遠い国の歌
<1>
夏の匂いが、鼻についた。
大学の正門から中央へと伸びる道は、この時期にはめずらしく、多くの人が行き来している。
着実に人々のあいだをすり抜けて進む。
そのまま帰路に着くことも考えながらも、足はキャンパスの西側に位置するサークル棟のほうへと向かっていた。
喧騒に覆いかぶさるようにして響く蝉の声が、長い盛夏のはじまりを告げていた。
習慣が億劫さにまさり、お決まりの部屋の前にたどり着く。
『実ミステリ研究会』――この大学に存在する、会員二名だけの、本流でないミステリ研究会。
開け放たれている扉を軽くノックする。
もう一人の会員――鈴原春日子は、すでにその場所を占めていた。
彼女はこちらを一瞥すると、無言のまま、手元の文庫本に視線を落とした。
視線をめぐらすと、いつもどおりの殺風景な部屋が、少し安心させてくれる。
手元に本を開けてはいるものの、彼女はそれを読んでいるふうではなく、もっぱら耳につけられたイヤホンのほうに集中しているように見えた。
彼女の座るテーブルの、残るすべての席は空いていたのだけど、近づくのにひととき逡巡した。
それは、そのときの彼女の雰囲気のせいだったろう。
それはまるで、イヤホンに閉じ込められた音と同じような。
それでも、そのまま帰る気にもならなかったので、声をかけたのだった。
「なに聴いているんだい?」
驚いたふうでもなく、軽く顔をあげてこちらを見ると、無言で右耳のイヤホンを差し出した。
そのコードを受け取りながら、僕は彼女の隣に座る。
耳に入ってきたのは、手数の多いドラムを中心に即興的な絡みあいだった。
ジャズのようでもあるし、力強く打ちつけられるリズムはロックのようでもある。
せわしないリズムが蝉の声と調和していた。
「これは?」
「音楽」
訊き方が悪かったようだ。
「これの内容のサマリは?」
「イタリアのバンドで……」
博物学的な分類には事欠かないだけの情報を与えられた。
たしかに、それを得たところで、僕には『音楽』といわれるのと同程度に意味がない。
適当な相槌だけを打った。
曲は、ドラムの急激なリズムチェンジにあわせ、男性ボーカルを加えて進行していた。
聴こえてきた歌は、歌詞の意味を聴き取れる言語ではなかった。
「洋楽趣味?」
「英語以外のね」
すかさず訂正された。
「英語は除外?英語なら歌詞もわかるだろう」
「解かるから、聴かないね」
曲はめまぐるしく展開を繰り返す。
大胆なリズムチェンジ。
そのたびに、少しずつテンポを早めてゆく。
まるで鼓動が早まるように。
「歌詞が意味不明のが困るけど。スキャットとか」
「そうかな。歌詞の意味がわかってしまうと、ぜんぶ欺瞞に聴こえるよ」
「……ぜんぶ?」
「ぜんぶ」
歌い手も災難だと思う。
「意味がわからなければ、欺瞞にならない」
そんなものだろうか。
口に出して反芻してみると、かなりの違和感をともなった。
それは、『わからなければ、わからない』というトートロジィに等しい。
「音程とか音質とか以外に意味がないからね」
彼女は少しだけ笑って、続けた。
「楽器とおなじ」
「……楽器とおなじ、ね」
欺瞞が嫌いなのだろうか。それとも、言葉が嫌いなんだろうか。
いや、それもトートロジィに過ぎないだろう。
早まっていく鼓動が壊れないうちに、僕は片耳だけのイヤホンを彼女の元に戻した。
最後に遠く聴こえた、ボーカルのシャウトが耳から離れなかった。
彼の言葉も、彼女の言葉も――
――僕にとっては遠い異国のものだった。