【第2章】
次の駅で降ろされた私と高山さんは、ホームで警察の到着を待つ。誰かが非常ボタンを押し、違う誰かが通報してくれたおかげだ。
あの騒動後に車掌がきて、無職男や目撃者数人と共に降りる流れに。きっと、事の詳細を改めて説明しなきゃいけない。
無職男は駅員たちに両脇を掴まれ、おとなしく座りこんでいる。高山さんにキツく言われたショックもあり、落胆してるようにも。
「どーもお待たせしましたー」
やってきた警察官は中年男性で、メガネのバランスを整えながら見回す。
「話はだいたい聞きました。そこに座っている彼が、問題を起こしたんですね?」
「ええ、そうです。こちらのお嬢さんがおとなしくさせてくれました」
駅員が警官に説明する。高山さんは運動部の女子高校生でもないため、警官は無邪気に驚いていた。
「えー、ご協力に感謝します。けど危ないことしちゃいけないよ?」
感謝に添えられた、ありがたく余計な忠告。
「危ない? 誰も助けてくれなかったからですよ!」
忠告が気に障ったらしい彼女は、きつめに言い返してやる。
「そ、そうなの?」
言い返されてしまうと思っていなかったらしく、警官は戸惑いを隠せない。
事実助けてくれなかった目撃者たちは、気まずそうに顔を伏せている。ただ私だって逃げようとしていたから、彼らを責められない。
「……念のためだけど、身元証明をお願いできるかな? 生徒手帳を見せてほしいんだけど」
彼女に生徒手帳の掲示を求める警官。
制服姿でどこの高校なのかはわかるはず。しかし、杓子定規的にきちんと確認しておきたいらしい。
「これでいいですか?」
高山さんが見せたのは、生徒手帳ではなくあの精神障害者手帳だ……。小さな緑色の手帳を開き、氏名や住所だけじゃなく、一級という等級が記されたページを見せている。
「……あっ」
警官は何か察した様子。
「ご、ご協力を感謝します……。もう帰ってくださって大丈夫です……」
消え去る声でそう言うと、無職男のほうへ近づいていく。事なかれ主義が作用し、私たちの相手をするのを止めたらしい。
そして私たちはまた、電車内で吊り革を握っている。幸い、暴れ出しそうな乗客は見かけない。
一安心すると、高山さんが警察官に精神障害者手帳を見せた理由や、見せて大丈夫なのかが気になってきた。
「お巡りさんにさ、あの手帳を見せちゃって大丈夫なの?」
彼女に小声で尋ねる。
「ああ、全然大丈夫。悪い事したわけじゃないし、珍しいことじゃないはずだからさ」
サラリとそう答えてみせた彼女。
そして、電車は高山さんが乗り換える駅に停まる。私の駅はもう少し先だ。
「じゃあね!」
「うん」
放課後から今まで何もなかったかの如く、彼女は爽やかな調子で去っていく……。
平静を装いながら帰宅する私。普段よりかなり遅くなり、自宅マンションからは、窓の漏れる光が眩しく見えた。
「ただいまー」
玄関には母の靴だけでなく、父の革靴もある。珍しく早めに帰れたようだ。
「おかえりー」
「ああおかえり」
「比奈、遅かったな」
リビングから両親の返事が聞こえてくる。昨日までの日常なら、軽くほっとできる瞬間だった。
「…………」
精神科でADHDの診断を受けた経緯を、両親に伝えるかどうか迷う……。けど、いつまでも玄関にいるわけにいかず、リビングへ向かう。足取りがここまで重くなるのは初めてだ。
「遅かったわね」
「高校生になったからといって、夜遊びしちゃダメじゃないか」
私がリビングに入るなり、両親が言った。
「う、うん……」
診断の件で悩みに悩む私は、素っ気なく返すしかない。
「おい、どうした?」
「学校で何かあったの?」
さっそく異変に気づかれた。さすが親だけある。
「ええっと、実はね……」
勢いというか衝動的に、このまま一気に話してしまおう。
ただし、高山さんに誘われてではなく、自分から行動したことにする。彼女を巻きこむのは、かなり悪い気しかしない。
……けれど一通り話した結果、両親の表情は歪みに歪んだ。
「そんなのはただの性格! 個性よ個性!」
「お前の甘えじゃないか! あ・ま・え!」
面倒臭く強烈な反応を示された……。
まず両親は私が何の相談もなく、精神科へ行ったこと自体を怒っている。とにかく世間体が気になるんだろう。ここは排他的なド田舎じゃなく、政令指定都市の名古屋なのに……。
「子供の頃から頑張ってきた! でもでも、どうしても上手くいかないから診てもらったの!」
感情がこみ上がり、声を張り上げる私。親にこれほど熱弁したのは久々だ。
「何言っているの!? 努力してるようには全然見えないわよ!」
「もっと頑張れば、必ずなんとかなる!」
両親が示す根性論に、私はブチ切れるしかなかった。ここまで激怒したのも久々だ。
ふと気づけば、私は自室のベッドで仰向けになっていた。壁の掛け時計は、深夜未明だと告げている。いつの間にか寝てしまったらしい。
部屋のドアをこっそり開け、廊下やリビングの様子を伺う私。リビングには、豆電球だけが灯っている。両親はもう寝たらしい。
夕食は諦め、風呂だけ済まし寝よう。湯船に浸かりながら、ブチ切れ後の件を思い出さなきゃ……。
翌朝、いつものように目を覚ませた私。目覚まし時計のスヌーズ機能のおかげで、これが無ければ毎朝遅刻だ。
「あっ」
朝一のあくび直後、昨夜の件を改めて思い出して憂鬱に……。
朝食も食べないわけにいかないので、リビングへ向かう。しかし、私の足取りは今も重い。
生活音から両親は朝食を取っているらしい。父は出勤後であってほしかった。しかし、自室で待っていたら遅刻してしまう。
足も気も重いものの、リビングのドアを開ける私。サビた鋼鉄の扉でも開けるように感じられた。
『アメリカの次期大統領候補であるパットン氏は、党の演説会において、倫理的観点から遺伝子検査による出生前診断を禁止すべきだと主張しました』
リビングの液晶テレビが、アメリカ大統領選挙のニュースを伝えている。彼が最有力候補だという論調だった。
テレビから英語が放たれる中、両親はテーブルで朝食を取っている。普段の朝と一見変わらないけど、空気や雰囲気は明らかに違う……。
「おはよ」
とりあえずかけた、朝の挨拶。
「ああ、おはよう」
母の口調はよそよそしかった。
「…………」
父は無言で、わざとらしく広げた新聞で顔を隠す。
リビングはとても不快な空気で満ちていた。呼吸困難を起こしそうな息苦しさ……。お腹はペコペコなのに、食べようという気力がなかなか起きない。
それでも食べないわけにいかず、必死に口へ運んだ。調子が狂い、舌や唇を何度も噛んでしまう。痛い痛い。
「お金は出さないからな」
私が朝食を食べ終える頃、父がボソッと言った。
「あっ、そうなんだ」
精神科に通うための医療費の話だ。自己負担は自腹か。
「ADなんとかという病気を治すためのお金なんて一切出さないからな!」
父は強くそう言った。発達障害の存在自体を否定しそうな勢いで……。
「いいよ! 自分でなんとかするから!」
そう言い捨て、バタートーストをバクバク食べ始める私。零れ落ちていくパン屑。
「ムダ遣いは許しませんよ!」
口出しする母。その口から「ムダ遣い」の言葉が放たれるのは、口癖以外の何物でもない。
「自分自身のため! 無駄遣いなんかじゃない!」
牛乳を飲み干す私。沸き立つ勢いに身を任せている。
「あなただけの問題じゃない! お母さんたちだけじゃなく、親戚にも迷惑かけちゃうの!」
お金の問題でなく、世間体の問題なんだ……。
「ハイハイ! つまり、私自体はどうでもいいんだね!」
大声で叫んだけど、最低限の理性はまだ保てている。
「……ハァ、もうまったく」
「…………」
両親は何も言ってこない。意気消沈させてやれたんだ。
……もしかすると、昨夜の私の暴れ具合がやばかったのかも。けれど、詳細を尋ねる気も時間もない。
「ごちそうさま」
普段よりも小声で言った私。それから時計を見てドキリとする。
毎朝恒例だけど、遅刻ギリギリの時間帯に突入していた。家中の床を踏み鳴らし、通学の準備をする。何も知らない人がもし見れば、奇妙なダンスでも踊っているようなてんてこ舞い……。
「行ってきます!」
家を飛び出す私。
「あっ、忘れた!」
すぐさま忘れ物を取りに戻る。私はほぼ毎朝、何か一つ忘れ物をしてしまう。または、さらにもう一つ……。
なんとか通学の途につけた私。だが、のんびり歩く余裕はない。遅刻ギリギリラインの電車に乗らなきゃ遅刻……。
やや危ないタイミングで横断歩道を突っ走る。安全確認した上でね。そして駅に着くと、マナカのカードを改札機へ叩きつける。競馬スタートのように、改札機を通過していく私。
構内アナウンスが電車の到着を告げている。車輪の走行音が聞こえ、息を整える余裕はないと告げられた。
下り階段を一気に駆けおりたタイミングで、電車が突入してきた。ああ間に合った。
けど、まだ遅刻を回避できたわけではない。駅から高校の教室までの道を駆け抜けなきゃいけないんだ。
結局遅刻は避けられたけど、今朝もギリギリセーフな事実は変わりない。クラスメートの何人かが、「またか」という呆れた表情を浮かべていた……。
「おはよう、森村さん!」
そんな中、高山さんが近づいてきた。いつもの明るい調子で。
彼女の顔を見た途端、昨日そのものを思い出す。こんなに明るく振る舞う彼女でも、私と同じく、脳に爆弾を抱えて生きているんだ……。しかし、周囲にいるクラスメートたちは知らずに生き、日々を過ごしている。
「早く席に着きなさーい!」
教室に担任の先生が入ってきた。無論、彼も知らずに生きているんだ。なんだかまるで、知らず知らずの内に別世界で過ごしてるような、奇妙な違和感。
「おはよっ!」
先生が出欠確認を始めかけたとき、男子高校生が教室に走りこんできた。勢いよく開いたドアが、うるさい音を立てて止まる。
「…………」
教室中の視線が彼へ集中する。
「あっ、あれ? 遅刻になっちゃった?」
見ればわかるだろうに。……しかし、他人事じゃない。
彼は学年トップクラスの美少年で、女子と一部の男子に輝かしい存在だ。彼が美少年かどうかは、私自身も賛同できる。
名前は坂本鳴海。艶のある黒髪で、校則ギリギリの長さ。ツンツン状でやや下向きの寝癖がついていた。本人いわく天然物のクセ毛との話。男臭くない綺麗で爽やかな雰囲気で、可愛げのあるイケメンという評価がしっくりくる。
学力は中レベルだけど、運動は万能なほう。入学後の体力測定以降、あちこちの運動部から勧誘されていた。その中で彼はサッカー部を選ぶ。まだ補欠の身分だけど、FWとして期待されてるそう。
……遅刻した彼が受けた処分は、下限字数有りの反省文だ。遅刻は今回で五回目らしく、ついにこんな処分が下った。
「坂本君! アタシが代わりに書いてあげようか?」
一日最初の休憩時間に入るな否や、坂本君の元へ女子が近づいていく。あの堂々と親しげな様子からすると、めでたく付き合っているんだろう。
「いいよいいよ。書き物は嫌いじゃないから」
これはまあ感心できる。たいていのバカ男子は、喜んで代筆を任せるところだ。
「きゃあ! えらーい!」
別に偉くない。それが普通なんだ。
……あれ? ここで私は、ちょうど一週間前の土曜日を思い出す。
坂本君はその日も、恋人らしき女子と楽しげに過ごしていた。今そばにいる子とは違うけど……。よく思い出せば、さらにその前週とも違う。
「坂本君は女たらしだよ」
高山さんが、私の思ったことを代弁してくれた。いつのまにか背後にきていた彼女は、私の両肩に手をそっと置く。
「ワタシは断わってやったけど、森村さんも気をつけたほうがいいよ?」
そう心配してくれた。
「別に好きなタイプじゃ……」
嫌いなタイプでもないけど。
「ADHDの人は衝動的に恋愛したがるの。だから、森村さんは特に気をつけないとね」
ああやれやれ、本当に嫌な病気、障害なんだね。
……んっ? 衝動的に何かをしたがるということは、ひょっとして彼もADHDだろうか? 遅刻しまくってる点もあるし。
「実はね。彼もADHDなんだよ」
考えを当てられたらしく、彼女が教えてくれた……。
「このあいだ、壁ドンして聞きだしたの。小学生の頃から通院しているんだってさ」
彼女はペラペラと喋った。私も当事者とはいえ、こう言いふらしていいのかな?
それにしても、高山さんが坂本君に壁ドンなんて、ドラマチックな光景だったろうね。美少女に美少年という、普通じゃない幻想的なひとときのはず。
「アイツめ」
突然、高山さんの後ろから陰気くさい小声が聞こえた……。思わず私は、彼女の脇越しに声のほうを伺う。
声の主は、一つ後ろの席の木橋だった。彼の視線の先では、坂本君が楽しげに過ごしている。
木橋はとっても陰気臭さを感じさせる男子で、引きこもり一歩手前のオタクという表現がよく似合う。太い黒縁メガネをかけ、顔は地味なブサイク面……。そして、癖だらけの髪とヒゲの剃り残しが、薄らと気持ち悪くつながっていた。
「……まともな、人間、人間じゃない癖に……」
ブツブツ呟いている。私の視線にも気づいていないようだ。
女たらしの坂本君への呟きだけど、「まとも」という言葉にギクリとさせられた私……。
「ねえ、木橋君? 何の独り言を喋っているの?」
高山さんが木橋に尋ねた。彼女は変わらぬ笑顔だけど、底知れぬ恐怖心が今はある。
「……な、なんでもない!」
木橋は美少女の彼女から突然話しかけられ、無様に慌てふためく。そして顔を伏せ、スマホをいじり始める。
「ところで森村さん、薬は飲んでみた?」
「あっ!」
ADHDの症状軽減のため、『ストラテラ』という薬を出されていた。にも関わらず、カバンに今も入れたまま……。
「飲み続けないと効果が出ない薬だから、気をつけようね」
「……うん」
忘れずに毎日飲み続けられる自信は正直ない。
「服用は朝食後と夕食後だと思うけど、たぶん昼食後でも死にはしないから、そのとき忘れずに飲みなよ?」
「うん、そうする」
飲み忘れないよう工夫しなくちゃいけない。薬で少しでも楽になれるのなら、忘れず飲まなきゃだ。
「今思いついたんだけど、今日のお昼はもう決まってる? 帰りにどこかで食べない?」
土曜日の今日は午前の授業だけ。いつもはそのまま帰宅して昼食だけど、母へのキャンセルはまだ間に合うはず。
「念のため確認してみるけど、いいよ!」
クラスメートと外食なんて久々だし、私は快諾した。どんな店でどんな物を食べるかで、脳内は早くも一杯にお祭りに!
「…………」
ここでふと視線をじらすと、木橋が私たちのほうをじっと見ているのに気づけた……。それもまじまじと、考えに耽る様子まで見せて。
うわっ、キモイ! 彼にも何らかの障害が入ってるんじゃないか? 同じADHDでなければいいと、つい思っちゃった私。
放課後、私と高山さんは最寄り駅近くのマクドナルドへ入る。お昼頃なので店内は混雑し、同じ高校の子もチラホラ見かけるほど。
しかし運よく、一番奥の二人席を確保できた。運悪く確保し損なったぼっち男が、店内を虚しく徘徊している。ゴミ箱の上でガマンするしかなさそう……。
「高山さんはその、いつごろ、いつ自分が病気だとわかったの?」
食事中にする話題じゃないけど、話せる共通の話題を思いつけなかった。
「生まれつきだよ。子供の頃から病院で診てもらってる」
彼女は躊躇うことなく言った。慣れた口調で、今まで同じ質問を何度も聞かれているに違いない。
「先天性の精神障害だから、死ぬまで付き合わなきゃいけない病でね」
専門用語を聞き、ハッとさせられた私。
自分も彼女のように、障害を一生抱えて生きなければならないんだ……。いわゆる「不治の病」というやつ。
けどとりあえず、今は深く考えずに過ごそう。悩みに悩んだ末、狂うことだってありえる。
「それよりさ、後ろを見てみなよ?」
高山さんが私の背後をアゴで示す。
なんだろう? さっきのぼっち男が泣き始めたのかな?
「んっ?」
コカコーラを口に含みつつ、後ろを振り向いた私。
なんとあの坂本君が、空席を探し店内を右往左往している! トレイにバーガーセットを乗せ、一人で昼食を済ませるところらしい。
「ああ、さっきの彼女はどうしたんだろうね?」
高山さんは冷やかにそう言い、乾いた笑顔を浮かべている。私の表情も自然と似たような具合に……。
私と彼女はこっそり観察する。いい話の種だ。
「すみません、相席いいですか?」
空席探しを諦め、誰かに相席を頼む彼。
……彼が狙いを定めたのは、同じ年頃の女子だ。彼女は、二人席に一人でいて、反対側のイスに通学カバンを置いている。
ブスではないけど地味な風貌の彼女は、ある女子校の生徒だった。制服のデザインは、私たちのそれのよりも地味なデザインで露出は控えめ。
「えっ! い、いいですよ!」
彼女の口調は少々裏返っていた。大急ぎで慌てながら、向かいの席に置いたカバンをどかす。
イケメンの坂本君にいきなり相席を頼まれれば、たいていの女子はああなるもの……。
「ありがとうございます!」
無邪気に笑顔まで振りまきながら、彼は堂々と席についた。
彼と対面する形の彼女は、すっかり顔を紅潮させている。教科書通りなウブそのもの。
「もしかして、お邪魔だったかな?」
「い、いいえいいえ! 全然、まったく全然!」
寒気すら感じる会話に、私は吐き気や胸の締めつけを覚えた。
「うーん、なんだかムカムカしてくる」
高山さんの眉間にシワが走る瞬間を、私は見逃さなかった。
「無関係とはいえ、あそこまでされると、嫌な気分になってこない?」
私も彼女と同感だ。これはきっと、女性としての嫌悪感だろう。あるいは、リア充への単なる嫉妬だね。
会ったばかりにも関わらず、坂本君とその女子はカップルなほど仲睦まじい。以前からそんな関係だったかのよう。
彼女はきっと、運命の人に出会えた気分でいる。しかし相手は、女垂らしのADHD高校生……。
「それなのに毎朝早起きできるんだ。いやあ、ボクなんて全然ダメでさ」
「部活が好きだから」
高山さんのほうは知らないけど、恋人のいない私にとって、こういう系統のやり取りは居心地が悪いもの……。これは嫉妬だけじゃない。
「いいこと思いついた。手伝える?」
ニヤリと笑いかけてきた高山さん。何か悪巧みを思いついたらしい。
「どんなどんな?」
とても気になり、話に乗らずにいられなかった。こんな状況を打破する、痛快な展開を期待できそう。彼女は私に手招きし、作戦を囁き声で教えてくれた。
……高山さんのアイデアは最適解そのもので、結果を想像し笑いかけたほど!
「坂本君、いい度胸してるじゃん! ワタシたちに二股かけていた件が発覚したばかりなのに!」
高山さんは坂本君のほうへ早足で向かいながら、ヒステリックに叫んでみせた。演技に思えないほどのマジ切れ……。脊髄反射的に高山さんを見るお二人。
「た、高山さん? えっ、なんで?」
「えっ、えっ、えっ?」
転がり落ちる展開に坂本君と女の子は、目を見開き戸惑った。テレビドラマあるあるな、浮気現場に踏みこまれたワンシーンのよう。
私の役回りは、彼女の背後でギロリと睨みつけまくること。演劇部の経験はないけど、迫真の表情を見せつけてやる。
「付き合ってる子いるじゃん!?」
「えっ、ちょ、違う違う!」
女子が振り絞った言葉に、坂本君はそう返すしかない。赤ら顔と青ざめた顔が向かい合うやり取りを、無責任に傍観する私。
これが修羅場……。テレビドラマで使い古された光景にも関わらず、周囲から視線を向けられている。
「あらごめんなさい。付き合っているわけじゃないんだね?」
高山さんが女子に問いかけた。
「ええ、そうです! 相席を頼まれただけですから!」
強く正直に答えた女子。彼女は迷惑そうな表情で、坂本君を睨んでいる。手の平返しで、今は女の敵扱いの坂本君。
「オイオイ冷たいな。ボクと付き合いたそうにしてたじゃないか?」
坂本君がそんなことを口走った……。女性をバカにする失言だ。混乱が解けず、置かれた状況を理解できていないとしても、少々マズい。
「最低!」
さらなる恥をかかされた女子は憤怒し、オレンジジュースの紙コップを、坂本君の顔面へ降りかける。彼の上半身をグショグショに濡らすオレンジジュース。暖色に染まっていく、元は白かったスクールシャツ。
「うわっ!」
冷たさに悲鳴をあげる坂本君。氷まで服の内側に入り、彼の手首には鳥肌が立った。
拍子に彼はイスから転げ落ちる。イケメン高校生らしからぬ、マヌケで情けない姿だ……。
私と高山さんはとうとう笑い出してしまい、今度は周囲が戸惑う展開に。
「まったくさあ! なんでジャマしてくれたのかな!?」
店から少し離れた公園で、坂本君が私たちに文句を言った。「怒りに満ちた笑顔」という絶妙な表情だけど、殴りかかってくる気配はない。
彼は手洗い場に立ち、水洗いしたシャツを絞る。上半身は肌着一枚だけなので直視しづらい。
「ムードある雰囲気まで運べたのにさ!」
女たらしの彼は、先ほどの失敗を嘆きたてる。
「それより話しておきたいことがあるんだけど、いい?」
「……なに?」
高山さんの切り出しに、坂本君は手を休める。ただ、彼女に壁ドンされた件がトラウマなのか、警戒心は露わだ。
「つい昨日わかったところだけど、森村さんもADHDだよ」
何の断りもためらいも無く、彼女は私の事実を教えてしまった……。
「ちょ、高山さん!」
冷や汗を浮かべ、彼女に詰め寄る私。恥ずかしさやらで一杯な表情と心情に陥った私。
「ああごめんなさい。……ただ、遅かれ早かれ見破られていたと思うよ」
そう釈明した彼女だけど、悪気は感じられない。彼女なりに良かれと思ったんだろう……。
まあ私も彼女の口から、坂本君がADHDだと教えてもらった身だから、あまり怒るわけにいかない。
「森村比奈さん!」
「は、はい!」
坂本君から突然フルネームで呼ばれ、ビクッと反応してしまう私。
私を爽やかな笑顔で見つめる彼。いかにも乙女殺しなこのスマイルに、どれだけ多くの女の子が落ちたんだろうか……。
「そうじゃないかと思ったことはあるけど、やっぱりそうなんだね!」
彼は興奮気味に言った。同じ境遇の人間に出会えた事自体が、心から嬉しいようだ。
しかし私のほうは、どことなく不思議な気分でいた。昨日判明したばかりだからだろうね。
着直したシャツをできるだけ乾かそうと、公園のベンチで雑談を続ける私たち。趣味の話でもいいけど、自然と障害関係の話になる。
「坂本君はいつ頃、その、発達障害だとわかったの?」
私は尋ねずにいられなかった。今はささいな事柄でも参考に聞きたいからだ。
「えっと、ボクの場合は小学生だよ。初診は確か、小五の中頃だったね」
懐かしげに話し始めた坂本君。長話になるかもだけど、最後まで聞かなきゃいけない。
「勉強はまあまあやれたけど、遅刻や忘れ物、掃除サボりの常習犯だった。そのせいで、通知表の生活面は悪評だらけさ」
掃除はサボらないけど、他は私と変わらない……。
「五年生の担任が発達障害に詳しくて、三者面談で真正面に疑われたよ。ラッキーな点は親が古い人間じゃなくて、淡々と通院までいけたところ」
ああ羨ましい! 私の両親なら先生に猛反発してる……。
「通院したては、しばらく様子を見ましょうだったけど、ある事故がきっかけで確定だよ」
「事故?」
「……自転車でジジイを轢いちゃったんだよ。うっかり角で見落としちゃってさ」
「ええっ!?」
私はそこまで厄介事は起こしていない。すると、坂本君は私よりも重症なんだろうか?
「不幸中の幸いで、そのジジイは身寄りが無くてさ。金目当ての家族を相手しなくて済んだ」
「そ、そう……」
他人事のような軽い口調に、私は正直引いた……。
ただ、できたばかりの「仲間」を失いたくないので、彼を非難するのはやめておく。
「今より子供だったし、ジジイ側の過失も認められて大事にはならなかったよ」
「こ、交通事故なんて愛知じゃよくあることだし、変に目立たずに済んだのはその、幸いだね!」
同調してみせた私。とっさに思いついたセリフだ。
……そしてどうやら、この二人にはウケたらしい。上手く輪に入ることができて良かったと、嬉しさと安心感が私の中で湧き上がる。
夕方近くなり、日光がオレンジ色を帯びたところで雑談は終わった。最寄り駅の下り階段をおりる直前、高校のチャイムが反響して聞こえてきた。
「バイバイ!」
坂本君はそう言うと、地下鉄車両から降りていく。彼もすでに障害者手帳を持ってて、改札機で使ったのは福祉特別乗車券だ。彼の話では、学校の友人と一緒じゃないときだけ使ってるらしい。
土曜日なので仕事帰りのサラリーマンは少なく、部活帰りの高校生のほうが目立つ。同じ高校の生徒も何人か見かけたものの、顔見知りはいなかった。
ただそれでも、後ろめたさを感じる私。あの子と私は異なる人間なんだと、ついつい意識してしまう……。
「障害者手帳って、私も取ったほうがいいのかな?」
私は小声で高山さんに尋ねる。他の話題を思いつけなかった点もあるけど、今もこんな話題しか……。
「もちろん取得したほうがお得だよ。顔写真と現住所付きの身分証としても使えるからね」
やっぱり手帳は取るべき代物なんだ。
だけど、そんなうまい話があるだろうか? 信じられない気持ちを隠せない私。
「障害者手帳を持ったからといって、選挙権を失ったりするわけじゃないから、あまり心配しなくて大丈夫だよ」
「そ、そう……」
彼女はそう言ってくれたものの、後ろめたさは消え失せない。
それに取得を決めても、両親が許してくれるかどうか……。
「親から猛反対されたりされそうなら、私が助けてあげるよ。私の親も何か手伝ってくれるはずだし」
彼女はそう申し出てくれた。その親切心に、私は泣き出しそうになるが、ギリギリ抑えることができた。
素晴らしい彼女のおかげで、発達障害を克服できるんじゃないかとすら思えてくる。けどあまり甘えるにいかない。自分なりに努力する気持ちを忘れずに持っておかなきゃ。
「それじゃあね!」
「……あっ、またね!」
考え事してたせいで、彼女が降りる駅に着いたことに気づくのに遅れた。彼女の姿が消えた後、ほっと一息つく私。深呼吸のつもりだけど、大きなため息に聞こえたかもね。
「そうだ、薬飲まなくちゃ」
危うく飲み忘れるところだった……。
私はカバンを漁り、薬を入れた透明チャック袋とお茶のペットボトルを取り出す。この際、電車内でも構わない。
そして、ストラテラというカプセル剤が体内へ流れこむのを、生々しく実感する私。薬の活躍にこれほど期待したのは初めてかも。