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黄金トンボの夢

作者: 雨足怜

 五月、梅雨入り前の空では夏と見紛うほどの太陽が燦々と輝いている。

 あふれる汗をぬぐいながらも、ベンチから立ち上がることはなく、ただじっと睨むように空を見上げていた。

 空を見ていると、幼少のころの高揚と、苦い気持ちが胸の中で膨らむ。

 あふれる思いから目をそらすようにして、近づいてきたバスを見る。

 一時間に一本、赤字続きだというこのバスは昔より本数を減らし、そしてとうとう、来年には廃線が決まった。

 色褪せた銀色のバス、それに揺られながら、気づけば意識は夢の中へと引きずられていく。

 早くもつけられた冷房の風に汗腺が閉じる感覚を覚えながら、座面に体を預ける。

 ――すげぇ!

 恰好いいと、胸を躍らせる自分の声が、耳の奥ではじけるように響いた。







 三年ぶりに足を運んだ実家は、ひどく色あせて見えた。実家だけではなく、近隣の民家も、それどころか町全体が活気を失って見えた。

 人の気配が少なくなり、通りを歩く者は白髪が目立つ者が多い。車道にうっすらと積もった砂が風に運ばれて流れていく。その風が、夏の記憶を呼び起こす。

 学校のグラウンドで走り続けた記憶。息は荒く、汗が滝のようにあふれる。背中をつける大地、吹き抜ける熱い風が運んでくる砂ぼこりが入って口の中は砂利っぽかった。

 ひどく小さくなったように見える実家のインターホンを鳴らせば、三十秒ほどしてようやく母親の声が聞こえてきた。

 玄関扉を開いた母親は、家以上に小さくなって見えた。別に腰が曲がったとか、髪に白髪が目立つようになったというわけでもない。ただ、その体に宿る気力は希薄で、瞳はどこかハイライトを失って見えた。

「お帰り」

「……ただいま」

 靴を脱ぎ、スリッパで板張りの廊下を進む。軋む音を聞きながら向かった先、仏壇に手を合わせる。わずかに香る線香のにおいは、昔は嫌いで仕方がなかった。線香の香りは、どうしたって死者の存在を呼び起こさせる。

 祖父の死を思い出してしまうその香りが嫌いだった。それを耐えられるようになったのは、いつのころだろうか。死を理解して、死を受け入れられるようになったのは成長か、あるいは思考放棄か。

 父を思いながら目を開いて。そこに置かれた遺影の一つに思考が止まる。

 胸に広がる苦いものを飲み込んで、母親を置き去りにするように自室に戻る。

 一軒家。あまり広くない二階建ての実家には部屋が少なく、子ども用に複数の部屋を用意することなどできなかった。

 自分と弟の部屋。そして今では、自分一人の部屋。それは大人になった自分にとっては狭くて、けれどなぜか異様に広く思えた。

 ベッドに体を投げ出すように倒れこんで天井を見つめる。

 黄ばんだ壁紙のわずかな陰影が顔のように見えてくる。まるで、俺を責める死者の顔、あるいは、死者に恨みを覚える俺自身の顔にも思えた。

 背けるように横を見る。その先にはかつて、弟のスペースがあった。ベッドと、勉強机、棚、それらはもう、そこにはない。

 代わりに視界に映る自分の本棚。その一角から逃げるように目を閉じる。

 弟が死んでから一年が経った頃に整理して、不要となったものは捨ててしまった。

 広い部屋。無音の部屋。

 早くも泣き始めたセミの声を聴きながら、俺はどこかなじめずにいる部屋の中で、過去へと思いをはせる。

 御影彰。

 それが弟の名前だった。

 小学三年生で事故死した弟の顔は、もう写真を見ないと思い出せないくらいにはおぼろげになってしまっている。というよりは、写真の顔しか思い出せないというべきだろうか。

 どんな顔をしていて、どんな風に怒って、笑っていたか。もう、そんなことは思い出せない。そのことを辛いとも苦しいとも思えない。

 それは、悪いことだろうか。忘れることは、いけないことだろうか。

 悲しみに心を停止することはなかった。それでもこうして弟の死を思い出すとき、いつだって俺は自分が気持ち悪く思えて仕方なくなる。

 葬式の時、俺の心には怒りだけがあった。

 そんな思いで別れに臨んだ俺を、あいつは恨んでいるだろうか。

 実家にいると、どうしたって彰のことを思い出す。

 久しぶりに彰の夢を見た。

 輪郭がおぼろげな、いつかの記憶。その中で、ただ彰だけがおぼろげな姿をしていた。輪郭は解けるように甘いで、顔はすりガラスごしに見ているようにはっきりしない。

 彰を見る俺の体には、ただ強い怒りだけがあった。

 ――絶対に許さない。

 怒りを叫ぶ自分の声が、かつての記憶を鮮明に蘇らせた。







 五月、ゴールデンウィークが過ぎたくらいの頃の木曜日のことだ。

 小学校からの帰り道に、俺は黄金のトンボを見つけた。

 それはガードレールの上に止まっていて、小さく羽根を上下に動かしていた。

 本当にまばゆい金色をした、黄金を溶かして固めたようなトンボだった。

 金を透かす美しい羽根は、言葉にすることもできない芸術性を有していて。それはたぶん、俺が初めて芸術というものを心から感じた瞬間だったようにも思う。

 黄金のトンボを追って、気づけば俺は走り出していた。

 緑豊かな庭を横目に歩道を民家の間を走り、じれったい押しボタン式の信号で地団太を踏みながら先を行くトンボをにらんだ。

 車道を超え、民家が消えて畑が広がるあぜ道を進む。顔は常に空へ、先を行く黄金トンボを見ていた。

 走り続けるその先、畑の端にある柵に止まって。無我夢中に走り寄って、両手で包むようにトンボをつかまえた。

 息は荒く、けれど疲労を感じることはなく、ただ達成感だけが体を満たしていた。

 掌の中の黄金トンボの動きを感じるだけで気分は高揚した。

 両手に包み込んだまま、まっすぐに家へと向かう自分の脳裏には、このトンボのことを友人に見せるその瞬間のことばかりがよぎっていた。

 最高の宝物。これを見せれば、きっと自分はクラスの人気者だ――明日が待ち遠しくて仕方がなかった。

 家にあった虫かごに黄金トンボを入れて、改めてその姿を観察した。

 黄金の細いワイヤ―と薄いガラスで作られたような、見ているだけで気分が高揚するような羽根。まばゆい、つるりとした体。

 見れば見るほどに俺はその黄金のトンボに魅了された。

 それを彰に見せたのは、すぐに友人たちに見せることができないからで、すぐにでも自慢をしたかったから。

 彰の反応は、けれど期待したようなものではなかった。

 三歳年下の彼は、ふぅん、と不思議そうに首をひねり、そのままどこかへと去っていった。

 きっと悔しくて、うらやましくて仕方がなかったのだ。去っていく背中を見ながら、俺は自分にそう言い聞かせた。

 それから俺は、トンボのために蝶をつかまえるためにあちこち駆けずり回った。シジミチョウを食べる黄金トンボがわしわしと口を動かす姿に、言葉にできない感動を覚えたことは今でも強く記憶に残っている。


 金曜日、俺は意気揚々と学校に向かい、黄金のトンボをつかまえたことを友人たちに報告した。本当はトンボを学校に持っていきたかったけれど、担任の女性の先生がうるさいから仕方なくあきらめたのだ。

 友人たちは俺の話を鼻で笑った。金色のトンボなんているはずがない、作り話だろと笑った。あるいは、今更トンボ程度でそんなに興奮できないとどこか冷めた顔で語った。

 果たして、俺は真実を証明することはできなかった。

 家に帰った俺が見たのは、蓋が開かれた虫かご。そこには、あの黄金のトンボの姿は影も形もなかった。

 良哉の嘘つき――友人たちの嘲りが聞こえた気がした。

 俺は直感した。きっと彰が嫉妬して逃がしたのだと、そう思った。

 怒りのままに廊下を進んで、彰をつかまえて罵声を浴びせた。

 どうして逃がしたんだと。ふざけるなと。

 その怒りように友人たちもあっけにとられた様子で、けれどそんなことは気にならなかった。

 俺は、黄金トンボに魅了されていたのだ。あのトンボを持っている、ただそれだけが自分のすべてのように思えていた。

 それを奪った弟が許せなくて、冷めた顔で何かを言おうとしている弟を全力で殴った。

 泣き叫ぶ弟の声、何があったのかと大声で聞いてくる母親、口々にひどいだのなんだとの告げる友人たち。

 怒りに震える俺は、ただただ強くこぶしを握り続けた。


 翌日、土曜日。

 ふて寝する俺をよそに、弟は早くから家を抜け出していたらしい。

 空を見ながら歩き回っていたと、目撃者はそう話していた。

 弟は、事故で死んだ。空に探し物をしながら、気づかずに車道に出て車に引かれた。

 黄金トンボを探していたからか。

 あるいは、黄金トンボに魅せられて、俺と同じように必死に追っていたからか。







 寝苦しくて目が覚めた。

 気づけば日は暮れていて、窓の外はすっかり暗くなっていた。

 闇に沈む町には人の気配がしなかった。夜が早い高齢者が多くなったこの町は、もう俺が知る町とは違っていた。

 深夜に道を走る煩いバイクの音で目が覚めることはない。火の用心を告げて回る町内会の者の声も聞こえない。光がともっている家は、見えるかぎりただの一つもなくて。少し遠くにあるコンビニのあたりだけが煌々と光り輝いていた。

 窓を開き、降り注ぐ星明りの下、窓のサッシに腕を乗せてぼんやりと空を眺める。

 飲食店が減った町は、かつてのように星の光を空に押し返すことはない。そのせいか、記憶にあるよりも星空はずっときれいに見えた。

 白い星、わずかに黄色っぽい星。青みを帯びた星。

 それらをぼんやりと眺める俺の視界を、流星のごとく黄金のきらめきがよぎった。

 それは、星の海を舞う、一匹のトンボ。

 黄金のそれが何か、俺はもう知ってしまっている。かつてのように、ただ夢見がちに黄金トンボに興奮を覚えることはない。

 夜を切り裂いて飛ぶ黄金のトンボはきっとショウジョウトンボ。

 赤い体が特徴的なショウジョウトンボだけれど、羽化直後の個体は、本当に黄金のように美しい色をしているらしい。

 それを知ったのは、彰が持っていた一冊の本が理由だった。

 『黄金トンボを追って』。とある少年が、黄金のトンボに魅せられてそれを探して旅をする話だった。

 旅、というほどではないかもしれない。けれどその旅程は、少年にとっては艱難辛苦に等しく、新たな発見と驚きの連続だった。

 星空の下、美しく舞う黄金トンボを眺めながら、本棚に置いたまま最後まで読めずにいる本のことを思い出す。

 彰は、あの少年のように今もどこかでトンボを探しているのだろうか。

 黄金のトンボを追って、町を探し回り、出会いと発見を繰り返しているのだろうか。

 そうだといい。そうであってくれたらいい。

 夜空を舞う黄金は、いつか陰る。五月が終われば見られなくなって、ただ黄色いだけのトンボが青空の下と飛ぶ。

 そうして俺は、初夏の到来を知るのだ。


 黄金トンボは、闇の先に姿を消した。

 闇から逃げるように電気をつけて、ずっと触れなかった本へと手を伸ばす。

 本棚の端、隠すように置いていたそれは、けれど捨てることもできなかった本。

 埃っぽくて、背表紙は色あせていて、その表紙には、確かにあの日俺を魅了した黄金の輝きがあった。

 ベッドの上でページをめくる。

 彰を探して、文字を追う。

 出会いの発見の旅の先で、少年は黄金トンボの秘密を知る。

 気づけば黄金のトンボは姿を消しており、代わりに視界の先を赤いトンボが飛び去って行く。

 成熟した黄金トンボの変わり果てた姿を見る少年もまた、少年から青年へと変わるのだ。






 夢を見た。

 その夢の中、俺は彰と手をつないで、空を舞う黄金の輝きを追っていた。

 隣を走る彰は目をきらきらと輝かせていた。あれがショウジョウトンボだと、数日も経てば赤くなってしまうトンボだと、そう理解していない目。

 あるいは、いずれ失われてしまう輝きだからこそ、強く惹きつけてやまないのかもしれない。

 手をつないで、俺たちはどこまでもその旅を追う。

 どこまでも、どこまでも。


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