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正常な世界にて  作者: やまさん(発達障害者)
24/52

【第24章】

 病院内の過酷な混雑は、ちっとも収まりを見せない。むしろ、混み具合は、悪化の一途を辿っている。まるで花火大会の帰り道のようで、将棋倒しの悲劇が数回起きても、何もおかしくないね。

 救急車のサイレンが、意外と頻繁に聞こえてこないのは、動ける救急車の数自体が、次第に減っているからみたいだ。主な原因は、大渋滞とガス欠だ。買い占めや略奪の対象となるのは、食料品や贅沢品だけじゃなくて、ガソリンもそうだった。渋滞に巻き込まれている最中もガソリンは消費するし、ガソリンが無くなればそれまでだ。しかも、道路上で動けなくなった救急車など、それこそ渋滞の原因になる……。

 不幸中の幸いなのは、暴動が巻き起こっている場所でも、救急車を襲撃するヤツが出てこないことだ。その理由は、自分の命を助けてくれるかもしれないからだった。もし、自分が大ケガを負った際に救急車が無ければ、命が危ういからね……。

 さらにそれは、救急車だけじゃなくて、病院や医者に対しても同様みたいだ。暴徒側は、たとえ敵である警察官が、搬送や治療をされていても、黙認しているようだ。ただ、それは警察側も同じ対応で、ケガした暴徒が治療されるのを、逮捕する事なく黙認していた。

 どうやら、今の世間では、『医療関係はスルーする』という暗黙の了解ができているみたいだ。こんな無政府状態でも、一定の「決まり事」は生まれるんだね。ひょっとすると、他にも暗黙の了解が、自然とできあがるかもしれない。まあ、社会人のマナー的な、細かくて厳しい決まり事がまたできるのは嫌だけどね……。



「トイレに行ってくるよ」

止血中の坂本ママを待っている時、坂本君が言った。彼は母親の返事を待つこともなく、スタスタとトイレへ向かう。坂本ママの完全な止血が済むまで、あと50分ぐらいかかるそうだった。トイレも大混雑だろうから行列を見越して、今のうちにトイレへ向かうのは、何もおかしくないね。……ただなんとなく、せっかちな動きに見えた。

 そう見えた事もあり、私もトイレへ向かうことにした。病院を出た後の渋滞で、尿意に苦しむのも嫌だからね。JKの私が、おっさんみたいに道路沿いで立ち小便をするなんてゴメンだ……。


 大混雑のため、トイレがある方へ向かうことも簡単じゃなかった。迷子にはなりそうにないけど、坂本君を見失いそうで怖い。なので、多少無理やりにでも、人をかき分けながら進むしかなかった。

 そして、トイレの近くまで来れた時、私は深いため息をつく。トイレは男女ともに、長い行列ができており、女性トイレの行列なんて、最後尾がどこかわからないぐらいだった……。開園前の遊園地のトイレよりも酷い状況だ。間に合わなくて漏らす人もいそうだね……。



______________________________



 ……ところが坂本君は、トイレの行列に並ぶのでなく、近くの階段のほうへ向かった。違うフロアのトイレを探すのかな?

「他のトイレも行列かな?」

さりげなくそう言うと、彼は驚いた表情で振り向いた。どうやら、私がついてきた事に、気づいていなかったみたいだね。彼の驚きようを見て、彼がやましい事を始めようとわかった……。

「トイレに行くんじゃないの?」

率直に尋ねると、彼は口の前で人差し指を立てた。やっぱり、やましい事なんだね……。そして、彼はこっそり手招きする。階段の踊り場の角で、教えてくれるみたいだ。

 階段にも、患者や家族がいた。彼らはみんな、疲れ切った表情で、静かに時間を過ごしている。なので、階段を上がる私と坂本君には、全然気に留めない。


「薬を取りに行くところなんだよ」

近くには誰もいない踊り場で、坂本君が言った。薬? 彼は確か、ここには通院していないはずだけど?

「こんな状況だと、ボクや森村が飲む薬まで不足してしまうだろ? もし薬の製造ができたとしても貴重品で、自立支援なんてもちろん効かない。それじゃあ、薬が買えなくなっちゃう」

確かに、リセットのせいで、医療関係の支援は消えた上、薬などの医療品の製造も危機的状況に陥っているはずだ。坂本ママが応急措置をなかなか受けられなかった原因の1つもそうだった。

「これから病院の薬品保管室へ行って、ボクらの薬をいただくんだよ」

しかし、続きの言葉を聞き、私は唖然とした……。略奪自体はもう経験済みとはいえ、それも立派な略奪だからね。法律は事実上機能していないけど、犯罪に手を染める事に嫌悪感は拭えない。

「森村、良い行ないじゃないのはわかってるよ? でもね、苦しまずに生きていくためには、こうするしか道が無いんだ」

慎重な口調で気まずそうに、彼はそう言った。私の顔に浮かぶ嫌悪感に気づいたみたいだね。

「……今月の自立支援は、もう上限いってないか?」

彼が尋ねてきた。彼も私も、自立支援医療制度を使い、医療費の自己負担額を抑えている。自己負担額には、月ごとの上限があるので、彼はそのことを尋ねたのだ。

 私は、今月分はもう上限に達していることに気づいた。そういえば、今月一日の学校帰りに、診察を受け、薬を貰っていた。つまり、今月はもう医療費を自分が払う必要が無く、無料で薬を受け取れるというわけなのだ。

「上限いってる」

「そうだろ? それなら構わないだろ?」

確かに、無料の物なら泥棒だとはいえないね。



______________________________



 けれど、ここで多めに勝手に薬を受け取る行為が、一切何も問題が無いかと言うとね……。

「じゃあ一緒に行こうよ。2人のほうがたくさん運べるし、トイレに並んでいたことにすればいいからさ」

「……うん」

軽い調子の坂本君の言葉に、私は乗せられてしまった。いつもの事だけど、抗う気が起きなかった。私の心の一部が、略奪を許容しているみたいだね……。



 私と坂本君は、階段をそのまま上がり、廊下をしばらく歩いた。迷いそうだけど、坂本君の道案内が成功してくれたおかげで、精神科のエリアに着くことができた。ここの奥のほうに、目的地である薬品保管室があるみたいだ。

 ……この辺りはなぜか静かだった。さっきまでいた1階の大喧騒が夢の中に思えちゃうぐらいだ。空気は張り詰め、重く異様な雰囲気で満ちている。堅い床に寝転がるケガ人も、疲れ切った看護婦の姿も見えない。この場にいるのは私と坂本君だけだった。

「こんな時だから出払っているんだろうね」

彼は、自分自身に言い聞かせるように言った。確かにそうかもしれないね。いや、そうだ。

 廊下に誰もいないのをいい事に、彼は精神科エリアの奥へドンドン進んでいく。ところが、廊下の先に鍵付きの鉄格子があり、彼の前進は止まった。

「こんな時でも厳重なんだな」

鉄棒の扉をガチャガチャ鳴らした後、彼はそう呟く。

 鉄格子の向こう側に続く廊下は、今いるココよりも、空気がさらに張り詰めているようだ。その理由は、廊下の左側に、精神病患者用の病室の扉が、整然と並んでいるのを見てわかった……。

 薬品保管室へ行くには、そんな病室の前を通過していかなくちゃいけないのだ。いくつも並んでいる扉は、廊下の右側を占める無機質な壁と、それほど変わらないぐらい頑丈そうで、扉の小さな覗き穴はどれも閉め切られている。消火栓の赤いランプが不気味に赤く光っている。廊下に窓は無く、その小さな赤いランプの光が頼りある光に思えてくるほどだ。

 そこを通過しないと、薬品保管室には行けそうにない。

 静かに通ればいい話だけど、ホラー映画みたいに手が飛び出してきたら怖いね……。失礼な話だけど。


「警備室にも誰もいないね。もちろん、そのほうが好都合だけど」

坂本君はそう言うと、強化ガラス張りの警備室へ入っていく。『応援のため不在中』という走り書きのメモが、ドアに貼り付けてあり、無人だった。私も警備室へ入る。こんなところを社会見学する機会なんて無いからね。



______________________________



「これが鍵を解除する機械だな。だけど、数字が書いてるだけだから、どれがどこの鍵なのかわかんないや……」

警備室の一番廊下に近い側に、ドアロックを解除する機械が置かれていた。ロック中を示す赤いランプが整然と点いているのだが、どれがどこのボタンなのかがわからない。たぶん、脱走を防ぐために、わざとわかりにくくしているんだと思う。

「ここを探せば、どこの鍵なのかのメモが見つかりそうだけど、そんな時間はないから、こうしちゃえばいいや」

坂本君は、ロック解除のすべてのボタンを、勢いよく次々に押し始めた……。いつも通りの思い切った行動だね。

 ガチャンという重い金属音が、警備室の外から連続して聞こえてくる。病室エリアへ続く鉄格子の鍵が解除されたみたいだけど、病室それぞれの鍵も一緒に次々に解除されていくのがわかった。見境無く鍵を解除しているのだから当然だけど、私の恐怖心は高まる……。

「病室だけ鍵できない?」

「いや、どれがどこの鍵が全くわからないからさ」

坂本君がそう言い終わるよりも前に、手前から4番目の病室のドアが開いた。そこから、患者がゆっくりと出てくる。廊下に出たそれは、左右をマジマジと見ていて、強化ガラス越しの警備室にいる私たちの存在に気がついた。

「……ああ、気をつけて通れば大丈夫だよきっと。例えば、目を合わさないようにするとか、怯む素振りをしないとかさ」

いやそれは、野生のニホンザルへの対応だった気がする……。

「ここで待つか? この警備室にも鍵はあるみたいだし」

「……ううん、手伝うよ。2人でさっさと持っていこう」

私と坂本君は、何事も無いかの如く平静を装い、開いた鉄格子をくぐった。先ほど以外の患者もぞろぞろと、病室の外へ出てきた。私たちが医者や看護婦じゃない事もあって、患者たちからの強い注目を浴びてしまう……。うーん、警備室で待つべきだったかも。

 ふと気がつくと、私の手は坂本君に握られていた。彼の手の平に、汗が少し浮かんでいるのを感じる。さすがに彼でも、こんな状況だと緊張するみたいだ。もちろん、私もかなり緊張しているし、手汗はしっかりかいてる……。


「お前ら、勝手に入ってきたな? 警備員とかはどうした?」

大柄な男性患者が話しかけてきた。彼は私たちの正面に立つ。そのつもりは無いのかもしれないけど、立ちはだかったという表現が正しいかもね。

「ちょっと、奥にある薬の倉庫に用事があってね。大丈夫、気にしないで」

坂本君はそれだけ言うと、彼の横を通り過ぎる。私もすぐ横を通り過ぎる事になったわけだけど、通り際に腕を掴まれはしなかった。圧迫感は強かったけど……。



______________________________



 何人かの患者からの視線を感じつつも、私たちは廊下をスタスタと歩くことができた。ふと壁を見ると、『薬品保管室→ ロック確認を忘れずに!』と書かれた紙が貼られてあった。どうやら、この廊下の先にあるみたいだね。さっさと薬を自己処方して、坂本ママの元へ戻らないと……。

 ところが、廊下の途中で前を進む坂本君の歩みが止まった。彼の陰で見えないけど、一人の患者が目の前に立ち塞がっている。さっきみたいに、すぐ脇を通り過ぎればいいのに、彼はそうしない。

「どうしたの?」

「…………」

彼は無言だったけど、さらに面倒な事が起きようとしている気配は感じ取れた……。頭を右に傾け、彼の前に立ち塞がる患者が、どんなヤバい人間なのかを見てみる。

「…………」

その患者が誰なのかがわかった途端、私の心身は凍りつく……。全身がドライアイスの粉に覆い包まれるような寒気だ。


 けっこう以前の話だけど、私と坂本君を追いかけたあげく、とある駅前で派手な殺人事件を起こした男だ。アルミホイルで身を守り、チェーンソーで武装していたこの男は、ここで治療中の身らしい。いわゆる措置入院というやつだろうか?

「んん? んん?」

とろんとした表情と口調で、私と坂本君を見てくる。医者に鎮静剤を投与されて、おとなしくなっているようだ。

「おいおい、今日はチェーンソーを持ってないのか?」

坂本君が挑発する。確かに今の彼は、ただの男だ。清潔そうな白い服を着て、武器は何も持っていない。

「ジャマだからどけよ!」

坂本君は彼を、横の壁へ勢いよくどけた。その拍子で、彼は壁に正面からぶつかってしまう……。鼻血が出てはいないけど、顔がけっこう痛そうだ。男は痛みにもだえつつ、私と坂本君を強く睨みつけ、

「……思い出したぞ!!!」

と叫んだ……。ぶつかったショックで、鎮静剤の効果が消滅してしまったかの如くだった。彼の顔は憤怒という感じだ。以前殺し損ねた事に、たった今の坂本君の無礼が加わったらしい……。坂本君は、ホントに余計なことをしでかしてくれる。

「あの時はよくも苦しめてくれたな!」

やれやれ、嫌な展開へ転がっていく……。しかし、治療は全然進んでいないようだね。

「森村、さっさと行こう」

早歩きを始めた坂本君が、私の手を強く引いた。

「自由だ! 自由の身だ!」

「今すぐココを出よう! こんな所とはオサラバだ!」

背後の離れた所で、患者が歓声をあげている。自由を喜ぶ雄叫びというわけだけど、安っぽいセリフだね。



______________________________



「おい! また逃げる気か!?」

おっと、私たちは今、喜べない状況に陥りつつあるんだった……。元チェーンソー男が、私たちについてくる。今は丸腰とはいえ、危ない雰囲気は十分にあった。

「ついてくんな!」

振り向いた坂本君が大声で怒鳴る。だけど、男の追跡は止まらない。

 そして、ついに追いついた男の右手が、私の右肩を掴んだ。

「キャ!」

ありきたりな悲鳴をあげる私。あまりの恐怖に、私は立ち止まるしかなかった。

「おい! 放せ!」

坂本君が再び怒鳴った。彼はピストルを使おうと、ポケットに手を入れたけど躊躇している。ここで発砲したら、病院中に銃声が鳴り響いちゃうもんね……。

「逃げるな!」

男は掴んだ手を離さない。怒って興奮しているのが、口調からよくわかる。

「やめろ!」

今度の怒鳴り声は坂本君じゃなくて、さっきの大柄な男性患者の物だった。彼は、太い両腕で、元チェーンソー男の両肩をガッチリと掴んでいる。

「放せ!」

私の右肩を掴んだままの男が、大柄患者に言った……。

「嫌だね。お前は病室に戻るんだ」

「うるせえな!」

男がようやく、右肩から手を放した。そして、その代わりといった感じで、今度は大柄患者の胸倉を掴んだ。

「こいつ!」


 大柄男と元チェーンソー男が、掴み合いの喧嘩を繰り広げ始めた。同じ患者用の服装とはいえ、2人の体格差は全然違う。元チェーンソー男は、痩せてはいないけど、大柄患者と比べると、ほっそりして見える。この喧嘩の勝者は明らかだね。

 ……ところが、大柄患者の勝利は怪しくなる。元チェーンソー男が馬鹿力を発揮して、大柄患者の攻撃をうまく喰い止めているのだ。そしてついに、男は自分よりも大きな彼を勢いよく突き飛ばした。仰向けで倒れこむ大柄患者。彼は背中を強く打ったらしく、痛そうな表情をしている。

「いい加減にしろよ!」

男はそう怒鳴ると、近くの壁にある小窓から、なんと斧を取り出した……。薪割り用の斧じゃなくて、消防士が使う赤色の消防斧だ。火事の際にあの消防斧で、開かないドアを破壊したりするという。男はそれを両手で構え、仰向けの男の前に立つ……。



______________________________



「おいやめろ!」

当然危険を察した大柄患者は、そう叫ぶ。

「いい加減にしろよ!」

彼の叫びは、元チェーンソー男にはまったく届いていない……。いや、今はもう『斧男』と言ったほうが正確か。

 私が顔を覆う暇も無く、消防斧は振り下ろされた……。磨かれた刃が、大柄患者の顔面を叩き割る。皿が割れるような、バリィンという音が鳴った。廊下の床に、噴き出た鮮血が飛び散る。

 断末魔1つもあげずに、彼は死んでいた。顔は血で染まり切っているので、表情は見えないけど、束の間の激痛に顔を歪ませたに違いない……。


『触法患者の法令違反を確認しました。対象の拘束もしくは無力化が確認されるまで、このエリアは閉鎖されます。良い一日を』

突然、廊下のスピーカーから、そんな自動音声が流れた……。カメラかセンサーか何かがあって、斧男が大柄患者を殺すところを確認したんだろう。

 ガチャンという音が鳴った。アナウンス通りに、鉄格子のロックが再びかかったのだ。出る準備か何かで逃げ損ねた患者たちが、鉄格子の前で文句を垂れている。


「ふぅ」

斧男は、一仕事終えたようなため息をついた……。彼の服は、血ですっかり赤く汚れている。

「覚悟しろよ!」

斧男は、狙いを再び私たちへ向けた。殺気オンリーの雰囲気だ。私たちの命を絶つことを、第一目標のタスクに掲げていることは間違いない……。そのために、邪魔な大柄患者を殺したぐらいだしね。

 死んだ大柄患者の顔面から、消防斧が引き抜かれる。その途端に、鮮血がまた大きく飛び散り、天井にも赤い点々が走った。


 坂本君が私の手を強く引っ張り、廊下の奥へ向けて駆け出す。そんなに引っ張らなくても、走るよ走る。全速力で走るよ私は!

「待て!」

斧男も負けじと走ってくる。怖い怖い! 実況動画で観るホラーゲームのワンシーンみたいだね!

 少し走ると、廊下の奥が見えてきて、そこに薬品保管室のドアがあった。鉄格子みたいにロックされていないこと願う。


 坂本君がドアを開く。幸運なことにロックされていなかったのだ。私たちは、プールに飛びこむように、部屋の中へ駆けこんだ。ようやく幸運が続いてくれたようで、ドアには内鍵も設けられていた。私が指摘するまでもなく、坂本君はその内鍵を力をこめて締める。



______________________________



 ガキィーン!


 高い金属音が大きく鳴り響く。消防斧の刃先が勢いよく、ドアにぶつかった音だ。ドアがビシッと動く。

 薬品保管室のこのドアは、堅そうな金属製で、内鍵は外からは解除できない仕様だ。そして、廊下からの出入口は、このドアだけみたいなので、これで安全だね。


 ……ところが、安全や平和というのは簡単に獲得できないものらしく、ドアは万里の長城にはなってくれなかった。

 斧男は、このドアが金属製だとわかっているはずだけど、諦める様子はなく、ドアを何度も斧で叩き続ける。その度に、うるさい金属音が鳴り響いた。狂ったように、いや狂っている形で、斧を何度も振り下ろしているのだ……。その諦めずにひたすら努力する姿勢だけは、現代人に見習ってほしくなっちゃうね。

 その努力が実ってしまう形で、ドアが少しずつ変形をし始めた……。消防斧の頑丈さだけじゃなくて、斧男の馬鹿力がとてつもないようだ。

「下がれ!」

坂本君が私を背中側へ回す頃には、ドアに裂け目が生じていた。小さな裂け目から、斧男の上気した顔が見える。

「覚悟しろよ!」

斧男がその裂け目から叫んだ……。あと少しだとわかり興奮したのか、斧の攻撃は勢いを増す。裂け目がどんどん広がる。裂け目に腕を通して、内鍵を解除されたらオシマイだ……。

「クソッ!」

このままやられてたまるものかと、坂本君は部屋のどこかからか、消火器を持ってきた。

 彼は消火器から伸びるホースの先を、ドアの裂け目に向けた。そして、斧男が避ける前に、中身の消火剤を噴射させる。

「ううっ……」

ようやく、弱々しい口調を見せた斧男。さすがに、顔面への消火剤噴射はたまらないらしい。斧男は、消防斧を床に落とし、消火剤まみれの顔を両手で覆った。消火器は空になったみたいだけど、ドア破壊をしばらく喰い止められる。


「鎮静剤だ、鎮静剤」

坂本君はそう言うと、この薬品保管室内に並ぶ棚を物色する。なるほど、鎮静剤を斧男に注射してやるんだね。ピストルをぶっ放しても良さそうだけど、やっぱり銃声を出すのはマズイもんね。私ももちろん手伝う。急がなきゃ、斧男がドア破壊の仕事に戻るのは確実だからね。消火器噴射で、さらに怒っているだろうし。



______________________________



 薬品保管室内は、ガラス窓付きの棚が整然と並べてある。この部屋自体にロックがあるためか、棚の鍵は開いたままだった。医療用の覚醒剤もあるはずなのに不用心だね。今はその不用心に感謝しなきゃいけない。

「あった! あった!」

喜びの声を思わずあげた坂本君。彼は、ガラス窓が割れそうな勢いで、棚の戸を思い切り開ける。そして、中から鎮静剤が詰まった小瓶を、両手一杯に取り出した。1瓶だけで十分そうだけど、急いでいたから、たくさん取っちゃったんだろうね……。

「注射器を知らない!?」

私が知るわけない。今度は注射器探しだね。

「よくもやりやがったな!!!」

ドアの裂け目の向こうに、怒りのゲージが最大限に達した斧男が見えた。消火剤が肌にしみたらしく、顔は真っ赤に腫れている……。 斧男は、ドア破壊を再開した。最大限の怒りを糧に、その勢いは笑っちゃうぐらい強くなっている。あと少し破壊されれば、裂け目から出た腕が、内鍵を解除するだろう。この薬品保管室に、窓や他のドアは無いから、絶望的な状況に陥る。

 私は危機感を糧に、薬品保管室内をバタバタと走り回る。坂本君は、両手に鎮静剤の小瓶を抱えているからね。その甲斐があり、注射器はすぐ見つかった。もう腕が通りそうな大きさの裂け目ができたドアの、すぐ近くの棚にしまわれていたのだ。

「でかした!」

坂本君は、その棚から注射器を取り出す。急いで無理したせいで、鎮静剤の小瓶1つが、床に落ちて割れた……。

「そっちに行くからな! 逃げるなよ!」

坂本君が注射器に鎮静剤をセットしている時、斧男がドアの裂け目から手を伸ばし、内鍵を開けようとしていた。

「入ってこないで!」

私は恐怖心に駆られ、出てきている左手を蹴った。自分でも驚くぐらい、アグレッシブな行動だ。

 しかし、斧男は少しも痛がる様子を見せない。よく見ると、裂け目の尖ったフチにやられ、男の腕には傷ができていた。ちょっとした痛みなら平気らしい。ここでも、薬の力に頼るしかなさそうだね……。


「下がれ!」

これは坂本君の発言だ。主語が無いので、ドアの内鍵をいじる斧男に対して言ったのかと思ったけど、私に対してらしい。私は坂本君の背後に回る。

 彼の右手には鎮静剤入りの注射器が握られ、左手には予備の鎮静剤が2瓶握られている。大人1人分の用量を調べている余裕は無かった。とりあえず、斧男に打ちまくるしかない。

 斧男は、伸ばした左手で内鍵をうまく解除すると、そのまま右手でドアを開け放った。裂け目の尖ったフチで、男の左手に新たな切り傷ができたけど、痛みを訴える様子は微塵も無い……。



______________________________



 斧男が、薬品保管室へ突入してきた。右手には、血で汚れ、刃先が刃こぼれした消防斧が強く握られている。

 アドレナリンがよっぽど沸きだっているのか、無言で真剣な目つきだ。私と坂本君を殺す目標に対して、過集中のモードになっているのかな?

「喰らえ!」

イチかバチかの懸けに出る形で、坂本君が注射器を突き出しながら、斧男に体当たりした。注射針が見事、斧男の首に突き刺さる。斧男のほうは、刺すそうな注射針の痛みではなく、突然の体当たりに対して驚いていた。

「何のマネだ!?」

「鎮静剤だよ、鎮静剤!」

坂本君はそう回答すると、身をさっと引いた。鎮静剤が効くよりも前に、消防斧による反撃を喰らってしまったら、相討ちで結局オシマイだもんね。

「フンッ! これぐらい平気だ!」

え? 効果が無いのか……? それとも効果が出るのが少し遅いだけなのか? とにかく今は、斧男はピンピンしている。

「覚悟を決めろ! もうゲームオーバーだ! 殺されろ!」

ううっ、彼の言うように、これでもうゲームオーバーっぽいね……。できることなら、さっき死んだ大柄患者のように、あまり苦しまずに即死させてほしい。

「それならこっちからだ!」

坂本君はそう叫ぶと、斧男に再び体当たりを喰らわせに向かう。今度はおとなしく体当たりを喰らうつもりは無いらしく、斧男は消防斧を振り下ろした。

「イタッ!」

坂本君が痛そうな声を出した。消防斧の柄が、彼の左肩を強く打ったのだ。刃先じゃなくて柄の部分だったことは、不幸中の幸いだね。だけど、すごく痛いのは間違いない。

 しかし、坂本君は激痛に耐えながら、予備の鎮静剤2瓶を、斧男の口の中へ無理やり押しこんだ……。

「な、なんだぁ?」

「しっかり飲めよ!」

坂本君が、斧男のアゴを下から思い切り殴った……。最低5回は殴り続けていた。

「ウウッ!」

斧男が、ようやく痛そうな悲鳴をあげてくれた。口の中で瓶が割れて、そのガラス片が暴れているのだから、そうとうの酷い激痛だろうね……。


「…………」

ただ、斧男を苦しめたのはガラス片だけじゃなかった。さっき注射した鎮静剤がついに効き始めただけじゃなく、口の中に流出した2瓶分も、斧男に平穏をもたらし始めたのだ。とはいえ、自然な平穏じゃなくて、薬による人工の平穏だけどね……。



______________________________



 それから1分も経たないうちに、斧男は横に寝転ぶ形となった。刃こぼれが目立つ消防斧は、右手から離れ、堅い床に落ちてガチャンと鳴る。坂本君は素早く動き、それを部屋の隅へ蹴飛ばした。さすが、サッカーをやってるだけあって、見事な蹴りだね。

「…………」

寝転んだ斧男は、目を閉じて静かになった。うるさいイビキをかくこともなく、完全な沈黙だ。

「鎮静剤が効いてるうちに、さっさと持っていこう」

坂本君がそっと言う。起きてまた暴れ出したら嫌だもんね……。必要な薬をさっさと持ち出していかないと。こんなところとはオサラバだ。


 私や坂本君が飲んでいる薬の、コンサータとストラテラはすぐに用意できた。なぜなら、鎮静剤と注射器を探し回っていた際に見かけていたのだ。いつも飲んでる薬の名前が目に入った途端、数秒間動きが止まっちゃったのは内緒だ……。ADHDの性なので、彼も止まっちゃっていたかもしれない。

「3か月分ぐらい持ってく?」

「いやいや、最低でも1年分!」

ええ? 普段でも1ヶ月分ぐらいしか受け取ってない……。

「さっき言ったじゃん。こんな状況だと、薬が不足するってさ」

彼はそう言うと、ズボンのポケットすべてに、薬をギュウギュウ詰め込んでいく。ポケットに入らない分は、堂々と両手に抱えていくつもりらしい……。

 どう見ても略奪だけど、今はそれを議論してる余裕は無い。薬をこぼしながら、斧男から走って逃げる展開はゴメンだからね……。



「じゃあな。死ぬまでおとなしく暮らせよ」

薬を抱えて部屋から出る際、坂本君はそう吐き捨てた。唾が倒れた斧男の髪につく……。いくら暴力的で危険なヤツだったとはいえ、ほんの少しだけ可哀想に思えた。なので、私はあえて何もしない。

「ん? コイツ、息してなくない?」

足のつま先で、ドアを目一杯開いた後、坂本君が言った。冗談ではなく、真剣な口調だ。

 私は思わず、危険なヤツだったことを忘れ、斧男のすぐ近くまで近づいて、耳をすませた。……確かに、イビキどころか、呼吸を全然していない! 抱えた薬を床に置き、横に寝転ぶ斧男を仰向けの体勢にする。

「危ないって!」

坂本君の注意に脇目もふらず、私は斧男の左胸に手を置いた。よく考えると、極めて危険な行為だね。息を止めて死んだフリをしている可能性もあるから……。



______________________________



 ……斧男は死んでいた。呼吸も心臓も止まっているのを確認したから、まず間違いない。体はすでに冷たくなり始めていた。私たちが薬を集めている間に死亡したんだろう。

 斧男が死んだ理由は、鎮静剤の過剰摂取に違いない……。容量を調べておくべきだった。鎮静剤を打ったり飲ませたのは坂本君だけど、私も死に加担したのと同じだ……。


「これで完全に静かになったわけだな……。だけど、こんな世界だと、このほうが幸せなのかもしれない」

坂本君が言った。自分に言い聞かせるような口調だ。

 彼同様に、私の中にも罪悪感が湧き出ている。よく考えれば、この斧男も、高山さんの組織による犠牲者だ。彼が起こした殺人事件の原因もそうだった。そして、それには私や坂本君も、少なからず関わっている……。


『触法患者の無力化を確認しました。このエリアの閉鎖を解除します。良い一日を』

アナウンスが流れる。これがもっと早く流れてくれれば、AEDで彼の蘇生ができたかもしれない……。

「おおっ、開いたぞ!」

「自由だ! 急いで逃げよう!」

ドアの裂け目から、患者たちの喜ぶ声が聞こえてきた。無邪気なもんだね……。




   【 つづく 】


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