【第9章】
『クリスマスイブに開かれたEUサミットにて、遺伝子検査による出生前診断を禁止する条約が、賛成多数で可決されました。これにより、EU加盟国では出生前診断が全面的に禁じられます。これについて各国の障害者団体からは、歓迎の声が上がっています』
これはいいニュースだね。
『名古屋市内を走る地下鉄車内にて、三十代の男が暴れ、死傷者が出る事件が起きました。警察は男から事情を聞いています』
これは悪いニュースだね……。
たぶん、坂本君が蹴って怒らせたパワー系男が、その男に違いない。あのまま電車に乗っていたら、ついでに殺されてたかもしれない。……物騒な話だ。
事件の関係者として、警察に申し出るべきかもしれないけど、私と坂本君は忙しいのでパスする。どのみちすぐに、この話題は消え去るし気にしなくていいはず。
今日はクリスマスにも関わらず、私たちが忙しいのは、退職届を書いたりしているからだ……。辞める先は高校ではなく、高山さんも働いているあの仕事場だ。昨夜の話し合いの結果、私と坂本君はあそこでのバイトを辞めることにした。安い給料が嫌なわけじゃなくて、仕事内容が恐ろしくて嫌なのだ……。
坂本君は、めんどくさそうに「バックレればいいじゃん?」と言ってきた。想定内の言葉だ。けど、高山さんとの仲はできるだけ維持したいので、ちゃんと手順を踏むことにしたのだ。余計な反感を買うのが怖いという理由もあるけど……。
しかし、退職の意志を伝える相手は、高山さんしかいないようだね……。社員さんや上の大人がどこかにいるだろうけど、あそこの仕事場は、彼女が実質的に仕切っている。辞める理由をちゃんと考えておかないと、彼女から突っ込まれることだろう……。坂本君がアドリブを入れて、うまくごまかしてくれるよう願うしかない。
「あれ? 今日は二人とも休みの日じゃない?」
仕事場にいた高山さんは、私と坂本君の顔を見るなり、そう言った。せっかくの冬休みなのに、仕事のシフトを入れまくっている彼女。よほど、ここの「仕事」が好きなんだね……。
「あの、その、今日は仕事で来たんじゃ」
「ここ辞めるよ!」
言いづらい私の代わりに、坂本君がはっきりと言ってくれた。なんとも端的だね。
「……えっ? どうして辞めたいの?」
さっそく退職理由を尋ねてきた高山さん。「一身上の理由」と言うだけで無粋なので、あらかじめて理由を考えておいてよかったよ。
「それが、親にバイトしてることがバレちゃってね……。今すぐ辞めてこいとうるさくて」
「ボクは部活。これから部活が忙しくて、時間がもう取れなさそうだからさ」
私と坂本君は、別々の退職理由を告げた。「えー!」という表情を見せる高山さん。
さすがに、二人同時に退職を申し出るのは怪しまれるかなと思った。だから、一人で辞める勇気が無くて、二人同時に申し出たということを、ついでに伝える。信じてもらえないかもしれないけど、下手に怪しまれるよりかはマシだろう。
「卒業まではやっていけると思ってたんだけど……」
寂しそうな表情を浮かべる高山さん。働きを期待されていたという自体は嬉しいことだけど、ここの「仕事」でそれを期待されては困るのだ……。
「ちょっとの時間でもいいんだけど?」
人材の引き止めにかかる彼女。退職者が出たら、減給されるのだろうか。
「いや、中途半端なことはできないよ」
坂本君が言った。彼には珍しい正論だね。私は黙ってうなずき、彼の言葉に賛同する。
「……そう」
彼女は、虚しさ感じる口調でそう言った。今の彼女からは、悲壮感と虚無感しか伝わってこない……。普段の彼女が放つ明るさは皆無だ。
……しかし、木橋が転落死したときの高山さんを、ふと思い出した途端にだ。彼女は今、ただ演技をしているだけじゃないのかという疑惑が、私の中に急浮上した……。もしかすると、すぐ隣りにいる坂本君の中にも、その疑惑が浮上していそうだ。
精神病質の彼女なら、演技により平気で人を騙せるかもしれない……。ちょっとした演技ぐらいなら、私もたまにするけど、友達を騙すということまでは、とてもできない。
彼女が演技しているとすれば、その理由は、私たちをどうしても引き止めたいからだろう。もしくは、巻き込んでおきたいからだ……。それなら、なおさら辞めないといけないね。
坂本君が、「給料をアップしてくれるなら残るよ」とか言い出さないかと、私はふと不安に思う。だけど、彼の強い意志がこもった顔つきを、チラ見で確認すると、その不安は解消された。
ようやく諦めてくれた高山さんを尻目に、私と坂本君は、退職の手続きをする。残りの給料を経理係の人から受け取り、使ったままにしていた備品をもとに戻したりだ。気まずさが酷いので、さっさと済ませなければ。
あのIという人も仕事場にいた。ただ、他人を装いたいらしく、素知らぬ顔をしている。
「じゃあ、高山さん。失礼するね」
「いきなり辞めて悪かったな」
仕事場を後にする際、私と坂本君は高山さんにそう言った。
「うん。……初詣はいっしょに行けるよね?」
寂しそうに尋ねてきた高山さん。
それぐらいの付き合いなら、今後も続けていきたいので、私と坂本君は頷いた。すると、高山さんは少し嬉しそうな顔をした。忠告してきたIには悪いけど、絶交なんて無理だ。今夜にでも、また忠告をしてくるかもしれないけど、そのときはそう言ってやるつもりだ。
仕事場の雑居ビルを後にする私と坂本君。冷たい風が、道路の向こうから吹いてきた。いくら暖冬とはいえ、冬は冬だ。初詣のときは、分厚いコートが必要だね。
「せっかくのクリスマスだけど、どこかに寄る?」
相手が私とはいえ、さっそく女遊びを始めたらしい坂本君……。ついさっき、バイトを辞めたばかりだというのにね。
「少し早いけど、これからクリニックに行く。障害者手帳について聞けるなら、年内に聞いておきたいし」
「ついてくよ。手帳持ちのボクがいっしょにいたほうがいいだろ?」
やれやれ、またちょっとしたデートだね。これで三度目かな? 今にクラスメートの誰かに、目撃されてしまいそうだ……。
「…………」
ふと気配を感じた私は、あの雑居ビルのほうを振り向いた……。もちろん、視線の先には、仕事場の窓がある。
……窓の向こうで、高山さんがこちらをじっと見つめていた。少し距離があるけど、そのことはなぜかハッキリと感じたのだ……。彼女の両目から、恐怖心を植え付ける矢が発射されているのはわかる。
「どうしたのさ?」
坂本君に声をかけられてから私は、自分が立ち止まっていたことに気がついた……。どうやら、高山さんの視線には、人を立ち止まらせる効果でもあるようだね。
「な、なんでもない」
何食わぬ顔で再び歩き出す私。さすがに怪しまれたらしく、坂本君は私の視線の先を見る。彼もこちらをじっと見る彼女の存在を知ることだろう。
「仕事場に忘れ物でもしたの?」
ところが、坂本君が見たときには、彼女は窓のそばにいなかった。彼の表情に、恐怖心の矢が植え付けられた形跡は皆無だ。
高山さんを見ずに済んだ彼が羨ましくなる。なにせあの鋭い表情は、満ち溢れた恐怖しか与えないものだったからね……。突き刺さった恐怖心の矢が、私の体を蝕むのを感じる。
どうやら、私と坂本君は、とんでもない行動を彼女にしてしまったらしい……。三人で仲良く初詣を楽しめたとしても、マイナス分は取り戻せそうにない。