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百年桜町奇譚〜番外編〜  作者: 桜月黎
SubClass1『口裂け女』
1/5

(1/3)

2011/07/28 大幅改稿。

   ***Sub New( まとめ )***


 人間、本当に欲しい真心ことばがあるときに限って、渇いた心をさらに焼く結果になるような建前ことばを求めてしまうような、妙に不器用なところがある。人に好かれたくて、執拗に自分の容姿を化粧や整形で取り繕う行為なんかはその代表例だろう。

 そんな矛盾に取り憑かれてしまった人ほど、実は己の行いが不毛であることに正確に気付いていたりする。

 知ってはいても認められない、と言う心情もあるだろうし、それ以外に求める方法が判らないというのもあるかもしれない。

 ただ、そんなことを続けていれば必ず何処かで、何かが折れてしまう。

 金属スプーンの根本に少しずつ負荷を掛け続けた結果、ある瞬間にポロリと首が取れてしまうように。



 ──私はその日、口裂け女と遭遇した。



   ***Sub 1( 口裂け女 )***



 六月も半ば、深夜ではないが日が落ちてからしばらく経った頃。私はジトジトと数日前から降り続いている雨の中を歩いていた。

 普段の私なら絶対に部屋から出ない気候と時間である。

 私こと桜月黎は、自他共に認める物臭人間なのだ。

 それがなぜこうして、スカートの裾を湿らせてまで外を出歩いているのかというと、実に単純でツマラナイことだが、冷蔵庫が空だったのだ。

 要するに、夕食に食べるべきものが何もなかったのである。

 連日の雨で登下校以外の外出や、行き帰りの寄り道も殆どせずに居たおかげで、食材のストックが切れていたというわけだ。

 今日も帰りのホームルームが終了した後は、帰宅部選手権で県大会くらいはいけそうなほど可及的速やかに直帰し、部屋で静かに読書へと洒落込んでいた。

 ……のだが、いつの間にか居眠りしていたらしく、気付いた時には完全に日が落ちていた。

 不思議とこういう時、イオは無理に起こしたりしてこない。朝は休日でもたたき起こすくせにだ。


 ちなみにイオと言うのは、今年の春先から、私にくっ憑いている、自称電子を司る妖精である。

 エナメルのように輝く若草色の、ウェーブがかった長い髪。

 新雪のごとき白く、しかし暖かい生命の温もりを感じさせるきめ細やかな肌。計算し尽されたかのような完璧なプロポーション。何かの回路図を思わせる幾何学模様と、音亡き青の雷光を従えた六枚の羽。身にまとう枯草色の衣は、白磁の肢体の胸と腰を最低限に覆うのみ。ともすれば淫靡にすら見えるその格好も、彼女が持つ荘厳で気高い雰囲気を持ってすれば、健康的かつ艶美なドレスにすら見える。

 そして身長約二十センチ弱ほどの小人サイズな姿。

 そんな、現実味の無い──というか完全にファンタジーな彼女はしかし、意外なことに、或いは見た目どおりに、実直真面目で几帳面、規則規律の遵守を美徳とし、物事の白黒をハッキリさせないと気がすまないという、少々神経質な面がある。

 生来怠け者で、衣食住に関してもかなり大雑把な私にとってはある意味最高のパートナーでもあり、同時に一番大きな目の上のたんこぶでもある。



 起き抜けの目でぼんやり暗い部屋を眺めていたところに「おそよう」なんて皮肉気に声をかけてきたイオを憮然と睨め付けつつ立ち上がって部屋に灯りを入れ、時計を見たところ既に夕飯としては少し遅い、と言う領域に片足を突っ込む時間だった。

 空腹というよりは義務感で、何かあっただろうかとキッチンスペースに向かい小さい冷蔵庫を開けた所、見事に空っぽ。

 横目で窓を伝う雨水と遮断しきれずに部屋へ染み込んで来る雨音を確認した私は、早々にこの日の夕食を放棄しようと決めたのだが

 ──その意を聞いたイオに、耳元で十数分ほど、上質な笛をデタラメに吹き鳴らす様な声で喧しい説教を受けることとなる。

 ここ数ヶ月付き合ってきて私もいい加減彼女がこういう点で酷く煩いことが判りきっていた。雨が降っているから、なんて言い訳はもちろん聞かない。

 美声の聞きすぎでメジャーな音楽が雑音に聞こえるようになっては堪らないので仕方なく、私は下校時に使ってまだ水滴の残っていた傘を再び広げて、近所のスーパーへ出かけることにした。


 今はその帰りである。

 手に提げたビニール袋に入っているのはキャベツやら人参やらの適当な野菜と、挽肉の小さいパックだ。

 こう見えて一応独り暮らしであり、手の込んだとこはしないが一応自炊くらいする。

 相当裕福な家庭でなければ学生、それも高校一年生程度の身分での独り暮らしというのは往々にして金銭に余裕など無いのである。

 部屋を出る前に、翌日の朝食やお弁当のことも考えて、二合ほどお米を砥いで炊飯器のスイッチを入れて来た。

 後は買って来た野菜類を適当に切って適当に火を通し、適当に味付けしつつ混ぜ返してやればそれで夕食は事足りる。

 拘りさえしなければ自炊はそれほど難しいものではないのだ。

 ……などと無精な事を考えつつ、波紋の踊る水溜りを避けながらぼんやり歩いていたときだ。

 最初に気づいたのは私ではなかった。


「止まって」


 ボリュームを抑えた、しかし鋭い声をすぐ後ろからかけられ、言葉の意味を理解する前に驚きで足を止めた。

 俯け気味だった顔を上げると『ソレ』にはすぐに気づいた。


 進行方向、二つ先の外灯の下に、人が立っている。


 向こうはまだこちらに気づいていないようだ。

 離れているのでこっちからも相手の仔細は見えないが、その異様さだけは一目で解る。

 今はまだ、夜と言ってもさほど深い時間ではない。だから外に人がいること自体に、不審がる要素はない。

 此処は人通りがそれほど多くない道なので、この時間に他人とすれ違うことは珍しいが、それでも皆無ではない。だからここで他人と遭遇するのは珍しいがおかしくはないのだ。

 だがソレは圧倒的におかしかった。何が、と言われれば挙げる点はいくつかある。


 まず、傘を差していない。


 土砂降りとは言わないが、さすがに傘なしで出歩くには少々雨脚が強い。初夏も近いとはいえこの雨でずぶ濡れになるのは身体に良くないだろう。判っててやってるならソレはそれでやっぱりおかしい。

 第二に、その格好。


 やたらと暑苦しい、真っ赤なコードを着込んでいる。


 色がきついことを除けば、コートそのものは別に変な代物ではないのだが、やはりこの時期に着るものとしては不自然だ。遠目なので絶対とは言い切れないが、どうにもレインコートという感じでもないように見える。

 そして第三に、その顔。

 

 鼻から下をすっぽり覆い隠す、不自然に大きなマスクを着けている。

 

 遠目にも判る、市販されているのか甚だ疑わしい、鮮やかな赤色のマスクで顔の下半分を完全に隠しているのである。

 そんな姿の、──長い黒髪からして恐らく女性と思しき人間が、外灯に照らされた夜道に、顔を俯け、幽然と立っているのである。

 雨の中傘もささずに、だ。ハッキリ言って嫌な予感しかしない。

 私は先日のドッペルゲンガー騒ぎでもって、不本意ではあるが身の危険を察知する能力が結構上がっていると自負している。その私がほぼ断言できるといってもいい、アレに関わると絶対に危険だ、命的な意味で。

 だってあの格好……どう見ても、


「あら? もしかしてあれ、口裂け女じゃない?」


 右肩やや後方辺りから聞こえるのは暢気なイオの声である。

 そんなに悠長に構えられても困る。

 今の言葉と私の思い浮かべたイメージが事実であるなら、そんなご町内の有名人を見かけた、みたいなノリで居ていい事態ではないはずである。

 見間違いか何かであれば良かったのに。ドッペルゲンガーを見た時もそうだったが、人の希望的観測を悉く打ち砕いてくれる自称妖精である。

 しかし今はそんなことを攻めている場合ではない。こういうとき、無力な人間がとるべき行動は一つである。

 三十六計逃げるに如かずっ!

「ちょっ、待ちなさいよ! 折角なんだから接近遭遇なさい。向こうはまだ気づいてないみたいだし」

 ……はぁ? なんて無茶なことを言うんだろう、この自称電子妖精は。私を殺す気ですか貴女は。

「だって都市伝説よ? しかも超大物じゃない。さぁ、デバッグのお時間よ!」

 活き活きとした顔でびしりと前方を指差すイオ。

 それが速やかに今此処で実行できるなら協力しないでもないけど、処理可能なの?

「そんなに射程範囲広かったら、わざわざ貴女にくっ憑いたりしないわよ」

 ………………。

「うん?」

 短い付き合いとはいえ判ることはある。私が何を憂慮しているか判ってて、イオはわざととぼけてる。

「でも遭遇してくれないと、百年桜まで誘き寄せられないじゃない」

 ……言っていることを無謀さを説明しないといけませんか?

 此処から百年桜、およびその威容の鎮座する百年桜公園までは、同じ市内とはいえ徒歩と電車を使って三十分ほどかかる。単に行くだけなら何も難しいことではないが、口裂け女を連れて行くとなると話が違う。

 そもそも話が通じる存在ではないのだから、声をかけて同道願うとかできるはずもない。イオが口裂け女すらも友好的に従わせるナンパ術なり口説き文句なりを持ち合わせていると言うのなら、また話は変わってくるけれど。

「まったく、しようがないわねぇ」

 わがままを言う子供に妥協する母親みたいな声音で言われた。もしかしてさっきの、冗談じゃなかったの?

 どうもこの妖精は人間を少々過大評価している節がある。そりゃ全世界探せば多少の無理難題を華麗にこなせる人も居るだろうが、少なくとも私に出来ることなど殆ど無い。そも、私に何の才能も将来性も無いことを確約してくれたのはイオだったかと記憶しているのですが。

「とはいえこのまま放っておくのも危ないしねぇ……どうしたもんかしら」

 私の抗議やボヤキを無視しつつ、イオはまだぶつぶつと何か言っている。どうしても関わらせるつもりなのか、過去に日本全土で社会現象まで引き起こしたこともある、危険な都市伝説に。

 しかし、今は良い。どちらにしても何の用意も知識も無いこの状況では出来ることなど無い。さっさとこの場を離れることにしよう──

 ────………………。

「……ん、どしたの?」

 固まったまま動かない私を訝ってイオが言う。

 言われなくても一刻も早く立ち退きたいところなのだが。

 行く先へ向けたまま立ち尽くす私の視線を追ったイオはすぐに気づいたようだ。

「あ、あ~、これはまた」

 行く道の途に障害物があれば迂回すればいい。が、どうしても迂回できない、という事態も存在する。例えば──

「レイ、あなた御指名じゃないの?」

 ……目的地で障害物が待ち構えているとか。

 しゃがみ込みたくなった。スカートの裾が濡れるからしないけど。

 そう、今口裂け女らしきモノが立っている外灯のすぐ横に、私の下宿するアパートの門があるのだ。どうやったって、門の前で出くわす。

「どっかで適当に時間つぶして、誰かが代わりに引っかかってくれるの待つ?」

 ……え、誰かが引っかからないと消えないの? あれ。

 イオの意見を採用すれば、まぁ確かに我が身は無事だが、いかんせんソレはちょっと寝覚めが悪い。

 逃げようとしている時点で他人へ押し付けようとしている事と同義だが、万一同じアパートの住人が標的にされたりしたらと、思うとさすがにちょっと罪悪感が湧き上がる。

 特に親しい交流があるわけでもないが、やはり顔見知りが被害者というのは良い気がしない。

 ニュースで遠くの見知らぬ誰かが何人死のうがなんとも思わないのと同じで、単なるエゴでしかないのだけれど。


「裏から忍び込むルート教えよっか?」


 ──っ!?

 唐突に後ろから声がかかって危うく声を出しそうになった。

 振り向く。

 其処に居たのは一つ年上の先輩、だった人、榊識視さかき・しきみさんその人だった。

 一体いつの間に背後に迫っていたのか、全く気づかなかった──これは仕方ないのだが。急に声かけないでくださいよ、びっくりするでしょ。

「急じゃないよ? さっきも声かけたでしょ」

 苦笑気味に言う識視さんである。

 さっき? 今が本日の初エンカウントじゃぁ……あれ?

 言われてみれば、私の足を止めた制止の声はイオのものではなかったかもしれない。

 息を殺してさえいれば目の前に居ても気づけなくなるという異次元的スキルを持つ識視さんであるからして、こっそり背後に立たれても気づかないのはしようがない。でも、声をかけてくれたという事は少なくともその時には普通にそばに居てくれていたのだろう。

 彼女の声が無ければもっと無防備に『口裂け女』の前へ出てしまったことだろう。そんな恩人の存在自体を気づかなかったというのは、確かにちょっと失礼だったかもしれない。

 ただ、一つだけ確認したいことが出てきた。

 ……一体いつから居たんだろう?

 いや、これは単なる確認だ、他意はない。雨の中を散歩中、たまたま買い物帰りの私を見かけて声をかけようとしたところ、前方に異変を見つけて制止してくれたといったところだろうか。

巳祷(みのり)ちゃんに借りた本を、途中で居眠りして取り落とす瞬間はばっちり抑えているわ。動画で」

 ウィンクと共にぐっと親指を立てて見せる識視さん。それ古いですよリアクションが。御歳17歳の元女子高生を自称したいならもう少し若々しい仕草をですね。

 ……じゃなくて。え、動画って言った? なにそれ。

 あまりに堂々としたストーカー行為の暴露にもはや声もでない。というかこういう感じのやり取りもここ最近日常化しつつある。反応したほうが負けなのかもしれない。

「……で、裏から忍び込むルートっていうのは?」

 絶句する私の代わりにイオが訊く。

「文字通りの意味よ」

 そりゃ他の意味に取るには表現が直球過ぎるけど。

 なんでそんな事を知って……あー、もうコレも考えないでおこう。私の精神衛生面を考慮して。

 色んな言いたい事を飲み込み、代わりに出来る限り胡乱な目を向けてみたが、

「こっちよ」

 いっそ見惚れるほどキレイな笑顔でスルーされた。

 仕方なく、言われるまま付いて行こうしたところで気付いた。

 なぜか私は手に傘を持っていなかった。

 そして、つい今さっきまで私が持っていたはずの傘を、何故か識視さんが持っていた。よく見ると識視さんは自分の傘を持っておらず、右肩だけが不自然に濡れている。

 まるで無理やり人の傘の中に入って歩いていたような……。

 さすがに何か言おうかと思ったのだが。

「……っ」

 追って私が振り向いた途端、識視さんが息をつめてすぐ立ち止まったために口を挟むタイミングを逸してしまった。

「あらぁ……」

 イオもなにやら感慨深げに声を漏らす。

 何かと思って二人の視線を追ってみると──


 前方、二つ先の外灯の下に人が立っていた。……あれ?


 傘をささずに、暑苦しい真っ赤なコートを着込み、長い黒髪を無造作にたらし、赤色のマスクで顔半分を覆った、女性らしき人影である。

 試しに振り返って先ほどの外灯へ目を向けると、さっきと変わらぬ姿勢で例の真っ赤な女性は其処に立っていた。

 そしてもう一度目を戻す。

 やっぱり、どう見ても同一人物としか思えない人影が前方に佇んでいる。

 一体どういうことですか、これは。

 ……口裂け女が二人?

 そういえば口裂け女には姉妹がいる、なんて説も聞いたことがあるような無いような。

「そうじゃないみたいね」

「えぇ、多分この口裂け女は単独犯よ」

 私の懸念を否定したのは識視さんで、同意したのはイオだった。

「黎ちゃんがむこう向くと、あっちの口裂け女が消えるのよ」

「やっぱり御指名だったってようね、レイ」

 笑えない冗談だった。

 私に一体どうしろと。お酌でもすれば帰ってくれんの?

「んなわけないでしょう」

 皮肉にマジレスされた。

「まぁ、冗談はともかく確かに困った状況よね……」

 さして困っていなさそうな表情で、仕草だけ思案している風に言うイオ。とはいえ真面目にやれと文句を言うつもりはない。むしろ彼女が本気で思案顔をし始めたほうが状況がヤバイということになるだろうから。

 彼女がまだ平常運転なことに少しだけ安心感を得る。

 一緒にちらと戻ってきたらしい思考力から、適当にアイディアを拾い上げてみる。

 例えば、何か撃退できるような妙案は無いだろうか。こういう致死性の高い都市伝説と言うものは大体後付けで対抗策の噂が色々とついてくる。現実的な話ならば、対抗策の『噂』など噂以上の何物でもない、要するに単なるデマだ。

 だが相手が『都市伝説』ならばデマだってバカにできない。何せ元がデマや根も葉もない噂の産物なのだから。

「ないわよ? そんな都合の良い方法」

 ──え? なんて?

「だから、撃退方法とか、そーいうすぱっと解決できる手段なんて無いんだってば『口裂け女』には」

 その瞬間の私は、様になる仕草で肩をすくめて見せるイオを、モニタ越しの凶悪事件でも見るみたいな眼で見ていたことだろう。事実、現実味が感じられない。

 この物語はフィクションです?

「メタなこと言いたいならそれに見合う大物になってからになさい」

 いやもう、自分から振っておいて難だがそんなことはどうでもいい。

 なんで? 『口裂け女』ほど有名な都市伝説なら対抗策だっていっぱい在るんじゃないの?

「それが問題なのよ」

 口を挟んだのは識視さんだった。

「確かに対抗策といわれる手段は沢山あるわ、全国共通のモノから地方限定のモノまで色々ね。でもちょっと考えてみて? 『口裂け女』といえば古典的な怖い話でしょ? 聞いた人が怖がらないと意味が無い都市伝説なの。対抗策が沢山あって、どうとでもなるような相手なんて怖くないでしょう? つまり……」

 言わんとすることに私も気付いた。

 対抗策への対抗逸話があるっていうことか。

 「コレコレをすれば助かるらしい」という話が生まれても、それが一定以上浸透した段階で「いや実はそれでもダメだった奴が居たらしい」という噂が追従してくるようになるのだ。誰にでも対処可能な脅威は脅威足りえない。怖い話には、それなりの「救いの無さ」が必要なのだ。

「正解」

 くるりと宙を旋回してイオが判ずる。なぞなぞを解いた子供に対する母親みたいな暖かく軽いノリだが、聞いた私は背筋が寒く、気が重くなった。

 明快な対処法が無いとなると、何のとりえも無い私はもはや出来が良いとはお世辞にも言えない二本の足で遁走する以外の選択肢が無い。それで逃げ切れるというなら、無い体力を振り絞るのだってやぶさかではないのだけれど。

「百メートルを六秒くらいで走れれば、もしかしたら逃げ切れるかもね」

 さらりと世界記録更新を進言してくる笑顔が眩しい。

 何。もしかして必至じゃないのこれ。

 私は大いに動揺する。自分が死ぬかもしれない状況を目の前にして落ち着いていられるほど私は達観していない。

 対照的にイオも識視さんも妙に落ち着き払っている。他人事だからなのか、そうだとしたら二人への評価を改めねばなるまい。どちらももっと超然とした人格の持ち主かと思ってたけど、存外俗物なんですね。

「まぁまぁ、落ち着いて黎ちゃん。諦めるのはまだ早いよ?」

 対抗策なしといわれてしまったのに他に何かあるというのだろうか。識視さんが私をせおって百メートル六秒フラットで疾駆してくれるとか?

 やけくそと冗談と皮肉をブレンドして言った私に「それは無理だけど……」と苦笑交じりに識視さんは応えて言を継ぐ。

「対策が無いって言うのは言葉の綾だよ。正確に言うと『決定打』は望めないけど『次善策』ならいくらでもある、て感じかな」

 「ですよね?」と識視さんはイオへ目を向け、その視線で説明を求める。

 引き継いだイオが言うことを端的にまとめるなら、『口裂け女』ほど古く有名な話は確かに弱点に対応する逸話も多いが、やはりそれと同じかそれ以上に弱点も多いから逃げる時間稼ぎくらいならいくらでも方法があるのだそうだ。

 先に言ってよ。うろたえてた私が間抜けじゃないか。

「おろおろする黎ちゃんが可愛くて、つい」

 冗談っぽく舌を出して識視さんはそういったが、私の眼に狂いがなければ心の底から来る発言だった。


 ともかく。

 とりあえず回避は可能らしいと言うことで、早速方法を相談する。あまり長い間雨の中突っ立っているのは身体に悪いし、常に視界の端に死を伴った妖怪が見えていると言うのは精神衛生上にも真によろしくない。

「べっ甲飴とかポマードとか、持ってないの?」

 と最初に発言したのは識視さん。……だが。

 今時分、そんなものを普段から持ち歩いている人のほうが、ある意味妖怪より稀有な人種だと思う。

 百歩譲ってべっ甲飴好きで、いつもカバンに忍ばせているような人が居るにしても、ポマードて……まずその名称を知らない人すら居るんじゃなかろーか。正直私だって良く知らない。整髪料かなにかだっけ?

「だめよ、その弱点は後付けだって説もわりと有名よ? あの口裂け女に効く可能性が未知数だわ」

「じゃぁほら、O型の人は襲われないって言うのは?」

「レイはAB型よ。第一、その説あんまり広くないでしょ」

「百円玉投げたら必死に拾おうとするから、その隙に逃げるって手は? 百円玉なら黎ちゃんの財布に今、三枚あるはずよ」

 なんで知ってんの?

「ソレは福岡限定よ、しかも某レトロゲーム最盛期だからこその説よ。今効くわけないじゃない」

「なら──」

 …………。



 いつの間にやら、私を差し置いて空飛ぶ検索エンジンと人類最強の薄影秀才が、口裂け女対策談義を始めていた。

 一般人程度の知識しかない私にはとてもついていけないので、対策についてはこの二人に任せよう。

 ちらりと様子を伺うと、やはり赤いコートの女は私の向くほうに必ず佇んでいる。

 幸か不幸か、向こうから近づいてこようという気は無いようで、こうして雨の中対策案を議論する余裕はあるらしい。


 手持ち無沙汰になり、なんとなく顔を上げる。

 青空が広がっていた──傘の裏地にプリントされたハリボテだ。デフォルメされてた白い雲などが非常に安っぽいが、その向こう側から降ってくるバラバラという音を聞くのは、案外悪くない。こんな状況でなければ、だけど。

 口裂け女は、大抵の語るところによればこんな風にターゲットを絞って自ら接触の機会を作るような存在では無く、もっと無差別通り魔的な妖怪のはずだ。

 それがこうして故意に、私をターゲッティングしているらしいのは多分、今の私のとある体質が原因だ。

 端的に言えば、ああいう超常的なモノを引き寄せてしまうというものである。

 産まれ付いてのものではない。こんな身体になったのはつい数ヶ月前である。さらに言うなら自然発生した力ではなく、故意に一方的に植えつけられたのだ。

 誰に?

 愚問だ。イオ以外に誰が居るのやら。


 現在、彼女は訳あって所謂『都市伝説』を探し集めている。先ほど彼女が言った『デバッグ』というのがそれだ。

 簡単に説明すれば文字通りバグ修正のことを指すが、この状況で使われたことからも推して知るべし、日夜サラリーマンがデスクに噛り付いて行っている作業とは大分趣が異なる。

 何せ彼女が修正しようというのは『世界のバグ』なのだから。

 世界にはあらゆるバグ──イオが呼称するところの『イクセプション』なるものが沢山存在するらしい。そのうちの一種である『ヌル』というモノが、人々の噂や昔話などを元に具現化することがあるという。

 彼女はそれを探し出し、修正するために現界しているのだそうだ。

 ……不幸なことに、偶然彼女の目に留まる場所に居合わせてしまった私の存在を足掛り(インターフェイス)として。

 ところがそんなことを偉そうに言ったわりに、今こうして私や識視さんと会話しているイオ自身は、己の本来的な役割であるデバッグ作業が行えないらしい。彼女の弁を借りるならイクセプションの存在を精査するための己の機能を一部分離した、アバターのようなものなのだそうだ。

 私が、変なものを誘き寄せやすい体質になったのはつまり、イオのそういう機能に起因する。

 しかしそうなると、精査して発見したものをデバッグ可能な本体のところまで誘導し処理する、という異常に非効率的な手順が必要になる。

 そして肝心の本体とは、この町の中心にそびえる巨樹『百年桜』である──正しくはその地下に幽閉されているらしいが、処理事態は百年桜公園内に入りさえすれば可能なので区別する意味はあまり無い。

 百年桜は、この町百年桜市の文字通り名の由来であり、これ以上無いシンボルである。

 市としては単に重要な観光資源であるというだけだが、高さ一〇〇〇メートルを越すという常識どころか物理法則からも大幅に逸脱している大きさは、あらゆる分野の学者から果てはオカルトマニアまで、多種多様な人々の頭を悩ませ、未だ誰も答えに辿り着けずに居る、巨大なブラックボックスである。

 ゆえにこの樹が、本当に常識はずれな事情の上にそびえているということを知っているのは、この町──どころか世界的に見てもごく稀だろう。

 ちなみに私は、知りたくも無いのに巻き込まれたクチだ。

 結果私は、今年の春からこっち、もうかれこれ二ヶ月以上なかなか気が休まらない。

 先日も、ずいぶんと恐ろしい目に会いつつも何とか生き延びて胸を撫で下ろしたばかりなのだ。

 ハッキリ言ってトラウマものだった。おかげでしばらくの間は、鏡やガラス、水面など、自分の姿が映るもの前に立つのが怖くて仕方が無かった。

 とはいえこれで終わりだと思えばこそ、徐々に忘れていけるだろうと考えて、できるだけ前向きに明日を迎えようとしていたのだが、事が収束したかに見えた日の翌朝、何事も無かったかのようにイオは私を叩き起こしに来た。

 なんで……と、寝起きとは別の要因で呆ける私に彼女は


「これからもよろしくね!」


 なんて事も無げに言ったものだ。

 真に悔しいことに、その時の笑顔ほど美しいものを見た経験が、私には無かった。おかげで邪険にあしらうことも出来ず、有耶無耶のまま日々を過ごしている。

 今思えばソレも一時の迷いであり、ひたすら後悔するばかりだが。

 例えば、今この状況などがそれである。

 六月の雨の夜更けに、道端で、口裂け女対策会議をする。しかもかかっているのはバッチリ自分の命。

 オカルトマニアな方々にとっては垂涎モノの状況かもしれないが、命がかかっている身としてはもうそれどころではない。

 退屈で平凡、でも平和な日々というものがなんだか酷く懐かしい。



「──じゃそういう感じで」

「了解です」

 ……どうやら方針が決まったらしい。というか同じ傘の下で聞いていたのでやることはもう判っている。

 が、だからこそ言わなければならない。

 何せ私の耳がおかしくなったのでなければ決まった作戦の概要はこうだ。


 堂々と横切って追いつかれる前にアパートへ逃げ込もう!


「失礼ね、それじゃあまるで私達が無策みたいな言い草じゃない」

 みたいじゃなくてそう言ったのだ。

「今色々教えたでしょ、口裂け女が怯むと言われている言葉とか。向こうが動き出したら片っ端から試してみるのよ、一つくらい当たりがあるでしょう」

 正直に言います。聞いてませんでした。

「作戦の肝は『口裂け女は建物の二階より上にあがれない』って話だよ。今口裂け女が立っているのは黎ちゃんのアパートのすぐ目の前。この説に賭けてみようと思うの。がんばって逃げ込めば何とかなるわ、もちろん私が全面的にフォローするし」

 私の態度に憮然とする電子妖精と、寡聞などと謙遜しているわりに妙に自信満々の万能秀才。

 よく知らないけど、その逃げ場候補もさっきのべっ甲飴とかと同じで対策案の一説なんじゃないの? ずいぶんと、リスキーじゃございませんか?

 自分は何も考えてないくせに文句を言うのも筋違いかもしれないが、こっちは命がかかっている、できればもっとリスクの低い策が欲しいのだが。

「大丈夫、私が必ず黎ちゃんを守るわ。一度死んだ命、あなたに捧げましょう!」

「………」

 この人の言葉は驚くことに本気であるから、恐ろしくもあり頼もしくもある。……私なんかのために命掛けられるのは、正直なところ居心地が悪いんだけど。

 しかし、このまま此処に突っ立っているわけにも行かないし、もうこの策とも呼べない策に乗るしかない。

 幸か不幸か、ここにいる二人は頭脳プレイをさせたら人類で右に出るものはそうそう居ない、とんでもない存在なのだ。

 頭が世の電子ネットワークに直結しているイオは知識量に関してはまず人類で勝てるものはいないだろうし、識視さんもその頭脳は並じゃない。普通に考えれば彼らの結論よりもベターな意見などありえないのである。


「それじゃ、作戦開始ってことで」

「ふふふ、いいわね。先が読み切れない、ワクワクするわ……まともに生きていたらこんな状況、きっと出会えなかった。うふふふふ」

 不気味に満足そうに笑う識視さん。

 この人はもしかすると、単に自分の娯楽でやっている可能性がある。何せ(表向き)生前、彼女は天才過ぎて何でも出来てしまったがために、いつも何処か退屈そうにしていた節が在る。

 ……だからといって、あまり遊ばれるのも困るんだけど、大丈夫だろうか。

 多少不安が募るが、モタモタしていても仕様がないので、意を決して私は歩を進めることにした。

 やはり、近くまで行かない限り向こうから接触しようという気は無いらしい。恐る恐る近づいていっても口裂け女は今のところピクリとも動かない。

 もしかすると、自分から近づける距離というものが暗黙的にあるのかもしれないが、そんなこと私が知る由も無い。不意に動かれないなら願ったりである。

 近づくにつれて、その様相がよりハッキリ見えてくる。

 大体は遠めで見たときとなんら変わらないが、一点、近づいてみて初めてわかったことがある。

 やたらでかい、背が。

 長い髪や全体的な身体バランスを見ても、やはりそれは女性なのだが、身長がかなりある。私とて背は割合低くない方の人間なのだが、それでも口裂け女の頭は見上げる位置にある。目測できるほど器用ではないが、多分180cm以上はあるんじゃないだろうか。

 真っ赤なコートのポケットに両手をつっこみ、鮮やかな血色のマスクで顔を隠し、長い髪を無造作にたらし、外灯の下で、雨の中傘も差さずに、物憂げに佇む長身の女性。

 『口裂け女』という要素を無理やり思考から追いやって好意的に見てみれば、待てども来ない、恋人を待つ哀れな女性、と見えなくも無い……かもしれない。

 もっとも、今回に限っていえば、亡き恋人でなく私を待っていたわけだが。


 ついに目の前まで来る。

 口裂け女は変わらず微動だにせず佇んだままだ。

「……?」

 目の前といっても二メートル程度離れてはいるが、声をかけるにはもう十分な距離である。にも関わらず、未だに向こうからのアプローチは無い。てっきり声が届くくらいの距離まで来たら有名な定型句「わたし、きれい?」が飛んでくると踏んでいたので、なんとも拍子抜けだ。

 歩をそのまま進めれば、何事も無く通り過ぎる事すらできそうだった。


 そして結局、そのまま通り過ぎてしまった。

 あとはすぐ其処にあるアパートの門扉をくぐり、階段を上ってしまえばめでたくゴールである。

「何にもアクション起こさないわね……ツマンナイ」

 すぐ後ろに居る識視さんがそっと耳打ちする。

 最後の一言が余計だが、実際言葉通りだった。

 さすがに完全に背を向けるほどの度胸は無いので、横目で見える程度に視野を調整しながらじりじりと、佇む赫い女性を迂回するように移動する。

 迂回といってもせいぜい数メートルだが、緊張感も相まってかなり時間がかかったように思えた。

 ようやく、門扉に手が届くところにたどり着く。


 多分、私はそこで安心してしまったのだろう。

 此処まできて何もしてこないなら、きっとさっきまでの不安は杞憂だった、と。そう思って気を抜いた。

 私は、昔から知人によく言われた言葉を、後になって思い出すことになる。


「大抵の事はそつなく手堅いのに、いざというときに、キミは詰めが甘いよね」


 道路とアパートの敷地を跨ぐその瞬間、ずっと目の端に捉えていた紅いコートが一瞬だけ視界から外れた。


 ──ドンッ


 と、背中に衝撃を受けて思い切りつんのめる。

 辛うじて泥の上にダイブすることはなかったが、さっきまで張っていた緊張の糸を思い切り弾かれたせいで、思わず買い物袋を水溜りへ取り落としてしまった。

 何事かと、無理やり姿勢を正して振り返った刹那。


 ──シュカッ!


 眼前を左から右へ、何か光るものが通り過ぎ、遅れて来た鋭い風が、降りしきる雨粒を水平方向に吹き散らした。

 反射的に、通り過ぎた何かの行く先を目で追う。

 アパートのコンクリート塀に、鋭利な金属が根元まで深く突き刺さっていた。

 パッと見で判る、オーソドックスな折りたたみ式のナイフだ。

 次いでそれが飛んできた先に目を向けようとしたところで、


「走ってっ!」


 鋭く放たれた識視さんの声で、私は唐突に状況を理解した。

 普段使わない身体のバネを強く効かせるようにして、飛ぶように踵を返し、そのまま駆け出す。

 水溜りに足を取られそうになって身体と地面が作る角度が狭まる。どうにか転ぶ寸でのところでこらえたが、肝が冷えた。背筋を虫が這い上がるような悪寒に撫でられる。

 そのときまた、さっきまで私がいた空間を外灯の光を反射し、雨粒を散らして尾を描く鈍色の物体が通り過ぎていくのが見えた。

 あまり考えたくは無かったが、その軌道からもう明らかだった。

 なぜだかあの口裂け女は、あろうことかお決まりのセオリー文句すらすっ飛ばして、いきなり得物を投擲してきたのだ。

 一投目は、おそらく識視さんがとっさに逃がしてくれて難を逃れた。

 二投目は、私が転びそうになったおかげで偶然外れただけだ。

 三投目は、もう避けられる要因が思いつかない。

 とにかく、私はもう全力で走る以外できる事がなかった。

 これほど必死になった事が未だかつてあっただろうか。

 先日の『ドッペルゲンガー』のときも、ずいぶん走らされたが、こんなに逼迫してはいなかった。

 とにかく出来うる限り大きく、早く、足を動かす事に集中する。

 この時ばかりは、好んで普段着にロングスカートをチョイスする自分を心底恨めしく思った。

 今まで傘をさしていたとはいえ、長時間外にいたために湿って布も随分重たくなっており、ただでさえアクションに適さないだけに、走りにくいったらありゃしない。


 恥を承知で言うが、このとき私は純粋に我が身可愛さで走っていた。

 さっきまで持っていた買い物袋も、わりと気に入っていた雨傘も無造作に放り捨てていた。

 だからそこで、アパートの上階に向かう階段へ走りながら横目で後ろを伺ったのは、単なる怖いもの見たさと、押さえ切れない恐怖から来る反射行動だった。


 それは自分の正気を疑う光景だった。

 口裂け女は、さっきまで持っていなかったはずの──恐らくあの赤いコートの中に隠していたらしい、農作業などで使う草刈用の鎌を節くれ立った右手に握って振り上げ、いつの間にか取り払ったらしい血色のマスクの下に隠されていた、耳元まで開いた大きな口を広げ、ものすごい鬼気迫る形相でこちらに向かって猛然と追いすがろうとしていた。

 その眼前へ、そよ風のように柔らかく、しかし疾く、私を庇う位置に滑り込んできたのが識視さんだった。

 それを、あたかも邪魔な草を刈り取るように、無造作に、手にした鎌を振り下ろして斬り除けようとする口裂け女。


 何が起こったのか、一瞬わからなかった。


 口裂け女が、手の鎌を振り下ろそうとする初動モーションとして、小さく振りかぶったのを見た次の瞬間には、その手は女の左太腿辺りの位置にあった。鎌の刃が外灯の光を反射して作ったらしい弧状の軌跡が、後から目に飛び込んできたようにすら見えた。

 振りが速いとかいうレベルではない。物理法則に則っているのかすら怪しい異常な動きだった。

 そんな、私の目から見ればどう考えても必殺の一閃を真正面から受けたはずの識視さんは、しかるに無傷だった。

 半身を引いただけの最低限の動きで綺麗にかわしたのだ。

 それどころか、かわす動きの流れを殺さぬままくるりと回りつつ深く身を落し、得物を振りぬいた余韻で姿勢が崩れている口裂け女の懐にもぐりこみ、体をバネのように強く弾いて背中から体当たりするという反撃までやってのけた。

 鉄山靠(てつざんこう)、或いは貼山靠(てんざんこう)と呼ばれる、中国拳法、八極拳の技である──とは後で聞いた事である。

 有名な技だそうで、ゲームをはじめ、色んな創作作品でも多用されるものなのだそうだ。生憎そういうモノには縁が浅いので私は知らなかった。

 驚くべきはその威力だ。

 ゲームや漫画なんかでは、表現が誇張されるのが当たり前なので何の違和感も無いが、打ち込まれた口裂け女が二、三メートルほど吹っ飛ばされて雨粒と共に地面に叩きつけられるのを見せられてはもう絶句するしかない。


 相手が普通の人間なら、百歩譲ってまだ受け入れても良い。識視さんは頭だけでなく身体能力も半端無いのだ。

 だが今回の相手は人間では無い。人の形をしてはいるが、あれは紛う事無く化物である。

 世界と言う名のシステムに巣食う構造欠陥バグ、概念の空隙たる『ヌル』。

 そこに、人々の活きた妄想や空想、その他の混沌とした思惑や感情の入り混じった都市伝説という実体の無い不定形概念が、真空を埋める空気の如く流れ込んで擬似的に世界での存在意味を獲得した、実態のある現代妖怪。

 それは人の意識の産物であるがゆえに、世界の物理法則には反しない。

 しかし、それは極端な不可能現象を起こさない、というだけの意味しかない。例を挙げるなら、光速は超えないが音速は超えられる、とか。

 つまり、都市伝説の内容如何では、物理的に再現可能な限り、いくらでもとんでもない力を発揮する可能性があるということ。

 そして今回は『口裂け女』だ。

 人を殺す、という逸話を持つだけに、その力は人の形としてありえる、最も凶悪な能力を有していてもなんら不思議は無いのである。事実さっき、彼女が振るった鎌は、たとえ並以上の動体視力を持っていたとしても追うことも出来ないだろうモノだった。

 あの節くれ立ったか細い手に、通常では到底出しえないような腕力が秘められていることは、恐らく間違いない。

 識視さんはそんなモンスターの真正面に立ちふさがり、あろうことか反撃して数メートルも弾き返したのだ。

 規格外スペックにもほどがある。

 あまりのことに、私はいつの間にか足を止めていた。


 ──それが、いけなかった。


「何してるのっ!?」

 そう怒鳴ったのは、イオだった。

 その声に気付いた識視さんがハっとしてこちらに顔を向けて叫ぶ。

「っ!? 走ってっ! 早く!」

 そのやり取りは時間にして三秒にも満たず、その動作で生まれる隙は一秒にも満たないが、肝心の私は咄嗟に反応できなかった。


 それで充分だった。


 弾き飛ばされた口裂け女は、跳ね上がるように即座に身を起こし、ロケットスタートなんて目じゃない尋常を打ち破る初速度でもって既に走り出していた。

 真っ直ぐ、私に向かって。

 口裂け女の走力には諸説あるがその中に一つ『日本中に噂の広まった速度』を根拠にしたものがある。それによると、口裂け女は


 ──百メートルを、3秒で走り抜ける。


 識視さんの当身で稼いだ距離が約三メートル、私が先行して走った距離が──驚くべきことにたったの十メートル弱。

 合わせてやっと十メートルいっぱい程度だった。

 その距離をこの口裂け女は──コンマ以下五秒でゼロにした。

 私には、十メートル先で起き上がっていた緋色の女が、瞬間移動して目の前に現れたようにしか見えなかった。


 視界の左上の方に草刈用の鎌が、既に高く掲げられているのが見える。

 そこで唐突に、世界が飴に飲まれたような感覚に陥った。

 視界から色が消えうせ、音が遠のき、自分の身体も含めて、全てがスローモーション映像のように緩慢になる。正常なスピードを維持しているのは意識だけだった。

 焦燥に追い立てられ、まともな思考も出来ないような状態だったはずなのに、奇妙なまでの冷静さが戻ってきている。今なら、あの鎌が振り下ろされる前に、眼前に開かれた耳元まで裂けた大きな口に並ぶ、やたらギザギザした歯の本数まで数えられそうだ。

 ゆっくりと、本当にゆっくりと鎌が後方へ少しだけ引かれる。振り下ろす前動作だ。


「ワ タ シ 、 キ レ イ ?」


 そう、口が動くのを見た。

 答えさせる気が無いくせに、未練がましくまだその質問をするのか。と、状況のわりに理性的な苛立ちを覚える。口と手が動くなら、襲う前に言えとツッコミを入れたいところだ。

 振りかぶる動作が止まる。かと思うと、急に再生速度が戻ったかのように、見慣れた常識的スピードで鎌が振るわれる初動を感じた。

 いや、感覚が戻ったのではない。

 この緩慢な世界で、通常通りのスピードに見えるくらい、その振りが速いのだ。

 思わず私は目を瞑ろうとしたが、そんな所作さえ思うようにいかない。

 あぁ、これは死んだかな、なんて妙に冷静に考える自分がいた。

 死ぬ自分を冷静に俯瞰できることが、果たして冷静な精神状態と言えるのかは、判断に困るところだが。


 ──ブワッ


「…………?」

 世界の時間が元に戻る。

 眼前を何かが通り過ぎ、少し遅れてやってきた鋭い風が私の前髪を吹き散らした。──それだけだった。

 あれ?

 痛みなどは全く何処にも感じない。あの距離で口裂け女が攻撃を外すようにはどうしても思えず、私は戸惑った。


 ──カキンッ


 という音はすぐ足元だ。それとほぼ同時に、

「走ってっ!」

 今度は反応できた。

 とりあえず色んな疑問はその辺に置き去りにして、踵を返す。

 幸い階段まではもう、一、二メートル程度の距離だったので、一歩踏み込んでから、飛び付くようにして足を掛け、一気に駆け上がった。



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