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正常な世界にて  作者: やまさん(発達障害者)
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【第22章】

 地下鉄車両から降りた私は、線路の左側を歩いている。こっち側には電線部分が無いから、感電の恐れは無い。だけど、転ばないように足元には注意している。

 さっきまで乗っていた電車は、後方で緊急停止したままだ。先頭車両に運転士の姿が見えなかったので、消火器で消しに向かったかもしれない。

 今のところ、電車から誰かが追いかけては来ない。通常ならば、地下鉄の線路沿いなんて歩けば、すぐに通報される。だけど今は、非常時のさらに非常時な状況だ。リセットにより日本国家そのものが消滅した上、電車で銃撃や水素爆発なんて起きたのだ。誰も線路沿いを歩く女子高生なんて、気にも留めない。できないけど、今ここで自撮りをしてツイッターにアップしたとしても、炎上せずに終わるだろうね。


 白く冷たい蛍光灯が、一定間隔で明かりを灯しているとはいえ、地下鉄の線路はとても暗い。映画とかでよく登場する場所だから、歩き始めた時は「すぐに慣れるさ」と楽観的だった。

 ……だけど、状況が状況だけに、自然とだんだん心細くなってくる。進むべき方向は、間違いなくこちらで合ってる。何分かかるかはわからないけど、栄駅はこっちを歩けばいいのだ。

 電車が緊急停止したのは、千種駅と新栄町駅の中間だった。新栄町駅の次が栄駅なので、十分歩ける距離だ。これはウォーキングになると自分に思い聞かせ、私は歩き続ける。線路の先に、新栄駅の明かりが見えてきた。

 すると、反対側の線路に電車が走ってきた。思わず立ち止まり、身構える私。……運転席は見えなかったけど、電車全体が炎に覆われていた。火事が起きたまま、電車は走り続けていたのだ。終点の藤ヶ丘駅の先で、惨事がまた起きるね……。


 電車にあのまま残り、坂本君がいる錦のクラブに行くのを諦めて帰宅するという道もあった。だけど私は、生まれつき好奇心が強いのだ。どうせなら、少しでも早く情報を知りたかった。



 線路の先に見える新栄町駅の明かりが、だいぶ大きくなってきた。もし新栄駅が安全そうなら、ここから地上に戻って、錦へ向かおう。電車賃が少しだけ無駄になるかもしれないけど、それは仕方ない。


 パァン!


 駅が安全じゃない事は、この銃声で判明した……。電車賃は無駄にならず、ウォーキングは続行だね。

「こいつ、こんなに溜めこんでやがった!」

駅のホームから、育ちが悪そうな男の声が聞こえてきた。何かを床にぶちまける音もする。

「欲張ったせいだな」

「まったくだ」

どうやら、二人組の強盗がホームで仕事中らしい。

 元々血の気の荒い連中が、リセットによる混乱に乗じて、暴徒と化しているのだ。また、貧乏に苦しんだ人が、火事場泥棒的な行動に走っているんだろうね。

 特に何も持っていないとはいえ、私はか弱い女子高生だ。自分が美少女だとは思ってないけど、「妥協」した男にレイプされる恐れはあるはずだ……。


 幸い、名古屋市営地下鉄東山線には、すべての駅にホームドアが設置済みだ。出入口部分とかの部分は透明だけど、腰までの壁になっている部分が多い。ホームからの角度や透明部分にさえ気をつけていれば、かがまずにそのまま歩いても見えない。しかし、用心にこした事は無い。私の足取りはゆっくりになった。

「ホントにサツが来ないな」

「でも復活するかもしれない。名古屋市の連中が国を作るんだと」

「へぇ、あの市長がリーダーをやるって? 知事と仲悪いままだろ?」

「まあ簡単な話ではないな」

聞き耳を立てつつ、私は駅の線路を慎重に進む。時々気になって、後ろを振り返る。大丈夫、電車は来ない。

 話の続きや他の話が気になったけど、二人組の強盗はホームから去ってしまった。階段をあがる音ともに、地上からのサイレンがいくつも聞こえてきた。地上はかなり混乱しているみたいだ。この地下鉄の線路を歩くほうが、まだ安全らしいね。

 新栄町駅を過ぎると、今度は栄駅の明かりが、線路の先に見えてきた。栄駅のほうが断然大きい駅だから、不安が大きくなってくる。その駅で地上に上がるわけだから、ホーム上に登るしかないのだ……。



「逃げようとすんな、コラ!」

「おい、持ってるもんを俺によこせ!」

「殺されてえか!」

線路の先に、栄駅の光が見えてきたんだけど、怒声や罵声といった大声が同時に聞こえてきた。間違いなく、栄駅はカオスな状況に陥っている。名古屋有数の繁華街を擁する駅なのだから、治安が普段よりも悪くなっている事は、高校生の私でも予想できたのだ……。

 正直近寄りたくないけど、ここで歩みを止めても仕方がない。他の地下鉄駅も、多かれ少なかれ暴徒はいるだろうし、戻っていたら余計な時間を消費してしまう。今日の正午にリセットが起きてから今までの状況の推移を考えると、時間が経てば経つほど、状況が悪化するのは間違いない……。


 私は、これ以上ないほど恐る恐るの調子で、栄駅に近づいた。幸い、駅にいる人々は、暗い線路から近づいてくる私になんて、気がついていない。まあ気がついたとしても、今はそれどころな状況じゃないだろうけど。用心するに越したことはないのだ。


「死にたくなけりゃ、そのカバンをこっちに寄こしな!」

「どうした? いきがんな? 足元が震えてんぞ?」

そんな物騒な言葉通りに、栄駅のホームは騒然たる状況に堕ちていた……。

 血を流したまま動かない中年女性。カバンを引っ張り合う暴徒と若い男性。不気味な広告を垂れ流し続ける、一部が割れた液晶ディスプレイ。元からなのか、ボケっと棒立ちしたままのジジイ。

 普段の栄駅では、あまりお目にかかれない光景が、今目の前で盛大に繰り広げられている。まるで映画のワンシーンだ。

 数秒間とはいえ、そんな光景に目を奪われてしまった私。我に返った私は、この場をすぐに脱するべく動き出した。こんな酷い光景は、後でいくらでも見られるに違いない……。


 ホームから地上へ向かう私だったが、スタイリッシュには動けない。残念ながら私は、ハリウッド映画の主人公みたいには動けないボディの持ち主なのだ。

 暴れたり狼狽える人々の視線をできるだけ避けつつ、ホームの西側にある昇り階段を目指す。怒声や悲鳴が、両耳に轟く。ついつい何度も足を止めたくなるけど、私は足を止めなかった。とても助太刀する余裕なんて無い。


 そして、昇り階段の元へたどり着けた私。

 階段の踊り場でインド人っぽい男性が、別の外国人男性の襟をつかみ、階段の尖り部分に何度も頭をぶつけていた……。頭の切り口から流れ出る鮮血が、階段を滴り落ちている。スプラッターな光景を目にした私は、階段のふもとで立ち止まってしまう。あのすぐ横を通過するなんて、巻き添えが危ない……。

 そこで、左側にあるエスカレーターが動いていたので、それで一気に駆け上がった。こっちは誰も死にかけていない。

 ところが、上階の降り口で、男女三人が折り重なり倒れていた。突然のため、思い切り踏んでしまう。踏んだ人は無反応で、たぶん死んでる。

「す、すいません」

死体とはいえ、謝罪の言葉が出る。手を合わせる余裕まではない。なにしろ、ホームより上階であるこの辺りも、暴徒による混乱が勃発していた……。



 日頃の習慣もあり、私はマナカをかざして改札を通過した。ビジネスバッグやジャケットを物色中の暴徒のすぐ横を走り抜け、地上に上がる階段を全速力で駆け上がる。ただでさえ閉鎖的な地下空間に、これ以上いるのはゴメンだ。

 階段の上を見上げると、空がオレンジ色に染まりつつあった。線路を歩く羽目になったせいで、ここまで時間がかかってしまった。オレンジ色が藍色に変わる前に、店に着いておきたいところだ。

 ところが、階段をあがる私の耳に、地上の喧騒が届く。近くにあるドンキホーテの賑わいだと思いたかったけど、その願いはすぐに塵と化す……。


 パニック映画の冒頭でよく起きる大混乱シーンが、私の目の前で隆々と繰り広げられている。自分は幻覚を見ているのだと思いたくなる光景だ。普段の栄は、もう少し落ち着いている。

 車道は完全に車の流れを止め、割れた窓ガラスなどの破片が、あちこちに飛散している。店のショーウィンドウに勢いよく突っ込んでいる車があれば、横転している車もあった。

 そして、何十人もの暴徒が、車の上に乗ったりしながら暴れている。ゴミ袋に略奪品らしき物を入れている人もいる。奇声や罵声を上げながら、放棄されたパトカーを破壊している暴徒が数人いた。この様子だと、警察はここにはいないようだ。

『犯罪行為を止めなさい! 今すぐ、犯罪行為を止めるように!』

いないと思ったけど、警察はいたようだ。しかし、空を飛ぶ警察のヘリからの警告だけだ。

 警察のヘリだけじゃなくて、消防やマスコミのヘリが、栄の上空を飛び回っている。大事件の現場みたいだ。西の空で輝く夕日が、ヘリやビルの窓ガラスを照らす。

「ウェイウェーイ!」

しかし、蛮行に酔いしれた暴徒は構わずに、略奪や破壊を続ける……。破壊されたパトカーから、警察無線機がコードごと引っ張り出された。どうやら110番通報しても、バッテリーの無駄に終わるようだね。

 どうにでもなれという投げやりな気持ちが少し生まれていたけど、私は坂本君の店へ向かう。道路は車だけの空間じゃないことを立証するつもりなのかはともかく、暴徒たちの多くは道路上を歩いていた。そのおかげで、私は歩道をスムーズに歩けた。道路沿いの店は、半数がシャッターを下ろし、もう半数は略奪の被害に遭っていた。歩道のあちらこちらに、書類やレシートが散乱している。私はそれらを踏まないように、できるだけ気をつけつつ進んだ。

 私のすぐ横を、パソコンモニターを抱えた二人組の外人がすれ違う。きっと、どこかのオフィスからパソコンを盗んできたところらしい。

 暴徒の顔をこっそりよく見てみると、アジア系外人の顔が多かった。きっと、不法滞在や技能実習生崩れの悪い外人だろうね。日本語の会話が、発達障害者よりも通じなさそうだし、気をつけないと……。


 普通の日本人である私は、するりするりと滑らかな動きを披露しつつ、歩道を進む。幸い、暴徒は私には目をくれず、破壊や略奪の仕事に集中してくれた。あれも一応、過集中なのかな?

「おい、と、止まれよ!」

 交差点角のコンビニの前で、三人組の若い男たちに立ち塞がれた。進路のジャマだから、言われなくても止まる。

「お、俺たちと遊ぼうよ!」

真ん中の男が言った。典型的で古臭いナンパのセリフだね……。

 その三人組の男は、どいつもこいつもイケメンではなくて、フツメン以下か未満といった外見を晒していた……。おそらく二十代で、女性経験に恵まれてなさそうな顔つきで、子供みたいなファッションセンスを持っている。おまけに、強そうな体格をしているわけでもない。グッドな要素といえば、ハゲじゃないことぐらいだね。

「…………」

正直相手したくなかったので、回答なしで無言の私。

「シカトしないでよ」

また、真ん中の男が言った。他の男二人は、かなり緊張しているらしく、目が泳いでいる有り様だ。この中でコミュ力が少しでもあるのは、この真ん中の男だけのようだね。まあ、三人とも立派な陰キャラだ。

「こんな時だからさ、俺たちが守ってあげるよ?」

余計なお世話でしかない。私の場合は極端だけど、チェーンソー男や狙撃をされた経験など、この男たちには無いはず……。ぶっちゃけ、私のほうが生き残れる確率が高いね。


「な、名古屋自治政府です! 我々は名古屋自治政府です! 非常事態宣言を発令中です! 反社会的な行動は止め、ただちに帰宅してください!」

東隣りの交差点から、スピーカーによるアナウンスが聞こえてきた。新栄駅で暴徒が言っていた、名古屋の役人たちによる政府の事に間違いない。これで秩序が回復するかな?

「うっせぇぞ!!」

「誰が帰るか、バカ野郎!! お前らが帰れ!!」

そう簡単にはいかないらしいね……。暴徒たちは、すっかり無秩序の中で生きているようだ。いくらか野生に還ったかのような雰囲気を醸している。

「ただちにこの場から離れなさい! 愛知県警、いや、名古屋自治警察が強制排除を始めますよ!」

アナウンスの女性が大声で告げたが、その声は震えている。強気で偉そうな口調じゃないから、彼女は愛知県警ではなく役所の人間だろうね。どういう意志を持って、その仕事を担っているのかが、私はつい気になった。

「さ、さぁ、俺たちと一緒に行こう」

陰キャラ三人組のさっきの男が、しつこく言ってきた。さて、無視するか、強気で断ってやろうか?


「この場から離れなさい! 今すぐ立ち去りなさい!」

そこの交差点に、盾や警棒を手にした機動隊が現れた。横一列に並び前進し、集まる暴徒たちへ解散を促す。

「うるせえ! マジでやんのか!」

「その数でなんとかなると思ってんの!」

暴徒たちは口々に叫び、その場に留まり続ける。機動隊は盾を前面に掲げ、前進し続ける。お互い引く気はない。

「ああ、元通りの社会に逆戻りかあ……」

陰キャラ三人組の誰かが呟いた。こいつらもこいつらで、何か悪事をやってきたのかな? 略奪に便乗して、カードゲーム屋でいくつか盗んできたんだろうね。


 機動隊と暴徒たち双方が、正面から衝突する。警棒が振り回され、殴られた暴徒は悲鳴を上げる。また、透明な盾による壁が、暴徒たちを後ろへ押し退ける。機動隊が、暴徒たちをどこまで交代させるつもりなのかはわからないけど、傍目から見ると、警察側の勝利が時間の問題に思えた。

 だがしかし、暴徒たちはこのまま鎮圧されるつもりはないらしい。投石が始まったかと思うと、火炎瓶まで飛び始めたのだ。外国の暴動にしか見えない。

 数個の火炎瓶が、薄暗い夕暮れの空を、赤い尾を引きながら飛んでいき、機動隊員の頭や道路で割れる。そして、火の玉がぶわっと大きく膨らんだ。

「熱っ! 熱い熱い熱い!」

上半身を炎に包まれた機動隊員が、その場でジタバタと跳ね続ける。しかし、引火したガソリンを思いきり被っているため、その炎はなかなか勢いを弱めない。仲間の機動隊員たちは、脱いだ上着で炎で覆ったり、消火器を持ってきたりしている。まさか、この時代に火炎瓶まで飛んでくるとは思っていなかったようだ。

 私は少し離れた場所から、衝突や火ダルマ人間を見ていたわけだけど、熱気と緊迫感が強烈に伝わってくる。とはいえ、長く見ていたい光景ではない。今は包まれた炎で隠れてグロテスクじゃないけど、後でグロテスクな焦げを見ることになるからだ……。酷い火傷の画像をネットで見たことがあり、人間の焦げが、赤色と黒色が細かく入り交じった不快なものなのは知っている。

「うおおおお~~~!」

暴徒たちが雄叫びをあげ、機動隊を押し返し始めた。機動隊が、燃える仲間の介抱に当たっている隙を突く形だった。卑怯な流れだけど、これはスポーツではない。暴動には、ルールなど存在しえないのだ。機動隊の陣形が崩れ始める。奪われた警棒で逆に殴られる者もいた。


「おいおい、これはすごいな! リアル~!」

陰キャラ三人組の誰かが、興奮の声をあげた。呑気なもんだね。

 ポンッ! ポンッ! ポンッ!

 ビニール袋が破裂したような音が、何度も高く鳴る。方向的に機動隊側から発された音だ。

「ガスだ! 催涙ガスだ!」

暴徒側から、息苦しそうな叫び声があがる。どうやら、海外で暴動の鎮圧によく使われている、催涙ガスを機動隊が使ったようだ。よく見ると、白い煙が暴徒たちの足元からモクモクと立ちのぼっている。テレビで見た通りだね。

 盾を構えた機動隊の陣形のすぐ後ろで、グレネードランチャーを構えた機動隊員が数人いた。訓練でしか使ったことが無いらしく、慎重に催涙弾を撃つ狙いを定めている。ピストルで使われるような実弾でないとはいえ、小さな金属の塊を飛ばすことには違いない。弾もタダじゃないし、慎重になるのは当たり前だろうね。

「後ろの奴らを狙え~!!」

暴徒たちの中から大声があがる。いくら暴徒とはいえ、頭がマシな人間は、どこにもいるものだ。

 その命令に素直に受け取った暴徒たちは、催涙弾を今にも撃とうとしている機動隊員に向けて、再び投石などを始めた。「など」というのは、火炎瓶もまた混じっていたからだ……。

 幸い今度は、火炎瓶は誰にも直撃しなかった。しかし、硬い道路で割れた火炎瓶は、ちょっとした火の海を広げる。

「うおっ!」

グレネードランチャー装備の機動隊員が、慌ててバックステップを踏んだ。自分のすぐ足元まで、火の海が広がったのだから、この反応は当たり前だった。

 しかし、勢いよくバックステップした拍子に、ランチャーの引き金を引いてしまった。もちろん、そんな時に狙った方向は、メチャクチャな具合だ……。

 ポンッという音ともに、ランチャーから催涙弾が放たれる。その催涙弾は、暴徒たちの方向ではなく、私の方へ飛んできた……。しかも、かなりのスピードだ。催涙弾は、歩道上で一度バウンドすると、

「グエッ!」

陰キャラ三人組の一番マシな男の、横っ腹に命中した……。そして、その場にコロンと落ちると、プシューという噴出音とともに、白い煙を力強く吹き出す。間近で見ると、ホントにすごい勢いだ。

「ゴホゴホ」

しまった! 目が痛い!

 間近でまともに催涙弾の噴出を見てしまい、私はすぐに目に痛みを感じた……。死にそうなほどの激痛ではないけど、涙が自然に流出する。もちろん、目は開けてなどいられず、バランス感覚を失って倒れそうだ……。

「ううっ、苦しい……」

「腹も痛いし、目も痛いし、喉も痛い!」

「どっちに行けばいい!?」

陰キャラ三人組も、もろに催涙弾を喰らったみたい。嬉しいわけじゃないけど、少し安心できた。私を誘拐する余裕は無い。


「おい、森村!!」


 視界が真っ暗闇の中、坂本君の声が脳に響き渡る。すぐ近くにいるんだ!

 彼を探し当てようと、両手を前にそっと差し出す。次の瞬間、私の左手が勢いよく前へ引っ張られる。それが坂本君の手であることは、すぐに察知できた。あの三人組の手なら、油染みた気持ち悪い感触がするはずだから。

「転ばずについてきてよ!」

坂本君は言った。少し遅い台詞だけど、今は許そう。

 よほど危険な状況なのか、坂本君は手を強く引っ張り続ける。私は転ばないよう、彼の早い足取りに精一杯合わせた。質問する余裕など無い。覚えていたら、後でまとめて聞こう。


 私はそれから何分か、坂本君に手を引っ張られ続けていた。彼はずっと走っていたわけじゃなくて、急に立ち止まったり走り出したり。目の痛みがまだ残っていて、目を開けられない。

 なので、状況がわからず、急ブレーキや急発進の度に転びかける。空き缶や段差にもつまづいた。今にも足をくじき、額を打ちつけそう……。

「おいおい! どこ行くんだ!?」

耳は聞こえるので、危ない状況なのは把握できる。しかし、出くわした相手がどんなヤツなのかや、凶器を持っているかすら、私にはわからない。

 そして、全速力で走らされ、階段を駆け上がらされた後、どこかの部屋へ引き込まれた。これだとまるで誘拐か強制連行だね……。


「あらあら、ずいぶん大胆ね?」

「森村だよ。会うのは初めてだったっけ?」

女性と坂本君の声がした。

 その女性の声は一度聞いたことがある。以前、坂本君のスマホに繋がらなかったときに、家の電話へかけた。その電話に出た人が、坂本君の母親だった。明るくてきれいな口調だったのを覚えている。すると、私は彼女の店に連れてこられてきたんだろう。

「森村が絡まれてた。外はドンドン酷くなってるよ」

坂本君はそう言うと、私をソファに座らせた。フカフカとした座り心地の良いソファだ。我が家の年季が入ったソファとは、明らかに違うね。

「店はもう閉めてるから、ここは安全だよ。危ない奴はいない」

彼の言葉を聞き、私はびくついた緊張感をいくらか和らげることができた。



 だんだん、目を開けられるようになってきた。目の痛みは治まり、涙はもう流れない。あまり明るくない場所らしく、つぶっていた目を開けても、眩しく感じなかった。

 私が目を開けると、坂本君は安堵の表情をチラリと見せてくれた。私を強い力で引っ張りつつも、ちゃんと心配してくれていたようだ。


 連れてこられた場所は、やはり坂本母のクラブだった。テレビドラマとかで、飲み屋のクラブを見た事はあるけど、実際のクラブに入ったのは、もちろん今回が初めてだ。

 座ったまま周囲を見回せば、テレビで見たクラブと実際のそれは変わりない。天井に吊り下げられたシャンデリアは、暖色で優しい光を提供する。しっかりした造りのテーブル上には、重厚なガラス製の灰皿が置いてあった。私が今座っているソファも含め、どれも高級感が備わる。

 かなり高級なお店なんだろうな。洋風のオシャレながら、厳かさも兼ね揃えた立派な雰囲気だ。家や学校、普段行く店とは別世界。

「ハイッ」

坂本君が、氷入りのオレンジジュースが入ったグラスを手渡してくれた。これぐらいの店だと、オレンジジュース一杯も高値なんだろうね。タダとはいえ、値段がつい気になる。


 カウンターの向こうにある棚には、一口分だけでも高く取られそうなお酒のビンが、整然と並べられている。カウンター席には、スーツ姿の初老男性が一人座り、私たちをそっと見ていた。見覚えのある顔……。

「ケガしてないか?」

その男が私に言う。彼は、あの初老刑事だ。金山近くのビルで、銃撃から爆発という派手な流れから、彼も生き残ることができたらしい。

 ただそのスーツは、ヨレヨレでシワがよく目立つ。ネクタイを締めず、ワイシャツの襟はダランと開けていた。仕事中か休暇中なのかも微妙だ。

 あと気になるのは、彼の疲れた風貌だけでなく、相方の若い刑事がいない事。ああ、彼は生き残れなかったのかもしれない……。

「だ、大丈夫です」

「そうか。今は警察官の数が少なくてな。本音を言うと、無法者どもを抑えつけられるかは五分五分だ」

彼は、出入口のドアを指す。外からの騒音が、ここまでチラホラ聞こえてくる。爆発音や銃声も時々聞こえてくるから、状況が悪いほうへ転がっている事ぐらいは、高校生の私でも理解できた。とはいえ、現役の警察官から、そういう気弱な話は聞きたくない!


 初老刑事の前には、ウィスキーのビンやグラスが置かれている。仕事をサボって飲酒かと、私はつい愚痴りたくなった。消費税ぐらいしか払ってないけど、私も納税者だ。

「そんな顔するな。私も精一杯やったんだ」

不快そうな表情が顔に浮かんでいたらしく、彼はそう言った。

「じゃあ一体、何をやってきたの?」

私は思わず尋ねた。

「そうそう! それを聞きたくて、ここにやって来たんだよな? 森村はホントに好奇心がヤバい!」

坂本君がニヤニヤしながら言う。ちょうどいい質問だったようだ。 それなら早く聞きたい! 銃撃戦と水素爆発有りの地下鉄に乗り、線路をウォーキングした上に、催涙弾を喰らってまで、ここに来たんだからね……。洗いざらい話してもらわないと、納得いかない!

「わかったよ。捜査情報も含めて、すべて話してやる。どのみち私は、適当な理由で逮捕されるだろうしな」

捨てセリフ調にそう言った。すごく嫌な出来事が、彼の身に起きたばかりなのは間違いないけど、今は話を聞くほうが大事だ。


「私がよく注意してなかったせいで、石田を死なせてしまった。私がこれから話すのは、それも理由だ。じゃないとヤツも浮かばれん」

「石田?」

「私と一緒にいた若い刑事だよ。ヤツは、刑事課に配属されたばかりの新人でな。自分から刑事課を志願するような、やる気のあるヤツだったよ……」

やっぱりあの若い刑事は死んじゃったんだ。きっと、あの爆発にやられたんだろうな……。

「お前たち関係の最初の事件が、ヤツの初捜査だった」

「だからボクらは関係ないって!」

坂本君が大声で言った。彼はカウンターの少し離れた席に座り、鮮やかな色合いのジュースを飲んでいる。

「それはわかってる! つまり、最近の障害者絡みの事件だよ。もう疑ってない」

初老刑事は言い返した。わかっていたけど、私や坂本君は警察に疑われていたみたいだ。まあ、主犯格の高山さんとよく一緒にいたから、疑われるのは仕方がないかもしれないね。いい気持ちにはならないけど。

「ヤツは、一連の事件の背後に、未知の巨大な組織がいるはずだと言っていたが、私は真剣には取り合わなかった。暴力団やどこかの工作員絡みだと思っていたんだ。オレがようやく正体を確信できたのは、ヤツが爆発で死んでからだった……」

初老刑事は、話すのもつらそうに言った。悔しさもあるが、悲しさのほうが強い印象を受けた。


「奴も警察官だ。現役の警察官が殺されたとなれば、どこの警察も本気になる。ガチのガチだ」

まあ、身内関係だとそうなるだろうね。

「ところが、簡単な捜査だけで、それでおしまいだったんだ! 捜査本部もできなかった」

身内以外だと、簡単な捜査でおしまいなのかな……? 本筋よりも怖い話だね。

「もちろん、刑事課長や上に抗議したが、すべて無駄だった……。そこでやっと私は、背後に巨大な組織がいると確信できたんだ。だがしかし、完全に手遅れ。警察だけでなく、政治家、政府上層部にも、すでに根回し済みだった。どうやら、課長もその組織と関わりがあるらしい」

「だから、ここに逃げ込んできたんだろ?」

これは坂本君の発言。彼は顔を赤くしている。ジュースじゃなくてカクテルを飲んでいたようだね。緊張感が相変わらず皆無だ……。

「……それは後で話す。酷い根回しがされていたせいで、とうとう関係する捜査を全部やめさせられた。かなり危険な組織のようだ。こっそり調べたところ、他の国々の上層部にも、その組織の根回しがされてるようだ。しかし、早く気がついていれば、根回しがされる前に、組織そのものを潰せたかもしれない。いや、潰せたはずだ」

彼はそう言い切ると、グラスの酒を一気に飲み干した。彼の顔も、すっかり赤くなっている。完全にやけ酒だね。


 確かに、彼が捜査ミスを起こさなければ、高山さんの組織が成長するのを防げたかもしれない。だけどそれは、私や坂本君にも、できたかもしれない。だから、彼を責めることなどできる立場じゃなかった。

 ……とカッコよく言ったものの、高校生である私たちにできることは、現実的に何があるだろうか? アメリカ漫画のスーパーマンみたいな能力を持っているわけでもない。できることといえば、高山さんを説得するぐらいだ。それは失敗したけど、チャレンジはしたんだ。「できることをやればいい」なんだから、責めないでほしい……。


「完全に手詰まりだった。各国の上層部に闇深く喰いこんだ組織を退治する手段は、もう残っていなかった。……これからの未来を背負う、お前たちにも悪いけどな」

彼は言った。彼の口調からは、後悔や罪悪感が強く感じ取れた。

「……いや、できることをやるしかないですよ」

私はそう言った。これは、私自身に対する言葉でもある。今は納得するしかない。後悔は、文字通り後回しでOKなんだ。


「ありがとう」

初老刑事は言った。心からの言葉だと感じた。

「それから、リセットが宣言されたのは、寝耳に水だった。正午に総理が、何かを発表するのは聞いてたが、まさか「日本やめます」だからな。根回し済みの課長も驚いていたぐらいだから、かなりの極秘事項だったんだろう」

『こちら第二チーム! 大津通を退却中! 第三チームの桜通大津交差点にて、体勢を立て直します、どうぞ!』

『こちら本部です! 第三チームとは連絡が取れません! 呼びかけに応じません! そちらからはわかりますか!?』

『第一チームだ! 囲まれて身動きが取れない! 増援を求む! 今すぐ増援を求む!』

いきなり無線音声が、店内に鳴り響いた。

「おっと、失礼」

坂本君がカウンターの端で、小型無線機を操作していた。操作がわからず、最大音量で流れてしまったみたいだね。

「おい、壊すなよ! こういう時に、警察無線は貴重だ!」

刑事が呆れ顔で注意した。刑事の持ち物らしい。

「リセット宣言があった正午を境に、東京と連絡が取れなくなった。警視庁ともな。おかげで、ウチは大混乱さ。なぜかすぐに鳴らなくなったが、市民からの電話が殺到したからな。とはいえ、私たちも答えようがなかった」

刑事は肩をすくめた。電話応対でそうとう疲れたんだろう。

「ピタリと電話が鳴らなくなったから、それはそれで大混乱さ。気がつけば、ケータイもネットも使えなくなっていたからな。原因の把握もできない。幸い、警察とかの無線は使えたが、いつもより時間と手間がかかる……。あまりに面倒だから、県警本部まで出向いたぐらいさ」

坂本君は、警察無線にかじりつき、飛び交う無線に耳を傾けていた。音量をかなり低くしてくれたので、今は耳障りじゃない。何を聞いているのかが、つい気になるけどね。

「県警本部も大混乱さ。……そして、私たちがてんやわんやしている時に、あの名古屋市長が本部にやって来て、名古屋を独立国家にしようと言い始めた。とりあえずの名前までもう決めたらしく、『名古屋自治政府』だと言ってたな」

テレビでよく見かけた名古屋市長の顔を思い出した私。確かに、あの市長なら、言い出しかねないね……。まあ、統制のためとして、悪い対応ではないけどさ。

「指揮系統とかの疑問はあったが、その場にいたほとんどが、それに賛同したさ。『溺れる者は藁をもつかむ』というやつだな」

「でも、うまくいってないみたいですね」

私はそう言い、出入口のドアを指さす。刑事はため息をついた。

 そんな時に坂本ママが、刑事の空のグラスに、そっと氷とウィスキーを入れる。話の途中だから、あまり飲ませないでほしいなと思った。とはいえ、商売だからね。


「私も、とりあえずの対応としてはいいと思ったさ。……だが、二重行政の弊害が、こんな時にも起きたんだよ。名古屋市長が陣頭指揮を取り始めたと思ったら、愛知県知事もやって来てな。市長の自治政府樹立が、よっぱど気に入らなかったらしく、市長に文句をつけ始めたんだ。そのおかげで、少しは収まった混乱が、また酷くなった。名古屋市長側につくヤツ、愛知県知事側につくヤツ、どちらでもないヤツといった構図ができてしまってな……。市内のあっちこっちで、買い占めや略奪が起き始めていたにも関わらずだ」

怒るのをスルーして呆れたことだろうね。高山さんの組織とは正反対で、市長と知事は根回しを一片もやってなかったのだ……。

「今すぐさっさと決闘を始めて、ケリをつけてほしいと思ったが、その気持ちは脇に置いた。私は思い切って、市長と知事の間に割って入り、仲裁をしたさ。私にできることだったからな」

勇気のある行為だと感心した。私なら、無責任な傍観者になってる

かもしれない。

「殴り合い直前でなんとか、市長と知事をなだめることができたよ。仲直りの握手まではしなかったけどな」

あの二人を、どうやってなだめたのかがつい気になったけど、今は脇に置こう。いつか後に、「二重行政の弊害」というテーマで学べる機会が来るだろうね。

「……ところがだ。本部のお偉方の一人が、この仲裁を良く思わなかったみたいでな。『余計なことをするな。殺されても知らないぞ』と、こっそり言ってきやがった」

「脅されて怖くなっちゃったんだ?」

カウンターの端にいる坂本君が、余計なことを言った……。

「ヘッ。この歳になれば、お前もわかるさ。体が思うように全然動かなくなってくるからな。それに、組織に買収された課長が潜り込んだままじゃあ、名古屋自治政府崩壊は避けられないさ」

「でも、この無線機は? やっぱり気になるから、ここに持ってきたんじゃない?」

坂本君は言った。ニヤニヤと嫌らしい顔をしている……。刑事の図星を突けたと確信しているつもりなんだろうね。

「……まあ、気になるのはその通りだな。高校卒業後、この歳になるまでずっと県警に勤めてきた。どうせダメになるなら、その最期を見届けてなければな……。お前らはバカにするかもしれないが、それでも私の人生がそこにあったんだよ」

刑事は静かにそう言うと、グラスの酒をぐっと飲む。

「泣かせるねえ。愛知県警の警察官はみんな、歩道で日向ぼっこしてんのかと思ってたよ」

「……楽に警察官をやりたいなら、交通課へ行ってたさ。平針で、お前みたいなガキんちょの根性を叩き直す仕事も悪くない」

平針と聞き、運転免許のことを連想した。来年か再来年に、私はあそこで免許を受け取るつもりだったのだ。この流れだときっと、私も坂本君も、無免許運転をせざるを得ないだろうね。


「さて、話を戻すぞ。そのまま本部にいたら危険だった。どれだけの同僚が取り込まれてるか、わかったもんじゃないからな。私は一旦、もとの署に戻ることにした。……行きは大丈夫だったんだが、帰りはあっちこっち渋滞だ。警察官が出てたが、人数が全然足りない上に、誘導をシカトしまくる連中ばかりで、ちっとも進みゃしない。赤色灯をつけ、サイレンを鳴らしたが、それでも効果なし。いい度胸してるなとイラついたが、逮捕して回ってる余裕はなかった」

初老刑事は苦々しい顔で、グラスから一口飲む。普段なら、ブン殴って回っているのかな?

「よっぽど急いでいたのか、歩道を走り始めたバカがいた。猛スピードじゃないが、いつ跳ねてもおかしくない。そこで私はガマンできなくなり、そのバカ車を追いかけることにした。私のパトカーも歩道を走るわけだが、もちろんゆっくり慎重にだ。走りながら、バカ車に停車を呼びかけたが、それもシカト。まったくいい度胸してると、怒るどころか呆れたよ」

アクション映画のワンシーンを思い浮かべた私。とはいえ、もっとスリリングなワンシーンを何度も私は経験済みだったけど……。

「次の交差点で、そのバカ車は止まった。観念したのかと思ったが、なんと向こうの歩道から別のバカ車がやって来たから止まっただけだった……。交通整理の連中でさえ、この珍事に呆然していたぐらいだ。私はバカ車の後ろにパトカーを止めて、ソイツがこれ以上余計なことをしないよう塞いだよ」

ここまで話したところで、刑事の顔が険しくなった。眉間にシワが寄っている。バカ車のドライバーが、すごくハイレベルな人間だったのか、すごくバカだったのか、またはその両方だったのかな?

「交通整理の連中が、そのバカ車と話し始めた時だった……。左の道路から、陸上自衛隊のトラックが何台も走ってきたんだ。路肩だったが乱暴な走り方で、横の車やガードレールにぶつけながら走ってきた。しかも、スピードを全然落とさない……。止まれと叫んだが、それもシカトだ。トラックどもは、私の車やバカ車をブッ飛ばしただけじゃなく、警察官をプレスしやがった!」

ああ、今年も愛知県は、交通事故死者数ワースト一位に輝きそうだね。何年連続の記録なのかはわからないけど……。

「ひっくり返った車から這い出た頃には、トラックどもはもう走り去ってた。カバンと警察無線を車から取り出し、死んだ警察官から銃を回収しておいた。壊れた車からガソリンが漏れ出していたから、遺体はそこに置いてくしかなかったよ。ただそんな状況でも、呑気にスマホを構える連中がいた……」

ネットとともにSNSもダウンしてるのに、インスタ映えとは、ホントに呑気だね。まあ、私もつい撮ってしまうかもしれないけど。


「私は近くのカフェに駆けこみ、警察無線で応援を要請したさ。だが、どの署も手一杯で、それどころじゃなかった。略奪や暴力が起きまくっていたんだ。非番の警察官まで駆り出すぐらいだった」

そこで私は、また店の出入口を見る。暴動による騒乱は、全然収まりを見せていないようだ。警察無線に過集中の坂本君は、不謹慎なニヤケ顔を晒している……。きっと、状況は悪化し続けているんだろうね。

「事件は、私がいたカフェでも起きた。まず、高いコーヒー豆を手掴みで、ビニール袋に詰め始めたヤツが現れた。もちろん、詰め放題買いをやってるわけじゃない。その直後に次は強盗だ。こっちは慣れているのか、レジの店員が紙幣を手渡していた。ところが、強盗が店を後にしようとしたところに、二番目の強盗が現れやがった。さすがにパニクったのか、店員が『今のお客様で売り切れです』なんて言ったんだ……。そしたら、一番目と二番目の強盗同士が大喧嘩さ。私は思わず吹き出したよ」

うん、それはシュールだったろうね。アクション映画じゃなくて、コメディー映画だ。

「それ以上吹き出すのをこらえて、私は強盗二人に近づき、動くなと言ったよ。ところがその二人は、私をチラ見しただけで、そのまま喧嘩を続けた。この警察手帳を見せてもな……」

初老刑事はそう言うと、慣れた手つきで、警察手帳を私に見せた。すっかり色あせた警察手帳の中には、「小池」という名前と彼の顔写真が載っている。

「……私は気がついたよ。その強盗二人と、コーヒー豆の掴み取りをやってるヤツは、この日本が無政府状態になってる現実を、もう受け取める事ができた連中だったんだとな。私はそんな現実に対して、受け止めるじゃなくて打ちのめされたよ……」

そこまで話すと、初老刑事こと小池は、上着のジャケットの中から、真っ黒なピストルを抜いた。リバルバー式の古臭いピストルだ。それを見た途端、私は反射的に身構える。もしや、自殺するつもりでいるのかな? 目の前で拳銃自殺されるのは、さすがに嫌だな。警察署に帰ってからにしてほしいところだ。

「だが、その場でずっと打ちのめされていたわけじゃない。もしそうなら、私はここにはいないからな。……私も現実を受け止めた。しっかりとな」

刑事の小池はそう言うと、リバルバーピストルの円形をした弾倉を、カチャリと横に動かした。中には銃弾がしっかりこめられている。それから、またカチャリと元に戻した。

「私は、強盗が奪い合う紙幣のド真ん中に、一発撃ってやったよ。……そんな発砲をしたのは、もちろんその時が初めてだ。リセット前なら、間違いなく始末書を書かされてたな」

小池は言った。彼は今日、ついに吹っ切れたんだろうね。


「私が発砲すると思ってなかったらしく、強盗は三人とも逃げ出したよ。紙幣やコーヒー豆を撒き散らかしながらな」

強盗はたぶん、発砲してこないとタカをくくってたんだろうね。

「事件は解決したが、店の客や店員まで驚かせてしまってね。さすがに居づらく感じたよ。どのみち、そこに長居をするつもりはなかったから、徒歩で署へ戻ることにした。最後に念のため、応援をまた頼んでみたが、やはりダメだった」

どこのカフェなのかは知らないけど、突然の銃声に驚いちゃう人がほとんどだろうね。

「店を出たところにも、紙幣やコーヒー豆が散らばっていた。通行人が踏んだらしく、コーヒーの香りが漂っていたよ。オレの発砲のせいだろうが、街はさっきよりも静かだった。渋滞している車のエンジン音がはっきりと聞こえるぐらいにだ。それでも私は、周囲を警戒しつつ、署に向かい始めた」

私は、狙撃されたときの事を思い出した。あのときのような、不気味な静けさがあったんだろうね。

「視線を感じながら歩いていると、五十メートルぐらい前のコンビニで、略奪が起きていた。ぱっと見たところ、そいつらは外人だったよ。技能実習生崩れの不法滞在者だろう。なにしろ、銃声を気にしないぐらいだからな」

彼らが雇い主に酷い扱いをされているのはわかるけど、ここは普通の法治国家だから、犯罪は勘弁してほしいものだね……。

「さっきの強盗と同じく、私はそれを見過ごすわけにはいかなかった。どうせならと思って、アメリカの警察みたいに、銃を構えながら向かったよ。ところが今度は、後ろにあるコンビニでも、略奪が起き始めた。どっちへ向かうべきかで迷ったよ」

そういえば、この店へ来る途中にも、略奪中のコンビニがあったね。今頃は、買える物が無くなっていそうだ。

「私が迷っていると、すぐ近くにいた、生ビール運びのトラックが襲われた。荷台がこじ開けられ、次々に盗まれていったよ。ドライバーの兄ちゃん、呆然としてたな。……不謹慎だが、生ビールが飲みたくなったよ」

「あらあら」

いつの間にか一緒に話を聞いていた坂本ママがそう言った。それから、カウンターに入り、小池に生ビール入りのジョッキを渡した。

「悪いな、ママさん。後で必ず礼をするよ」

小池はそう言うと、注ぎたての生ビールを、ぐいっと飲む。生ビールのCMみたいな飲みっぷりだね。

「……そのビール泥棒が引き金になったらしく、一気に大騒ぎが起きた。店という店で略奪が起き、強盗が大発生さ。しかも、逃げようとする車で、事故があちこちで起きたんだ。私一人には、どうしようもない酷さだったさ……」

ジョッキの半分ほどを飲んでから、小池はそう言った。これ以上無いぐらい、悔しそうな表情を浮かべている。


「恥ずかしさも感じながら、私は署を目指した。道路は完全にマヒしていたから徒歩しかない。一秒一秒ごとに、治安が壊れていくのを、嫌でも目にしたよ。略奪、強盗、暴力、強盗、放火、レイプ、リンチ、爆発。犯罪のオンパレードさ。私はもちろん、街にいた警察官は、もはやどうしようもない様子で見過ごすことしかできなかった。我々は銃を持っているが、弾をたくさん持ち歩いているわけじゃないから、自衛で精一杯だ……。できることといえば、悪人どもの顔を覚えておくことぐらいさ。名古屋自治政府ができたら、一人残らず逮捕してやる。……自治政府ができたらの話だけどな」

小池はそう言うと、悲しみがこもるため息をついた。


 私は、警察無線のほうへ聞き耳を立てた。

『実弾発砲の許可をくれ! これ以上は抑えられない! 外掘通りまで突破されるぞ! 実弾を使わせろ!』

『実弾の発砲は許可できない! 状況がさらに悪化する恐れがある! 催涙弾、ゴム弾で対応してくれ!』

『無茶言うな! 急所は外す! 実弾を使うぞ!』

『ダメだ止めろ!』

『すまん! パァン!! パァン!! パァン!!』

銃声が何度も聞こえてくる。しかも、無線からだけじゃなく、店の外からもだ……。おかげさまで、銃声は何回も聞いているけど、緊張感はいまだに湧いてくる。


「……署まで徒歩十分ぐらいまできた時のことだ。私の目の前で、パトカーがひっくり返された。パトカーがひっくり返される光景なんて、海外ニュースや映画でしか見たことがなかったから、衝撃的だったよ。……訓練でも見たことがあったが、訓練とは全然違う。しかも無人じゃなくて、警察官が乗ってたんだぞ!」

小池は強くそう言うと、涙をポロリと流した。

「そこにいた連中は、キチガイみたいに笑いながら暴れてた! パトカーから警察官を引きずり出してリンチだぞ! リンチされてたのは、まだ研修中の新米ボウズだった! 人々からまだ恨まれていなかったはずだ! ウチの課長と交換できるならそうしてた!」

ジョッキのビールを一気に飲み干す小池。ジョッキを持つ手が、スマホのバイブみたいに震えている。

「もう一杯飲みます?」

「いや、しばらくやめとくよ。ありがとう」

坂本ママからの勧めを断った小池。確かに、今これ以上飲むのはマズそうだ。酷く酔われてしまうと、話の信憑性がグラグラと崩壊してしまうからね。

「そこで発砲したよ。今度も威嚇な。集まっていた連中が、ぐいっと私に注目した。……新米ボウズも気づいてくれたと思う。連中は、私が撃てるタイプの警察官だとわかると、新米ボウズを解放したよ。だが手遅れだった……」

飲み干した事をド忘れしたのか、空のジョッキを一度掴んで放す。


「新米ボウズは死んでた。どこかで腹を撃たれたらしかった。ボウズをリンチしてた連中から聞き出したが、どいつもこいつも何も知らなかった。それどころか、このパトカーが、サイレンも鳴らさずに突っ込んできたと言い出した。……確かに、倒れた街路樹があったが、車をひっくり返してリンチなんてしなくていいはずだろ!?」

私に同意を求める小池。だけど、私は目撃者でもない。無責任に同意しちゃっていいものか……。

「パニックと集団心理のせいだろ? 現在進行形で、アンタのお仲間が撃ちまくってるみたいだぜ?」

坂本君が、目の前の警察無線を指差しながら言った。

『撃て撃て! 一人も突破させるな! そっちからも来るぞ!』

警官の必死な声と一緒に、銃声が何度も聞こえてきた。暴徒たちを皆殺しにするような気迫が伝わってくる。入り交じった音声からだけでも、殺すか殺されるかという酷い光景が繰り広げられているとわかってしまうほどに……。

「……彼らだって撃ちたくないさ。こんな状況で必死になるのはおかしくないだろ?」

今度は、私と坂本君の両方に同意を求めた。オペラで見かける、演者が神様に祈りを捧げるシーンのように感じた。同意のフリだけでもしてあげようと思い、私は黙って、頭を上下に振った。一方の坂本君は、聞かなかったフリをして、警察無線にまた耳を傾け始める。

「……彼らがボウズを殺したわけじゃないとはいえ、私の怒りは収まらなかった。パトカーの破壊とリンチは、彼らがやった事だったからな。しかし、その場にいた連中は、警察が悪い、コイツが悪いと、居直り始めた。そんな態度に、私の怒りはさらに酷くなった。……他人事みたいな言い方で悪いが、その時はホントに感情がコントロールできない状態だったんだ。おかしな犯人が、弁護士経由で『自分を見失っていた』とよく言う理由が、今になってわかったよ……」

小池の話しぶりが、弱々しくなってるなと感じた。長話もそうだけど、今日は今年一番激務な一日だったんだろうね……。


「……私はまた撃った。狙いも定めずに何発もな。辺りにいた連中はみんな、一目散に逃げてったよ。撃ち終わったら、いなくなってた……。しかし、辺りのどこかからか、たくさんの視線を感じる。冷たくて鋭いやつのな。連中は隠れつつ、私を襲う事にしたんだろう……。怖くなったさ。例のあのビルで、カウガール気取りの嬢ちゃんに襲われたときよりも、ずっと強い恐怖をな……」

他人の恐怖心はわからないけど、あの奇襲よりも怖いということは相当のものだろうね。


「ボウズの遺体を、その場へ置いていく形になったが、私は逃げたよ。それ以上、殺気と冷たさと鋭さが混じった視線に晒され続けるのはゴメンだった。耐えられなくてな……」

人生経験が豊富そうな、このベテラン刑事でも、精神的に参ることはあるんだね……。小池らへんの古い世代だと、精神論重視の時代に生きてきたから、人前では弱音を吐かないと思ってた。

「署にこのまま向かうか、本部に戻るかで迷いつつ、栄をうろついていたよ。……栄はどこも、酷い有り様だった。松坂屋や三越の辺りは、正月の初売りみたいな大騒ぎで、マネキンまで略奪されていったよ」

私はつい思わず、その略奪に参加したくなった……。お小遣いだけじゃ買えない服やアクセサリーが、あそこにはたくさん揃っていたからね。もう品切れになってそうだけど。

「略奪目的じゃないが、大騒ぎの松坂屋に入った。人混みにまみれれば、あの連中から追跡されていたとしても、自然に撒けるからな。……そこで、アイツを見つけたんだ。酒を何本も抱えているところをな!」

小池は、坂本君を指さした。

「母さんから買い物を頼まれたんだよ。アンタがさっき飲んだ酒もそうだけど?」

坂本君が言い返した。

「じゃあ、レシートを見せて?」

これは坂本ママだ。しかし、坂本君は聞かなかったフリをした……。つまり、正式な買い物をしたわけじゃなくて、略奪をしたというわけだね……。とはいえ、ついさっき心の中で、そんな略奪に参加したいと思ってしまったから、彼を非難できない……。

「そこでアイツと話をしてな。ここで一泊させてもらうことになった。……まあ、悪くない取引だったよ」

「取引!? どんな取引?」

思わず反射的に尋ねた私。悪い癖だね。

「悪いが、それは機密情報だ。どうしても知りたければ、アイツから聞きな。……まあ、じきにわかる事だがな」

小池はそう返答したものの、気になるね。

「森村にとっても悪くない取引だよ。それにあと、酒を運ぶのを手伝ってもらったこともあるからね。森村もここに泊まって行けよ。学割と恋人割でタダにしとく」

「やっぱり、お前たちデキてたんだな。まったく、今の若い子たちは、変わった恋愛をするもんだ」

小池が、ニヤニヤ笑いながら言った。彼の笑顔を見たのは、その時が初めてだ。堅物で怖い初老刑事だと思っていたけど、笑顔を浮かべることもできたんだね。

「私の若い頃とも違いますよ。時代の流れというのは、良いものも悪いものも、同じように流れていくものなんですね」

坂本ママは、しみじみとした穏やかな笑顔だ。今のところ、私を坂本君の彼女として、OKを出してくれているみたいだね。


「お前たちはこれからどうするんだ? こんな世界で生きていけるのか? リセット前だって、お前たち発達障害者は、困りながら生きてきたわけだが」

小池が言った。別にからかう口調ではなく、私たちを心から心配している口調だった。自分の身も危ないのにね。

「発達障害のADHDは、人類が狩りで生きていた時代の名残だと言われているよ。だから、なんとか生きていけるさ。それにさっき貰った情報をうまく活かすよ」

小池からの情報?

「情報だけじゃ生きていけないぞ? 何か策はあるのか? ……秘密にしたいなら、これ以上は聞かないが」

「特別に教えてあげるよ。ボクたちは、池下駅近くのセンターガーデンを要塞にするんだ」

えっ? センターガーデンって、坂本君が住んでいるマンションじゃあ……。あそこを要塞に?

「……ああ、あそこか。新しいマンションだけじゃなくて、うまいメシ屋や高いスーパーがあったな」

「あの辺一帯の道路を封鎖して、要塞にするんですよ。警察の装甲車や鉄球作戦にも耐えられるレベルの造りにしたいなぁ!」

坂本君は、挑発するような口調で言った。

「へぇ、そうなのか? じゃあ、特型警備車で挨拶しに行ってやろうかな?」

挑発を受け流した小池。

 しかし、要塞なんて簡単にできるものなのかな? 建築の授業なんて、一度も受けてない。


 その時、ドアの外から大きな爆発音が聞こえた……。それと同時に、床やシャンデリアがグラグラと震えた。こんな時に地震まで起きちゃったのか?

 いや、地震の揺れ方じゃない。これは大きな爆発による振動と爆音だ……。坂本君にもそれはわかったはず……。

「おいおい、まさか……」

同じくわかっているはずの小池は、冷や汗を浮かべながら言った。

『……こちら、第三チーム。隊長は、行方不明、です。第二チームの隊長も、行方不明になって、います……。地面で、大きな、大きな爆発が、起きたんです。みんな、飛びました。空を飛んで、いきました……。バラバラ、です、バラバラ……』

警察無線から、沈痛な趣のある声が聞こえてくる。近くで大爆発が起きて、警官がまとめて殺されたみたいだね……。暴徒たちの中に、爆弾を扱える人間がいるのかな?

「おいおい、警察にとって最悪な時代になったもんだ。私の先輩が言っていた、安保闘争よりも酷い……」

眉間にシワを寄せる小池。悲惨な出来事の連続で、すっかりクタクタみたいだね。彼にかける声は思いつかない。


「やっぱり、もう一杯もらおう」

小池は坂本ママに、ビールのおかわりを頼んだ。坂本ママが微笑みながら、ジョッキにビールを注ぎ込む。

 今のところ、彼からこれ以上聞きたい件は無い。警察は、自分たちの事で精一杯だとわかったので、自分たちでなんとかしなきゃいけない。

 しかし、こんな状況だと、とても帰宅は無理だね。今の時刻は十八時をとっくに過ぎ、もうすぐ日没だった。停電にはなってないけど、あの危険な地下鉄に戻るのはゴメンだ……。まあ、電車自体がもう走ってないだろうけど。あと、ここから私の家まで、何駅分もあるから、夜道の徒歩は疲れるし危ない。

 両親が心配しているかもしれないけど、今夜はここで一泊することになりそうだね。幸い、このフカフカのソファだと、すんなり寝れそうだ。


「ちょっと! 入ってこないでよ!」

ドアの外から、そんな大声が聞こえてきた……。ドアの外からは今までも、暴動の喧騒が聞こえていたけど、これはハッキリ聞き取れるぐらい、大きなものだった。ビルの外じゃなくて、ビルの中、それもこのフロアで発せられた声としか思えない……。

「静かにしろ」

小池はそう言った。彼の顔つきは、いかにもベテラン刑事という具合の真剣さが浮かんでいた。今までやけ酒を飲んでたけど、まだ頼りになるらしい。

 私たちは黙って、耳をすませる。小池はカウンターから離れると、ピストルを構えつつ、ドアに近寄った。そして、ドアを恐る恐る開け、外の様子を注意深く伺う。目が見えない状態で来たからわからなかったけど、ドアの外は窓の無い廊下になっていた。狭めの廊下だから、ここは雑居ビルなんだと思う。

 廊下の様子を伺った小池は、そっとドアを閉めた。

「隣の店に、強盗が入ったみたいだ。たぶん、一人じゃなくて数人いるぞ」

小池は言った。この店も危なそうだね……。高級家具とか金目になりそうな物はたくさんある。

「それなら、その銃でまた脅かしてやればいいじゃん?」

坂本君が、小池のピストルを指さしながら言った。口調は軽いけど、確かにその通りだ。警察官による威嚇射撃となれば、いくら強盗グループでも、この店はパスしてくれるだろうね。

「いや、それはダメだ。このフロアにいるのは数人でも、ビルの外にいる仲間が大勢いたら、袋の鼠になっちまう。それに、銃も弾も、たくさん持ってるわけじゃないからな」

確かに、いくら刑事とはいえ、彼一人で大勢を相手するのは、現実的に無理があるね……。


「あの皆さん、逃げ道ならありますよ?」

坂本ママが言った。強盗が来そうなこんな状況でも、彼女の口調は、明るさを失っていない。間違いなく、坂本君の明るい性格は、彼女から受け継いでるんだろうね。

「どこからです? このビルにも多分あると思いますが、非常階段は見張りがいてもおかしくない状況ですよ?」

小池が懐疑的な表情で言った。

「……いえ、階段ではありませんよ。実は、キッチンの裏手に秘密のハシゴがありますの。これは内緒でお願いしますね?」

「元々は、アンタたち警察が来たら逃げられるように造ったハシゴらしいんだけどさ。悪いけど、これ以上はノーコメントだよ。黙秘権を使うからね」

うーん、不穏だけどスリルな話だね。

「……なるほどな。わかった、何も聞かないよ。今すぐそのハシゴから逃げろ。そろそろ来る頃だぞ?」

小池はそう言うと、近くのテーブルを横倒しにする。なるほど、即席のバリケードだね。高級そうなテーブルだから、その分頑丈そうだ。

「私はここに留まる。もし生き残れたら、ここかどこかで会えるさ」

映画でよくあるセリフだね。死亡フラグがビンビンに立ってるけど、彼の覚悟は伝わってくる。

「飲み過ぎないでよ? 後で請求書を送ることだって、できるかもしれないからね?」

「わかったわかった。それより、さっさと行け。お母さんとその子を、しっかり守るんだぞ?」

小池は坂本君にそう言い返すと、横倒しのテーブルの後ろにしゃがむ。


「おいコラ!! まだ店ん中にいるんだろ!! 開けろオイ!!」


暴力性一杯の大声と共に、ドアがガンガンと叩かれる。ドラマに登場する借金取りみたいだ。模範例といってもいいぐらいだね。

「母さん、早く早く」

「はいはい。こっちですよ」

ハンドバッグを持った坂本ママに先導され、私と坂本君は、キッチンに入る。キッチンじゃなくて厨房と本来は言うんだろうけど、ここのキッチンは、家庭的な雰囲気で造られていた。この方が、気持ち的に働きやすいんだろうね。

「この棚の後ろの壁が隠し扉でね」

坂本ママがそう言い終わった直後、坂本君がその棚を乱暴に、脇へ倒した。いきなり危ないね……。

「まあ危ない! 乱暴ね!」

「母さん、急いでるんだからさ!」

これも反抗期だね。私も人の事を言えないけど……。


 店のドアを叩くというか攻撃する音や振動は、かなり大きくなっている。それに比例して、強盗の大声もそうだ。キッチンのここまで、しっかり聞こえるぐらいだから、そうとう乱暴でヤバい強盗だろう……。小池刑事に任せるしかない。

「はいどうぞ」

家に来た子供にお菓子を出すような口調で、坂本ママは言った。彼女が開けた隠し扉の向こうは、煙突の中みたいな縦穴があり、足元にハシゴの上端が見えた。サビが見えるけど、まだ壊れてはいないようだ。

「レディファーストだから、お先にどうぞ」

坂本君が言った。

「あら、森村ちゃんがスカートだから、気を利かせてあげたんでしょ?」

これは坂本ママ。そうだ、スカート姿の私より先に、坂本君を降ろさせるのは、健全な青少年教育上よろしくないね。まあぶっちゃけ、彼になら見られても困らないけど……。


 バキィ!!


 店のドアのほうから、木が割れる音が響いてきた……。

「おいやめろ!! 撃つぞ!!」

小池が警告している。今にも発砲しそうな雰囲気だ。威嚇射撃でこの場が収まるなら、それに越したことはないけど、さてどうなることか……。強盗および加勢してくる連中は、どれだけいるのかな?

 ビルの外に出たとして、それからどうする? それどころか、今夜を生き残れたとして、翌日以降はどうすればいい?

「森村!」

坂本君に促され、私の悩みモードは強制停止した。そうだ、今は悩む時間ではなく、行動する時間なのだ。今は動こう。


 私は、一気に沸き立った勢いに自分自身を任せる感じで、ハシゴを降り始めた。ドアを攻撃する音や大声は、かなり小さく聞こえてくる。これは過集中かな?

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