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三十六話 夜はもう、怖くない②

 食事を取ったあとは掃除の時間だ。


『本日はこちらをお願いしますとのことです、お嬢様』

「は、はい」

 

 顔にもやがかかったメイドが、バケツと雑巾を手渡してくる。

 シャーロットはそれを受け取って階段の手すりや窓を拭いていった。これが朝の日課だ。


 おかげで年中シャーロットの手は荒れて、真っ赤になっている。冬など血が出るほど酷くなるため、家具を汚さないように注意を払うのが大変だった。


 日によって任される場所は違う。だが、変わらないことがあった。

 

「きゃっ……!」

『あら。ごめんなさい、お嬢様』

 

 必死に額縁(がくぶち)を拭いていると、後ろからメイドがぶつかった。

 彼女も顔にもやがかかっている。形ばかりの謝罪を残して、もうひとりのメイドと去っていった。

 

『わざとらしー。きゃっ、だって』

『ほんっと、ご主人様の血を引いてるとは思えないくらいトロい子よね』

 

 シャーロットに聞こえるように笑いあい、彼女らは廊下の奥へと消えた。

 それを見送ってから……シャーロットは再び額縁を磨いていく。特に(ほこり)は溜まっていないが、言われたからには掃除しなければならない。


 そこで、控えめな声がかかった。

 

『ね、ねえさま……』

「あっ」

 

 はっと振り返ると、そこには幼い少女が立っていた。

 艶やかな金髪に真紅の瞳。人形のように整った容姿に上質な服を身にまとっているものの、その顔は固くこわばっていた。彼女の顔には、わずかなもやもかかってはいない。


 シャーロットは掃除の手を止め、少女に深く頭を下げる。

 

「おはようございます。ナタリア様」

『……おはようございます』

 

 ナタリア・エヴァンズ。

 エヴァンズ家次女にして、シャーロットにとっては腹違いの妹だ。

 齢は七つ。シャーロットが十歳のときに生まれた。


 彼女は当主と本妻の間にできた、正当なエヴァンズ家の血を引く者だ。

 そのため使用人たちみなに愛され、大切にされている。

 シャーロットも、昔はもっと普通に接して妹をかわいがっていたのだが……義母に(とが)められるようになったため、使用人たちのように敬語で接するようになっていた。


 だがナタリアは変わらない。いや、変わらず姉妹であろうとしてくれていた。

 祈るように指を組んで、シャーロットを見上げてみせる。

 

『ねえさま、きょうはお時間ありますか? ご本をよんでほしいです』

「今日は……」

 

 シャーロットは言葉を詰まらせる。ナタリアの願いを叶えてやりたい。だがしかし、それはとうてい無理な話だった。胸が張り裂けそうな思いで、ゆるゆると首を横に振るしかない。

 

「ごめんなさい……また今後、お誘いくださいね」

『……わかりました』

 

 ナタリアは(うつむ)くようにして(うなず)いた。だがしかし、すぐに顔を上げる。ずいっと差し出すのは小さな小瓶だ。

 

『これ。ねえさまの指、いたそうだったから。おくすりです。つかってください』

「あ、ありがとう……ございます」

 

 その小瓶を、シャーロットはおずおずと受け取った。

 妹はたまにこうやってシャーロットにこっそり色々なものを与えてくれる。果物だったり、文房具だったり。物そのものよりもナタリアなりの気遣いかがうれしくて、シャーロットは鼻の奥がつんとする。


 しばし姉妹は黙り込む。

 その静寂を破ったのは、泣きそうな顔をしたナタリアだ。

 

『あのね、ねえさま。わたし、すぐに大きくなって、ねえさまを――』

『ナタリア』

『っ……!?』

 

 ナタリアの顔がハッとこわばる。

 いつの間にか、シャーロットの背後に気配があった。


 振り返らずとも誰かはわかる。足がすくんだ。頭がじんと(しび)れるようだった。それでもシャーロットはぐっと喉を鳴らしてから、ゆっくりと振り返って頭を下げる。

 

「……おはようございます、コーデリア様」

『ええ』

 

 固い声でうなずくのは、上等な漆黒のドレスをまとった女だった。

 現エヴァンズ家当主第一夫人。コーデリア・エヴァンズ。前妻が病によって亡くなったため、後妻として迎えられた女性だ。


 ナタリアの生みの親にして、シャーロットの義母であるものの……まだ二十五という若さである。暗い紫の髪をロールして、身体中に宝石を飾っている。

 そして……全身に黒いもやをまとっていた。ただ燃えるような紅を引いた唇だけが、もやのわずかな隙間から覗いている。


『おかあ、さま』

 

 ぽつりと名を呼ぶナタリアに、コーデリアは一瞥(いちべつ)をくれるだけだった。

 実の子に対する態度とは思えない。だが、これが彼女の常だった。

 コーデリアはシャーロットに無機質な声で告げる。

 

『先生が見えましたよ、早く行きなさい』

「は、はい」

 

 シャーロットは慌ててバケツを片付け始める。


 朝は掃除をして、それから家庭教師がやってきて授業が始まる。王子の花嫁となるべく必要な教養……文学、音楽、刺繍に乗馬など。さまざまなことを徹底的に叩き込まれる。

 

 シャーロットは学ぶことが嫌いではない。

 なにかに集中しているといろいろなことを忘れられるし、以前はできなかったことができるようになると、達成感を覚える。


 だが……ひとつ、大きな問題があった。

 黒いもやが、ゆっくりと口角を持ち上げて――笑う。

 

『今日は私も見ていてあげましょう』

「っ……!」

 

 シャーロットは大きく息を飲んだ。顔が青ざめていくのが自分でもわかる。ナタリアまでもが泣きそうなほどに顔を(ゆが)めた。

 だがコーデリアは姉妹の変化を意にも介さずに続ける。

 

『先生に失礼のないようにするのですよ、シャーロット』

「は、い……」

 

 シャーロットはなんとかその一言を絞り出すのがやっとだった。

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