七十三話 夏のある日と禁断の箱③
これまでアレンは、浮ついた話とは無縁で生きてきた。
女にうつつを抜かして研鑽を疎かにする同業者を鼻で笑い、なぜ無駄なエネルギーと貴重な時間を費やすのかと不思議に思った。
だが、いざ自分がその立場になってみて……理解する。
ふとした瞬間に意識する。
作業の手が止まる。思考が完全にストップする。
ほかには何も考えられなくなって、まんじりともできなくなる。
笑ってもらえれば嬉しいし、悲しんでいると胸が張り裂けそうになる。彼女の一挙手一投足がアレンの心を千々にかき乱す。
ゆえに、この感情が何と呼ばれるものなのか、さすがのアレンも察し始めていた。
(やはり、俺はシャーロットのことを……)
これまで結論を先送りにして、見て見ぬ振りを続けてきた。
だがしかし、それももう限界だった。認めてしまえば楽になると、したり顔の誰かが囁く。
禁断の箱はもう目の前だ。
アレンがその箱に、震える手を伸ばしたところで――。
「……ん、アレンさん!」
「うおっ!?」
そこでハッとして顔を上げる。
気付けばシャーロットとルゥが水浴び場に入ったまま、こちらを気遣わしげに見つめていた。
「アレンさん、どうかされましたか? なんだか思い詰めたような顔をしてらっしゃいましたけど……」
「い、いや……問題ない。すこし考え事をしていただけだ」
アレンは誤魔化して笑う。
そしてそのまま、禁断の箱をまた心の奥底にしまい直した。
(このまま……このままが一番いいな)
シャーロットはようやく自分のやりたいことを見つけて、変わりはじめた。
そんな大事なときにアレンができることといえば、そばで見守り、応援することだけだ。
もしもこの感情を自覚してしまえば、アレンはきっと我慢できなくなる。すぐにでもその手をとって、決定的な言葉を叫んでしまうことだろう。
そうなれば、優しいシャーロットのことだ。
その気がなくても、アレンの気持ちに応えて、偽りの愛を囁いてくれることだろう。それは……自らの足で歩き始めた彼女が、再び意思のない人形に戻ることを意味している。
だからアレンは自らの感情を封じることを決めた。
二度と蘇ってこないよう、厳重に。
決心を固めて、シャーロットの方へあらためて目を向ける。
そうして……すっと目をそらした。水で濡れたせいで、シャーロットの服がかなり透けてしまっていた。下着の色も丸わかりだ。しかも当人は気付いている素振りがない。
「……そろそろ上がったらどうだ。冷えるぞ」
「え、わぶっ」
アレンがぱちんと指を鳴らせば、虚空からバスタオルが降ってくる。
それをシャーロットは頭からかぶって、にっこりと笑った。
「それじゃ、そうします。ルゥちゃんはどうしますか?」
「ぅるー」
「ふふ。では、ごゆっくりどうぞ」
プールの端に腰掛けて、シャーロットは髪を拭いていく。
アレンもまたその隣に並んだ。足を冷たい水に浸せば、煩悩がすっと抜けていく気がした。
シャーロットはプールで遊ぶルゥを眺めながら小首をかしげてみせる。
「それにしても、ずいぶん広いお庭ですよねえ。もっといろんなことに使わないんですか?」
「む。まあ、畑を広げてもいいかもしれないな」
庭は、もうひとつ屋敷が建てられるほど無駄に広い。
だが今のところはアレンが魔法薬の原料となる各種薬草を栽培している一角しか、まともに使われていなかった。
家族が増えたことだし、野菜や花を育ててみるのも悪くない。
「だが……そうなると大規模な整備が必要だろうなあ」
庭を見渡してアレンはぼやく。
ここを買ったのは三年前だが、あのときよりもさらに雑草が勢力図を広げている。草刈りや地ならし、小石の除去などなど……やるべきことは多そうだ。
なんならメーガスやグローあたりを呼びつけてもいいだろう。メーガスは花屋のバイトが性に合っていたらしいし、グロー一味の方はシャーロットの希望だと言えば喜んで働くはずだ。
「まあ、それはゆくゆく考えようか。前の持ち主も、庭にはほとんど手を付けてなかったようだしな」
「アレンさんの前にも住人さんがいらっしゃったんですか?」
「ああ。俺は会ったこともないが」
アレンは事もなげに告げる。
「どうも前の持ち主は、三十年ほど前にある日突然失踪したらしくてなあ」
「…………えっ?」