115
■■小鳥遊 美晴 ’s View■■
11月4日、日曜日。
【ん・・・】
瞼に飛び込んできた光で気がついた。
・・・おひさま?
顔に光が当たってる。
おかしいな、朝日は足に当たるのに。
どうして顔に?
ここは別の部屋?
ううん、このシーツと毛布のにおいは私の。
自分の部屋のベッドだ。
枕の向きもあってる。
・・・え!?
もうお昼すぎ!?
【あ、そっか・・・】
がばりと身体を起こして記憶をたどる。
昨日は遅い時間に疲れ果てて帰宅して・・・ご飯も食べずにそのまま寝ちゃったんだ。
私が疲れた様子だったからお母さんが寝かせてくれたんだろう。
頭がぼーっとする。
たくさん勉強して頭がかっかして知恵熱を出したあとみたい。
覚醒してくるとお腹がくうくう鳴った。
本能には逆らえない。
【目、覚まそ・・・】
乙女の尊厳もない、寝癖山盛りの寝巻き姿で昼食にも遅い食事を摂る。
機械的にシャワーを浴びて部屋に戻りようやく人心地ついた。
そして頭の中身がぐちゃぐちゃのままだったことを思い出す。
先輩を探して天神駅まで行って。
アレクサンドラさんを見つけて喫茶店に入って。
先輩たちの話を盗み聴きして。
彼女と・・・約束して。
・・・。
思考の渦ががその先を考えるのを拒否していた。
あまりにいっぺんに受け取りすぎていた。
私の人生を否定するような、パラドックスの塊。
考えてしまったらどうにかなってしまいそうで。
崖から無心で踏み込むことができない。
怖い怖い怖い。
ぜんぶがなくなってしまう。
ホラー映画どころじゃない!
足元から崩れていってしまいそうな感覚。
心の奥底が考えることを拒否していた。
心の揺り籠であるこの部屋のお布団でさえもう守ってくれない。
悪魔の契約をしてしまったのだ。
見えない何かがじわじわと侵食してくる怖さがあった。
もうどこにも、私が安心できる場所はない!
【怖い、怖いよ、助けて・・・】
その事実を突きつけられるだけで涙が出た。
勢いで勇ましいことを言って決心したけれど。
そんな付け焼き刃の勇気なんてやっぱりすぐになくなってしまうわけで。
不安に襲われて仕方がなかった。
・・・。
・・・。
・・・・・・。
・・・・・・。
・・・。
・・・。
がたがたと震えてばかりで何も考えられない。
もうお父さんにもお母さんにも頼れない。
どうしてあんな約束をしちゃったんだろう。
具体的に何か怖いことがあったわけでもない。
だけどきっと、あの闘神祭であったようなことがある。
私はそこで主役になりたいという誘惑に釣られて踏み込んでしまった。
クーリングオフなんてできる話じゃない。
もう、ほんとうに、私の安寧はない。
・・・・・・。
・・・。
・・・。
◇
目が覚めた。
暗かった。
嫌な汗をかいていた。
のそのそと起き上がるとぱさりと布団が落ちた。
それで自分の部屋のベッドだということに気付く。
今は・・・何時?
時計を見ると午前4時。
カーテンの隙間から窓から外を見るとまだ真っ暗だ。
街灯の明かりだけが部屋の中を照らしていた。
少し落ち着いていた。
底なし沼のような怖さはなかった。
考えれば怖い。
でも。
その怖いところに先輩がいる。
アレクサンドラさんがいる。
先輩のクラスメートたちがいる。
皆、こんな恐怖と当たり前に闘っている。
同じ場所に、先輩の傍に行くならついてまわることだ。
だったら受け入れるしかない。
ようやく、少しだけ思考を進めることができた。
ひとつひとつ、あの喫茶店で先輩が言っていた言葉を吟味する。
アレクサンドラさんの言っていた言葉を理解する。
皆が何を見て、何を考え、どうしようとしているのか。
ゆっくり、ゆっくり。
私の言葉に置き換えていく。
◇
11月5日、月曜日。
いつもどおりの時間で家を出た。
【遊ぶのもほどほどにしなさい】とお母さんに釘を刺され。
そのお説教さえ嬉しく感じて笑顔で【行ってきます】と言った。
呆れたような笑顔を浮かべたお母さんがなんだか温かかった。
授業の内容はまったく頭に入らない。
こんなことが何の役に立つのか、まったくわからなかったから。
だから私は授業中もひたすらあの喫茶店の話を回想していた。
昼休みになり、放課後になり。
ぼうっとしたまま私は具現化研究同好会の部室へ行った。
【ん~? どした、みーちゃん】
【響ちゃん】
【何があったん? 元気ね~ぞ】
【うん】
響ちゃんの顔を見て少しだけ安心感が戻る。
いつもの響ちゃんだ。
思わず抱えているものを口に出しそうになった。
――11月7日の水曜日まで行動に移してはならない
その言葉を思い出して、悲鳴じみたものを飲み込んだ。
【どーしたん? 話してみ~】
【あ、あはは、何でもないよ】
【もしかしてむっつり先輩絡み? 闘神祭で嫌なことでも言われたん?】
【ち、違う違う、違うよ!】
【そーかなー? みーちゃんが悩むのって先輩絡みだけじゃね~?】
図星を突かれて慌てて否定する。
さすが響ちゃん、鋭い。
私は先輩以外のことで悩んだことはあまりない。
怖がりで言葉は出ないけど悩みは少ないのだ。
【ま~いいや。話したくなったら言ってね】
【うん、ありがと】
追求せずにほっといてくれる。
こんな心地良い空気を作ってくれる響ちゃんが好き。
なのに私はこの素敵な関係を捨てようとしている・・・。
いつもどおりふたりで勉強をした。
でも私が乗り気でないのは開始5分で悟られてしまった。
すると【たまには外へ行こーぜ】と響ちゃんに引っ張られた。
そのまま駅近くまで行って商店街をぶらぶらした。
ファッションのお店で冬物を見て【これ似合いそう~!】とマネキン代わりにされて。
ふたりでクレープを買って、分けっこして。
公園のベンチに座って小学生が遊ぶブランコを眺めて。
すぐに夕方になった。
【ね、みーちゃん】
【うん】
【いつでも相談に乗るぜ~。待ってるよ~】
【ありがと】
そうしてその日は公園で分かれた。
何もしていない1日だったのに疲れてしまっていた。
夕食もあまり食べず、夜はすぐに寝た。
◇
11月6日、火曜日。
まだ頭はぐちゃぐちゃとしていたし気持ちも落ち着かない。
約束の箝口令は今日いっぱい。
たったあと1日。
だというのに焦燥感ばかりが募っていた。
朝食も残してしまいお母さんに心配された。
【ダイエットを始めようかと思って】。
そんな言い訳をしたら今の体型で十分だと説教された。
うら若き乙女を何だと思っているのか。
授業は今日もアタマに入らない。
意味のない長い授業を終え放課後になって部室へ行く。
響ちゃんは私の顔を見るなり【そっか~。深刻だね~】と言うだけだった。
私は机に頬杖をついてぼうっとしていた。
そのまま挨拶だけで何も会話せずにただ座っているだけ。
居た堪れないはずなのに、何だか心地良かった。
ふたりで部活の終わりの時間まで座ったまま。
帰り際に一言【明日、相談したいことがあるの】と言った。
響ちゃんは笑顔で【待ってるぜ~】と言ってくれた。
その日の夜はなかなか寝つけかなった。
何を響ちゃんに話そうか。
色々考えたけれど。
いちばん必要そうなことだけ話そうと思った。
◇
11月7日、水曜日。
朝の目覚めは良かった。
ごはんをお代わりして、連日、食べなかったぶんをお腹に入れた。
お母さんに【ダイエットじゃなかったの】と突っ込まれた。
【1日でやめるのがダイエットじゃん】と開き直ったらニヤニヤされた。
なんか悔しい。
授業は相変わらずアタマに入らない。
でも思考の本棚を整理しているとすぐに放課後になった。
勇んで部室へ行くとまだ響ちゃんは来ていなかった。
どうやら勇み足すぎたらしい。
【お~、なんか顔色良くなってんじゃん】
【ごめんね、心配かけて】
響ちゃんは顔を合わせるなり安堵の表情を浮かべてくれる。
彼女はすぐに隣りに座った。
相談すると約束したからか、私の言葉を待っていた。
【あのね。相談したいのは】
【うん】
【大先輩のお姉さんに会いたいんだ】
【ほ~】
響ちゃんは理由も聞かずに少し考え込んだ。
私が最初にそれだけを言ってしまったからだろうか。
【それ、大先輩に連絡すりゃ良いんじゃね~?】
【あ、うん、そうだよね・・・】
それはそうだ。
大先輩はあの場にいたんだから事情も知っている。
先輩を含めた上級生で唯一知っている連絡先。
私が躊躇っていると思ったのか、響ちゃんは自分のPEを開いた。
【あたしが連絡したげる】
【う、うん。ありがと】
響ちゃんが大先輩へコールした。
・・・。
・・・。
・・・。
あれ?
【ん~? 出ないね~】
【そっか】
【それ、急ぎ?】
【う、うん】
【むっつり先輩の連絡先は交換してねーの?】
【う、うん。教えてくれなくて・・・】
【そっか~。むっつりだね、やっぱり】
あれだけ盛り上がった(と私は思っている)のに先輩は教えてくれなかった。
ちょっと酷いと思う。
響ちゃんは少し考えてから提案してくれた。
【なら、御子柴先輩だーね】
◇
【で、俺のところへ来たの?】
【ごめんなさい! 私、誰の連絡先も知らなくて・・・】
私は響ちゃんに連れられて緑峰高校の校門前にいた。
そこから校庭を覗き込んで陸上部が練習をしている姿を確認して。
近くにいる人にお願いして彼を呼び出してもらったのだ。
さらさらとした栗毛色の髪に清涼感のあるスポーツマンでイケメン。
見た目は非の打ち所がない人、御子柴先輩。
私のお願いに困ったような表情を浮かべていた。
【頼むぜ~イケメン先輩。可愛い後輩の頼みじゃーん】
【う~ん。確かに香さんの連絡先は知ってるけど・・・繋いじゃって良いのかな】
【お願いします!】
【俺の一存だと怖いからなぁ。ごめん、ちょっと相談しても良い?】
◇
緑峰高校の校舎。
知らない学校は新鮮な気分になる。
ここに進学できると楽しそうだな、と考えて。
それをすべて放棄した自分に苦笑いした。
御子柴先輩の案内で来たのは部活棟の3階の部屋。
色々なコンピューターが配置されているから、きっと電脳部とかそういう場所。
そこに御子柴先輩の1番の彼女がいた。
ふんわり可愛い系ルックスの花栗先輩。
御子柴先輩とお似合いの雰囲気。
私もこんな感じで明るい美人になれればなぁ。
【なに? それで私のところに来たの? はぁ・・・】
【なんだよその溜息。露骨に呆れなくても】
【馬鹿、そんなの本人に聞けば済むことでしょ!】
【いてっ!?】
事情を聴くと彼女は御子柴先輩を小突いた。
桜坂の可愛い後輩を待たせて何をしてんの、と突っ込みながら。
【だってよ、俺が連絡したら若菜が嫌だろ?】
【え!? ・・・あ、うん、まぁ】
【うん、そういうわけだから】
御子柴先輩の言い訳に満更でもない雰囲気の花栗先輩。
・・・御子柴先輩が橘先輩に連絡すると問題があるのかな。
って、ここで良い空気になってもらっても困る。
【あーあー。ここでラブコメ禁止~】
【え? あ、ラブコメじゃないぞ!?】
【こほん。えっと、お願いできますか】
【あ、ああ。うんうん。ごめん、今から連絡するね?】
◇
【それで若菜ちゃんからの連絡だったのね】
【はい、急でごめんなさい】
【良いの良いの。可愛い後輩のお願いだもの~、力になるよ】
【ありがとうございます】
今度は橘先輩のお家へ来ていた。
緑峰駅で橘先輩と待ち合わせして。
喫茶店で良いと言ったけれど【話し込むんじゃない?】と指摘されて。
言われるがまま着いていった先は想像以上のお屋敷だったのでびっくりした。
彼女の私室へ通されてもホテルみたいで落ち着かない。
響ちゃんはマイペースにいつもの怠そうな雰囲気。すごい。
【でもごめんねぇ。私が知ってるのは恵さんの連絡先だけなんだ】
【そうなんですか?】
【うん。私は恵さん経由で澪さんに繋いでもらってたの】
【大先輩の連絡先ならあたしらも知ってる。無駄足じゃーん】
【響ちゃん! ごめんなさい、それでどうにかならないかと思って・・・】
【あー、確かに繋がらないね】
【はい。ずっと不通なんです】
【そーそー。無視されてんのー】
【響ちゃん!】
今日にも会いたい、急ぎだと説明して。
橘先輩はふむ、と他の連絡先を指定してコールしていた。
【高天原学園にいる人から繋いでもらうほうが良いんだよね~、隣にあるし】
【高天原学園の人からですか】
【うん。でも生憎、美晴ちゃんがお熱の武は修行で3か月不在だからねぇ】
【え? 先輩、そんなに修行なんですか?】
【あー、あの人ならそういうのやりそう】
橘先輩の言葉に響ちゃんが納得している。
そうか、先輩なら修行という名目でも納得されちゃうのか。
あの話を聞いた限り・・・アトランティスへの遠征が修行なわけがない。
きっと先輩は橘先輩に修行と称して不在を誤魔化しているんだ。
・・・これ、私が真実を明かしたら大騒ぎになる。
ふたりに悟られないようにしないと。
【こんな美人の1番を置いて3か月もどっか行っちゃうんだよ? 信じられないよねぇ】
【むっつり先輩の非常識は前からだ~ね】
【あはは、そうだね。でも武もずっと頑張ってるからねぇ、応援しないと】
けらけらと笑う橘先輩。
なんというか、先輩への信頼感に圧倒される。
先輩の嘘の片棒を担いでしまっているようで私まで罪悪感を抱いてしまう。
【それにしても美晴ちゃんが澪さんに用事って、何のご用なの?】
【え、えっと・・・】
【ああ、ごめんごめん。無理に言わなくて良いよ。秘密のこともあるもんね】
【橘先輩、あんがとー!】
【良いってことよ!】
なぜか私の代わりにお礼を言う響ちゃん。
響ちゃんも橘先輩も良い人すぎる・・・。
【しかし困ったなぁ、さくらも繋がらないんだよ】
【え? 九条先輩もですか?】
【そうなの。これじゃお手上げ・・・あ、ごめんコールだ】
なんだか手詰まりになりそうなタイミングでコールが来たようだった。
橘先輩が少しだけ驚いた表情をしていたのは意外な人なのかな?
「や、ちょうど良かった。君たちに連絡が取りたかったの」
世界語で応答してる。
ちょうど良い? 君たち?
もしかして先輩のあのクラスメートの誰かなのかな。
「この間はありがとね~。うん。うん、うん。え? ・・・さくらが!? それほんと!?」
あまり穏やかじゃない雰囲気。
悪い知らせ?
「わかったすぐ行く。こっちもちょうど別件で用事があってね、美晴ちゃんと響ちゃんを連れてくよ。それじゃ!」
PEの通話を終えると橘先輩は真剣な表情をしたまま立ち上がった。
【美晴ちゃん、響ちゃん、すぐ出るから一緒に来て。高天原学園に行くよ!】
【は、はい!】
◇
そしてやって来たのは高天原学園。
道中、ソフィアさんと連絡を取ったことを聞かされた。
どうも九条先輩の状況が良くないって理由で呼ばれたらしい。
【状況が良くないって、具体的にどうしちゃったんですか?】
【うーん私も何が何だか。ソフィアの話だと部屋から出てこないって】
【ん~? 引きこもり?】
【あの子が引きこもるなんて考えられないんだけど・・・】
橘先輩も半信半疑の様子。
私の印象からしても九条先輩は凛としていて、引きこもるなんて要素は皆無だ。
よほどショックな何かがあったとしか思えないけれど・・・。
「香様! お呼び立てしてしまい申し訳ございません!」
校門へ到着するとソフィアさんが出迎えてくれた。
憔悴している様子がその表情からも読み取れる。
「良いの。それよりさくらはどうなの?」
「はい。それが・・・月曜日からずっとお部屋から出てこられなくて」
「月曜日? じゃあもう3日目ってこと?」
「はい。食事も飲み物も取られていらっしゃらなくて。皆で呼びかけているのですが返事もいただけておりませんの」
「え!?」
「もう、わたくしたちでは・・・どうか、お願いします・・・」
ソフィアさんの声が震えていた。
皆で声をかけたんだろう。
それでも駄目なんて・・・一体全体、何があったんだろう。
「とにかく案内して。私が話してみる」
皆が駆け足気味にソフィアさんの誘導についていく。
遅れて後を追いながら想像する。
・・・日曜日。
だぶん、先輩の『想い出づくり』。
九条先輩はきっと先輩と何かあったんだ。
一体何が・・・。
朝は晴れていたはずの赤い空を雲が覆い始めていた。




