百五十二話 彼女が大切にするもの④
ナタリアはぽつりとこぼし、鼻をすすった。
いつもの憎まれ口はすっかりなりを潜めてしまって……そこにはたしかな信頼が感じられた。
「よし、それじゃあ帰ろう。その前に軽くクソガキを診て……うわっ」
そこでアレンはぎょっと声を上げてしまう。
いつの間にやらニールが起き上がっていたのだ。それだけならまだしも……彼は滂沱と涙を流していた。体中の水分が抜けるのではないかと心配になるほどの号泣ぶりである。
それに気付いて、ナタリアもまたびくりと肩を跳ねさせた。
「ど、どうしたのですか、ニール。どこか痛むのですか」
「違う……! 痛むとしたら……僕の良心だ……!」
「はあ……?」
怪訝な顔をするナタリアに、ニールはがばっと頭を下げる。
「すまない……目が覚めて、聞いてしまったんだ……! 僕は、僕はなんて愚かなことをしてしまったんだろう……! 本当にすまなかった、ナタリアくん……!」
「いや、別にもういいですけど……なんですか、急に」
「……僕にも姉様がいるんだ」
ニールは肩を落とし、ぽつぽつと打ち明けた。
聞けば彼もまた良家の出身で、最近姉と貴族の婚約が決まったという。
だがしかしその結婚は借金のかたに売り払われるも同然で、おまけに彼女には昔から密かに将来を誓い合った幼馴染の青年がいて……思い悩む手紙が何通も届き、ニールは苦悩していたらしい。
「いくら神童と言われたって、僕はまだ子供だ。家のことには何も口出しできないし、姉様に何もしてあげられない。それが悔しくて……きみにそのモヤモヤをぶつけていたんだ。本当に、すまなかった」
「……ふうん、なるほど」
ナタリアはうんうんとうなずく。そしてうなだれるニールの肩をぽんっと叩いてにこやかに笑った。
「いいですか、ニール。あなたはまだ間に合います」
「えっ……」
「あなたはそのお姉様に……何を望むのですか」
「そ、そんなの決まってる! 幸せになってもらいたい! それだけだ!」
「いい返答です。ならば子供とかそんなの関係なく、やるべきことは決まっています」
そこでナタリアは笑みを深め、悪魔のようにニールの耳元に囁きかける。
「ちょうど暇していたところです。来月にでも、あなたの生家のあたりに遊びに行きましょう。そこでまあ、不審な事故なり人攫いなりにあって、あなたの姉様とその幼馴染とやらが姿を消すかもしれませんが……まあ、世の中そんなこともありますよね。うんうん」
「ナタリアくん……!」
パッと顔を輝かせるニールだった。
少年少女が手を取り合う光景は熱い友情を感じさせたが、どちらも目はギラギラと鈍い光を帯びていた。
アレンは額を押さえてうめくしかない。
「堂々と悪巧みを持ちかけるなよ……」
「なんです、文句があるんですか。これも立派な人助けではないですか」
「それは全然問題ない。好きなだけやれ」
さぞかしいい経験になるだろう。ただし、大人の監視は必要だった。
「好きなだけやってもいいが……計画ができたらまず俺に見せろ。完全犯罪には入念な準備が必要だからな。ついでにその婚約者の家とやらは俺が徹底的に調べてやる。金貸しなんぞやってる貴族だ、どうせ埃が出てくるだろう。黙らせるカードは多い方がいいからな」
「大魔王……! ありがとうございます!」
「わたしが言うのも何ですが、あなたも相当にお人好しですよね……」
ナタリアが苦笑し、和やかな空気が生まれた――そのときだ。
ドォォオオオオオン!!
「ひゃっ!?」
洞窟全体を揺るがすほどの振動が、轟音とともに襲い掛かった。
その後も断続的に地響きが続き、しかもそれが明らかにこちらへ近付いてくる。
ナタリアとニールが物陰からこっそり顔を出し、ひっと短い悲鳴を上げた。
アレンも続いて様子をうかがい――感嘆の声を上げる。
「おお、やっぱりあいつか」
のし、のし、と歩いてくるのは見上げんばかりに巨大な赤竜だ。
体型はボールのようにまん丸で、大きな口の隙間からはチロチロと炎が漏れ出ている。
見上げんばかりの巨体を見て、子供たちは真っ青な顔で震え上がった。
「ぼ、ボスのサラマンダーだ……!」
「くっ、さすがはここの主……通常個体の倍はあるじゃないですか」
サラマンダー、いわゆる火炎龍である。数千度の炎を吐き出し、鱗と分厚い脂肪で守られた体には生半可な攻撃では傷をつけることすらかなわない。
竜の中でも特に凶暴な種族として有名だ。
おまけにちょうど今の時期は産卵期。
寝ぼけたような顔だが、目はやけにギラついている。同種以外の者を敵とみなし、一瞬で炭へと変えてしまうことだろう。
さすがのナタリアやニールも、サラマンダーを相手取ったことはないらしい。
うろたえながらも、アレンの顔をまっすぐに見上げてくる。
「どうします。アレン先生。サラマンダーについては一応授業で学びましたが……共同戦線ですか」
「ぼ、僕も囮でもなんでもやります! 言ってください!」
「ああもう、落ち着け」
意気込むふたりを抱え込み、岩陰へとぐいっと押しやった。
「いいか、あいつの倒し方は簡単だ。そこでおとなしく見ていろ」
「ちょ、アレン先生!?」
そのままナタリアが慌てるのにもかまわず、アレンはその場からばっと飛び出した。
突然現れた人影に、サラマンダーがぴたりと足を止める。
しかし、あっという間にその体が紅蓮色の光を帯びはじめた。外敵への威嚇色だ。
そのままサラマンダーは勢いよく地を蹴って、アレンへ突進してくる。生身で食らえばひとたまりもないが――アレンは声の限りに叫んだ。
「ポチ! おすわり!」
「グルル……ルァアアア!!」
どーーーん!
サラマンダーがアレンへと突っ込んで、今日一番の地響きがダンジョン全体を揺るがした。
あたり一帯は砂塵で覆われ、ナタリアは慌てて岩陰から飛び出すのだが――。
「あ、アレン先生! ……先生?」
ナタリアはぽかんと口を開いて固まってしまう。恐々とのぞいたニールも同様だった。
ふたりが見たのはぺしゃんこになったアレンでも、返り討ちにされたサラマンダーでもなかったからだ。
「ぐるぐるぐるぅ~♪」
「ええい、くそ! おすわりだと言っただろうがバカ!」
サラマンダーにのしかかられながら、アレンは怒声を上げる。
押し返そうとするものの岩のような巨体はびくともせず、撫でられたと勘違いしたのか、かえってご機嫌になって喉を鳴らす始末だった。威嚇色は完全に消え去って、リラックスしていることがひと目でわかる。
「あら~?」
そこでおっとりとした声が洞窟内に響く。
奥から歩いてくるのは、大きなバケツを抱えた、ジャージ姿のアレンの養母――リーゼロッテだ。
「ダメよ~。ここは今、生徒は立ち入り禁止なんですからねえ。入っていいのは、魔物学教師の私だけよ~」
「す、すみません、リズ先生。実は色々あって……でもあの、サラマンダーの様子が変なんですけど……」
「あらあら、まあまあ~」
リーゼロッテは頰に手を当てて、今にも圧殺されそうな息子を微笑ましそうに見やる。
「ポチちゃんったら、アレンちゃんの顔を覚えていたのねえ。卵から育ててくれたパパですものね~」
「躾はできないままだがな……」
「ガウ!」
幼少の頃に養母の手伝いで孵したサラマンダーは、なぜか誇らしげに返事をしてみせた。
昔から躾の類いは不得意で、甘やかしまくっていた結果がこのざまである。今もあんまりやることは変わらないなあ、とアレンは巨龍に潰されながらひとりごちた。
続きは明日更新します。本章あと二話。
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