21 ヘビとカエルと
朝、私とシルヴィオ殿下は昨日と同じように、迎賓宮への道を歩いていた。後宮探検は無事王太子殿下の許可をもらえたらしい。昨夜王太子殿下は夜遅くまで思政宮で仕事をしていて、シルヴィオ殿下は執務室まで許可をとりに行ったのだそうだ。お疲れさまです。
「ベルナルドもいたよ。忙しそうだった」
「そうですか。シャテルナが来ている間は仕方ないかもしれませんね」
ちゃんと眠っているだろうか。忙しいと義兄は睡眠時間を削る傾向にあるのだ。忙しい時の義兄はすぐわかる。夕食の席には座るのだが、食べるのが早くなるのだ。そして、執務室にこもって遅くまで明かりが点いている。私は夕食時にそんな義兄を見ると気になってしまって、夜中にメイドに頼んで安眠効果のあるお茶を用意してもらうのが常だった。もちろん自分で飲むのではない、義兄の執務室に持っていくのだ。メイドに行かせても義兄には効果がないが、私が持っていくと困ったような顔をしつつ、寝ると約束してくれる。そんなお義兄さまの顔を思い浮かべていたら、応接室で目を思いっきりそらされた瞬間がよみがえって、胸がずきんと痛んだ。まだ怒っているだろうか。もう随分会ってない気がするけど、まだ二日もたってないのだ。
そんなことを考えながら、殿下と歩きつつ思政宮の近くまで来ると、やはり官吏の姿がちらほら目に入った。昨日と違って驚かれることはなかったが、やたら微笑みかけられる。女性(私である)をエスコートして歩く王子に、成長を感じているのだろうか。
「殿下は王宮の方々に愛されてますね」
「え、なんで?」
「だって皆さま、こちらを見て微笑むじゃないですか」
「そういえば……なんでだろう」
殿下が周りを見渡すと、官吏のひとりと目があったらしい。やはり微笑みかけられてから、礼をとられてすれ違った。
「殿下の成長を喜ばしく思っているのでは」
「歩いてるだけなのに?」
「私をエスコートしてるからではないですか」
小さな王子が女性を連れて歩いているのは、微笑ましいだろう。
しかし殿下は急に渋い顔になった。
「……なんかちょっと嫌な予感がしてきた」
なんでですか。失礼な。
「あ!いや!アンジェリカ嬢が嫌なわけでは」
「いえ、いいですよ。リュシィ様に代わってもらいましょうか」
「な!ななな、何言って」
真っ赤である。
「すみません、少しからかいました」
笑いながら言うと、殿下は口をぱくぱくさせた後、ぷいっとそっぽを向いた。かわいいな。
そっぽを向きつつ顔は真っ赤なので、少し冷ました方がいいと遠回りを提案すると、殿下は黙って進路を変えた。素直。これで迎賓宮に着くまでには冷めるだろう。そんな私たちを、やはり通りがかった官吏たちが温かい目で見ているのだった。
迎賓宮に着くと、侍女に庭に案内された。王妃様のお茶会の時に使った庭ではなく、別の小さな庭だった。白いレースの傘が広げられた下に、お茶の用意がされている。
『やあ、こんにちは』
そして笑顔のフィリップ殿下。何故いる。
「こ、こんにちは、フィリップ殿下」
シルヴィオ殿下はちょっとどもった。
『ごきげんよう、フィリップ殿下。私はアンジェリカ・ファルネーゼと申します。リュシエンヌ様と親しくさせていただいて嬉しいですわ。通詞は私が勤めさせていただきます』
『こちらこそ、妹と仲良くしてくれて嬉しいよ。君の兄上には随分世話になっているし』
まあ、お義兄さまと兄妹という事も知ってますよね。血がつながってないことは知らないかもしれないけど。
『フィリップ殿下は、今日は視察ではなかったのですか?』
『ああ、市中を見に行く予定だったんだが、昨日大分遅くなったからね。今日は午後からにしたんだよ』
『そうなんですか』
『そんなわけで、君たちのお茶会に私も参加させてくれるかな』
まさかの皇子殿下飛び入り参加。私は構いませんが、シルヴィオ殿下がすっかり固くなっている。リュシィ様の兄ということで緊張しているのだろうか。うかつにからかうんじゃなかったかも。
『急にこっちに参加する何て言うんだもの。びっくりしたでしょう、ごめんなさい』
文句を言いつつ、リュシィ様は嬉しそうだ。昨日は大分兄君の事を悪く言っていたが、構ってくれない寂しさから来ていたのだろう。
『助力を申し出た以上、ふさわしいか確認しないといけないからね』
『何のこと?お兄様』
『独り言だよ』
独り言ですか。なら訳しませんけど。ふさわしいか、っておっしゃいましたね。この面子で誰が誰にふさわしいかって、ひとつしかない。この人有能そうだし、侍女たちから昨日の様子とかすでに聞いているんだろう。これはシルヴィオ殿下、試練です。
フィリップ殿下は、訳さずに黙っている私を見て、にやりとした。『やはり惜しいな』と小さくつぶやく。こっちの意味は分からないけど。藪はつつきたくないので無視。
私が訳さないので怪訝な顔をしていたシルヴィオ殿下だが、何と言ったのか問いただしはしなかった。その様子をフィリップ殿下がじっと見て、その視線にシルヴィオ殿下はちょっと怯む。ヘビに睨まれたカエルか。フィリップ殿下がまた、にやりと笑った。いじめっ子の気配。そして、フィリップ殿下は私をちらりと見てから口を開いた。はい、訳せってことですね。
『シルヴィオ殿下も、うちのお転婆と仲良くしてくれてありがとう』
「あ、はい」
『おや、お転婆だとは思ってるんだね』
「えっ!いや!思ってないです!全然!」
フィリップ殿下、大人げないです。
『うちのは甘やかされて育ったからね、君には荷が重いかもしれないな』
「そんな、ことは」
『ああもちろん、友人としての話だけど』
「あ、はい」
『末永く友人として仲良くしてくれるとうれしいよ』
「はい……」
いじめっ子だ。これは確信犯のいじめっ子だ。リュシィ様がはらはらした様子で二人を交互に見ている。
『貿易が軌道に乗っても、遠い事には変わりないし、なかなかこちらには来れないだろうけど』
「えっ」
『リュシィは父が大事にしてるからね。外に出したがらないんだ。今回は特別だよ』
「そうなん、ですか……」
『まあ、そのうち国内の貴族と婚約するんじゃないかな』
「……」
言いたいことは言ったとばかりに、フィリップ殿下は涼しい顔でお茶を飲む。シルヴィオ殿下は絶句してるし、リュシィ様もしょぼんとしてしまった。どうしてくれる、この空気。
「あの!」
シルヴィオ殿下が顔を上げた。
「なら、僕がそちらに行ってもいいですか?」
『……君が?』
「リュシエンヌ皇女が来れないなら、僕が行きます。船に乗せていただけませんか」
殿下!よくぞ言いました!
「シャテル語も覚えます。ご迷惑にならないようにしますから」
強いまなざしで前を向くシルヴィオ殿下はかっこよかった。リュシィ様が頬を染めて小さくシルヴィオ殿下の名をつぶやく。フィリップ殿下はしばし瞠目していたが、頬をゆるめて『いいね』とつぶやいた。
『考えておこう』
「ありがとうございます」
ほっとした様子のシルヴィオ殿下とリュシィ様を見て、フィリップ殿下はくすくすと笑った。その様子は、けっこう機嫌がよさそうだ。よかったですね、シルヴィオ殿下。
とりあえずひと段落、と言う雰囲気で、みんなでお茶に手を伸ばした。お菓子の味なんかを当たり障りなく話して、先ほどまでの緊張感が和らぐ。
『そう言えばアンジェリカ嬢は、兄君と婚約してるんだってね』
おっとヘビがこっちに来た。
『はい、義兄から聞きましたか』
『えっ!どういうこと?』
リュシィ様が驚いた。そう言えば言ってなかったかもしれない。
『義兄とは血が繋がってないのです。もともと父が嫡子とするために養子にしたのが義兄で』
『えっと、じゃあ、公爵家の血が流れてるのはアンジェの方だけってこと?』
『そうなりますね。まあ、後継に混乱が起きないようにと結ばれた婚約なので、私としては義兄には好きな人と結婚して欲しいと思っているのですが』
――んゴホッ!
『やだお兄様!』
どうしたフィリップ殿下。殿下が飲んでいたお茶を吹き出したのだ。かろうじて、顔はテーブルの外に向けたのでテーブルは濡れてないけど。庭でよかった。何度かゴホッゴホッと咳をくり返す殿下の背を、近寄ってきた侍女がさする。冷静ですね。
『お兄様、大丈夫?もう、どうしたのよ』
『いや……ごほっ、あまりに不憫で』
不憫て。誰が。