【第3章】
ある日、教室での昼休み。クラスメートの大半が昼食を取っていた。担任は食堂の購買部へ弁当を買いに行っている。グループで集まり食べる子もいれば、寂しくぼっち飯の子も……。
私は高山さんと一緒に昼食を取り、坂本君は女子数人とハーレムを満喫していた……。彼の大きな声と競うように、彼女たちの声もこれまた大きく耳障りだ。
「おい、坂本! おまえ、いい加減にしろよ!」
木橋が坂本君に怒鳴る……。その途端、教室に静寂が訪れた。
私はビックリしてむせる。間近で面倒事が起きるのは、とても気持ちいいものじゃない。
「え、えっ? ボク、何か迷惑かけた?」
坂本君には悪いけど、迷惑は事実だ……。クラスの大半(男女問わず)は、彼流の昼食スタイルを良く思っていないはず。
「何言ってるの! 坂本君は誰にも迷惑かけてない!」
「そうよそうよ!」
ところが、彼と仲良くランチを取っていた女子は、木橋に猛反発する……。木橋へ迫り、非難の罵声を浴びせた。
普通の男子なら、そんな猛抗議を受ければ、形式的に謝るか、逃げ出すかのどっちかだ。
「坂本がどんな人間なのか、よく知らないだろ!?」
しかし木橋は怯まなかった……。意外と根性あるらしい。
女子たちは「こんなヤツなど、さっさと追い払ってやろう」と思っていたらしく怯んだ。何も言い返せない様子でいる。
「ああ、どんな迷惑をかけたか察せたよ!」
早くも仲裁にかかる坂本君。しかし、他人事に近い口調だ。
「ボクが女の子と仲良くすることが、君には嫌味に思えて仕方ないんでしょ?」
正解だけど、喧嘩を売るセリフでしかない……。
「でもね、これはどうしようもない格差の一つだよ? もし男が全員、同じレベルの外見をしていたら、不自然で気持ち悪いだろう?」
追い打ちのセリフだ。これには木橋だけじゃなく、他の男子もイラッときたに違いない。
「……それもそうだな」
ただ、木橋は怒らなかった。なぜか、逆に笑顔を見せているぐらいだ。まあ、彼の笑顔は気持ち悪いけどね。
「わかってくれて、ありがとね」
このまま収まりそうだ。このあいだのハプニングがフラッシュバックしているのか、坂本君は一安心している。
「俺と坂本では、脳の構造自体が違うもんな!」
だが、木橋はそう言ってきた……。
どうやら、木橋は、坂本君が発達障害者であることを知っているらしい……。想像するのも気持ち悪いが、こっそり尾行でもしたのだろう。
「ええっ、脳? どういう意味?」
坂本君は、適当に返事をしつつも、焦りを隠せない様子だった。
「とぼけるな! お前はキチガイじゃないか!」
木橋は坂本君に叫んだ。しかも、廊下へも響き渡る大声で……。一番響いた教室内は途端に静まる。ほんの数秒間だけど、私には一時間ほどに思えた。
「は!? 何言っているんだ!?」
「坂本のどこがキチガイなんだよ!?」
「それは自分のことじゃないのか!?」
ところが、木橋の暴露を信じる者はいなかった。逆に彼をキチガイ扱いする流れに。
坂本君はだらしない女たらしだけど、人付き合いは悪くない。ADHDの衝動性からくるものとはいえ、自分から気軽にドシドシ話しかけるほどのコミュニケーション能力を彼は持っている。一方、木橋のほうは酷いもの。
「嘘じゃない! 坂本が精神科に入るところを、俺は見たんだ!」
木橋は、汚い言葉を使うかのごとく、「精神科」という部分を強調して言ってのけた……。
「ほ、本当なの? 坂本君?」
信憑性が増したので、クラスメートたちは木橋の主張を信じ始めた。空気がドロリと汚く濁る。
ここは坂本君の援護に回りたい。私も発達障害者なので、キチガイ扱いはたまらない……。
だけど言い方次第では、私も発達障害者だとバレる……。高山さんは事の推移を見守っていた。割って入るタイミングを伺っているのかな?
「確かにボクは精神科に通ってるよ」
そこへ坂本君がカミングアウトしてみせた……。誇らしげな表情ですらいる。
ああ、彼が発達障害者だとバレてしまった……。自分までどん底へ落ちていくような気分だ。
しかし、坂本君は毅然としている。カミングアウトに後悔している様子は見られない。この清々しさがモテる要因の一つだろうね。
「みんな、黙っててごめん! ボクはADHDという発達障害を抱えてるんだ!」
坂本君は、教室にいたクラスメートたちに、ハキハキとそう言った。頭を上げた彼の表情からは、すっきりとした爽やかさを感じられた。
「今までつらかったんだよね! 私が助けてあげるから、もう大丈夫だよ!」
坂本君のカミングアウトに対して、あの女の子が先陣を切る。「ほら怖がってなんかいないよ」とばかりに、彼の手を強く握ってみせた。偽善者のパフォーマンスにしか見えない……。
「ちょっと待ってよ! 坂本君は私が養うんだからね! アンタんちよりワタシんちのほうが金持ちなんだからさ!」
「私なら、しっかり介護してあげられるよ! いとこが介護ヘルパーだし、いざというときも大丈夫!」
彼を取られてたまるもんかと、他の女の子も行動に移る……。
ADHDだろうがDHAでも、イケメンの彼を手に入れられるなら、別に構わないのだろう……。もちろん、すべてのADHDの男が、彼のような好待遇を得られるわけじゃない。
ただ、発情した彼女たちが、発達障害を軽く考えているようにも思える点には腹が立つ。自分が理解者であると装っているところが気に入らない……。
「おいおい! なんで、感動を繰り広げているんだよ? キチガイの坂本に殺されるかもしれないんだぞ? 最近のニュースを観てないのか? メチャクチャに殺されても、ヤツらは罪に問われないんだぞ!」
木橋が狂ったように叫ぶ。私の目には、彼のほうがキチガイに見えた……。
バチィン!
高山さんが急に立ち上がり、木橋に思いっ切りビンタを喰らわせた。高く弾かれる音が響く。
「おかしいのは、坂本君じゃなくてあなたよ!」
そして、高山さんはそう叫んだ。そのときの彼女の表情は、すべて怒りで構成されていた。自分が怒られているわけじゃないけど、仁王像が鹿に乗って逃げ出しそうなほどの恐ろしさがある……。
「…………」
高山さんにビンタされた木橋は、死にかけの魚のように、口をパクパクさせている……。あまりの衝撃に、言葉を失っているようだ。
「あなたから言われる前に、自分から先に言っておくね!」
高山さんはそう言った。私は即座に、高山さんもカミングアウトするつもりなのだと察せた……。
「た、高山さん!」
「みんな聞いて! 坂本君とは違う病気だけど、私も精神科に通っているわ!」
ああもう遅かった。
坂本君のときほどではなかったけど、教室はまた静まり返った……。
「……はぁ? えっと、はぁ?」
教室が静まり返る中、木橋は間抜けな独り言を繰り返していた……。どうやら、頭の中が混乱しているらしい。
そりゃあ、いきなりビンタされたあげく、彼女のカミングアウトだ。彼だけでなく、クラスメートたちも混乱していることだろう。
「おいおい、そんなに引くなよ! この森村さんだって、精神科に通っているぐらいなんだぜ! ……あっ、やべ」
なんと、坂本君が私のことをバラしてしまう……。私は背筋が凍りついた。暴露があまりにショックで、怒りはなかなか沸かない。
「ちょっと坂本君っ!」
私の代わりに、高山さんが坂本君を怒ってくれた。ビンタ付きでもいいけどね。
「ヒィ! ご、ごめん!」
安っぽい悲鳴の後、坂本君は私に頭を下げてきた。よほど高山さんが怖いらしい……。
「も、もういいよ。いつかは自分から言うつもりだったから」
女の子たちの視線もあったので、とりあえず今は許してあげることにした。
「おいおい、高山たちはまともじゃないか! どこがキチガイなんだ!?」
クラスメートの一人が、木橋に問い詰める。まあ発達障害は一目見ただけじゃあ、わからないからね……。
「フ、フリしてるんだ! 善人の! 心の中ではきっと、俺たちを殺そうとしているに違いない!」
しどろもどろに反論する木橋。しかも、悪い意味で感情的だ。特に興味は湧かないけど、何かトラウマでもあるのだろうか?
「……オーバーだよ!」
「考えすぎじゃね?」
クラスメートたちは、木橋の被害妄想的な言葉に納得しなかった。むしろ逆に、彼を危険視し始めている。こちらとしては、嬉しい流れだね。
「頭が疲れているんじゃない? 今すぐにでも、病院で診てもらったほうがいいよ」
気遣う必要など無いのに、高山さんは木橋にそう言った……。
個人的には、こんなヤツはそうであってほしいけどね。頭のおかしい人間による発言だったほうが、人間不信にならずに済むからね。
「ふざけるな、おまえら! これ以上ここにいられるか! サヨナラだサヨナラ!」
木橋は発狂気味に叫ぶ……。声量は変わらないものの、思わずぞっとする不気味な口調だった。
その直後、木橋は教室から勢いよく飛び出していく……。クラスメートの男子とぶつかりながらも、威勢の良い走り方を見せてくれた。彼の貧弱な体格を別とすれば、アメフトのワンシーンのようだね。
木橋は狂ったように、廊下を走り出していた。突然の出来事に、通行中の子たちが立ち止まっている。呆然と目を丸くしていることだろうね。どこかへ一心不乱に走っていく。
「ちょっと捕まえてくる!」
つい気になってしまった私。念のために言っておくが、木橋が心配だからではない。木橋の次の行動がわからず、不安で仕方ないからだ……。迷惑極まりない行動を起こされたら、私までたまったものじゃない!
「ボクも行くよ!」
坂本君がついてきた。半笑いだし、彼は面白半分だろうね。
「放っておけばいいのに……」
廊下へ出たとき、高山さんの声が聞こえてきた。いざというときには、彼女が力になってくれるはず。
「つ、ついてくんな! くんなよ!」
追いかける私たちに気づいた木橋が、走りながら振り返った。必死に全力疾走しているらしく、メガネのポジションが斜めにずれている。直す余裕など無いほど、焦るに焦っているらしい……。
「そんな冷たいことを言わないでくれよ! とにかく落ち着けって!」
坂本君は明るく言ったけど、見事スルーされた。どうやら、木橋から完璧に嫌われているんだろうね。
「無視されちゃったよ」
私に気遣いを求める坂本君……。それどころじゃないから、私もスルーしてあげた。
校舎内はそれほど広くないので、いつかは追いつけるだろう。しかし、他の子たちの密度が、その分濃いという問題がある。事がさらに悪化すれば、学校中に情報が完全に広まってしまう……。
まあ、クラスメートにバレた時点で、学校中に遅かれ早かれ広まるだろうけど、気持ち的にはブレーキをかけておきたいのだ。その分、心の準備ができるからね。
「いい加減にしろよ! おまえらみたいなのといっしょに居たくないんだよ!」
木橋は走りながら振り返り、追う私たちへ罵声を飛ばした。好きで追いかけているんじゃないと叫びたくなる。
逃げる木橋を捕まえるため、私たちは校舎内を駆け回る。学校中の視線が、自分に注がれている気がして、どんどん恥ずかしくなった。恥ずかしさから、自然と顔が下を向く。
木橋は、追いかける私たちのことが気になるらしく、たびたび私たちのほうを振り返る。そのせいで、前方の視界がおろそかになり、何度も人とぶつかりかけていた。もし彼が不良とぶつかったら、無関係な他人のフリしなくちゃね……。
ガシャーーーン!
事故が起きてしまった……。それは幸い、木橋の自損事故だ。他に誰も倒れていない。
「痛い痛い痛い!」
木橋は両手で顔を押さえながら、その場にうずくまっている。顔面から勢いよく衝突してしまい、両目にケガをしたようだ。指の隙間から、血がドクドクと流れ出ている……。
彼が衝突したのは、校舎三階の廊下の突き当たりにあった壁であった。かけていたメガネのレンズが割れ、ガラス片が両目に刺さっていた……。彼の足元に転がるメガネが、どれだけ強く衝突したかを物語る。金属フレームはすっかりひしゃげ、鼻パッドも外れていた。
「痛い、ううっ痛い!」
木橋は激痛に苦しみながら、よろめき歩いている。何も見えないせいで、自分がどこを歩いているのか全然わからずにいた……。
「おい! そっちは階段だぞ!」
坂本君は言葉を振り絞った。私はすっかり震え上がり、状況を見守るしかできない。
「痛い、痛い痛い!」
ところが、激痛で苦しむ木橋の耳に届いていない……。全神経が痛覚に集中し、誰の言葉も届かないようだ。
彼は痛みに蝕まれながら、下り階段へ足が進んでいく……。踊り場があるとはいえ、ひとたび転落すれば、ひどい追い打ちとなることは確実だ。下手すれば死ぬだろう……。
「危ないって!」
坂本君は彼を助けてやろうと、足を一歩踏み出す。
「放っておいてあげなよ」
そのとき、高山さんが坂本君の肩を掴む。彼は立ち止まり、彼女のほうを振り返った。
「えっ? ええっ?」
意味が分からない様子だ。それは私も同様で、彼女を黙って見つめるしかない。彼女の表情は、美しく穏やかなものだった……。
彼女は、私と坂本君に顔を見合わせた後、木橋を見つめながら、
「あのまま放っておいてあげれば、彼は理想の世界へ旅立てるわ」
確かにそう言った。
「…………」
なおさら意味が分からず、無言でいるしかなかった……。彼女の言う「理想の世界」とは、どういう意味なのだろうか? 階段まであと少しの木橋のことなど忘れ、私の頭は疑問で一杯になる。
「木橋の行く先は、その、ボクらのような、人間がいない世界ということ?」
坂本君が言った。私は心の中で意味を納得できた。しかし、納得できてしまうのはマズイ気がした……。
「正解!」
高山さんは大声で言った。そのときの彼女は、不気味な笑顔を浮かべていた。歯を剥き出しにしていたりはしないけど、とても恐ろしい印象を受けたのだ……。寒気すら感じる。
そんな彼女に、私は思わず引いてしまう。そんな反応は、坂本君も見せていた。
「痛い、痛いよ痛い!」
フラフラ歩く木橋の前には、下り階段が迫っている。だけど、私も坂本君も、高山さんから受けた「衝撃」のせいで、体が震えて動けなかった……。
「おっと、うわっ! アガァ! ギギィ! ウッウウッ!」
木橋の転落シーンは、映画のようなスローモーションで見届けることに……。
足を踏み外し、頭から転げ落ちていく瞬間を鮮明に目にできた。彼の姿はすぐ、階段の下へ消える。彼の悲鳴が聞こえた後、踊り場からドスンという着地音がした。それからは静かだった。
次に聞こえたのは、発見した子による「キャー!」という安っぽい悲鳴だ。B級ホラー映画のような声色だった。
それまで私と坂本君は、不気味な笑顔を浮かべたままの高山さんの前で固まっていたけど、叫び声のおかげで、ようやく動けるようになる。だけどもう、時すでに遅しだ……。
私と坂本君は、階段の上から踊り場を、恐る恐る見下ろす。
木橋はそこで倒れていた。忽然と姿を消してなどいない。彼の周囲には、好奇心旺盛な野次馬がガヤガヤと集まり始めていた。もちろん、手にはスマホが……。
仰向けに倒れている彼は、ピクピクと微動していた。すっかり変わり果てた彼の姿を見れば、それが死後に起こるけいれんであることはわかった。
そう、彼は死んでいる……。高山さんの言葉を借りると、「理想の世界へ旅立った」というわけになる。
関節が折り曲がりまくった彼の全身は、まるでウケ狙いのようにシュールだ……。そして、ズタズタの両目や、壊れた関節の隙間から、血が途切れることなく流れ続けている。人体の大部分を水分が占める事実を、このとき完全に理解できた。
私なら、あんな状態で生きていたいとは思わない。悲惨さと気持ち悪さで、さっそく気分が悪くなった。胃袋に収まったばかりの昼飯を、階段から滝の如く流してしまいそうだ……。
「森村さん、とりあえずここから離れよう」
坂本君が心配してくれた。素晴らしい配慮だけど、有難さなど浮かばない……。
坂本君に手を引かれ、私はその場を後にする。吐き気と混乱で意識が薄れゆく中、笑顔のままでいる高山さんの姿が、視界の隅に映りこむ。なぜかそれが決め手となり、私の意識はポツンと途絶えた……。