(1/2)
***Sub New( その手を引いて )
古今東西老若男女、今も昔も洋の東西を問わず、老いも若きも男も女も、あらゆる時間、あらゆる場所、あらゆる関係性の中で『イジメ』と言うものは無くならない。
まるでそれこそが『人間』なのだと言わんばかりに、ソレは人と人の間に巣食っている。
特に、小中学校という環境では顕著だ。小学校高学年から中学の一、二年生までの間にただの一度もイジメに関らず過ごす人間は全体の一割にも満たないと言う話しもあるほどだから、それがいかにありふれた日常であるかは推して量らなくても明白だ。
とは言うものの、そこから抜け出すのは、実はそう難しいことではなかったりする。
加害者であるならば、謝って手を引けばいい。
傍観者ならば、そっと手を差し伸べればいい。
被害者だったなら、ただ助けを求めればいい。
けれど、
『助けを求める』
という行為は、弱々しさや情けなさを自他共に感じさせてしまうモノだ。
故こそ、それは大きな勇気が必要になる。恥ずかしいだとかそういう感情的な意味でももちろんそうだし、多分本能的な意味でも同様だろう。弱さを他者に見せることには大きなリスクが伴う。
だから「弱さを他人に知らせる強さ」を手に入れることが助求の声を発するための第一歩になる。
でも、これがどうしてなかなか難しい。
……難しいとは思えない人も、居るかもしれない。それは誇るべきことだと思う、必要な強さを持っている証拠だから。
でもやっぱり、強く在れない者も居る。
助けて欲しい、この手を引いて、救い出して欲しい。
そんな言葉が胸の内にのみ響いて、外には出ていかない。
運が良ければ、そうして耐えているうちに解決……まではいかなくとも有耶無耶の内になりを潜めることはある。そういう意味で、私はやっぱり、今も昔も悪運だけは強かったということだろう。
『彼女』もそんな、一縷の光を待ち続けていたに違いない。
「誰か助けて。ワタシの、手を引いて……」
そんな言葉を胸に秘めて。
──その日、私は【ヒキコさん】に遭遇した。
「………………」
眼前に佇むソレを、私は呆然と見上げる事しか出来ない。
人……女性の形を辛うじてしているが、どうみても人間ではない。
まず二メートルもかくやという異常な上背である。覆いかぶさる様にして至近からこちらを見下ろす姿には異常な圧迫感があり、梅雨明け後のやたらぬるい雨を、それを滴らせている淀んだ空ごと背負っているのではという錯覚を起こさせた。
目じりと口角が左右ともこめかみ付近まで、カッターか何かで無理やり切り開いたかのように裂けていて、零れ落ちそうな眼球は血走りすぎて白い部分が無い。唾液と思われるいやに粘性の高そうな液体でぬらぬらとした口もとには、明らかに虫の羽やら足やらと思われるものがこびり付いていて、虫嫌いの私は見るだけで鳥肌が止まらない。
女性型の幽霊や妖怪達のマジョリティーに反して、長い前髪などで隠されていない貌様は間違いなく異形のそれだが、私はなぜかそこに、恐怖や憎悪と言うよりは痛切な印象を感じていた。
***Sub 1( ヒキコさん )
七月も初週が終わろうと言う週末。
昼夜の平均気温はじわじわ上昇して季節の移ろいを感じさせるのに、波に揺られてたゆたう昆布みたいに、高気圧にあおられて上下する梅雨前線はなかなか本州上を去ってくれない。
おかげで日々の不快指数は正の二次関数グラフみたいに、日付を追うごとに急上昇している。湿度はすっかり飽和状態になってしまって気化熱による涼も期待できず、早くも酷使され始めた各家庭の除湿装置は際限なく入り込んでくる湿気の量に圧されて、そろそろ自分が除湿機なのかそれとも蒸留器なのかという哲学の路を開き始める頃だろう。家電に愛だの知恵だのがあれば、だけれど。
そんな時分。
私はと言えば、普段の五割増でヒキコモリになっている。
先月の反省を踏まえ、最低限必要な用事は下校時に済ませるように心がけた。おかげで夕飯の材料調達のために夜出歩かなければならないような事態に陥ることはなく、ここ二週間ばかりは学校から帰宅後一歩も外へ出ない生活をつつがなく継続中。イオの神楽鈴を振り回すかのような小煩い説教染みた文句が日々絶えないことに眼を瞑れば──耳を塞げば、それなりに快適な怠惰なる毎日だった。
だから、すっかり油断していた。
或いは心の何処かで高を括っていたのかもしれない。──夜出歩かなければ問題ないと。
姿自体は、実はかなり距離がある段階で確認できていた。
見咎めた段階で速やかに踵を返していれば、今日も平和に過ごせていたかもしれない。柄にも無く、中途半端に顔を出してしまった好奇心が私の足を止めてしまった。
私の生活圏たる百年桜市北東部には市の外周を沿うように川が流れている──というよりはその大部分がそのまま市境線として機能している。
必要な買い物は出来る限り通学路上にある商店で済ませたいところだが、どうしてもそろわないものは間々出てくる。そんな時によく利用するスーパーからの帰り道に、私はいつも川沿いの土手の上に敷かれた小道を歩くことにしている。
その道を利用すると、実は少し遠回りになるのだが、周りに高い建物が殆ど無い河川敷と言うこともあって見晴らしがよく、私の気に入りの散歩コースなのだ。
連日の雨で水かさの増した川を土手の上から眺めていたときに、私は『ソレ』を見つけた。
最初は見間違いかと思った。
何せ、殆ど氾濫寸前にすら見える濁った川のすぐ横を人が走っていたのだから。
しかもなにやら大きな袋のようなものを引きずっていて、しかもそれが重たい所為なのか身体を殆ど横向きにして蟹歩きならぬ蟹走りとでも言うような状態なのだ。そんな状態であるにもかかわらず、遠目に見ても判るくらいにかなりのスピードで猛進しているのだから、この時点でもう明らかに異常だった。
だから異常だと気づいた時点で、私は視なかったことにして即刻回れ右をし、ダッシュで逃げるべきだったのだ。そうしなかったのは、やっぱり迂闊だったとしか言いようがない。
──なんだ、あれ?
と、意識せずに漏れてしまった声は雨や川の音、そして距離も相当あったため『ソレ』には絶対届かないはずだった。
……のだけれど、まるではっきりと聞こえたかのようなタイミングで『ソレ』は猛走する足をぴたりと止めて、ぐるりと顔を振り向けたのだ。
まっすぐ、私の方へ。
やばい。
そう思って踵を返したのと『ソレ』が猛然と土手を駆け上がり始めたのはほぼ同時だった。
「ちょっと、待ちなさい!」
定位置たる私の右肩付近でイオがそんなことを叫ぶ。無茶を言うな。
もう少しおとなしそうに見えたなら、まだそれがどんな存在か見極めるくらいの余裕は提供できたかもしれない、が、あんな超アグレッシブそうな存在を前に悠然と構えていられるほど、私の腰は軽量化されていない。
正直なところ、私自身走り出した時点でもうだいぶ手遅れだったことを迫りくる気配──というか漫画なら確実に『ドドドドド』みたいな擬音語が付けられそうなすごい足音──でひっしと感じていたくらいである。むしろ「よくぞ踏みとどまった」と褒めて欲しいくらいだった。
「いや、だからそういうことじゃなくって、あれはっ──」
とイオが何かを言いかけたところで、私は丁度土手を降り切っていた。そして、
──ドシャリ
という重たい肉の塊が落ちてきたような音が聞こえた。
前から。
………………。
そこには見上げんばかりの大女が立ちはだかっていた。続けてべしゃりと音を鳴らしたのは彼女が持っていた大きな袋……に、遠目には見えていたものだ。ふと目が行って、それが何かわかった瞬間、私は口を押えて思わず呻いた。
人間の、おそらく大きさ的に子供の──死体である。
もっとも、そうだと気づいたのは大女の手に握られているのが人の足の形だったからである。それより先、ずっと引きずられていたであろう部分はズタボロになった大きな肉塊だった。
ところどころ付着している布きれは着ていた服のなれの果てか。腕らしい部分は見つからなかったが、頭だったでろう部分は髪の毛らしきものが付いていてかろうじて判別できた。握りつぶした空き缶を連想するような状態で顔など判別できる状態ではなさそうだったけれど。
というか、まじまじと見ていられず、すぐに目を逸らしたので委細はわからない。
というか、目を逸らした瞬間、大女が逸らした方へ即座に回り込んで来てついでにパーソナルスペースをがっちり踏み抜かれてしまったために身動きができなくなり、それどころではない。
というか──なにこれもう詰んだじゃん。
立ち位置の距離は三十センチ未満。
ほとんど真上にある大女の異貌は瞬きもせず、文字通り真っ赤に充血した目で私を見下ろしている。私はもうその目を見つめ返すくらいしかできない。
流れの滞った沼地のような生臭さが鼻につく。
曇天から滴り落ちてくる水滴が大女の髪を経由して口元を汚していた唾液や虫の残骸を溶かし、重力の手に捕まった端から地面へと引っ張られていく。
結果として少しずつ洗い流されて大女のすっぴんが露わになった。意外なことにずいぶんと若々しい肌質をもっているようだった。口角から頬、目じりからこめかみへ走る裂傷がなければ、もしかすると結構な美貌の持ち主なのかもしれない。
異常なのか正常なのか、こういう、もう自分の能動的な行動が無意味な状況になると私は頭の半分くらいが冷静さを取り戻すらしい。こんな状況にもかかわらず、大女の顔を観察していた私の脳みそ半分はそこに、不自然な感情を見出した。
共感……或いは、同情。
それは人を襲う側に立つ者が持つには少しばかり不可解なものだった。
「………………」
お互い無言の睨み合い、というより見詰め合いが続く。
かなり長い間そうしていたように感じたが、雨脚と己の濡れ具合からして、実際は何分も立っていなかった。というのは後で指摘されてから気づいたことだった。
覗き込むようにして停止していた大女の体がぬらりと動いた。
ついにデッドエンドか!? と身構えかけた私だったが──
大女はそのまま私に対して何をするでもなくゆっくりと踵を返し、そのまま住宅街の方へ先ほどと同じ蟹走りの要領で走り去っていった。
いや、いこうとして──
「えいっ」
「っ!?」
突如横合いから登場した女性──識視さんの投げたナニカに触れたかと思うと、霧か霞にでもなったようにその実態をほどき、そして実にあっけなく消滅してしまった。
……え、なにごと?
「はろはろー! 黎ちゃん、草葉の陰から愛してるー♪」
何キャラだろう。というかいっそ誰だっけ? 草葉の陰からってことは故人かな。存在感が薄いからうっかり名前も顔も忘れちゃったのかもしれない。
「確かに、わたしは表向きには故人よね」
そうでしたね。
それよりも今いったい何が起きたんですか、何をしたんですかと聞くべきだろうか、あれはなんだったのかと聞くのが先かな?
「【ヒキコさん】、ですね」
「正解」
識視さんの解答とイオによる答え合わせが二言で終了した。
これだから天才とチートは。
しかし、【ヒキコさん】? うん、聞いたことがない。
「そうね、伝統的というほどではないけれど、知名度はそこそこある都市伝説よ」
とイオは言うが無尽蔵に近い知識を持つ彼女に「そこそこ」と言わしめる知名度とはどの程度のものなのやら。
「ここ十数年で台頭してきた、かなり新しい現代妖怪なのよ」
そして当然のように知っている識視さん。
もちろん、その程度では知名度に対する疑念は拭えない。この人も基本的に生き字引だから。
「足を持って学校中を引っ張りまわされるっていう、酷いイジメを受けていた女の子が、後に不登校になったり親の虐待を受けたりと紆余曲折の果てに怪異化したもので、雨の日になると街へ彷徨い出てきて気に入った子供を見つけては捕まえて、ズタボロの肉塊になるまで引っ張りまわすんだって」
昔見た心霊特番の受け売りだけどね、と識視さんにしては珍しい注釈を加える。……気を使われたんだろうか。
それは兎も角。
やり口がかなりエグイ妖怪である。
なまじ恐怖と痛みがしばらく継続しそうなあたり、口裂け女より性質が悪い。口裂け女の発生原因は基本的に自己へのコンプレックスだったけれど、【ヒキコさん】とやらは聞く限りイジメや虐待らしい。そういう違いが、行動の凄惨さに響いてくるんだろうか。
何にしても、助かってよかった。そして知らなくてよかった。今の話を知っていたら遭遇していた時にもっとパニくったに違いない。それで下手な行動をして餌食になったのでは目も当てられない。
……あれ?
なんで私助かったんだろう、今さらだけど。
そもそも存在自体の知識がなかったから対策なんて知る由もないし、逃げて追いつかれて棒立ちしていただけだから偶然正解の撃退法が実践できたなんてのも考えにくい。
とすると当然の帰結として思い当たるのはやはり、【ヒキコさん】消滅の直前にタイミングよく出てきた識視さんだ。今回もまた、私は全面的に助けられたということなのだろう。
と思って謝意の視線と言葉を贈ろうとしたのだが。……あれ? なんかイオと識視さんがそろって変な目を向けてくる。その目に宿る感情はどちらも似たり寄ったりだが、イオのイエローダイヤモンド的な瞳から放たれる視線がすごく気にくわない。なにその憐みと慈愛に満ちた視線は、前者はせめて隠しておいてよ。
ふと肩や髪を密やかに濡らしていた雨が遮られる。見るといつの間にか私の後ろに立っていた識視さんが、私の取り落とした傘をさしてくれていた。
一つの傘に二人で入る都合だろうか、そっと優しく私の肩を抱くようにして密着してくる。
……なんだこの無駄にメッセージ性を帯びた立ち居振る舞いは。気温や湿度とは別に不快な生ぬるさを感じるのは私の気のせいだろうか。
「レイ、【ヒキコさん】の撃退法とされている手段は、大きく二つあるわ。一つは鏡を見せること。彼女は自分の醜い姿を見るのを嫌うらしく、そうやって鏡で映してやると逃げ出すそうよ。二つ目は『ひっぱってやるぞ!』と言うこと。きっとトラウマを刺激されるのでしょうね」
なにやら神妙な面持ちでイオがそう説明する。
なるほど聞く限り、どちらも特別意外性のない弱点である。
鏡なんかは都市伝説なんかに限らず怪談から神話に至るまで、あらゆる不思議な話の中でキーアイテムとして取り上げられている物である。逃げ出す理由も女性型の──特に元が年頃の少女だった妖怪であることを考えればいっそ素朴だと言ってもいい。
二つ目に関してもいかにも都市伝説風味がする。そもそも自分の根幹に関る言葉なのだから反応しない方が逆におかしい。聞いただけで逃げ出すほどトラウマになっている行為を自分自身で行使しているという矛盾というか不条理というか、そういうチグハグさもテンプレート的だ。
しかしならなおのこと私がこうして五体満足に立っている理由がよくわからない。
鏡も、それを代用できるような品も持っていないし撃退の合言葉だって発していない。方法を聞く限り、少し離れて身を潜めていたらしい識視さんにも、例え用意があったとしても代行は出来なかったように思える。
──いや、待った。
見たじゃないか、私は。
識視さんが何かを投げつけ、それを受けた【ヒキコさん】が瞬く間に消滅したのを。あれが今イオの説明の中に無かった第三の裏技的なものだったんじゃないのか。
「あぁ、アレはほら、コレよ」
わざわざ伏せていたものだからてっきりもったいぶるのかと思ったのだが、あっさり識視さんが問題の品を見せてくれた。
それは毛糸で編まれた親指大の小さな人形だった。
一見何の変哲も無いように見える。金具や紐でもつければキーホルダーやストラップに出来そうな、手作り感満載の編みぐるみであった。…………というかコレこの間イオに言われて私が作ったやつじゃん。
「そうよ、このために作らせたんだから」
まじで。
絶対その場の思いつきで見たがっただけだと思ってた。
確か、【口裂け女】の件が流れた直後くらいだったはずだ。
どんなきっかけでその話題が出てきたかは忘れたけれど、私が小さいのなら作れると言ったら唐突に「それよ!」とのたまい、今やれ直ぐやれああしろこうしろと、散々横から口を挟んで強引に作らせたのである。そのくせいざ出来上がったら「あぁ、その辺置いといて」という態度だったものだから絶対飽きたものだとばかり思っていた。
「失礼ね、名誉毀損よ。私は『後で見るから、そこへ置いておいて』と言ったのよ?」
大して変わらないよ。言い方か受け取り方のニュアンス誤差範囲だ。
まぁ、そのことはもういい。
それよりも、そんな私が手作りした人形が【ヒキコさん】撃退グッズとして作用するものなのだろうか。
「なんか勘違いしているみたいだけれど、その人形は【ヒキコさん】撃退アイテムじゃぁないわよ?」
……うん? 話が見えない。実際さっきはそれで【ヒキコさん】消え去ったのだ。
「撃退したわけでも、ましてや消滅させたわけでもなくてね、その人形に閉じ込めたのよ、一時的に。その人形は『ヌル』由来の都市伝説を少しの間格納しておけるの」
『ヌル』を?
『ヌル』と言えば、まさにイオが回収の任を持している世界のバグのことで、噂や都市伝説が世界に現界してしまうそもそもの原因のことだ。
と、言うことはもしかして『ヌル』由来の現象はすべてコレで対処できると言うことに? 何か都合が良すぎる気がする。しかも見たままなら投げてあてるだけで作業終了。某ポケットに入れてモンスターを持ち運ぶゲームで似たようなアイテム見た気がする……
「そんなお手軽万能兵器じゃないわよ。ある程度手順を踏まないと格納は失敗するわ」
ちゃんと見ていたわけじゃないけれど、識視さんが使っていたときは特に何かしていたようには見えなかったが……。
「簡単に言えば相手が弱っている状態でないとうまくいかないのよ。例えばさっきみたいに都市伝説が相手なら、その対抗策をちゃんと踏襲してダメージを与えるなり、逃走させるなりしないとだめなわけ」
…………あれ、ますますどっかの怪物捕獲ボールに特徴が似ているような。
そういえばもう今さらだけどなんで識視さんが持ってたの?
「貴女持ってても有効に使えないでしょう、どうせ」
失敬な。
あらかじめ今聞いたことを教わっていればやりようくらいはあるだろう。たぶん。
「本当はそうするつもりだったんだけど、気づいたらもう識視が勝手に持ち去った後だったから。ま、試用という意味でも結果オーライだったわね」
さて、この場合私はどういう切り口で誰にツッコミを入れるべきなのだろうか。
ストーカー規制法という名の投網を打ったらとんでもない大物がかかる気がしてならないのだけれど。とか今さら言っても普段通りなだけで不毛である。しかし私の単なる自意識が過剰でないという弁護のために一つ打ち明けるが、さっきからずっと私は識視さんに後ろから抱きしめられている格好なのである。身動きが取れない。
というわけで、もう言っても仕方がないことはスルーしよう。消去法で、私が今突っ込むべき、聞くべきことは一つだけだ。
なぜ【ヒキコさん】は何もせず去ろうとしたのか。
最初は「気に入った子供を」捕まえるという特性を聞いて、単にそのお眼鏡に適わず済んだだけなのかとも考えたが、人形の効果がこうしててきめんに発揮されたのを見、人形の使用法を聞いた後ではそう無暗に楽観できようはずがない。
つまり、私が無意識にした何かが作用したのか識視さんが密かに何かしていたのか、或いは何がしかの状況が偶然合致した結果なのか。いずれにしろ何かしらの撃退策か回避策が発動したのだ。すでに私の与り知らぬところで解決をみてしまったとはいえ、何も知らないままなのは少々気持ち悪い。今後のための参考になるかもしれない、という珍しい──自分で言うのも何だが──前向きかつ意欲的な気持ちもあった。
だから、私は結構真面目に尋ねた。
だというのに。
「あぁ……うん、そうね。実はまだ言ってないことが、無いではなかったわね」
「大丈夫よ黎ちゃん。これからはずっとわたしがあなたを守っていくから……」
降ってる雨が飴にでもなるのではないかと思うくらい珍しいく歯切れの悪い弁を立てるイオと、たとえ飴が降ろうとも揺るがぬだろう、やたら重たい心のこもった意味の分からないことを言っている識視さん。締め付けが苦しくなってきた。
さておきなんだこの生ぬるい空気は。
「【ヒキコさん】には追い払う方法以外に、襲われない条件というものがあるのよ」
でしょうね。それを訊いてるんだけど?
「撃退法と同じく大きく二つあるわ。一つは、かつて人であった時に自分をイジメていた子供と同じ名前だった場合。まぁでもこれは定説がないから、言っておいてなんだけどこの条件は殆ど無いに等しいわね。だからあなたが該当した条件はもう一つの方よ」
……何故か、やけにもったいぶるイオ。
その理由が判らない私は──そもそもだからこそ尋ねている──怪訝そうな顔をいっそわざとらしく作るべく眉根を寄せて首をかしげる。
「いじめられっこ」
観念したように言ったイオの言葉は簡潔だった。
「過去、或いは現在。他人にイジメを受けたことのある人、受けている人を【ヒキコさん】は襲わないのよ」
………………あぁ、なるほど。
確かに、私は過去にそういう経験がある。
と言っても、昨今のバラエティー番組が面白おかしくセンセーショナルに紹介するような惨たらしい、文字通り劇的なものなんかじゃぁない。
深刻なケガをしないレベルの暴力だったり、物を取られたり、避けられたり、その程度だ。
ジェンダーの堺がまだそれほど顕著じゃなかった時期というのもあって、陰湿になりやすい女子同士のアレソレだったわけでもない。子供同士のふざけ合いが少し行き過ぎたという、それだけのことである。
そりゃあ、当時は辛かったけれど今振り返ってみれば……まぁ、可愛いもの、だなんて言ってやるほど私は聖人君子ではないけれど、世の深刻なそれらの渦中に居るかもしれない人たちのことを思えば、取るに足らないとこだったと言えないでもない。
その経験のおかげで今命拾いしたのだと思えば、いっそ儲けモノだと言ってやろうじゃないか。
積極的に思い出したり話したりしたくないことではあるが、もう過ぎたことだ。私としてはもう後を引いているつもりなどない。
だから──
──識視さん、私の骨格が変形しないうちに、腕をほどいてください。