三十七話 夜はもう、怖くない③
そして、ようやく夜が来た。
虫すら鳴かない静寂に、かすかな嗚咽が溶け消える。
「ひっ、う、う……う……」
真っ暗な部屋の中で、シャーロットは声を殺して泣いていた。
ここは離れの自室ではない。本邸の地下にある食料庫だ。当然ながら窓もなく、空気は冷えて尖っている。空間に満ちる闇は、自分の指先すら見ないほど濃厚だ。
コーデリアは時折、シャーロットの学習に付き添った。
表向きは娘を見守る優しい母。
だがしかし、実態はそんなものではない。
コーデリアはシャーロットが間違えたとき、問題に答えられなかったとき、失敗したとき、罰を与えた。
『どうしてこんなこともできないのよ!』
『エヴァンズ家の恥晒しめ……!』
『なぜ、おまえなんかが……! おまえさえいなければ、この私が……!』
それはまるで嵐のようだった。
家庭教師たちも顔を青ざめさせるだけで、誰も止めようとはしなかった。シャーロットは声を殺し、必死に耐えることしかできなかった。
コーデリアは、昔はそれなりにシャーロットに親切だった。
気に入っていないのは明白だったが、体面を気にして偽りの親子を続けようとしていた。それがナタリアが生まれ、何年かして……ある日突然、変わってしまった。
シャーロットを目の敵にして、憎しみをぶつけてくる。その理由はまるでよくわからなかった。
実の父である当主は一切興味がないようだった。いくらコーデリアがシャーロットを虐げても、目もくれない。そもそも家にいないことの方が多かった。
おまけに今日は折の悪いことに、打たれて倒れた際にナタリアからもらった薬を落としてしまった。
家のものを盗んだのだと決めつけられても、シャーロットは何も言わなかった。妹に累が及ぶことを避けたかったからだ。
コーデリアは実子であるナタリアに関心がなく、暴力を振るうようなことは一度もなかった。だが、それでも彼女がシャーロットに味方したと分かれば矛先が向くことは簡単に予想ができた。
かくしてシャーロットは罰を受け入れ、この暗闇に閉じ込められた。
ここにいるのは嫌だ。だが泣いて叫んでも、誰も助けてくれないことはわかっていた。
むしろさらに罰が酷くなる可能性もあって……シャーロットにできることは、耐えることだけだ。
「う、う、ううう……」
怖い。怖い。怖い。
暗いのは嫌だ。痛いのは嫌だ。寂しいのはもっと嫌だ。
だけど、ふと……気付いてしまう。
(ここなら……少なくとも、痛くない)
ここにあるのは闇だけだ。
シャーロットを嗤う者も、傷付ける者も、誰もいない。妹に会えないのは少し辛いが……それでも、外よりずっと楽に呼吸ができるはず。
そう考えた途端、周囲の闇が蠢いた。
それらは明確な形を成し、シャーロットにまとわりつく。肉がついていない荒れた手。それは自分の手、そのものだった。
何十本ものそれが、シャーロットの体を搦めとる。
やがて闇と体の境界が混ざり合い、シャーロットはゆっくりとまぶたを閉ざす。
このまま闇に飲まれてしまえば。
なにも考えず、苦しまず、ただゆっくりと眠れ――。
「じめじめじめじめ、健康に悪いわぁ!!」
「っ……!?」
ドゴォオオオン!!
突然、冗談のような轟音が闇を裂いた。
びくっとしてシャーロットは目を開ける。
はたしてそこには光が満ちていた。まるで壁をぶち破ったかのように穴が開いていて、その向こうには闇とは対照的に真っ白な世界が見える。そしてそこに……ローブをまとった青年が立っていた。
黒と白の髪。この世の終わりのようなしかめっ面。
見覚えのない青年だった。
「あ、あなたは……?」
「はあ? ああ、うーん。そうだな……」
青年はすこし考え込んでから、さっぱりと告げる。
「俺は大魔王だ。おまえをさらいに来た」
「へ……?」
「ほら、グズグズしてないでこっちに来い。こんな場所、一分一秒でも早く出るべきだ」
大魔王と名乗った青年は、ためらいなく右手を伸ばす。
彼の顔には黒いもやはかかっていなかった。彼のいる場所は明るく、あたたかで、こんな闇の中とは比べ物にならない。
だが、それでも……シャーロットは首を横に振った。
「ダメ、です……」
「はあ?」
「外は……外は怖いです。でも、ここは、なんにもないから……」
そうしてシャーロットはこうべを垂れる。
依然として体には闇がまとわりついたまま、彼女を捕らえて離さない。シャーロットが生きていけるのはここだけだと訴えかける。
そのはずなのに――。
「大丈夫」
「……え」
青年が闇の中に踏み出して、シャーロットの前に膝をつく。
優しい笑みを浮かべて彼は言う。
「俺はおまえの手を離さない。どんなものからも守り抜くと誓う。だから……行こう」
そしてもう一度、彼は右手を差し伸べる。
シャーロットは息を飲んだ。おずおずと右手を持ち上げて……彼の手にそっと触れる。
瞬間、風船が割れるように闇が弾け、光が世界のすべてを塗り替えた。