を受け取った。セリはそのままユウの横を通り抜け、図書室の入り口へ進む。ロイが一歩下がって道を開けてくれたので、そのまま図書室を出る。
「……いいのか?」
ロイが尋ねるが、セリは頷き返して、そのままロイの横も通り過ぎていく。
長い廊下を歩いて行き、さらにエントランスホールを抜け、外に出た。
いつの間にか、嵐は去っていた。
◇ ◇ ◇
さすが神秘の庭園と言うべきか。
嵐が去って、庭園を見て回ったが、少し枝が落ちたり、覆っておいた布が飛ばされてたりはしたが、恐れていたほどの荒れようではなかった。
どこから手をつけて良いものかと思っていると、ユウが掃除道具を手にしてやって来た。その後ろには少し離れて、ロイも同様に道具を運んでいた。
「セリ、まずは掃除をしながら見て回ろう。気になるところは印をしておくから、後で直して回ろう」
「そうね、ロイも手伝ってくれるの?」
「軒先であろうと借りたのなら労力で返すのが道理というものだと言ったら、素直に着いてきた」
「そう。庭園は広いから助かるわ」
「……セリ、あとで話す。だからーー」
「うん、今は掃除をしましょう」
ユウから箒を受け取り、セリは掃き掃除を始める。聞きたいことも言いたいことも、すべて後回しにしたい気分だった。考えるのが怖くて、何かしていないと叫び出しそうだった。
ユウやロイから距離を置きたくて、二人には他のゾーンの掃除をお願いして、セリはとくに落ち葉の多い秋のゾーンを掃除し始める。
今更に、神秘の庭園の不思議な状況に文句を言うわけではないのだが、このゾーンでは常に樹々は紅葉して、見ている間に落葉していく。
どんどんと落葉が続けば、あっという間に樹々から葉がなくなってしまうのではないかと思うのだが、見上げてみれば、葉は元通りに生い茂ってるので、たぶん落ちた先から順番に再び紅葉した葉が生えてきてる気がする。
つまり、履いても履いても、落ち葉は無くならない。
それでも秋のゾーンの外にまで飛ばされてる落ち葉を履いて集め、一箇所に集めておく。後で焼いて処分するために。
「お!いい具合に落ち葉が集まったんだな。これで芋でもあれば、焼いて食えるな」
ロイが箒を逆さに持って肩に乗せながらやってきた。セリはうんざりしたように、ロイに答えた。
「黒焦げになるだけよ」
「あ?」
「この落ち葉の中に芋を入れて焼こうって言うんでしょ?それをするとなぜか、芋は必ず黒焦げにしかならないの」
「何だそりゃ」
「何度もやってみたから間違いないわ。そして解ったの。考えるだけ無駄って。他にもいっぱいそういうのがあるのよ。例えば、春のゾーンで花の蜜を吸おうとしたら、全く甘くないの。そもそも、蝶や蜂も見たことがないから、たぶん蜜はないのね」
「言われてみりゃ、鳥はおろか、虫もいないみたいだな。森にいて鳴き声がまったくしないってのは不気味だな」
セリはずっとこの庭園の世話をしているが、ときおり思うのだ。世話など必要なのだろうか、と。季節ごとに区切られたゾーンは、常にその季節で固定されていて、木や花は枯れることもない。
「やる事がないから、世話してるふりをしてるだけ。たぶん何もしなくても、明日には元通りになってるわ」
「そりゃまた、歪んでるな。気がおかしくならないか?」
「なりそうよ。でもユウにはそれがわからないのよ。永遠に続くことの恐ろしさが、彼には伝わらない。それの何がおかしいのか、わからないみたいよ」
「はは、あいつには理解できないだろうな」
「やっぱり!」
私は思わず叫んだ。今の発言で確信した。ユウとロイは互いによく知っている。
「……」
「ロイ、あなたはユウのことを知っているのね?」
「ああ。知ってる。神秘の庭園の守り人。最初に言っただろ?俺はこの神秘の庭園にお宝を求めて来たんだ、下調べはしてある」
その答えには、セリは納得できない。そのような関係性では無い。うまく言えないけど、少なくともずっと一緒に暮らしてたセリよりも、ロイの方がユウのことを解っているように感じる。
「それだけじゃ無いってことはわかってる。でも聞いても教えてくれないんでしょう?ときどきあなたがいうセリフーー」
「制約違反、ですね」
「そう、それ……、え?」
セリはロイにビシッと指を突きつけたが、ロイは表情を変えていた。纏っていた粗暴な雰囲気を脱ぎ捨て、品のある青年となり、セリを見つめていた。急な変貌に、セリは戸惑い、言葉を失った。
「セリ、私から言えることは一つだけです。貴女は選ばなければならないのです」
「え、選ぶ?何を?」
「それはーー」
「そこまでだ」
ユウの声が聞こえて、セリは振り返ると、そこにいたのは確かにユウであったが、ユウも表情が変わっていて、纏っていた穏やかな雰囲気を脱ぎ捨て、冷酷な青年となり、凍るような冷たい視線でセリを見ていた。
「ユウ……」
「セリ、我が主よ。その者の言葉に耳を傾けてはならない。嵐は去ったのだ。直ちに追放すべきだ。神秘の庭園を穢す盗人に、慈悲など要らぬ。さあ、我が主よーー」
ユウの様子がおかしい。優しく控え目だったのに、急に忠誠心が強いが主人にも厳しい執事のような振る舞いだ。
「ま、待ってユウ。どうしたの?まるでユウじゃないみたい!」
「手帳の発見……?いや、あれは想定外だったようです。ならば、嵐の襲来が合図だったのですね。その嵐が去ったということは、もう彼女には時間がない。そういうことですか」
「その嵐こそが、お前をここに呼び寄せた要因だろう。慈悲深いあの方らしい処置だ、常に救いを用意なさっている。お前は理解している、制約は絶対だと」
「ええ、だから彼女が望む冒険者たる私として振る舞っていたでしょうに。焦って制約を破ったのはそちらでしょう?」
そういうロイをユウは睨み付ける。ロイもまた、様子がおかしい。粗暴な喋り方だったのに、急に品の良い貴族のような振る舞いだ。
「ロイも別人みたいに……」
「我が主よ。以前にお話しした通り、我は主の守り人である事を忘れないでほしい。その上で、これをお返ししよう」
「それは……」
ユウが差し出したのは、図書室で見つけた手帳だ。彼はセリに読んで欲しくなかったはずなのに。
「これは主が書いた手記だ。故あって我が処分した。間違いなく処分したはずだった。しかしそれが我が主の元に返って来た」
ユウは、とても悲しそうな表情をしていて、セリまでも胸が締め付けられるような悲しみを感じた。
「ユウはその手帳を私に読んで欲しくないんだよね?ユウを悲しませるなら、私は読まないよ」
「そうでは無い、我が主よ。主がこの手記を読むことを恐れたのでは無い。主が傷つくのを、我は恐れたのだ。だが、あやつが言うように、主のものを我が取り上げるわけにはいかぬ。だからお返ししよう」
ユウが差し出す手帳をセリは受け取った。その上で、ユウは続けた。
「それを読めば、おそらく主は選択を迫られるだろう。腹立たしいが、あやつの言う通りだ。だが、我は思う、それを読む前に、あやつを追放すべきだ、と。主が苦しむような選択をして欲しくはない」
「ユウ……」
「我から言えるのはこれだけだ。ここは神秘の庭園。我が主の住まう場所。唯一の平穏が保たれる場所。我は守り人、我が主を必ずや守ろう」
そう言って、ユウは背を向け立ち去っていく。ロイを威嚇するように睨みつけてから、屋敷へと戻っていった。
ロイがセリを見つめ、言った。
「セリ、我が愛しい人。私からも言えることは多くはないのです。追放されてしまえば、もう会うこともありません。だから、これだけは伝えましょう。恐怖から逃げた先にあるのは、安全ではなく、また別の恐怖です。危険だとわかっていても挑む気持ちを忘れないでください。冒険に憧れたあなたなら、きっと、わかってもらえると信じています」
そう言い残し、ロイも去っていった。
◇ ◇ ◇
秋のゾーンにある切り株に腰を下ろして、セリは図書室で見つけた手帳を読む事にした。慎重にページをめくっていく。
それは国を追われた王女の手記だった。自分の身に降りかかったことを書き残し、誰かに知って欲しかったらしい。
文字は走り書きで読み難く、日付もないので、どのような時系列なのかもわからない。
紙を破かないように、慎重にページをめくった。
" なんてことでしょう!今日は一生忘れられない恐ろしい日となりました。クーデターが起こり父王は殺され、残った王族の全て無実の罪で断罪されました。信じられませんわ。
暗くて冷たい牢の中で、唯一の希望は婚約者の助けを待つことだけ。冒険家の彼なら、警備の厳重な牢にさえ、助けに来てくれるはず!
けれども、彼の声はまるで届きません。こんなところで一夜を過ごすなんて、想像もしていませんでしたわ。 "
文字に力を感じる。突然の事態に、まだ他人事のように感じているのだろうか。あるいは希望を捨てず、心が挫けないように鼓舞しているのだろうか。
慎重にページをめくっていく。
" 馬車に押し込められ、王国から追放されました。心の中には怒りと悲しみが入り混じっています。この屈辱、決して忘れませんわ。
わたくしはいったいどこに連れて行かれて、どんな仕打ちを受けるのでしょう。誰も何も答えてくれません。今までわたくしに頭を下げていた騎士たちが、まるで咎人のようにわたくしを扱うなんて。誓ってくれた騎士の矜持はどこに捨てたのでしょうか。
夢なら今すぐに覚めてほしいと願いました。 "
文字が徐々に弱々しくなっていくのがわかる。不安でいっぱいなんだ。華やかな生活から、咎人のような扱いになり、いつ酷いことをされるやも知れない。
切実な思いを込めた1行を読み、そしてページをめくろうとしたが、なにかで紙同士が貼り付けられていて、破らないように慎重に剥がす必要があった。
" 運命の悪戯でしょうか、馬車が事故で壊れました。わたくしは崖下に投げ出されてしまいましたが、運良く木の枝に助けられました。これを好機とばかりに逃げ出しましたが、追手がすぐに迫ってきます。
追手から逃げるために、深い森へ飛び込むしかありませんでした。恐怖で胸がいっぱいです。森の中を彷徨ううちに、喉の渇きに耐えながら歩き続けました。どこかに導かれているような気がしています。 "
このページには泥に混じって赤黒い血の跡もついていた。これが張り付いてページがめくれなくなっていた。崖下に投げ出されたのだから、怪我をしていたのだろう。
さらにページをめくっていく。
" 森の中で運良く泉を見つけたのです。喉を潤していると、庭園の守り人と名乗る青年に出会いました。彼はわたくしを庭園に招いてくれました。
初めて庭園を見た感想は、まさに夢のような光景でした。花々や小川がわたくしを歓迎してくれるように感じました。こんな素敵な場所があったなんて。
この美しい庭園に住まわせていただきたいとお願いしましたが、守り人は断り、一晩だけ休んだら出ていくように言われました。 "
ユウとの出会い。でも、きっとセリが知っているユウは、セリのために演じられた仮の姿だったのだろう。
いつの間に頬を涙が流れていたが、セリは気が付かず、次のページへと進んだ。
" 次の日、必死にお願いすると、守り人は私の事情を尋ねました。クーデターで国を追われたこと、運良く逃げ出せたこと、ここに辿り着いたことを話すと、彼は考え込みました。わたくしの名前を伝えたとき、驚きの表情を見せました。
そして住まうことを許してくれました。願ってもないことでしたが、急な心変わりは気になりました。彼は「ーーの系譜がまだ生きていたか」と呟くように言いましたが、よくわかりませんでした。
ここに住まう条件を伝えられました。それは、庭園の主人になること、だそうです。いくつかの制約を受け入れなければならないと言われました。
それが何を意味するのかわかりませんでしたが、わたくしに他の選択肢はありません。ありませんが、今のわたくしにとっては、たった一つの希望を自ら投げ出さなければならないのが問題です。
すぐに心が決まらず、もう一晩だけ待ってもらってます。 "
たった一つの希望。それはきっと、セリが泉に向かって祈ってる希望のことだ。最初から唯一にして最も強く願った希望はーー。
" 悩みに悩んだ末に、制約を受け入れることに決めました。それは庭園の外の記憶を泉に沈めて忘れることでした。過去を捨て、新たな未来を歩む決意を固めましたわ。
この手記は濡れないような器に入れて、川に流してほしいと、守り人の彼にお願いしました。そうして、流れた先で誰かの目に留まれば、冒険家の彼に伝われば、きっと彼なら迎えに来てくれるはず。
ロイ、私の愛しい婚約者。これを見たら、迎えに来て。現世との縁が切れてしまう前に。そうしないと私はもう二度と現世に帰れなくなるそうですわ。
ここは神秘の庭園。わたくしは待っています。 "
手記はここまでだった。
◇ ◇ ◇
手記を読み終えても、セリは自分のことだと思えなかった。まるで物語を読んだかのように思えた。もし何らかの力によってセリの記憶が封じられているならば、容易には戻らないのだろう。
それでも要点はわかった。
セリは、王女でありながら国を追われ、この神秘の庭園に逃げ込んだ。ユウはこの庭園の守り人という超常的な存在で、何か理由があってセリを受け入れてくれた。そしてロイは偉業を成し遂げた冒険家で、セリの婚約者であり、行方知れずとなったセリを探し続けてここに辿り着いた。
彼らはセリに選択を迫っている。ユウと共にこの神秘の庭園で永遠の安らぎを得るのか、あるいはロイと共に冒険へ旅立つのか。
(選べって言われても、困る……)
ユウを選べば、この美しい庭園で夢のような日々を過ごせるだろう。ユウは常にセリの傍にいて、優しく守ってくれる。ここでは何も恐れることはない。まさに理想の逃避先だ。
(人が羨む日々を過ごせるのでしょうね。ユウは優しいユウに戻って、穏やかな生活を支えてくれる、これまでのように)
しかし、完全に満足しているわけではない。ロイに指摘されたように、セリは退屈していた。決して朽ちない庭園の世話をする毎日は、次第に心を失っていくのを感じていた。
一方で、ロイを選べば素敵な冒険が始まる。
(彼が話してくれた冒険を、わたくしも体験することが出来る!)
彼の冒険譚はセリの心を躍らせる。外の世界で新しい人生を始め、自由に生きられる。
(ロイは、わたくしのためにここまで探し続けてくれた。きっと大変な思いをしてここまで辿り着いてくれたに違いない。そんなにも私を求めてくれるなんて!)
その事に胸が熱くなるような喜びを感じていた。
(でも、彼を選ぶということは、ここを出ていくということ)
そう考えた途端、喜びは絶望に変わり、全身が震える。
外の世界は未知の恐怖に満ちている。一歩外に出れば、セリを飲み込もうとする暗闇が待っているかのよう。息が詰まり、胸が締め付けられる感覚に襲われる。
(庭園を出た瞬間、わたくしの周りの空気が変わるのを感じるでしょう。優しく包み込んでくれていた空気が、一瞬にして冷たく、重く、わたくしを押しつぶそうとするかのように)
ここを出れば、もう二度と戻れない。この安全な場所を離れ、恐怖の海原に漕ぎ出すことになる。そう思うと足がすくんでしまう。足を踏み出すたびに地面が揺れているような錯覚さえ感じる。
木々の影が不気味に揺れ、まるでセリに手を伸ばしてくるかのよう。風の音さえ、セリを脅かす悪意のある囁きに聞こえる。
(人の視線に怯える毎日が待っているに違いない。人々の視線が、わたくしを裁き、責めるような気がする。「お前は誰だ?」「ここで何をしている?」そんな声が聞こえてきそうで)
ロイが傍にいても、この恐怖は消えない。彼の姿さえ、突然消えてしまうのではないかという妄想に囚われる。
(でも、なぜこんなにも怖いのでしょう? まるで恐怖だけを植え付けられたみたい。何に怯えているのかわからないのにとにかく怖い)
選ばなければならない。選ぶのは一つ。
◇ ◇ ◇
神秘の庭園に満月の光が降り注ぎ、静寂が広がっていた。
セリは一人で庭園の秋のゾーンに留まっていた。彼女の心は揺れ動いており、ロイとユウの言葉が頭の中で繰り返されていた。外の世界への憧れと恐怖が、彼女の心を複雑にしていた。
セリは考えるのに疲れ、木に寄りかかり、空を見上げた。満月が静かに輝いており、その光が彼女の心を少しだけ和らげた。
その時、どこからか静かなリュートの音色が聞こえてきた。
セリはその音に引き寄せられるように歩き出した。庭園の西端、音の源にたどり着くと、そこにはリュートを手にして座っているロイがいた。彼は荒くれ者の外見とは対照的に、繊細な指使いでリュートを奏でていた。
セリはその光景に目を奪われ、しばらくの間言葉を失った。ロイの指がリュートの弦を優雅に奏で、彼の口からは穏やかな歌声が流れていた。その歌声は彼の粗暴な性格とはまるで別人のように繊細で、美しかった。やはり、ロイの本当の姿は、粗暴な冒険家などではなく、品格の高い紳士だったのだろうか。
ロイはセリの存在に気づき、演奏をやめることなく微笑んだ。
「こんな夜には、静かに音楽を楽しむのがいいんだ。酒でもあればなお良し!なんだがな」
セリは面食らった。その言葉、冒険家のロイらしい言葉遣いに戻っている気がする。セリは静かに彼に向き合うように座り、その音楽に耳を傾けた。彼女の心は次第に落ち着き、ロイの演奏に身を委ねた。
「ロイがそんなに美しい音楽を演奏できるなんて意外。驚いたわ」
セリは心からの驚きと感謝の気持ちを込めて言った。
ロイは笑みを浮かべた。
「音楽だけがどこに行っても皆が楽しめる共通言語でね。情報を持ってる現地に住まう人の心を開くのに、大切な手段なんだ」
セリはその言葉に感銘を受けた。変に見栄を張らず、冒険家ならでは必然で身につけたというロイは、とても自然体だった。
セリは、そんなロイの穏やかな空気に癒され、自分の不安を打ち明ける気持ちになった。
「ロイ、私は外の世界に対して憧れを抱いているけれど、それと同時に強い恐怖も感じているの。どうしてもその恐怖を乗り越えることができなくて……」
ロイはリュートを弾き続けながら、優しく答えた。
「それは自然なことだ。誰でも未知の世界に対して恐怖を感じるものだ。俺だってそうさ。だが、その恐怖を乗り越えることができれば、新しい自分を見つけることができる」
セリはその言葉に少しだけ勇気をもらい、続けて話した。
「ユウは外の世界は危険だと言って、私を守ろうとしてくれる。でも、そのせいでますます恐怖が強くなるの」
ロイは少し考え込み、やがて静かに言った。
「ユウの気持ちも分かる。君を守りたいと思うのは自然なことだ。でも、君が本当に望むことを知るのも大切だ」
セリはロイの言葉に深く考えさせられた。
(私は、わたくしは、本当は何を望んでいるの?)
その時、ロイの歌声が再び響いた。その歌声は彼の粗暴な性格とはまるで異なる、繊細で優しいものだった。セリはその歌声に心を癒され、少しずつ恐怖が和らいでいくのを感じた。
歌が途切れたとき、セリは勇気を出して、その疑問をぶつけてみた。
「ロイ、あなたはわたくしを探してここまで来てくれたの?」
ロイは一瞬間を置き、微笑みを浮かべながら答えた。
「美しい花を見つけるためには、茨の道も厭わない。それが冒険家の心得さ」
それはとてもロイらしい、自然な答えだとセリは思った。他の誰かが言ったとしても、キザに聞こえてしまうけれど、ロイがそう言うなら、きっとそういうことなんだねと、腑に落ちた。
セリはその言葉に微笑みつつも、心の中で考えを巡らせた。彼の言葉は確かに心を打つもので、心の中の不安が、一つ打ち解けたのを感じた。
セリは立ち上がり、ロイに「おやすみなさい」と告げて、セリはその場を立ち去った。
セリの心は次第に決意に満ちていった。恐怖を乗り越え、新しい世界に飛び込む勇気を持つことが、彼女にとって最も大切な一歩だと感じ始めていた。
◇ ◇ ◇
セリは、庭園の東端にある泉を目指した。毎日のように祈りを捧げていたが、嵐のために、しばらく泉に行ってなかったことを思い出したから。
泉に近づいていくと、泉のほとりでユウが佇んでいるのが見えた。
「ユウ……」
セリは静かに彼の名前を呼んだ。ユウは柔らかな微笑みを浮かべてセリを迎えた。ユウはいつものユウに戻っていた。
「セリ、ここに来ると思っていたよ」
セリは少し戸惑いながらも、ユウのそばに歩み寄った。彼女の心の中には、昨日の出来事がまだ鮮明に残っていた。
ユウはセリをそっと抱きしめ、優しく声をかけた。
「セリ、君に話さなければならないことがあるんだ」
セリはユウの胸に顔を埋めながら、静かに聞き入った。
「この庭園は君の祖にあたる人が作ったものなんだ」
「私の、先祖……、どなた?」
「もう名前を聞かせてもわからないほど、遠い昔だ」
「手記にも書き残していたわ。ユウが私をここの主人と認める際に呟いた、系譜、という言葉を」
「そう。君はこの庭園を創始したあの方の系譜。だから、ここは君の庭園だ。きっとあの方ならば、この未来を見ていて、この庭園と僕は君を守るために作られたのかもしれない」
「そんなこと可能なの?」
「あの方はそれほど偉大な方だった。その血を受け継いでいる君も、とても特別な存在だ。だからこそ、常に恐ろしい存在から狙われている」
ユウは真剣な表情で語った。
セリは驚きと不安で心臓が早鐘を打つようになった。
「恐ろしい存在…?誰が私を狙っているの?」
ユウはセリを少し離して、彼女の目を見つめながら言った。
「ロイだ。彼はその恐ろしい存在がよこした悪魔なんだ」
セリはその言葉に衝撃を受け、後ずさりした。
「ロイが……悪魔?でも、彼は私を迎えに来てくれたのよ?」
ユウは彼女の肩をしっかりと掴み、力強く言った。
「それが彼の狡猾なところだ。彼は冒険好きという君の性質を利用し、自分を冒険譚を聞かせた上で、自らは決して君を迎えに来たとは言わなかった。それは、君自身が手記を読んだときに、驚きと感謝で胸を高鳴らせ、ロイへの好意だと勘違いさせるため」
(ユウは、いったい何をいってるの?)
「先ほどロイと会っていたね?彼は、ここぞとばかりに、君に語ったのだろう?かつての君との思い出の日々を、そして、君を唆したのだろう?自分こそが君の婚約者で、君と共に生きていくのに相応しいと」
ユウは勘違いしている、ロイは何も言わなかった。ただ私の不安を和らげてくれた。本当の意味での安心は他者から与えられる物ではない、そうセリは思ったのだ。
セリはあえてユウに尋ねた。
「……だとしたら、ユウはどうするの?」
「どうもしないさ。でもセリ、この庭園での生活を思い出してみて。ここで僕たちは穏やかな日々を過ごしてきた。君が笑顔で花を摘んでいる姿、夕暮れ時に一緒に歩いた時間、夜に星を見上げながら語り合ったこと」
セリはユウの言葉に耳を傾け、心の中に浮かぶ思い出に心を和ませた。確かに、この庭園での生活は平和で、ユウとの時間は特別なものだった。
「……」
「覚えているかい、セリ?あの日、君が高い木の枝から落ちそうになったとき、僕が君を抱きかかえたことを。それ以来、僕は君を守ることが自分の使命だと思うようになったんだ」
ユウはセリを見つめながら語った。
セリはその言葉に胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
「ユウ、あなたは傷付いて辿り着いた私を癒してくれた。その事に感謝の気持ちを忘れたことはないわ。そして、いつも私のそばにいてくれた。あなたがいなければ、私はきっと孤独だった」
ユウは微笑みながら、セリの手を取り、優しく握りしめた。
「セリ、僕は君を愛している。君の笑顔が見たいから、君が幸せでいてくれることが何よりも大切なんだ」
セリは驚きと感動で目を見開き、ユウの告白に胸が熱くなった。
「ユウ、そんなふうに思ってくれていたのね」
ユウは真剣な表情で続けた。
「だから、僕は君を守りたい。君が外の世界に出ることは危険すぎる。ここにいれば、僕が君を守ることができるんだ」
「そうね。ここに居れば、きっとあなたがずっと守ってくれる、そのことは全く疑ってないよ。何の不安もなく、素晴らしい穏やかな生活がすごせることは、間違いだろうって思う」
我が意を得たりと、ユウはとびきりの笑顔で、セリに言った。
「そうだ!君は正しい。君はここに居れば、何の心配もいらないよ、すべて僕が――」
「ユウ、決断のため、私に残された時間は?」
一人盛り上がっているユウに、冷水を浴びせるように、セリは冷静な一言を告げる。
「……そう長くはない。明日、空に大きな虹がかかる。その虹が消えたら、もう――」
「そう、わかったわ。おやすみ、ユウ」
セリはそれだけを聞いたら、身を返して、泉を離れていく。その背を見つめるユウの視線を感じていたが、怖くて振り返ることは出来なかった。
◇ ◇ ◇
朝が訪れ、庭園は夜の静寂から目覚めた。
セリは屋敷から出ると、朝の散歩として、庭園をぐるりと歩いて回った。
心の中でユウの言葉とロイの言葉が交錯し、彼女の胸は苦しいほどに高鳴っていた。今日こそ、彼女は自分の心に正直に向き合う時が来たのだと感じていた。
散歩の終着点、泉に近づいていく。セリは深呼吸をして心を落ち着けた。
泉にはユウとロイが待っていた。ユウは心配そうに彼女を見つめ、ロイは少し離れた場所から彼女の様子を伺っていた。
「セリ、心は決まった?」
ユウが優しく問いかけた。
セリはユウの目を見つめながら、勇気を振り絞って言葉を紡ぎ出した。
「わたくし、ここを出ますわ」
その瞬間、庭園全体が静かに揺れ始めた。地面が軽く震え、木々がざわめいた。ユウは驚愕の表情を浮かべたが、すぐに怒りの表情に変わった。
「セリ!本当にそれが望みなのか?」
ユウが声を荒げて問いかけた。
セリはユウの目を見つめ、力強く頷いた。
「ここでの生活は確かに安全で平穏でしたわ!でもね、生活もあなたも、退屈でつまらなくて!こんなのがこれからずっと続くと思うと、ゾッとしますわ!」
ユウはセリの言葉に怒りを露わにし、セリの腕を掴もうとしたので、セリは思わず距離を置いた。
「主のために演じてやったんだぞ!女は優しい男が好きなんだろ?」
「勘違いしないでくださいまし。優しくつまらない男なんか、いてもいなくても同じですわ!ドキドキさせてくれる男が、時折見せてくれる優しさにキュンと胸をときめかせるんですのよ!」
「ーーーー!」
ユウは怒りのあまりに言葉にならない言葉を叫んでいた。そして見る見るうちに、体が肥大して行き、異形の怪物へと変貌していく。
「ロイ!これはなんですの?!」
セリを庇うために駆け寄ってきたロイに、その背に隠れながらセリは尋ねた。しかし、ロイも焦った様子で、答えられない。
「わからん!だが、見事な煽り文句だったな!哀れで同情すら感じたよ!」
「主はここにいなければならないんだ!外の世界は危険でいっぱいなんだ!恐ろしいだろう!そう擦り込んだからな!」
ユウであったものが、大きな腕を振るって殴り掛かってくる。緩慢な動きで大振りだったこともあって、ロイはセリを抱えながら、その場から離脱して、難を避ける。
「言ってることとやってる事が無茶苦茶ですわ。あなたの方が危険じゃないですの!」
「セリ、これを持っていてくれ!」
ロイはセリを地面に下ろしてから、腰のポーチから液体の入った小瓶をセリに渡す。
「これは?」
「聖水だ。効くかどうか怪しいが、火傷くらいは負わせるはずだ。それとーー」
ロイから作戦の指示を受け、メモを受け取る。そしてびっくりした、そんな事が出来るのだろうか。
「え、そんなこと、出来ますの?」
「やってみる価値はある。だが、手の届く範囲からは離れた方がいい。俺が奴の気を引くからーー」
「盗人め、我が主を奪う気か!」
ユウであったものは、ロイに怒りがむいたようだ。ロイの指示に従って、セリはゆっくり下がりながら、ユウを観察する。
彼の肌は灰色に変わり、まるで石のように硬く見える。目は血のように真っ赤に輝き、鋭い牙が口元から覗いていた。背中からは大きな黒い翼が生え、その翼はまるで燃え尽きた羽根のようにぼろぼろだった。
腕は異常に長くなり、先端には鋭い爪が生えていた。その爪はまるで鋼鉄のように冷たく、触れるだけで切り裂かれそうだった。足元には蹄が現れ、地面を踏みしめるたびに鋭い音が響いた。
(ときどき見えていた赤い瞳は気のせいじゃなかったわ!)
ロイがユウの注意を自分に向けるため、大きな声で言った。
「そうさ!言ったはずだぞ!俺がここに来たのはお宝を頂戴するためだと!」
「ふざけるな!お前たちが主を追い詰め、ここに追い立てたのではないか!」
「ああ、反論できないな。俺がセリの近くに居ればと、そう後悔したさ。しかし、再びセリは冒険に出ようとしてる、邪魔はさせない」
「忌々しい!昨夜のうちに殺してやろうとしたのに!」
「そうだろうと思って、清らかリュートの演奏をずっと続けていた。近づけなかったんだろ?下調べしておいて良かったぜ!」
リュート、それはロイが昨夜ずっと奏でていたものか!あれは、心落ち着けるためではなく、邪魔になったロイをユウが襲うのを防いでいたんだ。
「だが、この姿を晒したからには、お前など一捻りだ。その後で、主には再び記憶流しの制約を受けさせれば、元通りだ!」
「思い通りには行かないのも、冒険の醍醐味でね!おまえは大事なことを忘れているぞ」
「大事なこと、だと?いったい何のーー」
私は十分に距離をとった上で、声高らかに、ロイから手渡されたメモを読み上げる。
「わたくし、セレスティア・ピエタルカ・アウローラは宣言します。祖のアルカディウス・ピエタルカ・ヴォルドーより受け継ぎし庭園の主としてーー」
「な、なぜ、あのお方のお名前を!?止めろ!」
長い手をさらに伸ばして、ユウはセリを捉えようとするが、セリは咄嗟にロイから手渡された小瓶を投げつた。
長い爪に当たって小瓶は割れて、肉が焼けるような音と匂いを伴って、ユウは手を逸らしてしまった。
セリは続けた。
「ーーわたくしが望むモノは許し、望まないモノは追放できる。ユフィリオス・マルガレビリウを守り人の任から解雇し、追放します」
「ヤメーー!」
その効果はたちまちに現れ、ユウであったものは灰になって崩れていった。風が全てを吹き飛ばしていく。
庭園全体が激しく揺れた。
「セリ、空に大きな虹が出ているか、探してくれ!庭園の主にしか見えないそうだ」
ロイに言われて、あわてて空を見上げた。そこには見たこともない大きく鮮やかな虹が出ていた。
「出ているわ!」
「よし!それは外と庭園をつなぐ橋だ。その橋を渡って外に出るぞ!」
ロイはセリに手を差し伸べた。
セリは一瞬躊躇したが、やがてロイの手を取った。その瞬間、庭園全体が崩壊し始め、虹色の光が彼女たちを包み込んだ。
「もうこの手を放さない、行こう!」
「ええ、一緒に大冒険ですわ!」
虹の光の中で庭園を後にした。
◇ ◇ ◇
二人は答え合わせをしました。
「ロイ、そもそもの話なんですが、神秘の庭園ってなんですの?」
「古代の魔術師であるアルカディウス・ヴォルドーによって作られたとされる、迷い家の一つだ」
「迷い家?」
「普通の方法では辿り着けない工夫がされた隠された施設で、道に迷って偶然にたどり着くことでしか発見されないことからそう言われてる」
「なるほど。アルカディウス・ヴォルドーの名前は本で読んだことがありましたわ。私がその子孫だったとは知りませんでしたが」
「ヴォルドーは、世界各地に様々な不思議な迷い家を作ったとされていて、発見されているものもあれば、名前だけ伝わってるものもある。神秘の庭園は名前だけは知られていたんだ」
「ロイはよく見つけられたわね」
「実は、神秘の庭園を探して森に入ったわけではなかったんだ。セリの痕跡を探して、馬車の事故現場を発見した。そのあと無事に神秘の庭園に辿り付いたのは、冒険者の勘、と言いたいところだが、なんらかの導きがあったように感じたよ」
「え!私の手帳を見て、探しに来てくれたんじゃないの?」
「違う。おそらくだが、その手帳は川に流されていないよ、ユウが処分したんじゃないかな」
「そんな!」
「でも、だからこそ、その行為は神秘の庭園の制約に引っかかって、ヴォルドーの秘術により回収され、図書室に納められていたのだろう」
「そう!神秘の庭園の制約とはなんですの?ずっとユウとロイだけわかったようなことを言ってたので気になっていましたわ」
「俺も、伝承しかわからないんだが、ヴォルドーによって作られた迷い家には共通の制約がある。すべては把握されていないが、例えば<迷い込んだ者が何者でも一晩だけは宿泊させる>とか<迷い家では主人が望む振る舞いをしなくてはいけない>とか」
「そのような不思議な制約があったですのね。ヴォルドーはどうしてそんな迷い家をたくさん作ったんでしょう?」
「ヴォルドー自身が魔術師として世間に恐れられていたという伝承も残っているので、逃げ込む先をいくつか作っていくうちに、自分と同じように世間から逃げている人も利用できるようにしたのかもしれないな」
「そのおかげで、わたくしのように助けられた人もいるんでしょうね」
「セリ、記憶は戻ったのか?」
「ええ、いつの間にか戻ってましたわ。どのタイミングだったのか、よくわかりませんけど、きっかけは手帳の発見だったと思いますわ。ただ、すぐにすべて思い出したのではなく、段階的に気が付けば戻って来てた、という感じでした」
「それは良かった。……では、私もセレスティア王女殿下への態度を元に戻すべきでしょうね」
「やめてくださいまし。以前も言いましたわ。二人の時は冒険者としての貴方でいてほしいと。それに、もう王女ではありませんわ――、いえ、もう王女じゃない!」
「わかった。これからどうするつもりだ?」
「もちろん、ロイと一緒に冒険の旅よ!」
「国には戻らないのか?君を旗印にして王位を取り戻すことに協力してれる人脈もあるぞ?」
「王位に興味はないよ。もちろん、民の事を思えば、今の政権の圧政は目に余るものがあるけど、正直、私に強い信念は無いのなら、闇雲に混乱を起こして、無駄な血を流すだけになる。それは愚策よ」
「そうか」
「王女は崖から落ちて死んだ。王家は滅ぼされた。それが歴史の選択だった、そう思う」
「セリはどんな冒険がしたいんだ?」
「そうね、庭園の泉が見せてくれた風景が印象的で、砂漠のオアシスと見守るように立つ階段上の遺跡とか」
「ああ、古代王の墓とされる遺跡だな」
「海底神殿とか」
「セリと婚約するきっかけとなった、あの遺跡だな」
「高い山にある村と、彼らが守ってる大きな舟とか」
「……え、待ってくれ、高い山にある大きな舟、近くに村があると言ったか?それはどんな大きさだった?」
「大きさ?さあ、泉の湖面に映された一瞬の出来事だったから、はっきりとはわからないけど、村が丸ごと入りそうなくらい、かな」
「プルフリートの方舟か!まさか実在したとは!どこの山かわかるか?」
「いえ、さすがにどこかまでは」
「村を見たと言ったな?村の様子とか覚えてるか?」
「ええ、特徴的な部分は覚えてる」
「よし!行き先は決まったな!方舟探しだ!」
「それは何?」
「神代に建造された星を渡るための船と言われてる。だが、正確な情報は何も残されてないんだ。わかってるのは大きな山に上に座礁してて、それを守ってる民がいるってことぐらい」
「では、私はそれを見たかもしれないと?!」
「そうなんだ!」
「わくわくしてきた!行こう!」
「おう!」
二人はさっそく冒険の準備を始めました。




