絵の中の密室
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過去の惨劇を忘れたかのように、朗らかな空間だった。
――そして、実際、そのような過去のない場所。
真新しい、白いモルタルの壁に囲まれた最奥のテーブルで、僕と鈴原は向かい合っていた。
アンティークスタイルの照明、美しい木目のテーブル。
まるで、おしゃれなカフェにでも来たようだ。
(というか、おしゃれなカフェそのものなんだよな)
対面の鈴原春日子を見遣る。
鈴原の表情はほとんど抜け落ちており、彼女なりの落胆が窺える。
「いやぁ、去年のうちに来てくれればねぇ……」
注文のホットコーヒーとともに、白髪を上品に束ねた案内人が申し訳なさげに言う。
「去年の暮れに、ここの旧家――むかし事件のあった家なんだけど、その管理をしてた母も亡くなってね。
私の定年退職も重なって、立地はいいから小さなカフェでもしようかって」
「事故物件だけどね」と案内人は笑う。
僕と鈴原が求めてきた『事件』は古く大正時代の話だ。
ここが事故物件に該当するとなると、実に多くの物件がその範疇になってしまうだろう。
大正十五年の年末も近く、当時は質屋だったというこの場所で事件は起きたらしい。
振り返ってみれば昭和の時代へと遷ろうとする時代。
白昼堂々、質屋の店主が短刀に貫かれて倒れているのが発見された。
人の出入りは多くなかったとはいえ、真昼の最中、従業員らが外出していたわずかの時間の凶行。
なにより特徴的だったのは、現場がいわゆる『密室』であったことだ。
店主が倒れていた部屋は内側から閂で施錠されており、窓は人が出入りできる大きさではなかった。
「事件のあったのは、質草を保管してた物置のような場所でしたっけ?」
鈴原はあいかわらずスイッチが切れてしまっているので、僕が訊き手に回る。
「そう……ちょうど、このテーブルあたりがその場所だね」
わずかに残ったミステリの香りを感じたのか、鈴原が視線をめぐらせる。
――そして、その視線が一点で止まる。
一枚の小さな絵だった。
彩色はされていない素描だが、筆致は丁寧で写実的な。
この絵はなんの絵か?
そう訊かれたなら、『部屋』の絵だろう。
奥に一つの窓があり、壁に囲まれた部屋。
「ああ、それは『事件現場』の絵だね。
といっても、事件当時に描かれたものではなくて、君らみたいな探偵さんが描いてくれた絵でね」
鈴原の視線は、ただただ絵の中へと注がれている。
そこにどれだけのミステリの残滓が残っているのかはわからないが、彼女にとってはこの絵がまさに事件現場なのだろう。
「頭を整理するのにスケッチするって言ってね。
結局、絵だけ描いて帰ったみたいなものだったのだけど。
なんか趣があるんで、記念に譲ってもらったねぇ」
絵の中の部屋には何もない。
事件当時にはあったであろう保管された質草も。
保管庫としての機能を担ったであろう棚や箱も。
もちろん、店主の亡骸も。
この絵がなんらかの推理の材料を提供するかといえば、答えはあきらかだろう。
「――窓。窓のサイズは、事件当時のままですか?」
鈴原が視線をそのままに訊く。
「そうだね。窓ガラスや窓枠とかは交換されているだろうけど、大きさはそのままのはずだよ」
案内人が応える。
手元のテーブルには、暖かな日差しが――絵の中のものよりもやや大きな窓から、射し込んでいる。
すでに、夏も盛りを過ぎていた。
僕たちの遅れすぎた探偵行脚も、終わりを迎えつつある。
沈黙が落ちる。
案内人は辞して、カフェのマスターとして本来の業務へと戻っていった。
「どう、思う?」
鈴原が小さくつぶやく。
遠慮がちに向けられた顔は、やや不貞腐れて見えた。
「推理として、という意味なら何も……。
いつもながらだけど、材料がなさすぎだろう?」
「まぁね」という鈴原は、やはり常の覇気はない。
いや、常から覇気はなかったか。
そのまま沈黙を続けるのも嫌気が差して。
仕方なしに、僕は思ったことをそのまま伝える。
「なんというか、いい絵だと思う」
「この絵?
何も置かれてない部屋だけど。
どっちかというと無機質で、事実だけを描いたってかんじに見える」
鈴原が絵に視線を戻し続ける。
「推理のために描いたって言ってたし」
彼女の言うことはもっともで、とくに異論はない。
ただ、これが事件現場だという前提で見ている気はするのだ。
「写実的に描かれているとは思うけど、窓からのやわらかな光とか……なんかやさしい絵だ」
「描いたのは探偵らしいけどね」
「本来、探偵というのは殺伐としたものでしょ」と鈴原が続ける。
どうだろうか。
殺伐とした探偵は、こんな古い事件を調べようと思うのだろうか。
殺人事件を調べる時点で殺伐とはしてるのかもしれないが――
なんとなく、この絵が悪い情景を描いたものには見えなかった。
軽く息を吐く。
「推理とは関係ないけど、あともう一つある」
「何?」
鈴原は食いつくように反応した。
僕は、口元に持ってきていたカップを軽く掲げてみせる。
「ここのコーヒーは、すごく美味しい」
その言葉に、鈴原の半眼になっていた瞳が軽く見開かれる。
手付かずの自分のカップに視線を落とし――少しだけ、彼女は微笑んだのだった。