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■■九条 さくら ’s View■■
午後8時50分。
この時間、多くの学園の生徒は夕食を終えて入浴を済ませ、部屋で寛ぎます。
予習や復習をしたり、ゲームに興じたり、学友で集まって話をしたり。
わたしはいつもこの時間帯に勉強をしていますが、今日は違いました。
普段は使う機会のない化粧道具を出し薄っすらと仕上げます。
きっと男性にはわからない程度ですが、女性としての矜持の問題です。
それから簡単に部屋を掃除して。洗面所やお手洗いも綺麗になったことを確認します。
最後に机の前にある部屋にひとつしかない椅子の上に荷物を置きました。
机の上には不自然にならない程度に本や小物を置いておいて・・・。
――コンコン
【はい】
扉の前で待っているとノック音がしました。
待ち構えていると思われない程度に間を空けて返事をして。
がちゃりと扉を開けました。
【武さん、こんばんは】
【こんばんは、さくら】
扉を開けると彼が立っていました。
入浴後なのに寝癖みたいにぼさぼさとした黒髪。
穏やかで優しげな表情。その黒い瞳にわたしだけを映して。
その姿を独占できる。
それだけで飛び上がり歓喜の声をあげてしまいそうになります。
【どうぞ入ってください】
【うん、お邪魔するよ】
笑顔を浮かべながらも少し落ち着かない様子の彼。
わたしも自然に振る舞おうとしているのに少しぎこちないです。
武さんが初めてわたしの部屋を訪ねてくれたことに緊張します。
【何のおもてなしもできませんが】
【寮の部屋だしね、気にしないで】
日本人らしい会話。
たまにこの部屋でソフィアさんとふたり、話をすることもあります。
が、こうした謙遜を口にするのはやはり日本人同士。
その親近感が安堵をもたらし、緊張をほぐしてくれました。
【すみません、片付かなくて。こちらに座ってください】
【え? ここに?】
【どうしました?】
【あ、ああ、いや。うん、それじゃ失礼して】
寮の部屋に皆で集まるときはよくベッドを椅子代わりにしています。
今も椅子が使えないのでベッドに腰かけるわけです。
【お隣、失礼しますね】
【う、うん】
少し硬くなっている武さんのお隣に座ります。
ベッドが沈み、自然と彼とわたしの身体が傾いて近付きました。
意図せず触れた肩から彼の温もりを感じます。
【なんか近くねぇか?】
【窮屈ですみません、狭いお部屋ですから】
【あ、いや・・・(女の子のベッドだし・・・)】
何やらごにょごにょと小声の武さん。
ふふ、相変わらずわたしと触れ合うのを避けているようですから。
滅多にない機会です、頑張っちゃいます。
今日はいつものように逃げたりはしないようです。
わたしの思惑どおりになっても大人しくしてくれていました。
これ幸いと、わたしは彼と触れる部分が増えるように座り直しました。
【さくらが最後になっちまってごめん。やきもきさせたろ?】
【・・・そうですね。皆さんから話を聞いて愕然としました】
今日、武さんが皆さんと順に時間を作っていたことを知ったのは夕食のとき。
ひとりだけ【まだ】だったことを知ると、すっと背中が冷え、失望で頭がごちゃごちゃになりました。
そのすぐ後にPEで連絡をいただき落ち着きましたが、それまでは生きた心地がしませんでした。
そんな気持ちを抱かせられた不満を隠さず、つんと口を尖らせて主張してみます。
【わたしだけ嫌われていたのかと思いましたから】
【うわ、ほんとごめん! 夕食前までにって思ってて時間が足りなかったんだよ】
【こういった話はあらかじめ仰ってください、すれ違ったらどうするつもりだったのですか】
【すまねぇ】
【ほんとうなら減点したいところですが・・・】
話によれば朝から順に皆さんと会っていたそうです。
たった1日で全員と個別に時間を作るわけですから。
彼の時間が足りないという言葉が真実であることは疑いようもありません。
それでもこうして子供じみたはしたない不満をぶつけてしまう自分が不思議です。
ほんとうに済まなさそうに慌てている武さんを見ると溜飲が下がりました。
自然と口角が上がるのを自覚します。
【ふふ、良いですよ。怒ってません】
【ああ良かった。怒らせたんじゃねぇかとヒヤヒヤしたよ】
ほっとしたのか、安堵の笑みを浮かべる彼。
緩んだその表情に吸い込まれそうになりました。
互いに息もかかりそうな距離。
どきんどきんと、鼓動が煩く暴れていました。
【あ、忘れていました。飲み物をお持ちしますね】
胸の暴れ馬を宥めるために少しだけ武さんの傍を離れました。
机の端に用意しておいた2つのマグにミルクティーを淹れ、片方に砂糖を。
普段は食堂で集まって飲めるので部屋で集まるときにあまり飲み物を用意しません。
こうした間の繋ぎのために用意したものが役に立ちました。
【え、わざわざ用意してあんの?】
【ふふ、いらっしゃるとわかっていましたから】
少し当てつけのような言い回しになってしまい、武さんが肩を竦めていました。
彼にミルクティーを淹れた白いマグを渡します。
【こちらをどうぞ】
【ありがとう】
申し訳無さそうな感じで受け取った武さん。
わたしが隣に座るとじっとその中身を見つめていました。
【・・・どうしました?】
【・・・なぁ、これ砂糖マシマシなやつ?】
【大丈夫です、それはストレートティーにミルクです】
【ああ、良かったよ】
【砂糖を入れているのはわたしのだけです】
【はは、相変わらず甘いのが好きだよな】
【もう、甘いのは正義なのですよ? どうしてそう毛嫌いするのですか】
また口を尖らせて拗ねた表情を浮かべてみます。
彼と目が合うと、どちらからともなく自然と破顔しました。
【ふふふ】
【ははは】
そうしてお互いに温かいミルクティーに口をつけました。
胸中がじわりと温かくなり、ほう、と息が出てきます。
【今日はね、皆と一緒に過ごす時間を作ろうと思って】
【いつもはわたしたちが誘っても断っていらしているのに、どうしてですか?】
【いやね、闘神祭で皆、頑張ってたじゃん。結果が出ないからって何もないのもなって】
【・・・残念賞ということでしょうか?】
【うん、それ。あ、違う違う、そういう意味じゃなくて!】
【武さん、やっぱり減点です】
【ええ!?】
【減点2です。減点5でペナルティですよ?】
【厳しいなぁ】
安堵の表情から一転、また慌てた表情に。
くるくると変わる彼の顔つきが可笑しくて。
前に橘先輩が減点制度を使っていた意味がよくわかりました。
【ふふふ。でしたらこれ以上、意地悪なことは言わないでくださいね?】
【む、わかったよ】
【ふふ。でも残念賞でも良いのです。ご一緒できるだけで嬉しいのですから】
【・・・うん、ありがとう】
お礼を言いたいのはわたしのほうなのに。
彼が何に対してお礼を口にしたのかは尋ねません。
【ところでさ、闘神祭のときの話を聞きたかったんだ】
【闘神祭の、ですか?】
【うん。ほら、レオンとふたりで迎撃部隊をしてたろ? どうやって闘ったのかなって】
・・・・・・。
後学のために話を聞くのであれば、そういう話なのでしょうけれど。
わざわざ、わたしとふたりでするお話でもありません。
折角、彼と触れ合っているのに。
少し甘い雰囲気がなくなってしまいました。
【・・・(武さん、減点3です)】
【え?】
【あ、いえ・・・わたしたちが向かった先に居たのは地竜でした】
【地竜!? え、あの亀みたいなでっかいやつか!?】
【はい。幸い3年生の先輩が弱点や攻撃方法をご存知でしたので無難に闘えました】
【はー、地竜かぁ】
武さんは興味津々にわたしたちの闘いについて尋ねました。
わたしはレオンさんとどうやって倒したのかを説明していきます。
都度、【甲羅なんて割れんのか!】【魔法を体内に打ち込む!?】と。
彼が想定していた闘い方と違ったようで、随分と驚いていました。
【即席の部隊だったのによく連携が取れてたんだな】
【レオンさんの采配がお見事でした。上級生の方をうまく立てていらしてましたから】
【なるほどなぁ。俺だと自分のことしか考えねぇから無理だったろうな、さすが】
そうしてひととおり話し終えると。
武さんはうんうんと納得されたように頷いていました。
勿体ない時間に少しだけ苛々しましたがそれも終わりです。
お互いにまたマグに口をつけました。
もう冷めてしまったミルクティーでも甘さが次を誘ってくれます。
【・・・・・・】
【・・・・・・】
少しの間。
なんということもない話題の谷間。
会話なんてなくても良い。
このふたりだけの時間がずっと続いてほしい。
今、このときが止まってほしい。
そう願いました。
その長く短い間に武さんがひとこと添えました。
【・・・もう3年以上経つんだな、出会ってから】
【はい】
話題を探していたのでしょうか。
なにかを思い浮かべるような武さんの横顔。
改めてすぐ隣の彼を意識すると、また鼓動が煩くなります。
【さくらはずいぶんと変わったよな】
【え?】
変わったこと。
3年前から、ということでしょうか。
何が変わったのか思い浮かべてみます。
【・・・そうですね、とても変わりました。変わっていないことがないほどです】
【あ、でも。礼儀正しさとか、良いところはそのままじゃん】
【ふふ、そうですね。それを言うなら武さんのお優しいところもそのままで素敵です】
【っ・・・そ、そうかな】
少し照れてる武さんのお顔も可愛いです。
・・・そう、変わったこと。
貴方の優しさに勇気づけられたあの日から何もかもが変わりました。
美人だと、友達だと、守ってやると言われて。
そこからわたしは恋というものを知りました。
つま先から髪の先まで、全身が生まれ変わるくらいの素敵な気持ちを。
【最初はさ、ちょっと人と話すのが苦手だったじゃん?】
【はい。陰口が怖くてクラスメイトの皆さんとも距離を置いていましたから】
臆病だった心が、自分でも驚くほど強くなれたことも。
【弓道部で香と勝負してからだよな、今みたいに話せるようになったの】
【ええ。武さんのアドバイスのおかげで大月さんや工藤さんと一緒に頑張ることができて自信がつきました】
橘先輩と確執を経て、親しく友達のように接することができるようになったことも。
【それなのに2年になったらいじめ疑惑だもんな。あれは焦ったよ】
【ふふ。若菜さんも諒さんも、同時にお気持ちが抑えられず先走ったなんて。今考えると似た者同士ですよね】
【んだな、違いない】
ちょっとしたすれ違いを乗り越えて若菜さんや諒さんとお友達になれたこと。
どれも、貴方への想いがわたしを変えてくれた結果です。
桜坂中学校の思い出話はとても楽しく時間を忘れるほどでした。
お互いにあれもあった、これもあったとお話して。
これがひと区切り、という少しの間がありました。
【でも・・・たった3年です】
【え?】
【まだこれからです。これからもっと貴方との時間を重ねていきたいのです】
心の奥底にある宝石箱の中に仕舞った、いちばん大きく強く輝く宝石。
わたしはその蓋を開けてそれを彼に見せたのでした。
膝に置いていた彼の手にわたしの手を重ねながら。
慈愛の海を湛える彼の黒い瞳。
そこにわたしだけが映っていました。
じっと静かに、互いの瞳で言葉を交わします。
――ずっとお慕いしています
――これまでも、これからも
声とならないわたしの言葉を彼に届けます。
【うん・・・】
その返事に。
どきんどきんと暴れ馬がいよいよ駆け出しそうでした。
もしかしたら頭が沸騰してこのまま意識を失ってしまうかも。
そのくらい全身に歓喜が駆け巡ります。
【さくら・・・】
【はい】
わたしの名前。
彼の声で耳に届くたび胸に宿る温かさ。
交わしている視線を外すことが惜しくて。
じっと肩と手から伝わる彼の体温を味わっていました。
すると彼は手のひらを返し、彼の手の甲に置いていたわたしの手をぎゅっと握りました。
何かを言いたげに微かに動く彼の唇。
【・・・・・・】
【・・・・・・】
言葉にならないそれは、しばらくの間に交わす気持ちを代弁しています。
互いに見つめ合う間。
それが肯定であることが胸の高鳴りをさらに強めます。
重なった手のひらがじわりと汗ばむ感触でさえ、わたしを後押ししていました。
そうして森林の奥にある岩の窪みから溢れた水は留まることを知らず。
わたしを高みへと押し流して行きました。
彼の手を握る力を強めて。
そっと目を閉じて。
身体をぐっと寄せて。
彼の少しかさついた唇に啄むような口づけをしました。
その触れ合った柔らかい感触が全身に歓喜の電流を走らせて。
そのまま白い奔流となってわたしの身体を駆け巡りました。
ばちんと身体を突き抜けるそれは夢見心地な甘美さを足の指先まで届けて。
初めての感覚に、んん・・・、と吐息が漏れました。
――これが・・・『共鳴』!!
彼の白い魔力がわたしの身体を蹂躙していく・・・!
頭の天辺で。うなじで。背筋の真ん中で。二の腕で。
脇腹で。内股で。膝裏で。足の先で。
全身全霊でその甘い踏み荒らしを受け止めました。
それと同時にわたしの中にあった愛しさや恋しさといった気持ちが流れ出て行く感覚があり・・・。
出て行った穴を埋めるよう、白い奔流からもっと強い愛情や切なさといった気持ちを受け取ります。
そう、穏やかな大きな海のように広がる彼の心の内。
初めて触れるそれらは、わたしのすべてを肯定してくれていました。
――ああ、ああ! 夢にまで見た彼自身!
わたしのことをこれだけ想ってくれていた・・・!!
身体の芯から、心の芯から、わたしのすべてが歓びを奏でます。
ずっと胸の内に燻っていた不安や戸惑いといったものをすべて押し流してくれます。
そうして受け取る煌めくような彼の気持ちの中から。
まるで暗い森の底なし沼のような、どろどろとした否定的で灰色の塊が転がり込みました。
がつんという衝撃とともに彼が抱えている深淵の闇のようなものが、わたしの心に広がります。
恐怖、不安、焦燥、切望する何かに対する諦観・・・そして激しい拒絶!
直前に受け取った美しい感情と同居するにはあまりに似つかわしくないそれらが、私を追い込みます。
まるで今にも獰猛ななにかに食い千切られてしまいそうなように。
突然の温度差に困惑と恐れがわたしの中に渦巻きました。
そのとき、唐突に彼の手がわたしの身体を突き飛ばしたのです。
◇
■■京極 武' view■■
湖畔に咲いた可憐な花のような笑みを浮かべたさくら。
彼女のその白銀の瞳に貫かれたまま。
何度目かの彼女の告白。
俺はその言葉にリアクションが起こせなかった。
膝に置いた手の上に重ねられた、彼女の手のひらの温もりを感じながら。
彼女に相応しい純白の想いに触れるたび。
ソフィア嬢に指摘されたように俺自身が俺を許せなくなっていく。
自分自身に抱えた矛盾が生み出す罪悪感に圧し潰されそうになる。
だけどそれ以上に。
先日の彼女とレオンの逢瀬を覗き見したとき俺の胸を突き刺した棘。
俺自身が気付いてしまったこの胸を刺すような痛み。
女の子の傍にいるから、触れているからという性的な理由じゃなくて。
彼女だから抱いてしまうこの気持ち。
【うん・・・】
俺もそうしたい。
一緒にいたい。
出かかった言葉に自身の気持ちを確信して。
それが叶わぬ夢だとも確信する。
【さくら・・・】
【はい】
ぎゅっと。
手のひらを返し、彼女の手のひらと重ねて握り合う。
――ごめん、あの約束が果たせない
そのひと言を告げるために来たのに。
胸に刺さった楔が言葉を喉奥に押し留め、口をぱくぱくとさせるだけだった。
【・・・・・・】
【・・・・・・】
見つめ合ったままの長い沈黙。
彼女の握る力がさらに強くなる。
潤んだ白銀の瞳が優しげに俺の顔を映している。
ジクジクと痛かったはずの楔が、俺の思考を麻薬のように甘く麻痺させていく。
そうして夢見心地のまま。
目の前にあった彼女の瞳が静かに閉じられて。
ふわりと甘い香りが鼻をくすぐり。
啄むような感触を唇に感じたとき。
そこから電撃のように全身を駆け巡る快感が俺を支配した。
びくりびくりと鼓動に合わせて身体が跳ねる。
これまでに感じたことのない突き飛ばされるかのような衝撃だった。
青白いものが俺の頭を駆け巡った。
抱いていた思考全てを吹き飛ばし。
冬の蒼い空のような澄んだ気持ちが身体を支配する。
愛しさ。歓び。不安。恋しさ。愉しさ。戸惑い。嬉しさ。慈しみ。
理解が及ばぬ感情の奔流に溺れてしまう。
数秒だったかの数分だったのか。
ごく短い時間にも、永遠にも感じた。
んん・・・、と。
彼女の口から漏れる、くすぐるような扇状的な声色で我にかえった。
――レゾナンス!!!
眼前には唇を重ねたままの彼女の白い肌。
ぞくり。
思考が戻った次の瞬間に全身を悪寒が走る。
共鳴したら・・・何もかも終わる!!
駄目だ駄目だ駄目だ!!
止めろ止めろ止めろ!!
全身で叫ぶ拒絶の衝動が必死に彼女と組んだ手を振り払う。
俺は乱暴に彼女から離れた。
力がうまく入らないまま彼女の肩を突き飛ばすように押して。
【駄目だ・・・!!】
【きゃ・・・!?】
反動で俺はベッドに倒れ込んだ。
やばい、全身に力が入らねぇ!
香と初めて共鳴したころのように。
気を飛ばさないだけマシという状況だった。
共鳴は慣れたはずなのに、なんで、こんなに・・・!!
【!? 武さん・・・!?】
さくらはそんな俺を・・・驚愕した表情で見ていた。
口に両手を添えて信じられないものを見るかのように。
なんだあの表情は?
彼女は俺との共鳴で恍惚としていると思った。
無理やり離れたといっても、あんな恐怖するようなことがあったか・・・?
いや、そんなことは今はいい。
とにかく離れるんだ・・・!
力の入らない身体を無理やりに動かす。
ごとんとベッドから身体が落ちた。
そのまま這うようにドアの方へ移動する。
【あ・・・武さん!】
【来るな!!】
喉につかえたような震える声で後ろから呼びかけたさくらを拒絶する。
今、触れちまったら・・・まずい!!
離れろ離れろ!!
【武さん・・・!?】
【来るな、来ないでくれ!!】
今、触れられたら動けなくなる!
そしたらもっと深くなっちまう・・・!!
芋虫のようにずりずりと逃げながら。
声でひたすらに彼女を拒絶して。
なんとかドアのところまでたどり着いた。
背中を扉に当てて。
子鹿のように脚を震わせながら立ち上がる。
さくらはベッドから立ち上がり・・・。
その無様な俺の姿を、ただその不安げな表情で見つめていた。
【ごめん、さくら、ごめん】
【武さん! 待ってください!】
【もう、遅いんだ! さくら、ごめん・・・!!】
おおよそ事情を察せられるような言葉を発していないというのに。
さくらは焦燥を浮かべ、縋るような言葉を俺に投げていた。
その双眸に涙を湛えて。
それはまるで、俺が今日言うべき言葉を受け取ってしまったかのように――。
【ああ、待ってください!】
【来るな! ごめんさくら、もう駄目なんだ!】
彼女の懇願を背に。縋るように伸ばしたその白い手を拒絶して。
俺は必死に扉を開け、廊下に出た。
そして扉に背を当てて脚で扉を押し返した。
ばたり、と乱暴に扉を閉まった。
廊下側へ開く扉は外からこうして抑えると出られなくなる。
――武さん!! 駄目です、行かないでください!!
【さくら、ごめん。ほんとうにごめん】
ドアノブががちゃりと回され、扉が押される。
それを背中で強く押し返す。
――武さん! 開けてください!
【さくら、もう、一緒にはいられない。来ないでくれ】
どんどんと扉が叩かれる。
何度か押されるが、押し返されぬよう力を込める。
――どうして!? ようやく、ようやく、通い合わせられたのに!
【もう駄目なんだ! これ以上は駄目なんだ!】
俺の拒絶の言葉が届いたのか、押す力が弱くなった。
――嫌です、話を聞いてください!
【・・・・・・好きだった、さくら】
――武さん・・・!!
【っもう・・・終わり、なんだ! ・・・さよなら!】
いつの間にか視界が歪んでいた。
嗚咽が喉を支配して思考はぐちゃぐちゃだった。
――・・・そんな・・・ああ、ああ、あああーー・・・!
内側から扉を開けようとする力が消えた。
膝から崩れ落ち伏して涙する彼女の姿が脳裏に浮かぶ。
いつもの俺なら迷わず扉を開いてその身体を優しく包んだだろう。
彼女の悲痛な声が刃となり俺を切り刻む。
【・・・うううううう・・・!!!】
彼女に触れることさえ許されなくなった今。
ただ頬を濡らしながら。
理不尽さに翻弄されているこの身を呪い呻くだけが俺にできることだった。




