マグロとカニが怖い
その日、母親の梅子は帰宅するなり、上機嫌で俺の室内に踏み込んできた。
物が散乱している室内を、あらゆる物を踏み潰して俺の前に立った。
あぁ、その足の下にあるのは、この間買ったばかりの限定品プラモ……。
恨みがましい視線を受けても、息子のじっとりした反応に慣れてる梅子はどこ吹く風だ。
ひきこもりにとって、自室は言わば最後の砦である。
極力早く出て行って欲しい。これ以上、何かを破壊される前に。
俺のささやかな希望を感じ取ることもせず、梅子は何かのパンフレットを興奮した様子で差し出して来た。
「聞いて、義明ちゃん! いい話があるのよ!」
「何だよ……」
何かとても嫌な予感がする……。
母親にとってのいい話とは、すなわち俺にとっての悪い話と同義だ。
「それが嘘みたいな話なの! なんと、義明ちゃんを雇ってくれるって言うの!」
「へぇ、今時奇特な会社もあったもんだね」
「そうなの! 紹介してくれたのは今日偶然出会った人なんだけど、それはもう親切で……おまけにとっても美形なの」
あぁ、それでか……。
息子は大仏似の母親梅子の生態を、良く理解していた。
三度の飯より、美形好き。
それも、韓流ブームに乗って、韓流スターの追っかけをしているほどだ。
息子の全てを見抜いているような視線を受けた梅子は、咳払いをして話し出した。
「う、ううん。それでね、明日から義明ちゃんには、海外に行ってもらうから」
「はっ……?」
いきなり海外とはこれ如何に。
英語も喋れない上に、生来口下手な俺になんて無茶を言うんだ。
驚いている息子を見て、流石に悪いと思ったのか梅子はもじもじしながら言った。
「……しかも、海外では全てを会社側が管理するから、義明ちゃんはもう戻って来れないわ」
「何だよ、それ? 戻って来れない会社なんて、聞いたことないぞ……」
未だに奴隷制度なんて物が、この世にあっただろうか?
思わずそんな馬鹿なことまで、考えずにいられなかった。
「でもね、大丈夫よ。結城さんの会社は、海外でたくさんのひきこもりの立ち直りを支援しているらしいの」
「でも、戻れないのはやり過ぎだろ?」
当然の義明の苦情に、梅子は開き直った。
「そうよ? だから、何か文句あるの?」
「い、いや……文句と言うか……」
「仕方ないでしょ! 海外でも行かなければ、一生ひきこもりのままよ!」
「でも、海外でも出社せずに、ひきこもる可能性があるじゃないか」
息子が反論したのが許せなかったのか、梅子は部屋に特大サイズで飾ってある息子の少年野球で優勝した写真に首をぐきっと曲げた。
「ぐげっ!」
「見なさい、あの輝ける日々を! そして、あなたが一番活躍していた日々を思い出しなさい!」
見たくても見れなかった。
梅子に無理矢理違う方向に捻じ曲げられた首が、微妙に締まっていた。
輝ける日々を思い出す前に、息子は違う場所に昇天しかけている。
泡を吹いている息子に気付いた梅子は、誤魔化すように腰に手を当てて雄々しく言った。
「義明ちゃん、人生の頂点だったあの頃を思い出すのよ! チームを優勝に導いた奇跡の右腕を!」
小学生が人生の頂点なんて、あまりにも酷い言葉だ。
しかし、当人にとってもそれは事実なので、否定するほどのことでもないらしい。
今一番重要なことは、どうやら強制的に働かされるらしい就職先についてだ。
「遠洋マグロ漁船か……北海での蟹漁……」
思いつく言葉がそれしか出て来なかった。
おそらく、就職した何人かが海の藻屑と消えたのだろう……。
どうにか回避する方法を考えなければ、俺も同じ運命を辿ることになりそうだ。
深刻に悩む義明をよそに、梅子は一人弾む足取りで部屋を出た。
「ふふふ、明日は何を着て行こうかしら」
大仏は何を着ても同じだ。
むしろ、裸で行け。
思わず口に出そうになった言葉をぐっと飲み込んだ。
もしかしたら、このまま上機嫌なら恐怖のマグロまたはカニを回避できるかもしれないからだ。
もう、マグロもカニも食わない……。