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正常な世界にて  作者: やまさん(発達障害者)
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【第23章】

 暗い縦穴の中を、私、坂本ママ、坂本君の順番でハシゴを降りている。私は、沸き立つ勢いに身を任せるような具合でハシゴを降りているんだけど、坂本ママや坂本君は慣れたような具合で降りている。手荷物があるのに器用だね。

 ふと気がついたけど、さっきまでいた店が、このビルの何階にあるのかを、私は聞いていなかった。明かりは上の隠し扉から差し込む光だけで、下は全然見えない。だから、ここから底までの高さはわからなかった。今のところ、ハシゴを難なく降りられてるけど、もし足を踏み外してしまったときの事を考えちゃうと……。

 上の坂本ママや坂本君に高さを尋ねられるけど、その高さを聞いた途端に、怖さで足がストップしてしまうかもしれない。なにしろ、私には高所恐怖症もあるのだ……。なので、高さが売りのジェットコースターになんて乗れやしない。

 私たちがハシゴを降りる中、上の隠し扉から、銃声や大声が立て続けから飛び出てくる。映画みたいな白熱した戦闘が繰り広げられているのは確かだ。もちろん、上に戻って観戦したくはないけど。

「ここから出たら、母さんの車に乗っていけよ。この辺りから早く離れるんだ」

ハシゴを降りながら、坂本君が言った。ここは遠慮してる場合じゃないから、そうさせてもらおう。

「この辺りや名駅とかは、今すごくヤバい状況らしい。名古屋中に波及する前に、家に帰るんだ」

坂本君が話を続けた。警察無線からの情報らしい。店に置いてきたとはいえ、新鮮な情報は大切だ。

「名東区らへんはまだ、治安が酷くなってないそうだから、きっと大丈夫だよ。家に帰ったら、ドアと窓を全部しっかり締めろよ?」

「わかった、ありがと」

名東区はろくな娯楽が無いベッドタウンだけど、元々の治安の良さが救いになったね。


 状況と今後を考えているうちに、私の足はハシゴから床に着いた。どうやら、一階まで降りられたようだね。ハシゴが架かる壁の反対側に、冷たい手触りなドアがあった。暗い中、そのドアの存在に気づけたのは、手探りによってだ。ドアノブも見つけた。

「まだ外じゃないから、開けちゃって大丈夫よ」

頭上で坂本ママが言った。彼女もスカート姿だけど、私よりも器用にハシゴを降りている。普段からしっかり運動してそうだね。

 坂本ママから許可を貰ったので、私はドアを開けた。向こう側からの明かりが、こちらに差し込む。短時間とはいえ、スマホの明かりが頼りな暗闇にいたから、明かりの刺激に目が眩んだ。ううっ、眩しい。

 ドアをくぐる前に、縦穴を見上げる。暗い縦穴の上から、銃声や大声はもう聞こえてこず、とても静かだ。きっと膠着状態だろうね。私は、小池刑事の無事を祈った。もしかしたら、貴重な話をまた聴ける機会があるかもしれないね。彼の活躍に期待しよう。



 縦穴のドアから出た先は、ボイラー室兼ゴミ捨て場だった。機械音がうるさく鳴り、生ゴミの臭いが酷い。部屋のドアの向こうからは、表の喧騒が聞こえてくる。

「ドアの先は路地裏なんだけど、人がすれ違えるぐらいの狭い道だから、まだここは安全みたいね。あっ、燃えるゴミにビンが入ってる」

坂本ママが言った。話しながらも、ゴミの分別ミスが気になったようだ。私も時々間違うけど、話が脱線してしまうから黙っとこ。ここがいつまで安全かわからないし。

「森村には言ってなかったけど、ボクはコレを使えるんだよ?」

坂本君はそう言うと、自慢げに長ズボンの中から、ピストルを取り出した……。ズボンのウェスト部分に、しっかり挟みこんでいたらしい。

「ええっ! なんで!?」

私はつい大きめの声を出してしまった。坂本ママが、口の前で人差し指を立てる。恥ずかしいね……。

「この銃は、小池刑事から貸してもらったんだよ。これが取引の1つさ。まあ、母さんの店で保護する件は、もう意味がなくなった気はするけどね」

どうやら、あの小池からピストルを貸してもらったようだ。『マカロフ』という名前のロシア製ピストルは、警察の押収品らしい。リセット前なら、小池は懲戒免職だろうね……。

「気をつけて撃ちなさいよ」

「大丈夫、大丈夫。命中させなくても、これで威嚇すれば十分だよ」

いやいや、坂本ママが言ったのは、流れ弾で無関係な人を撃たないようにということのはずだ……。私が預かろうかな? しかし、銃の使い方なんて、全然知らないので、いざという時に困る。


 不安は消えず、対策も生まれなかったけど、私たちは脱出を優先することにした。最悪の場合を考えるとすれば、このビルが暴徒や強盗に包囲され、火を点けられるという状況だ。燻製や黒焦げの死体にはなりたくないね……。

 外へのドアを開けると、鼻につく空気が、生ゴミからコゲの匂いに変わった。栄駅から出た時よりも強烈に感じる。火災の数が増えただけじゃなくて、さっきの爆発も関係しているだろうね。日没後の夜空の下だけど、電力がまだ生きているおかげで、周囲の状況は見渡せる。

 私たちが出た先は、ビルとビルの間にある路地裏だった。坂本ママが言っていたように、人がすれ違えるほどの幅しかない。そのせいか、暴徒も一般人もいなかった。

 ただ、路地裏と繋がる通りからは、暴動の喧騒がしっかり聞こえてくる。爆発を起こしたのも彼らみたいだし、暴動を一時停止する気はサラサラ無いよう……。



「近くの駐車場に、私の車があるの。森村ちゃんも乗っていきなさい」

坂本ママがそう言ってくれた。確かに、ここから徒歩で帰るなんてベリーハードだからね。ここは甘えることにしよう。

「いつもの場所だね? じゃあ、ボクが先導するよ」

坂本君はそう言うと、路地裏の北側をスタスタと歩いていく。まったく、頼りになる親子だね。私も精一杯頑張らないと……。


 そして、路地裏から通りに出た私たち。ここは大通りから入る横道だけど、数人の暴徒たちがいた。ヤツらは、盗んできた缶ビールや惣菜で酒盛り中だった。カクテルを作るつもりなのか、壊した自動販売機からジュースを吟味しているヤツもいた。野蛮なドリンクバーだね……。

「おい、遅れずついてこいよ」

私は観察モードになっていたらしく、坂本君からそう言われてしまった。頑張るつもりでいたのに、さっそくこれだ……。自分が嫌になるね。

 先導する坂本君の足取りは、忍び足だけど速かった。オリンピックの競歩選手とまではいかないけど、私の足取りだと軽く走る感じじゃないとついていけない……。最後尾の坂本ママに対して悪い気がした。ハイヒールなのに、彼女の足取りも速いほうだ。

「無理して、あの子に合わせなくていいのよ」

坂本ママがそっと言ってくれた。優しい言葉に涙が出そうになる。彼女の言葉が、坂本君の耳にも届いたのか、彼は足取りを少しだけ遅くしてくれた。ホントに少しだけど嬉しい。



 坂本ママの車がある駐車場に着いた。都会によくある、タワー型駐車場だ。車の出入口付近にいる係員に、車のレーンを呼び出してもらう仕組みだけど、その係員がいなかった……。暴徒に襲われたか、安い給料が嫌で暴徒に転職したかの

どっちかだろうね。電話回線はダメになったままなので、代わりの係員を呼ぶこともできない。

「困ったわね……」

「じゃあ、ボクが操作するよ。駐車番号は何番?」

躊躇することなく、坂本君が言った。高校の授業で、タワー型駐車場の操作方法なんて習った覚えは無いんだけど……。

「大丈夫? この前みたいに、誰かの車をプレスするのは勘弁してね? 今度は保険が効かないだろうし」

うわぁ、それは心配だね……。

出入口近くの小さな管理室で、坂本君はさっそく機械を操作する。ヨレヨレな説明書が壁に引っかけてあるのが見えるけど、彼はそれをスルーしているっぽい……。のんびり読んでる暇が無いのはわかるけどね。


 ゴウンゴウンと、うるさい機械音が鳴り響き始めた。駐車場のタワー内で、車のレーンが動いている。坂本ママの車がどの辺りに停まっていたのかは、ここからではさっぱりわからない。なので、乗れるまでの時間もわからなかった。

 ゾンビ映画ではよくある展開だけど、こういう騒音が鳴ると、ゾンビ集団が襲ってくるもの。音に引き寄せられてね……。

 今の状況もそれに近く、数人の暴徒が近づいてくる……。ゆっくり歩いてきたので、ホントにゾンビ集団みたい。

「ねぇ、どっかに遊びに行くの?」

「今は歩行者天国だから、車じゃ通れないよ?」

軽口を言ってくる暴徒たち。そこにいたら車が出れないから、ジャマでしかない。

「避難しようと思ってね。なんとか走ってみせるわ」

こういう人間の相手に慣れているらしく、坂本ママは笑顔で返事してみせた。さすが、クラブのママさんだね。

「避難所行ったってムダだよ。役所も警察もクソだからさ」

「そうそう。逃げ続けるだけで餓死するだけさ。俺たちみたいに暴れようよ」

略奪や暴動をしたって、ひとまずの生活や快楽が得られるだけじゃない? そう言いたくなったけど、頑張って堪えた私は偉いよね?


 その時、ビィーという古臭い電子音とともに、駐車場の出入口が開く。中のレーンには、レクサスの黒い車が停まっていた。レクサスの中では安いハッチバックの車だけど、高級感は十分感じられる。

「おおっ、いい車じゃん! ベンツ?」

「バカ! レクサスだ、レクサス!」

こんな暴徒たちの前で披露してしまうのは、やっぱりまずかった。奈良公園のシカたちの目の前で、シカ煎餅を買うようなものだから……。

「早く乗れ!」

マズイ空気を察した坂本君が、管理室から飛び出し言った。出入口は開けたままにするようだ。マナー違反だけど仕方ないね。

「この辺の高級車は、みんな壊されちゃったからさ。譲ってくれない?」

暴徒たちが面倒なことを言い始めたので、私たちはレーンの車へ急ぐ。壊されちゃったじゃなくて、壊しちゃったのにさ。

「おい、シカトかよ?」

坂本ママが、リモコンでドアロック解除すると、素早く車に乗り込んだ。急いでいたので、危うくドアが壁に当たりそうになった。怖い怖い……。



 坂本ママがエンジンをかける。力強いエンジン音が唸り始めた。パニック系の映画だと、車のエンジンがなかなかかからないシーンがよくあるけど、実際はこんなものだね。

「おいおい! 行かせないよ!」

ところが、数人の暴徒たちが出入口の前に立ち塞がった……。ホントにジャマなヤツらだね。

「どけよ!!」

助手席の坂本君が、窓を開けて言った。こういう時に車の窓を開けるのは、危険極まりないからヒヤヒヤだ。

「やだね!! そのベンツを寄こせ!!」

「レクサスだっつってんだろ!」

ベンツとレクサスの区別もつかないようなバカなヤツに、車から降ろされるなんてゴメンだね。


 パァァン!!


 助手席の窓から左腕を出し、ピストルを発砲した坂本君。いきなりの発砲だったせいで、私の体はビクッと驚いた……。

 威嚇射撃らしく、坂本君が撃った弾は、暴徒たちの間をすり抜け、通りを挟んだ向かい側にあるビルのどこかに当たったようだ。痛みを訴える悲鳴が聞こえたわけじゃないからね。

「うわぁ!!」

「本物を持ってる!!」

暴徒たちは、一斉に出入口から離散していく。命中しなくても銃の力ってすごいね! 素直にそう思った私。

「シートベルト!」

本来は真面目なのか、坂本ママが言った。私と坂本君は、思わず反射的にシートベルトを締めたのだった。

 締めたと同時に、坂本ママが急発進させた。あまりの勢いに、私の背中はシートに押し付けられる。車の急発進に驚いたのは、私だけじゃなくて、逃走中の暴徒たちもだった。ヤツらは、バッタみたいに脇へ避ける。私たちのことを、完全に危ない連中だと見ている表情だった……。


 車は大通りを出た。この辺の道路はどこも広い幅があるけど、暴動のせいで今は狭く感じる。暴徒たちや歩行者天国ごっこをしているだけじゃなく、無価値な略奪品やゴミ、壊れた車が路上に散乱しているからだ。当然、坂本ママは運転しづらそうだった。

 どうやら、警察の実弾使用と暴徒の爆弾使用の両方が、暴力性をパワーアップさせたようだ。身ぐるみを剥がされた暴徒(たぶん死んでる)が転がっているかと思えば、信号機で逆さ吊りにされた警察官(こっちもたぶん死んでる)も見かけることもあった……。アスファルトを流れたり、滴り落ちている血が、車のあちこちを汚していく。この車が汚れが目立たない黒色であることは、坂本家に取っては救いだろうね。



 意地悪なのかバカなのか、暴徒たちはしばしば、車の走行をジャマしてきた。中には空き缶を投げつけたり、車に飛び乗ろうとしてくるヤツもいる。

 いちいち窓を開けて威嚇射撃していては、弾の無駄なので、坂本君は自制した。その代わりに、坂本ママはノーブレーキ走行をお見舞いする……。暴徒が弾き飛ばされる光景は、映画のゾンビを跳ねるシーンみたいだ。レクサスの安全性が高いおかげなのか、フロントガラスはヒビ一本走らない。弾き飛ばされた暴徒は、骨にヒビが入るどころじゃ済まなそうだけどね……。普段ならもちろん、轢き逃げで捕まる走り方だ。

 まあ、ここ愛知県は、交通事故死者数ワースト一位の座を、十年以上連続で獲得している。なので、一人か二人事故死しようと、もはやたいした悲劇じゃないのが、正直なところ……。

 数人弾き飛ばしたところで、触れぬ神に祟りなしだと理解してくれたらしく、暴徒たちは道を譲ってくれた。


「ラジオはどうかな?」

坂本君は、カーラジオを操作する。そういえば、ラジオ放送はまだ生きているのかな?

『現在、名古屋市内の数か所で暴動が発生しています。ご自宅にいらっしゃる方は、ドアや窓の鍵を閉め、待機をよろしくお願いします。なお、ご自宅での待機が難しい場合は、最寄りの警察署、または広域避難場所へ避難してください。なお、避難する際は、武器になるような物は持たずに、非武装の状態でお越しください。……失礼しました。最新情報によりますと、中川警察署と港警察署は、安全な場所ではなくなりました。これら以外の場所へ避難してください』

ラジオ放送はまだ生きていたようだ。名古屋市の緊急ラジオ放送らしい。

『栄、名古屋駅、金山、大須、熱田神宮、そして守山駐屯地は、特に危険な状態になっております。これらの場所にも近づかず、避難の際は迂回してください』

名古屋市内のあちこちで、暴動が起きているようだ。私の名東区は、まだ大丈夫だろうか? 自宅マンションが火事で燃えてたら、たまったもんじゃない!

「あらら、渋滞だわ」

車は、渋滞している車列の前で停まった。周囲に暴徒はいなかったものの、車列は全然進まない。よく見ると、車を放置して歩き出す人もいた。重そうな荷物を背負っているから、避難者だろうね。彼らは、歩道を進みだしたわけだけど、その歩道も人々による渋滞が発生していた。大震災による帰宅困難者の行列みたいだ。

「おいおい、どこもこんな感じ?」

交通情報を得るべく、カーラジオを再び操作する坂本君。市の緊急ラジオは、避難場所を長々と読み上げていた。


『繰り返す。我々は自由の発達戦士だ。この酷い状況を起こした者ども、共産主義者ども、アンチ発達障害者どもの連中には気をつけろ。我々は、このチャンネルで、最新情報をお伝えする』

なんだ? この宗教みたいな変な放送は?

『おかしなデマに惑わ』

『と白川公園と中村公園も、安全な場所ではなくなりました……。これらへ移動中の方は、他の場所へ向かってください』

坂本君は、周波数を緊急ラジオに戻した。気にはなるけど、今は思想に浸る状況じゃない。現実逃避は、どうしようもないときにするものだ。

「あら嫌だ。エンジン火災かしら?」

坂本ママが反対車線を見て言った。私もその方向を見る。

 反対車線の向こうから、日産の『リーフ』が走ってきていた。もちろん、トヨタの愛知県で日産の車が走ること自体は問題ない。問題は、その車がボンネットから火を吹き出しながら、蛇行走行している点だ……。ドライバーの姿は見えないけど、正常な状態でないことは確かだね。幸い、この道路には植木付きの中央分離帯がある。反対車線で勝手に事故ってくれればいい。

「嫌な場所があるな。ってうわぁ!」

燃える車がその場所へ、ゴーンと突っ込んだ……。その数秒後、


 ドォォォォン!!


 車内にもガッツリ響く大きな爆発音とともに、地響きと地鳴りが起きる。車全体が揺れ、運転席の窓ガラスが割れた。

 燃える車が突っ込んだ先は、燃料電池車用の水素スタンドだった……。燃える車が水素スタンドの供給機に衝突した数秒後、漏れ出た水素と炎が化学反応を起こし、大きな水素爆発が起きたのだ。私たちにできたのは、「爆発が起きるかもしれない!」と予測するぐらいで、素早く身を守るなんて芸当はできなかった……。

「イタッ!」

坂本ママが悲鳴をあげる。爆風で割れたわけじゃなくて、飛んできた破片が直撃したせいだ。

「母さん! 右腕に刺さってる!」

坂本ママの右腕に、小さな金属片が突き刺さっていた……。大ケガではないけど、傷口からドクドクと出血している。渋滞中だったおかげで、車が暴走する事態は避けられた。坂本ママは痛そうだったけど、自分でハンカチを使い、応急措置の止血をする。

「運転はなんとかできそうだけど、病院に寄ってもいいかしら?」

痛みに耐えながらだけど、口調はしっかりしていた。こんな時でもタフな人だね。

 水素スタンドは、骨組みを少しだけ残す形で全壊していた。突っ込んだ車は、車体がグシャグシャに折れ曲がっている。誰か乗っていたかもしれないけど、死体すら見つけられない。

 そして、反対車線側の歩道にいた人々の多くが、ケガをしたか、倒れたまま動かないという状態だった。応急処置の講習か何かを受けた覚えはあるけど、AEDの使い方はもうさっぱりだ……。


 大きな水素爆発で、周囲は騒然となる。さっきの暴動よりかは、落ち着いた状況に見えちゃうけどね。

 いくつかの残骸や植え込みが燃えて、辺りを煙たくする。反対車線を走っていた車はかなり少なかったけど、それでも壊れて停まっている車が何台か見えた。こんな状況だと、消防車や救急車を呼ぶのは難しいから、自分で何とかしなきゃいけない。

「この辺の大きな病院だと名大病院だね。そこまで大丈夫?」

「大丈夫だって。でも、もしもの時は替わってね?」

「うん、わかった」

もちろん、坂本君は運転免許なんて持ってない……。思わずそれをツッコミかけたけど、今は無免許運転を気にするような自体じゃない。どうしても、法律に固執するなら、緊急避難という形だと理解すれば済む話だ。



 坂本ママは、車を渋滞の車列から脱出させた。車体をこする音とクラクションと怒声が何度も聞こえた気がするけど、あくまで気のせいということにしておこう……。

 抜け出せた後、車は反対車線に入る。わざわざ、危険な街の中心部へ向かう車は少ないので、反対車線は空いていた。燃える残骸に気をつければいい話だ。坂本ママの「裏技」に触発されたのか、何台かの車も、反対車線へ入り始める……。きっと、周囲によく流されるタイプの人なんだろうね。

 その一方で、おとなしく渋滞に巻き込まれている人たちは、私たちに冷たい視線を浴びせてくる。だけどこれは、坂本ママの治療のためだし、あのままだと暴動に巻き込まれるしれない。こんな非常事態に、法律の遵守をキープするなんて無理がある……。

 まあ、こんな時に、歩道にイスを置いてノンビリ座っている警官なんて皆無だろうけどね。警察に捕まらなければ、犯罪でも違反でもないのだ。


 対向車線の歩道で、救護の知識があるらしく、ケガ人の応急処置をして回る女性がいる。

「森村は119番通報を繰り返せばいい!」

彼の言葉を聞き、私はスマホで119番通報を繰り返す。電波状況は圏外のままだった……。そんな事は、坂本君も承知のはずだ。

 どうやら坂本君は、私が手伝いに向かうのを危惧したようだ。もしかすると、手伝いに向かっているかもしれない。しかし私は、彼の言葉を助け船にする形で、無駄な119番通報を繰り返している……。

 対向車がかなり少ない反対車線を走っていると、渋滞の原因がわかった。警官でもない暴徒たちが、道路で勝手に検問をやっていたのだ。

「自警団には見えないな」

坂本君が言うように、有志の住民が始めた自警団とは雰囲気が違った。物騒な感じがした……。


「財布の中身を見せろ!」

「コイツ、障害者手帳を持ってるぞ!」

どうやら、アンチ障害者なヤツらみたいだね……。もちろん、私たちの敵というわけだ。ヤツらは、車からメガネをかけた男性を引きずり出すと、凶器も使うリンチを始める……。男性の悲しい叫び声が、チラホラと聞こえてきた。胸が痛くなる光景だけど、私たちはスルーしかない。銃を持っている様子はないけど、ヤツらが醸し出す雰囲気は、暴徒よりも残酷さが断然上だった……。口論すらもしたくない。

 坂本ママもそう感じたらしく、車のスピードを上げる。勇ましいエンジン音が唸り始める。


「おい!! 逃げるな!!」

私たちはスルーしたかったけど、ヤツらはそうしなかった。怖くなり、119番じゃなくて110番通報する私。圏外なので、当然繋がらない……。

 スマホを耳に押し当てつつ、リアウィンドウを恐る恐る見る私。アンチ障害者の連中が、必死に追いかけてくる。走れるゾンビたちが主人公の車を追いかけてくるシーンを、和風で地味にした具合の光景だ。幸い、そいつらは100メートルも走らないうちに追跡を止めてくれた。他の逆走車もうまく振り切れたみたいだね。

「あの刑事からチラリと聞いたんだけど、収容所から脱走したり退院したヤツラの一部が、ボクらへの報復をやり始めているらしいよ。正義を持ってる分、単純な暴徒よりもメンドクサイね……」

坂本君は、バックミラーを嫌そうに見ていた。嫌悪感が丸出しだ。

 とはいえ、私も抵抗感と共に、嫌悪感が起きるのを否定できなかった。強制収容所で何があったのかまでは知らない。でもそれへの報復は、暴虐を振るった本人たちだけにしてもらいたいね……。




 抵抗感や嫌悪感がまだ残る中、車は名大病院に到着した。腕の負傷にも関わらず、坂本ママは名大病院まで車を完走させられたわけだ。ひょっとすると、坂本君に運転を任せたくなかっただけかもしれないけど……。

「帰りはボクが運転するよ」

「……それは勘弁して? 病院に戻らなきゃいけなくなるからね?」

う~ん、やっぱりそうなのか? というか、無免許運転をしたことがあるというわけだね……。

「信用してほしいな。トラストミー」

その時、坂本ママが急ブレーキを踏んだ。突然の急停車で、舌を噛みかけた坂本君。私も危うく、前のシートに顔をぶつけかけたよ……。

 坂本ママは、頭を前のめりにしている。病院の駐車場内が大渋滞な点もそうだけど、彼女の視線は上を向いていた。


 彼女の視線の先は、名大病院の屋上だ。その屋上では、ヘリコプターがちょうど離陸しようとしていた。白っぽいアレは、ドクターヘリだ。ケガ人を迎えに行くところだろうか? 119番通報が運よく繋がった人がいるのかもしれない。

 ……ところが、ヘリをよく見ると、着陸で使う足の部分に二人ぶら下がっている。定員オーバーで救急隊員がぶら下がっているわけでもない。いくらなんでも、そこまでブラックな職場ではないはずだもんね……。

「おいおい、まるでゾンビ映画だなぁ」

坂本君が言う通りだった。距離があるから、年齢も男女もわからないけど、二人の一般人が、ヘリの足にぶら下がっているのだ。よっぽど、ヘリにいる人が憎いんだろうね……。

 ヘリは、相乗り二人組に気がつかないのか、そのまま病院から移動し始めた。乱暴な操縦なので、気がついてる?

「危ない!」

片方が足から手を放し、病院の植栽の中に落ちた。もう片方も、手が疲れたのか、手を放す。

 だけど、そのもう片方は、植栽じゃなくて駐車車両の屋根に直撃した……。車の防犯アラームがうるさく鳴る。少しへこんだ屋根の上にいる人は、そのまま微動だにしない。植栽に落ちた人も無傷じゃなさそうだけど、どっちも目の前が病院だから、そのままでも大丈夫だと思う。うん、そう思うね。



 坂本ママは、車を救急外来の近くに乗り付けた。近くと言っても、救急外来の出入口から離れた場所だ。なにしろ、10台以上の救急車だけでなく、たくさんの一般車両が無理やり駐車していたからだ。

「こりゃ酷い。中も大混雑だろ……」

坂本君はうんざりしながら、坂本ママの降車を手伝う。人の世話が嫌なわけじゃないもんね。軽口や愚痴が無ければ、彼の評価はもっと上がるはずだ。

「とにかく行ってみましょ? 応急処置だけでも大丈夫そうだから」

「先に受付行ってきます!」

私もできることはやらなきゃね。

「いつまで待たせるんだ!? ぶつけるぞ!?」

「もうちょっと待って! 今呼び出してるからさ!」

救急車のドライバーと病院職員が口論している。救急車の前後を一般車両に挟まれていた。これじゃあ、ぶつけないと出られないね。私たちの車は、大丈夫な位置のはず。

 救急外来の自動ドアをくぐり終えた時、金属が潰れるような高い音が後ろから聞こえてきた……。今は緊急事態だ。多少の荒っぽさは、保険会社も黙認してくれるはず。



 救急外来は、ゴールデンウィークの遊園地よりも酷い大混雑だった……。その光景に立ち尽くす私。坂本君もここまで酷いとは予想していなかった様子。

 ソファが満席なのはもちろん、急きょ用意されたパイプイスも全然足りていない。飛び交う怒号と、激痛を訴える泣き声。院内放送が度々流れるけど、騒々しさでそれは掻き消される。そして、血の鉄臭さと、消毒薬の刺激臭が混ざり合った空気が、院内に満ちていた……。


 この名大病院に来たのは初めてじゃないけど、大混雑のせいで、どこに受付があるのかわかりにくかった。天井の案内を頼りに、人混みをかき分けながら、ようやく受付に着いた時には、坂本君と坂本ママが先に着いていた。恥ずかしい……。

「受付番号札も無いの?」

坂本君が受付のナースに言う。受付に置いてある番号札の発券装置は、紙切れのランプを光らせていた。私たち以外にも、待たされるケガ人は大勢いた。

「すいませんが、待ってください!」

あまりの多忙さに吹っ切れたのか、ナースのはウンザリ顔で、ぶっきらぼうな口調だった。完全にキャパオーバーで参っている感じだ……。

「応急措置の止血だけでもいいんですよ? 包帯や消毒薬があるなら、自分でやるからさ?」

「あのですね? ガーゼも無くなりかけてるんですよ? メーカーとも連絡がつかないし、もうカツカツです!」

坂本君の譲歩案は、ナースに一蹴された。人も物も不足する危機的状況みたいだ……。

「母さん、よその病院に行こう」

「どこも同じですよ? 完全にダメになった病院がいくつもあって、そこの患者が回されているぐらいですからね?」

二度目の一蹴だ。

「わかったよ。ありがと!」

焦りとイライラを隠せない坂本君。私がDVを受けた事は無いけど、彼は気が短いほうだ……。


 坂本君は母親に肩を貸しつつ、待合室の奥へ向かう。入ってきた出入口とは反対側だ。私はそれに疑問を感じつつ、二人に付いていく。坂本ママの右腕から、血がポタポタと滴り落ちていた。このままだとマズイのは確かだ……。

 待合室の一角が、臨時の応急措置エリアになっていた。消毒薬の臭いが、一層キツく感じる。

 レジャーシートに整然と並べられたケガ人たちは、ベルトコンベア式で、応急措置の順番が来るのを待っている。そこには、医者が一人いるだけで、そのメガネをかけた中年男性の医者は、淡々と仕事に集中していた。

「すいません!」

坂本君が呼びかけると、医者は面倒臭そうに振り返った。治療中に付いた血で、薄い緑色の白衣は赤く染まりつつある。ここが病院じゃなければ悲鳴をあげていたかもね……。

「整理券は? あるなら、一番向こうで寝転がってて」

医者はそれだけ言うと、目の前の仕事に戻る。もう何度も同じ事を言っている口調だった。坂本君は、周囲を伺った後で、

「整理券は無いけど、これはあるよ?」

坂本君は小声でそう言った。彼の手には、健康保険証で隠す形で、数枚の一万円札が握られている。ありきたりな買収だね……。しかし今は、格差社会を嘆く場合じゃない。

「悪いけどね。今はもう、クレジットカードも小切手も現金も使えなくなってるんだ。下手すれば、その保険証だって使えないかもしれない。せめて価値のある物を持ってきなよ?」

医者はそう言い放つと、再び仕事に戻る。坂本君は、またもや一蹴されたわけだ……。まさに、二度あることは三度あるだね。


 だけど、坂本君は諦めなかった。彼は母親のカバンから、何かを取り出す。

「……それじゃあ、こういう物はどうかな?」

彼が医者の眼前に突き出したのは、いかにも高級品な雰囲気が漂う洋酒だった。細かい刻印が入っている酒ビンだ。坂本ママの店か、略奪品だね。

「ほう。これは結構高いウォッカじゃないか」

「ええ、そうですよ。海外の酒は当分入ってこないと思いますが、これでどうですか?」

「度数も高い。よし、いいだろう。お母さんを、そこに寝かせて」

医者は、この取引に同意してくれたらしい。現金は使えなくても、現物はこうして使えるんだね。露骨な賄賂だけど、江戸時代の悪徳商人みたいに、私腹を肥やすわけじゃない。


 高級ウォッカを受け取った医者は、さっそくそれを開栓した。すぐ目の前に、ケガをした坂本ママがいるのに……。ケガ人よりも飲酒のほうが大事なのか? 今が平時なら、クレームが殺到するだろうね!

「しみるよ?」

いや、私の勘違いだった……。医者は、そのウォッカを味わうわけじゃなくて、消毒薬の代わりとして使い始めたのだ。高いアルコール度数を誇るウォッカが染みこんだガーゼが、坂本ママの傷口に押し当てられる。顔を歪ませて、激痛に耐える彼女。

 ……私は、自分の勘違いを恥じた。坂本君のほうを見ると、贈賄側の彼も同様らしい。

 医者は、傷口の消毒が終わると、止血剤を慎重に開封した。きっと、かなり残り少なくなっているんだね……。この状況だと、あと少し遅ければ、現物の賄賂も通用しなくなっていたに違いない……。



 一通りの応急措置が済む。レジャーシートだけど、坂本ママはゆっくり寝転ぶ事ができた。ケガをした彼女の右腕には、包帯がしっかりと巻かれている。

「完全に血が止まって落ち着くまで、あと1時間ぐらいかかるから、ここで待っていなさい」

医者はそう言うと、次のケガ人の治療に移った。ウォッカをガーゼに染みこませている。何人分かでまだ使ってもらえそうだね。

「ありがとうございます!」

丁寧にお礼を言った坂本君。医者は「はいはい」とだけ返した。


 私たちは、ここでようやく一息を入れられた。とはいえ、リセット後の世界や日本、私たちの人生や生活、この後どうするか? 考えなくちゃいけない課題が積み上がっていく……。

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