前
ひどい!ひどいひどいひどい!
こんなのってないわ!
自室に戻るや、ラウラは思い切り枕に顔を押し付けた。それでも嗚咽は止まらなかった。
「こんな女と結婚することにならなくて本当に良かった」
晴れやかに言い放った元婚約者の顔が忘れられない。
結婚しなくなって本当に良かったのはこちらの台詞よ、そう、言い返せたら良かったのに。
長年抑圧されてきたラウラは、ドレスを握り締めてじっとやり過ごすことしかできなかった。あまりの申し訳なさに、隣に座る父の顔をちらりとも見れなかった。
今だって、本当は先々の話があるだろうに、傷付いたラウラの心情を慮ってか放って置いてくれる。気遣いが有難い。けれど余計に惨めだわ。
不甲斐ない自分に、涙はますます溢れてくるのだった。
◇◆◇◆◇
あれから、一月。ラウラは馬車に乗っていた。
「今日はありがとう!一緒に来てくれてとっても嬉しい」
ニコニコと話し掛けてくるのは、友人のリリス。
あれ以来、屋敷に閉じ籠っていたラウラだけれど、何度かお見舞いと称して遊びに来てくれた伯爵令嬢だ。来るたび面白可笑しく最近のゴシップや流行りのお菓子などを紹介してくれるので、随分と救われたものだった。
ゆるゆると過ぎていく日々に何も返せない申し訳なさが募るなか、流石にいつまでも引き込もっていては体に悪いとリリスの言。いつの間にやら、ラウラの家族も味方につけていた彼女に連れられて、本日は久しぶりのお出掛けとなった。少々強引なところは溌剌とした彼女のチャームポイントでもある。
現に、塞ぎ込んでいたラウラは、久しぶりの外の空気に少しずつ気分が持ち直しているのを感じていた。
「ひとりじゃなかなか出掛ける勇気を持てなかったわ。こちらこそ、お誘いありがとう」
今日は王家主催の剣術大会。年に一度のそれは、貴族だけでなく平民の間でも大変人気の催しとなっていた。それぞれエリアが分けられていて、平民側の入り口付近には出店も多く見られるらしい。ちょっとしたお祭り騒ぎである。
そんな大会にどうやらリリスの兄弟が参加するそうで、一緒に観戦しないかと誘われたのだった。
リリスは毎年見に来ているそうだけれど、ラウラにとっては初めてのこと。久しぶりにドキドキと高鳴る胸を感じながら、馬車はゆっくりと闘技場へ到着した。
◇◆◇◆◇
「あぁ……どうしましょう」
ラウラは早速迷子になっていた。
これは着いてから知ったのだけれど、貴族の観覧席は事前に振り分けられていて自由に選べないそうな。どんな席なのかしらとふわふわした足取りで案内に従うと、三つほど席を挟んだ向こう側はもう石造りの舞台、というとても近い席だった。
慌ててリリスに問えば、前方は出場する家族専用の応援席になっているらしい。粋な計らいね、と頷きつつラウラはお手洗いへ向かうことにした。折角の良い席、途中で抜けることがないよう先に済ませてしまおうと思ったからだ。
ここでリリスの付き添いを断ってしまったのが失敗だった。
すぐ近くだから大丈夫と思っていたのに、進めば進むほど見慣れぬ場所に来てしまう。人気もまばらになっていて、ついには誰もいない通路へ辿り着いてしまった。薄暗い通路は仄かに埃っぽい。
いちおう、ここへ来るまでに道を聞こうともしたのだけれど、何故か皆一様にピリピリしていて話し掛けるなと言わんばかりの態度。しかも大変たくましい体つきの男性しかおらず、余計にラウラは声を掛けられなくなってしまった。
「早く戻らないと、リリスが心配してしまうわ。大丈夫、落ち着いて、大丈夫、大丈夫……」
懸命に足を動かしながら、ラウラは涙声で呟いた。そうでもしなければ、永遠にこの迷宮から抜け出せないのではという恐怖に呑まれそうだったからだ。
そんななか、柱の影から何かが突然ぬっと現れ、ラウラは尻もちをついた。堪らず涙が一粒零れる。
「うわっ!気を付けろ、ってお嬢さん?!」
ぶつかった相手は、立派な鎧に身を包んだ騎士のようだった。始めはぎょっとしていたが、女性をいつまでも床に座らせて置くべきでないと判断したらしい。なんでこんなところに、とぼやきながらも右手を差し出してくる。
それを親切心と頭の片隅で理解しつつ、ラウラの体はカタカタと震えるばかりで一向に手を取れずにいた。覗き込んでくる体勢も相まって、彼がとても恐ろしいものに思えてならなかった。
元婚約者が脳裏を過る。
破談になった婚約は、鉱物資源の豊富な伯爵家が農業の盛んなラウラの家に目を付けて結ばれた政略的なものだった。当然、当主間のやり取りで交わされたそれに愛を育む間などなく、婚約の場が当人同士の顔合わせの場でもあった。
当日は、散々な結果に終わる。
いや、婚約自体は滞りなく手続きが済んだのだけれど、相手の態度が最悪だった。
まず、四歳年上の筈の彼はぶすくれた顔を隠しもしない。ついで伯爵を見れば、疲れた目で息子を見た後こちらを睨み付けるようにしてきたので、ラウラはびっくりしてしまった。まだ挨拶さえしていないのに、何か粗相をしてしまったのかしら。ちらりと父を見れば、諦めを宿す目をしていて余計に戸惑ってしまう。
なんだか大変な相手に嫁ぐことになってしまったのでは。微笑みを浮かべつつ、ラウラは内心震え上がった。
そしてその予感は、残念ながら間違ってはいなかった。
親睦を深めるためとして二人で庭園を回ることになった際。
伯爵達の姿が生け垣に隠れて見えなくなった途端、エスコートの手を振りほどかれ、苦々しげにぶつけられた言葉。
「よりによって、こんな女と結婚なんて……おい、鳥の巣」
父方の祖母に似た毛質はラウラのコンプレックスだった。
ふわふわというよりチリチリ。細く量の多い赤毛はどんなに丁寧に手入れをしても纏まらず、今日もきつく編み込んで誤魔化している。髪をほどけば言われた通りの鳥の巣になるだろう。
涙を滲ませたラウラを男は鼻で嗤い、婚約者らしさを求めるなだの服飾は質素でいろ今から無駄遣いはするなだのと一方的に捲し立てた。最後に口答えするなよと小柄なラウラより頭二つ分は大きな体で凄んできたので、ラウラは恐ろしさからコクコク頷くことしかできなかった。これまで男性といえば、おっとり優しい父と猫可愛がりしてくる兄達しか知らなかったので本当に恐ろしかった。
帰りの馬車では、父が心底申し訳なさそうに頭を下げて謝ってきたことをよく覚えている。どうしても断れなかった、と。
ラウラがあと二月程で十三歳になる日のことだった。
あれから嫌味を言われたり無視をされたり怒鳴り付けられたり。
決して暴力を振るわれた訳ではないけれど、何度か、決まって二人きりの時に横柄な態度を取られ酷く恐ろしい思いをした。
それでも伯爵の目を気にしてか最低限の交流はあるのだから、ラウラは堪らない。段々と物言わぬ娘へ変わっていった。
転機は伯爵が事故で亡くなり、彼が爵位を継いだことだった。
いよいよ来年の春には婚姻するというところでの不幸。そこからずるずる時期を延ばされているうちに、今度は領地が大規模な水害に見舞われた。いわゆる数十年に一度という規模のものだ。
幸いにもしっかりと備蓄をしていたため飢えに苦しむ領民はいなかったが、他領に回せる食料もなく、婚約の条件にケチがついた。
とはいえ、恐らく婚約は継続、あるいは援助の名目でこの機会に婚姻か。悪く転がっても婚約解消で済む問題だろうとノコノコ伯爵邸を訪れたラウラ達を出迎えたのは、婚約を破棄すると言って憚らない男だった。
「この度は災難でしたね……とはいえ、契約不履行は頂けない。これまで私の貴重な時間を無駄に消費させられた分と合わせて、婚約は破棄と致しましょう」
分厚い書類を叩き付け、場に不釣り合いな満面の笑みを浮かべる目の前の男は何を言っているのか。
ラウラの理解が及ぶ頃にはすっかり話も終盤で、後は各々サインを記すのみ。少しでもラウラに非があれば直ぐ様破棄できるよう準備していたのではと疑いたくなる程の早業だった。
こうして新しい伯爵様は、ラウラをバッサリ切り捨てたのだった。
ふわり。
不意に眼前を横切った青い蝶が、過去の記憶へ囚われていたラウラの意識を引き戻す。早くその手を取らなくてはと震える左手を叱咤したところで、背後より声が掛かった。
「震えてるじゃないか、騎士とあろうものが何をしているんですか」
新たな人物の登場に、ラウラはびくりと肩を震わせた。
「何って、ぶつかって転ばせてしまったから手を貸そうとしているだけさ」
「それにしては怯えられているようですが」
しばし沈黙が場を支配するも、最初にぶつかった、どうやら騎士らしい男が盛大な溜め息をひとつ吐き、両手をヒラヒラとさせる。
「そんなに疑うならそっちが責任持って面倒見てくれ」
そのままクルリと踵を返し去っていく。
わたくしがさっさと動けないから迷惑を掛けてしまったわ。
男の背中を見送りながら、ライラは少しだけ落ち込んだ。同時に、助けて貰ったお礼と帰り道を今度こそ尋ねなくてはと奮起する。
「あの、ありがとうございました」
壁に手をつき立ち上がりながら振り返ったラウラは、喉の奥で小さな悲鳴を呑み込んだ。声の感じからして、てっきり物腰の柔らかな若い男性とばかり思っていたけれど、そこにいたのは如何にも怪しげな人物だった。
まず目についたのは、真っ黒なローブ。足首まであるようで、男の全身をすっぽり包み込んでいる。
そして、目元を覆う真っ黒なマスク。よく見ると小さな宝石が細かく縫い付けられているのか、嫌味でない程度にキラキラと輝き、ともすればお洒落に見えなくもない……かもしれない。溶かしたバターのようなブロンドヘアーが差し色になって似合ってはいる。
なかなか見掛けない個性的な出で立ちに、ラウラはちょっぴり腰が引けてしまった。
「いえ、それより怪我はないですか?」
「大丈夫ですわ。あの方がおっしゃったようにぶつかっただけなので」
「えっ!あー、もしかして余計なお世話でしたか」
「……実は少し怖かったので助かりました」
変わった風貌に反して親しみやすい口調。なんともチグハグな印象を受ける。
向かい合った彼はラウラより少し背が高いくらいで、それほど威圧感を感じなかった。というより、他の要素に目がいってしまい、それどころではないというか。
「念のため、治療しておきますね」
治療とは。ラウラが不思議に思って小首を傾げると、仮面の男はおもむろに右手をかざし何事かを呟く。聞いたこともない言語にますます首を傾けようとしたその時、ラウラの全身を青白い光が包み込んだ。
「ふわぁ?!」
ぶわりと風が巻き起こり、次いで、春の日差しのような柔らかい光がラウラを包む。あまりの出来事に、辛うじてスカートを両手で押さえつけたラウラは目を白黒させた。一体何が。
ラウラの混乱を余所に、再び風が駆け抜けていき、程なく通路は元の薄暗さを取り戻した。
「……ごめんなさい」
犯人はしょんぼり項垂れていた。
「回復と洗浄の魔術はあまり得意ではなくて。上手く加減できないこと忘れてました」
あまりに申し訳なさそうに肩を落としていうものだから、ラウラは思わず笑ってしまった。
「わたくしこそ、魔法を拝見したのは初めてで驚き過ぎてしまいました。お恥ずかしいですわ」
クスクス笑いが止まらないラウラをどう思ったのか。顔を上げた男は目元をうっすら赤らめ、惚けたように口を半開きにした。
その後は三秒程で我に返ったらしい。ブンブン首を振ったかと思えば、始めのようにキリッとした佇まいへ戻ってしまい、ラウラは少しだけ残念に思う。
「ところで、こんな入場ゲートのそばでどうしたんです?」
入場ゲートのそば!
明らかに関係者向けの場所と分かり、サッと血の気が引く。
「どうしたというか、その。お恥ずかしながら、お化粧室からの帰り道が分からなくなってしまって」
許しを請うように、おずおずとチケットを差し出す。席番が記されているそれを受け取った男はふむふむ頷くと「確かに脇道は入り組んでるもんなあ、ここ」と囁きチケットに細く息を吹き掛けた。
すると、どうだろう。なんとチケットは美しい蝶へと姿を変え、ラウラの鼻先をヒラヒラと舞った。
「……すごい」
先程は突然の出来事に驚いて碌に見れなかったが、今回は違う。ただの紙が金粉をまぶしたような煌めきの中で勝手に折り畳まれ、くるりと回ったかと思えば蝶になっていた。ふわりと羽ばたく度に、煌めきの残滓が空へ溶ける。
「すごいわ、なんて綺麗なのかしら」
おもむろに手を伸ばせば指先にふんわり。よく観察してみるとチケットだった名残か、縁を飾っていた模様がそのまま羽の模様になっている。
すごいすごいと繰り返される度、男がもぞもぞと体を揺すっていることにラウラはちっとも気付かない。
長めの横髪に隠れた耳が真っ赤になった時、ついに耐えきれなくなったのか、男はごほんとわざとらしい咳払いをした。
「席まで案内するよう命じてあるので、これでもう大丈夫じゃないかと」
「すごい……そのようなこともできるのですか」
「このくらい簡単にできますよ」
「まあ!とても凄いお方でしたのね!」
淑女教育で培ったはずの微笑みや美辞麗句は彼方へ消し飛び、幼子のようにすごいすごいすごいとはしゃぐラウラ。その瞳はキラキラと輝いている。
真正面からそれを浴びてしまった男は、心臓に鋭い痛みが走った。早く独りになりたい焦燥と離れがたい衝動で酷く苦しい。このまま彼女のペースでいてはまずいことになるぞ。
「申し訳ないが、もうすぐ出番が来るのでここで失礼させてください」
男は強い意志で別れの言葉を切り出した。
蝶に夢中になっていたラウラは目をぱちり、ぱちり。
「こんなにも素敵な魔法を使われるのに、騎士様でしたの?剣も扱えるなんてますます凄いお方……これからご勇姿を拝見できるなんて、とっても楽しみですわ」
応援しておりますと武勇を祈ったラウラは蝶に導かれ、足早に去っていった。
ぽつんとその場に残された男は、ぐえええと蛙のような呻き声を上げ「勘弁してくれ……」と啜り泣いた。仮面があって良かった。
◇◆◇◆◇
席に着くと、ひときわ大きく羽ばたいた蝶は再びチケットへ姿を変えた。それを目にしたリリスは何かを察したらしく「次は絶対付いていくからね」とジト目で釘を刺す。ラウラが縮こまりながら謝罪を口にしつつ経緯を話そうとしたところ、いよいよ第一試合の始まりを知らせるファンファーレが会場に響き渡る。
所属先と名前を高々と呼ばれ、右手の入場口から現れたのは、先程ぶつかった男性だった。舞台に上がるや腰に佩いた長剣を抜き放ち、厳しい表情で相手の入場を待っている。
「あっ、あの方!道に迷った時にあの方とぶつかってしまって……」
「ええっ!怪我はなかった?」
がしりと両肩を捕まれたラウラは慌てて説明しようとするも、次の入場者に目を奪われる。
『今年こそ白星を上げられるのか?!!マスク・ザ・ノワールゥウウウウ!!!!!』
先の入場とは比べ物にならない程の黄色い歓声に出迎えられたのは、真っ黒な出で立ちに特徴的なマスク、バターブロンドの彼。
バサリとローブを脱ぎ捨てたマスク・ザ・ノワールは、細身の剣を携えていた。黒いレザーアーマーを身に付けているが、金属製のがっしりした装備の相手と比べると何となく頼りない。ラウラは大丈夫かしらとハラハラしてしまう。
「怪我はないわ。あちらの仮面のお方、マスクザノワール?様が治してくださって、おまけに席まで導いてくれる蝶の魔法もかけてくださったの」
「ふーん、あの男がねぇ」
どこか知ったような口振りに有名な方なのかしらと思うも、周囲の声が疑問を解消した。
「まあ、今年も仮面を付けて出場されてらっしゃるのね。『お顔のよろしいあのお方』は」
「嫌だわ、傷でも付いたら。大人しく本職の研究だけなさっていればよろしいのに」
「ふふふ、そうしたら滅多にお姿を見れなくなってしまうじゃない。お相手が棄権でもしてくれることを祈りましょうよ」
ラウラはびっくりしてしまった。令嬢達の不躾な物言いもそうだが、リリスが舌打ちをしたからだ。
唖然としていると、それに気が付いたリリスはわたわたとし始めた。ぱっちりした瞳を潤ませて「あわわあわわ」と言いながら慌てている。
いつものリリスだわと安心したラウラが大きく息を吐くと、余計にショックを受けたらしい。捲し立てるように弁明を始めた。
「ごめんなさい、ああ言った手合いが苦手で。『お顔のよろしいあのお方』っていうのは、顔だけは良い男って意味なのよ。初出場の大会では仮面なんてしていなかったから。そんな気はないのでしょうけど、随分な蔑称だわ」
苦虫を噛み潰したようなリリスによると、どうやら仮面の下は大変麗しいお顔であるらしい。ラウラはしばし思い返す。
確かに露になっていた目元はリリスのようにぱっちりとしていたし、髪はツヤツヤのサラサラ、輪郭はすっきりとしていたような。よく見ていなかったので自信はないけれど、言われてみれば整った顔立ちをしていたような気がしてくる。だとしても。
「……酷い侮辱ね」
ラウラがそっと顔をしかめたと同時に、試合開始の合図が鳴り響いた。
試合はしばらく一方的な展開が続いた。
大柄でロングソードを扱う男、ロイドがリーチを活かして攻めかかり、マスク・ザ・ノワールは紙一重の回避を繰り返す。素人目にはいつ当たっても可笑しくない動きに見えるので、一振毎にラウラはぴゃっと竦み上がった。しかし、決して目は逸らさず勝利を祈っている。
周囲の令嬢達は、ロイドが剣を振るえば「イヤァ!」「ヤメテー!」「お顔さまー!」と叫び出し、それをマスク・ザ・ノワールがひらりと避ければ今度は野太いブーイングが止まらない。ほとんどの見物客は激しい打ち合いをご所望なのだ。
ちなみにリリスは腕を組んでじーっと眺めている。時折「そこっ、よし!」「良い足裁き……腕を上げたようね」などと呟き、熟練の顧問のような風格を漂わせていた。
かれこれ三十合程打ち合っただろうか。
ロイドが呼吸を整えようと僅かに剣を揺らした隙を仮面の男は見逃さなかった。深く低い姿勢で間合いに踏み込み、今日一番のスピードで鋭く突き上げる。
『~ッ勝者、マスク・ザ・ノワールゥウウウウ!!!!!』
一瞬の静寂の後、ワッと場内が沸いた。
ラウラとリリスも手を取り合って立ち上がり、興奮を分かち合う。
「っすごい!すごいすごいすごい!すごいわ!!」
「そうね、本当にそのとおりよ!五年目にして初の勝利なのよ!」
きゃあきゃあはしゃぐラウラ達とは対照的に、マスク・ザ・ノワールは静かに剣を下ろした。そして、近くでなければ分からないくらいの軽い動作で辺りを見渡した。
なんとなく、その双眸がラウラ達を見つけ、ぴたりと止まったように感じる。どきりとラウラの胸が高鳴ったと同時に男はニカッと歯を見せて笑い、拳を高く突き上げた。
爆発したような大歓声。
すると入場口が実際に爆発し、謎の黒いローブ集団が押し寄せた。あっという間にマスク・ザ・ノワールを担ぎ上げ、わっしょいわっしょい。おおよそ人間業とは思えぬ高さで宙を舞うのに合わせて花火もバンバンバン。まるで優勝したかのようなお祭り騒ぎだ。
それらをぽかんと眺めていると、一組の男女が客席から舞い降りた。すごい、魔法かしら。大聖堂の天井画に描かれた天使降臨もかくやという神秘的な様。特に男性の容姿が抜群に良い。魔法を行使した故であろう数多の煌めきが一層神々しさを演出している。
馬鹿騒ぎしていた集団もそれを見るや不自然に動きを止め、いまや会場は嘘のように静まり返っていた。
「喜ばしい気持ちは分かるけど、みんなやり過ぎかな」
それほど大きな声でもないのによく通る。
にっこり微笑んだ彼が右手を一振りするや、煌めきに包まれる瓦礫の山。瞬きの間に、崩壊した入場口はすっかり元通りになった。
そして今度は一分の隙なく髪を結い上げている女性が左手の人差し指を突きつけたかと思えば、直ったばかりのゲートを指差す。
無言のそれに、ローブの集団は確かに震え上がり我先にと走り出した。
お騒がせして申し訳ない、と口にしてゲートを直した男性が対戦者二人の手を取り掲げると、会場は再び熱狂に包まれた。ラウラもリリスも力一杯拍手を贈る。
「……わたくし、すっかり仮面のお方のファンになってしまったかも」
ぽつりとこぼれた呟きにリリスはにっこり笑顔を返す。
「もっとお話してみたくなった?」
「……いいえ、活躍を拝見できればそれで。とっても勇気をもらえたの」
圧倒的不利な状況にも関わらず、反撃の好機まで耐え忍び、鮮やかに勝利を収めた姿にラウラは泣きそうになっていた。自分は早々に折れて諦めてしまったから。
「それにお話なんて無理よ、お名前さえ知らないもの」
恥じらうように目を伏せたラウラに、リリスはますます笑みを深める。ようやく落ち込んでいた友人を喜ばせることができそうだ、と。そしてあのクソ野郎……げふんげふん。元婚約者なんかさっさと忘れて幸せになってほしいとも。
「大丈夫よ、だって私の二番目の兄だもの」
よほど驚いたのか、ラウラはぴしりと固まってしまった。
「次は我が家でお茶会しましょ。レオ兄様も呼んで、ね」
唖然としていたラウラはぎこちなく頷いた。それを見たリリスは、後で念押しの手紙を送ろうと心に決める。夢だと思われたら堪らない。
こうして初めての大会観戦は幕を降ろした。
惜しむらくは、その後の試合がさっぱりラウラの記憶に残らなかったことだった。