百八十九話 今を生きる者たちへ
メアード地区において大騒動が繰り広げられていたころ。
そこから少し離れた細い裏路地を、リディはひとりで歩いていた。
アレンらがまっすぐシャーロットの元へと向かう中、密かに別れたのだ。
頭上には沈みかけた月が浮かんでいる。空は鮮やかな瑠璃色だ。
それでもまだ夜明けには少し早く、さびれた路地は薄暗い。けっして子供ひとりで歩くような場所ではない。そもそもこんな場所に、用事など何もないはずだった。
だがリディは足を止め、小さく吐息をこぼす。
「……おかしな気配がすると、ずっと思ったのじゃ」
応えるもののいないはずの独り言。
しかし、その瞬間に背後の影がかすかに動いた。
リディは気配に振り返ることもなく、ぽつりぽつりと言葉を続ける。
「最初は別の者かと思った。しかし、アレンらは何も気付いていないようじゃったし……わらわにしか分からないものだと悟った」
リディはそこで言葉を切った。
ためらいを振り切るようにしてかぶりを振って、ため息混じりに言う。
「久方ぶりじゃのう……我が弟、ロバートよ」
「……っ!」
暗闇の奥で、気配が息を呑んだ。
ついにその人物がおずおずとした足取りで物陰から現れる。
月明かりに照らされるその姿は――髭を蓄えた初老の男だ。
髪には白いものが混じっているが、身なりは上等で、佇まいからは気品があふれる。しかしその顔はひどくやつれていおり、目は鈍い光を宿す。異様と呼ぶべき風体だ。
「あ、あぁ……」
男はふらふらとリディに近付く。
今にも倒れそうな歩調でゆっくりと距離を詰め――その目の前で跪いた。
無感動な目で見つめるリディへと、彼は震える声を絞り出す。
「お久しゅうございます、姉上……!」
「おぬしもわらわのように転生しておったのか、ロバート」
リディはじっと男を見つめる。
三百年前、エヴァンズ家にはふたりの子供がいた。聖女としてもてはやされたリディリア。そしてもうひとり――長じてエヴァンズ家を継いだ弟のロバート。
長い時を経て再開した弟に、リディはかつての面影を見る。
そうして、ちっと小さく舌打ちした。
「その体……おぬしの子孫、エヴァンズ家現当主のものじゃな? おぬしの人格と現当主の人格、ふたつが宿っておるようじゃ」
「そっ、その通りです」
男は弾かれたように顔を上げた。
その双眸からは涙が滂沱と溢れている。それでも口元に浮かんでいるのは満面の笑みで、ひどくちぐはぐだ。彼は堰を切ったように言葉を続ける。
「この男、なかなかしぶとい精神力の持ち主でございまして、長年私に体を明け渡さなかったのです。あまつさえ魔法医に頼り、偉大な先祖である私を消そうとする粗忽者でして……ですがここ数年は私がこうして主導権を握る時間も増えてきておりまして、それで私は、ずっと……ああ、いえ」
男はそこで言葉を切ってかぶりを振る。
笑みを取り払い、痛恨とばかりに顔をしかめた。
「違う、違うのです。こんな下らぬことを申し上げたかったわけではありません」
「ほう、では何を言いたいのじゃ」
「……お会いしとうございました、姉上」
男は震える声を絞り出した。
縋るように伸ばされた手にリディが触れると、両手で握り返される。
「私は家督を継いでからずっと悔やんでおりました。真にエヴァンズ家を継承するに相応しいのは、聖女である姉上であるのに……と」
輝かしい伝説を築き、早逝した聖女。
姉の生前、まだ彼は幼さゆえに姉の偉大さを知らなかった。
長じるにつれて彼女の残した功績を理解して、姉の足下にも及ばない自分が当主として名を残すことに分不相応だと思うようになった。
「だから私は再びこの世に生を受け、決意したのです。今度こそ姉上にエヴァンズ家を明け渡す。そのためにあなたを現世に呼び戻そうと……!」
「……まさか、子を作ったのはわらわの依り代にするためか?」
「いえ、姉の方はこの男……フランクが勝手に」
男は苦々しくため息をこぼす。
「私の存在に気付き、妾と娘を逃がしたようですが……後年、私が手を回して家に招き入れたのです。ですが妹の方ともども、期待外れでした。姉上の器たり得る素質を有していなかったのです」
「ふむ、なるほど」
リディはその言葉に小さくうなずき、実弟の魂に目をこらす。
魔法の素質はほとんどない。シャーロットの中で眠っていたリディの存在に、彼は気付かなかったのだろう。
「方々手を尽くしたのです。魂を呼び戻す魔法道具をいくつも当たりましたが、姉上を呼び出すことはできませんでした」
「……エヴァンズ家自体が、今大変なことになっているというのにか?」
「あの程度の汚名、姉上が戻ってきてくだされば簡単にそそげましょう。くだらぬ奸計も取るに足りませぬ」
男は平然と言ってのけ、もう一度噛みしめるようにして頭を下げた。
「ずっと姉上を探し求めていたのに……先日、あなたの気配を感じたのです。だから私はこうして馳せ参じて――」
「そうか」
万感の思いがこもったその言葉を、リディは遮った。
男の手をそっと振り払い、彼の肩を優しく叩く。
「ありがとう、ロバート。わらわをそこまで慕ってくれて」
「いえ、姉上! 私は当然のことを――」
「だから……すまぬ」
「っ……ぐ!?」
リディがかぶりを振ったその瞬間、男がくぐもった声を上げた。
見えない糸が虚空より伸びて、その体を吊り下げる。
首を両手で押さえ、足をばたつかせてもがき苦しみながら男は息も絶え絶えに叫ぶ。
「あ、姉上! いったい何を……!?」
「聖女は死んだ。ここにいるのは、ただのリディという名の少女なのじゃ」
リディは硬い面持ちで、男の浮かぶ空を見上げる。
夜明けが近付き、その色は次第に白んでいく。
新しい朝がもうじきやって来る。古いものはそろそろ去るべき時間だった。
「死者が生者の人生を脅かしてはならぬ。おぬしが今やっていることは……まさにその大罪じゃ。その者をそろそろ解放してやるがいい」
そうしてリディは短く呪文を唱える。
路地裏の冷えた空気がかすかに震えはじめ、男の顔はますます歪んでいった。
リディは呪文を唱え終え、その魔法を――前世の人格を消し去る魔法を行使する。
「さらばじゃ、ロバート。おぬしと家族になれず……すまなかったな」
「あねう――――っっ!?」
瞬間、男の目から光が消え、ぴくりとも動かなくなった。
ぐったりとした彼の体が、虚空から音もなく降りてくる。
それをリディはじっと見守った。
やがて地面に落とされて、男はくぐもった声を上げる。ゆっくりとまぶたを開き、ぼんやりとした様子で起き上がると不思議そうに辺りを見回した。
「こ、ここは、いったい……」
「気がついたのじゃな?」
「っ……!」
声をかけたその瞬間、男が驚愕に目を見張った。
すぐに彼は飛び起きてリディから大きく距離を取る。
その目に浮かんでいるのは色濃い恐怖の色で――彼は震える声で叫んだ。
「きみ、私から離れるんだ……! そして、できれば大人を呼んできてくれないか! 私は何をするか分からな――」
「大丈夫」
怯える彼に、リディは軽い足取りで近付いた。
にっこり笑顔を浮かべてみせて挨拶する。
「はじめましてじゃな、おじーちゃん♪」
「……は?」
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