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どうやら助かったようだ。
『建物の二階には上がれない』という説がそもそも通用するかどうかも不明だったわけだが、どうやら当たりだったらしい。或いは別の要因で助かったのかもしれないがこの際結果が全てだと考えるのを放棄した。
何故かいきなり襲われてしまったので、折角事前に教えてもらった時間稼ぎの対抗策の数々は全くの無駄に終わった。……元々ちゃんと暗記出来ていなかった上に、結局のところ私自身は逃げることすらままならず足手まとい状態だったのはもはや弁明の余地がない。
イオ達には感謝せねばならない。恩着せがましいことを言う性質ではないけれど。
「それにしても、全くヒヤっとしたわよ。レイってば、折角シキミが時間稼いでくれたのにボケっと立ち止まるんだもの」
今居るのは私の部屋だ。
あの後、アパート二階まで退避した私は、生きた心地がしないまま、ふらふらと身体を引きずって自室の二○三号室まで辿り着き、靴を脱ぎ捨ててそのままバスルームへ直行。すっかりずぶ濡れになった衣類を洗濯籠へ放り込み(ここまで来てようやく、自分の服がずぶ濡れの泥だらけになっていることを思い出した)、シャワーを浴び、部屋着に着替えて、お湯を沸かして紅茶を入れ、一口啜ったあたりでようやく落ち着いてきたところである。
いや、だって、識視さんがあんまりにも常人離れした体術を披露するもんだから……
「あの子は最初から常識はずれだったでしょう? 何を今更」
聞き方によっては酷い言い草である。否定はしないが。
「でも、今回ばかりは、シキミが全面的に命の恩人ね。彼女が居なかったらあなた、今頃胴体袈裟斬りにされた挙句、口を耳の所まで引き裂かれた猟奇死体になってアパートの玄関口に転がってたわよ」
…………
そうハッキリと遺体状況を明言しないで欲しい。
「ま、次に逢うときにでも、何かお礼の一つもするのね」
そこは渋る理由も無いし、言われなくてもそのつもりだった。本当に、今回は彼女が居なければ今こうしてお茶を啜っていられなかったのは間違いない。
……あれ?
そういえば傘や買い物袋と一緒に、識視さんを完全にあの場へ置き去りにしたまま私だけ逃げてきてしまってないか?
存在の稀薄さゆえに、すっかり忘れていたがその後彼女はどうしたのだろうか。
私自身もかなり逼迫していた所為もあって、一番の恩人の安否について事ここに来て今更思い至るとは、我ながら薄情者である。
もし万が一のことになっていたらどうし──
「じゃぁ、とりあえず私にもお茶を入れてくれるかな?」
っ!? ──と、熱っ!?
突如、声と共に背後から何者かがしなだれかかって来て、危うくカップを取り落としそうになる。
「おっ、とっ」
慌てて左手を使おうとして、うっかりモロに側面を抑えてしまい、熱さで反射的に手を引っ込めたせいで、今度こそ本当に落しそうになったが、後ろから伸びてきた手が器用に支えてくれて何とか事なきを得た。
「ふふっ、気をつけないと。服の上から熱湯かぶったら大変」
何食わぬ声で言うのは誰あろう識視さんである。いつから居たんですか、と言うのはもはや野暮というものだろう。
左肩にかかる重みに顔を向けると、そりゃあもう間近というか頬が触れる識視さんの顔があった。
近い近い近い。
声を聞き顔を見た途端、現在の状態も正しく認識される。
彼女は二人羽織的要領で私の背中に引っ付き、伸ばした手を傾きかけていたカップに添えていた。
さらによく見ると、裸だった。
…………って、何ですかその格好は。
正確には、身体にバスタオルを一枚巻いている状態なので半裸と言うべきだが、あんまり大差ない。
頬に当たる髪がしっとりしており、シャンプーの香りがかすかに感じられる。
うちにあるシャンプーと同じ香りだ。もしかしてこの人、勝手に人んちでお風呂入ってたのか。
別にダメとは言わないから、せめて一言かけてくれればいいのに。
とかなんとか色々文句は浮かんだが今回ばかりは全部飲み込む。
無事でよかった。
……けど、そういう格好のまま引っ付かれていると同姓とはいえ対処に困るのですが。
身動きできずにドギマギしていると、風呂上り特有の赤らんだ顔を、艶然とした微笑に歪めて面白そうに問うてきた。
「さて問題です。この部屋に帰ってきたとき、玄関のロックを解除したのは誰だったでしょう?」
………………。
そういえば、自分で開けた記憶が無い。
慣れた動作だし、無意識にやったとしてもおかしくはないのだけれど、そう聞かれると自信が無い。
よくよく思い出してみれば、自分の服がびしょ濡れで即洗濯決定状態だったのに気付いたのはバスルームに入ってからなのに、どうして私は帰りついてそちらへ直行したんだっけ?
言われてみると、その辺の行動は自発的にやったというより、何か促されるままに身体を動かしていたような気がする。されるままに服を脱ぎ払い、頭からシャワーを浴びせられて……ん? ちょっと待て。
私が風呂場から出て電気ポッドの電源を入れ、お茶で一息つくまでの間にそんな何分も経っていない。
なのに彼女はシャワーを存分に堪能した直後のような状態で私の背に張り付いている、特別な異性や家族以外にはあまり見せないほうが良さそうな、あられもない格好で。
もしかしてこの人──
「髪、ちゃんと乾かした方がいいよ? 黎ちゃん、髪長いし多いんだから、放っておいたら風邪引くわ。あ、それとも自然乾燥主義? それなら悪いことしちゃったかな」
何のことかと思って目を泳がせると、普段洗面台横で埃を被っているドライヤーが、識視さんの傍らに転がっていること気が付いた。
──────っ!?
自らの髪に手を触れると、さっき出たばかりだというのにすっかり乾いている。
別に自然乾燥主義者で、ドライヤーを当てられたことにショックを受けたわけじゃない。
今の今まで、私は誰かにドライヤーで髪を乾かされていたのに、全く気付かなかったことにショックを受けているのだ。
彼女の気配の無さは良く知っているつもりだったが、まさかこれほどとは。
身の回りのことすら、気付かない内になすがままされるがままになっていたのかと思うとゾッとしない。
悪用したら大概の事は明るみにさせず完遂できそうである。そういうことに自身の力を振るうような人間ではないのだけれど……。
「そうそう、それからアレ、一応拾って来ておいたから。傘も玄関に置いてあるよ」
指されたほうを見ると、さっき捨て置いてきたはずの買い物袋が机の上においてあった。
水溜りに落したのでかなり汚れているが、野菜は洗えば何とかなるだろう。肉もパック入りなので容器が破れたりしていなければ問題ないはずだ。傘も回収しておいてくれたらしい。
重ね重ね、今日は頭も上がらない……と、素直に感謝したいのに、釈然としないのは何でだろう?
「あぁ、でもにんじんだけはダメにしちゃった。ごめんね?」
人参?
確かに買ってきたけど、何故人参だけダメになったんだろう。ことさら衝撃に弱い品でも無いのに。
「あなたの命の恩人その二よ」
と言ったのはイオだ。
人参が命の恩人というのは一体どういうことだろう。半端に韻を踏んでいて語感が寒い駄洒落みたいだ。
「最後の一撃のとき、あなたどうして自分が助かったと思ってるの?」
そういわれてみれば気になる点だ。実際あの時は助かったことに驚いたくらいだった。
問う目を向けると、心得ていたというように、イオはつらつらと説明しだした。
最後の一撃。
目の前で鎌を振り下ろされる瞬間。
あのとき、口裂け女が攻撃を空振りしたのは、その直前で得物を取り落としていたおかげだったらしい。
さすがに自分が駆けつけるのでは間に合わないと悟った識視さんは、丁度手のすぐ届く範囲に転がっていた物を鋭く投擲したのだという。それがたまたま袋から転げ出ていた一本の人参であり、うまい具合に命中したのが、口裂け女の手元だった。
それは人参が砕けてしまうほどの衝撃だったらしく、おかげで効果はしっかりあった。
振りぬきざまに衝撃を与えられ、鎌は手からすっぽ抜けたのだ。
振り下ろす動作を既に始めていた口裂け女は、そのまま空手でもって空を薙いだのだ。
元々鎌のリーチで振るった手は私に届かず、そのまま空振りに終わった。
そういえばあの時、目を開けた直後、硬い衝突音を聞いた気がする。あれは鎌の刃が、地面にぶつかった音だったというわけだ。
なるほど、それなら確かに砕けた人参は、私の命の恩人と呼べる。人じゃないけど。
語感が微妙に滑稽だが、助かったのに変わりは無い。しばらくは人参様を大事に扱うことにしよう。
「それにしても……ふふふっ」
あらましを聞き終えたところで、思い出したように識視さんが笑い出した。
「人参のおかげで、口裂け女から逃れたっていうのも、随分皮肉な話ね……ふふっ」
「ああ、なるほど、確かにそうね」
とイオも同意する。
解っていないのはどうやら私だけらしい。
「口裂け女のルーツの一つに、こういうのがあるのよ。
明治時代に、恋人に会うために山越えをしようと思った女性が、山賊がいるかもしれない山を、女の独り身で歩くのは危険だと想い、丑の刻参りの格好をして手に鎌をもち、口に人参をくわえて山を越えた。
ってね」
…………
そりゃ、確かに山賊も裸足で逃げ出すだろうね。