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正常な世界にて  作者: やまさん(発達障害者)
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【第1章】

 ああ、また同じような失敗をしてしまった。これでちょうど十回目……。


「まあまあ! 森村さん!」

目の前にいる中年女性が、私に怒っている……。

 この女性は、数学の先生だ。そして、彼女に怒られる私は、生徒というわけ。先月入学したばかりの女子高校生だ。教室中の人間の視線が、私や先生に集中している。


 第一希望だった共学の県立高校でJKデビューを果たせた私、森村比奈は苦難に襲われている……。大袈裟に言ってるわけじゃない。

 同じ失敗を何度も何度もやってしまう。私が今怒られている理由がそれ。ちなみに今回の場合は、教科書間違いだ。数学Ⅰの教科書ではなく数学Aのを持ってきてしまった……。

「なぜ、授業が始まってすぐ言わなかったんですか? もう半分以上の授業時間が過ぎているんですよ?」

ネチネチと責めてくる先生。更年期障害でも起こしているのだろうか?

「気がつかなかったので」

性悪そうな先生には、余計な言い訳をしないほうが無難だけど、我慢できずに口走ってしまった……。これも苦難だ。

「……気がつかなかった? 授業をちゃんと聞いていれば、すぐ気づけたはずですよ?」

ごもっともな話だ。実はつい先ほどまで、上の空に陥っていたのだった……。馬耳東風なのだから、気がつかなかったのは当たり前だ。集中力が保てないのも苦難だった……。

「もうあなたは高校生なんですよ? いつまでも子供でいられないんですからね?」

イライラしてくる私。ババアの説教を聞くのが好きなヤツなんて、ごく僅かの少数派に違いない……。


「先生! 授業に戻ってください! 見せますので!」

大きな声が教室に響き渡る。とても澄んだ口調だ。

 声の主は、すぐ隣りの女子だった。彼女は、モデルのような美しい外見の持ち主だ。私とは大違いだけど、不思議なことに嫉妬心は湧かない。

「あら、ごめんなさいね。……森村さん、高山さんに教科書を見せてもらいなさい」

助け舟を出してくれた彼女の名前は、高山奈菜という。私とは明らかに違う人間だ。家柄も全然違うはず。




「森村さん、毎日大変そうだね?」

授業後の昼食タイムに、高山さんが突然話しかけてきた。彼女の艶やかな右手には、弁当袋がぶら下がっている。

「う、うん」

ぼっちで弁当を食べてた私は、間抜けな返事をしてしまう……。

 すると高山さんは、私の机上で弁当を広げる。一人寂しく食べてた私を気遣ってくれたらしい。断りなくとはいえ、嫌悪感は不思議と湧かなかった。

「もしかして、高校に入る前から大変だった?」

甘そうな卵焼きを食べながら、彼女は尋ねてきた。

「……恥ずかしい話だけど、子供の頃からこうなの」

思い切ってそう言った。彼女なら、別に話しても大丈夫な気がしたからね。

「そうなんだ。毎朝遅刻ギリギリなのもそう?」

「うん。時間の管理が、どうしてもうまくできなくて……」

毎朝綱渡り状態の私。

「かなりツラそうだね」

真剣な表情を浮かべる彼女。

「……うん。正直、自分が嫌になってきてる。自分はどうしようもない人間だって……」

ここが教室でなければ、泣き出してただろう。そして恥をかく。

 実際、どうしてもうまくいかない自分に嫌気がさし、自室のベッドで涙を流したことは何度もある。マジメに死にたくなったこともね。


「森村さん、少しでも楽になれる方法はあるよ。助けてあげられる」

彼女はそう言うと、私の両肩に手を置いた……。彼女の力強さを感じる。なんともほっとする。

 机の上の弁当箱をどかして、彼女の胸に飛びこみたい! いろんな意味で心地良さそう。ただ、レズではないので思い止まる。近くにいたオタク系男子が、残念そうに私たちを見てたけど、気色悪いので見なかったことにする。

 ともかく私は、眼前の彼女にすがることに決めた。彼女なら、頼っても大丈夫な気がしたからね。




「駅の近くなんだよね?」

「そうそう」

高山さんについて歩く私。今は栄の地下街で、多くの人々が行き来している。今日は金曜日なので、夕方以降はさらに混雑するだろう。

 放課後、私は高山さんに連れられ、名古屋の繁華街である栄へやってきた。定期券外で交通費がかかるが、せっかくの誘いを断ることはできなかった。

「……高山さん、その、変なところじゃないよね?」

恐怖心が湧いてくるので、尋ねずにはいられなかった。

「大丈夫、大丈夫! カルトやマルチの勧誘じゃないよ!」

彼女は振り返り、笑いながら言った。その爽やかな笑顔に、胡散臭さは無い。

「それならいいんだけど」

階段をあがり、地下街から地上へ出る。水色の春空は、オレンジ色に染まりつつあった。

 地下街ほどではないが、地上も混み合っていた。幅広い道路を、車の群れが駆け抜けていく。道路沿いには大小あるビル群が、岸壁のように建ち並んでいた。

「もうすぐだよ」

はぐれないよう注意しながら、彼女にしっかりついてく私。



「目的地はここの九階だよ」

歩道をしばらく歩いた後、小奇麗な雑居ビルに入る。

 その直前に私は、嫌な響きのある言葉が並んだ看板を目にしてしまう……。いや、目的地はそこではないはず。きっとそうだ……。

 エレベーターに乗りこむ私と彼女。デジタル表示の数字が、どんどん増えていく。それに比例して、なんだか不安になっていく。

 そして、エレベーターは九階で止まった。……ああそんな。

「すぐそこだよ」

ドアが開くと同時に、彼女はスタスタと降りていく。ハッとして、後を追う私。

「ここだよ、ここ」

彼女は、分厚そうな擦りガラスのドアの前で立ちどまり、私のほうを振り返った。

「……ここって、あの」

彼女の背後にあるガラスドアには、『香川メンタルクリニック』という精神科の文字が、力強く刻まれていた……。


「絶対入りたくない! 私はキチガイじゃない!」

私はまともだ! 精神科に診てもらう必要なんてない!

「森村さん待って! これが一番いい方法なのよ!」

高山さんが、帰ろうとする私の前に立ちはだかった。クラスメートである彼女にキチガイ扱いされていたと思うと、悲しくなる……。

「どいてよ! 私は大丈夫だから!」

「入学したときから、こっそり見守っていたけど、全然大丈夫には見えないよ!」

帰ろうとする私を止める彼女は、真剣そのものだった……。私のことを、心の底から心配してくれているようだ。彼女に悪気が無いことはわかる。

 しかし、精神科の世話にならなくても、努力すればなんとかなるはずだ。子供の頃から、必死に努力すれば、どんな目標でも達成できるはず!

「自力で治せるよ!」

彼女を安心させるため、私は強気に言った。

「ワタシの予想だけど、森村さんは『ADHD』(注意欠陥多動性障害)だと思う。薬にも頼らずに、自力で努力しても、マシになる程度だよ」

聞いたことのない病名だ。精神科関係の病気であることは確かなので、ろくでもないものだろう。

「どうして、私がそんな変な名前の病気になっていると言い切れるの!?」

思わず言葉を荒らげてしまう。

「……ワタシも似たような病気にかかっているから。ここの患者なのよ」

彼女はそう告白した……。嘘をついている様子は無い。

「えっ? えっ? えっ?」

間抜けな声を連発する私。美しい外見と性格を持ち、みんなから人気がある彼女が、なんで精神科通い?

 ……ここで私は、ハッと息をのんだ。

 学校での振る舞いを見ていた限り、彼女がキチガイでないことは明らかだ。しかし、彼女は彼女なりに苦しんでいる。それなのに私は、自分をキチガイとして扱うなという失礼な振る舞いをしてしまった……。罪悪感が私に襲いかかる。


「あなたが楽になるには、この道しかないの! ワタシを信頼して!」

彼女は私の両肩を掴み、そう言い切った。

「……わかった。高山さんを信じるからね」

「ありがとう」

とにかく今は、彼女を信頼する。

 回れ右し、クリニックへ向かう私。彼女は先頭に立ち、メンクリのドアを開けてくれた。そして、彼女と共に。



 クリニックに入ると、そこは典型的な待合室だった。受付には患者向けのチラシがいろいろ貼られている。

 先客が何人もいたが、発狂し暴れる者はいない。鬱病らしき若い男性が頭を抱え座ってたけど、それ以外の人は正常なご様子。どこがおかしいかなど、素人の私にはわからない。

「あら? 今日は診察日でしたか?」

受付の若い女性が、高山さんに声をかけた。

「いえいえ、ワタシじゃなくて、この子を連れてきたんです」

高山さんは受付へ私を連れていく。手まで引いてくれた。


「……は、初めてなので、お願いします」

保険証は普段から持っており、受付の机上へそっと出した。

「はい。それでは森村さん。こちらの問診票への記入をお願いします」

受付女性は、クリップボードで綴じられた問診票を渡してきた。

 問診票には、睡眠時間や最近のメンタルといった設問がある。躊躇したけど、正直に記入していく私。

 一ヶ月前から寝つきが悪く、十分眠れていない。失敗続きの自分の将来が、不安一杯で仕方なかったせいだ……。


 時間が少しかかったけど、なんとか書き終えられた。受付に提出し、診察の順番が来るのを待つ。その間、高山さんはそばで見守ってくれていた。

「けっこう人いるけど、時間かかる?」

「再診の場合だと、内科より少し短いぐらいだね」

ソファに座る私と高山さんは、小声で話す。待合室では静かにするのは元々マナーだけど、ここはデリケートな精神科だ。近くの患者が、大声がきっかけで怒り出すかもしれない……。ひょっとしたら、斧でも持ち歩いてるかも。暴れ出したらどうしよう……。

 緊張と恐怖心で、時の流れがとても遅く思える。


「森村さん。どうぞ」

受付女性がやってきて、私にそっと声をかけた。初診だからか、忍ぶような声だ。

「ワタシもついていこうか?」

「ううん、大丈夫」

これ以上は恥ずかしかった。緊張するけど、彼女に知られたくない。

「正直に伝えればいいからね」

「……わかった」

そう言ったものの、上手に答えられるか自信がない。なにしろ、いきなり精神科へ連れてこられた身だ。


 ……診察室の前に立つ私。ホントにいいのか考える。だけど、勇気を振り絞らなければいけない気がした。

 私の右手が、診察室のドアノブを捻る。スローモーションのようにドアノブが回り、緩やかに開くドア。



 診察室内は、患者に刺激を与えないようにするためか、ゴチャゴチャした物は置いてなかった。机やイスなどの家具は、内科にあるような金属剥き出しの物ではなく木製だ。部屋全体の配色が、穏やかな暖色系で統一されている。

 また、患者を少しでも安心させるために、分厚いカーテンが窓に引いてあった。


 そして、部屋にドカンと置かれた机には、診察医である女性がいた。私の予想だが、年齢は四十代前半だろう。医者らしい白衣を着ている。

「こんにちは、森村さん」

診察医の女性が挨拶してきた。

「こ、こんにちは」

少しぎこちない返事になっちゃったけど、緊張しているんだから仕方ない。

「これは予想だけど、学校でうまくいっていない?」

診察医が尋ねてきた。簡単なことだが、まさにその通りだ。

「……はい」

認めたくなかったが、私はそう言った。

「勉強がわからなくて困ってる?」

「いいえ。学校の成績は中レベルです。ただ、生活のほうで困っています。たとえば、忘れ物とか遅刻ギリギリとか」

「ああ、あなたの症状は、もうわかったわ」

まだ話の途中だったが、診察医は断言した。まるで、簡単な計算問題を解いたかの如く。

「ほ、ほんとですか?」

とても信じられなかった。

「ええ。でも念のため、ペーパーテストをしてもらいます」

「テストですか?」

高校生である私は、「テスト」という単語につい反応してしまう……。難しい問題ばかりだろうか? もし全然解けなかったら、重病扱いかな……?

「安心して。普段のことについて答えればいいだけのものよ」

診察医はそう言うと、A4サイズのプリント一枚とボールペンを渡してきた。


 そのプリントには、『用事などをうっかり忘れてしまったことは、よくありますか?』とか、『いてもたってもいられなくなることはありますか?』といった質問事項があった。そのような質問に対して、五段階評価で答えればいいだけだ。

 思い返しながら、答えを記入していく私。幸か不幸か、全部で十問ちょっとしかなかった……。

 答え終わってみると、「よくある」という回答がほとんどだった。一見してみると、素人の私でも、マズい結果が待ち受けてることぐらいわかる……。

「ふんふん」

私の回答が書かれたプリントを、診察医は目を通す。そのときの彼女の表情は、「やっぱり思った通りね!」というものだった。

 彼女は、プリントを机に置くと、私の顔を見る。診断結果をさっそく告げる気だ。あの、心の準備が……。


「森村さんは、ADHD(注意欠陥多動性障害)ね」

診察医である女性は、はっきりそう告げた……。真剣な表情と口調で。

「ホ、ホントですか!?」

「ええ、まず間違いないわ」

その診断結果は、高山さんが予想したものと同じであった……。頭関係の病気だとはわかるけど、具体的にはどんな病気なのだろうか。怖いが気になる。

「ADHDというのは発達障害の一種で、根本的に注意力と集中力が弱い障害です」

私が尋ねるまでもなく、診察医のほうから説明してくれた。

 注意力と集中力が弱いと聞き、私は思い当たることが多いと感じた……。周囲は、私のやる気や努力の足りなさを指摘し、自分でもそう納得していた。

 発達障害が原因とわかり、意外にも私は一安心できた……。


「授業中に立ち歩いたりは?」

「……してません」

そこまで酷くない。まあ、上の空状態になることはあるけど。

「アルバイトは何かしてる?」

「バイトはしていませんし、したこともありません」

私の高校は、校則でバイト禁止だ。クラスメートの何人かは、こっそりやってるみたいだけど。

「それならいいんだけど。ADHDの人が一番困るのは、社会で働く場面なのよ。あなたの場合だと、少し先になるけど」

注意力や集中力は、勉強にも絶対欠かせない。けど私には、それらが根本的に欠けてるわけだ……。

 どうすればいいんだろう? 将来がますます不安に思えてくる。

「すると、私はどこでも働けないんですか?」

もしそうなら、ニート一直線だ……。一昔前なら、結婚して専業主婦になればよかったけど、今は難しいのが現実だ。

「……そういうわけではありません。注意力や集中力がそれほど求められない仕事もありますし、対処してなんとかなる人もいます」

どんな仕事なのかは思いつかない。少なくとも、注意力や集中力がまったく求められない仕事など、この世には無いだろう。

「どう対処すればいいのでしょうか?」

「メモをちゃんと取ることはいいけど、電話中のメモ取りは無理という人が多いわね。まあ、薬を活用するという手が一番だと思う」

「く、薬ですか……」

睡眠薬や精神安定剤を使わなくちゃいけないのかな。薬漬けで暮らすなんて……。

「子供でも飲める軽めの薬を処方しておくから、それで様子をみて」

診察医はそう言った。子供向けの軽い薬なら、まあ大丈夫だろう。もし合わなければ、駅のゴミ箱にでも捨てちゃえばいい。


 ……こうして初診が終わった。



「どうだった?」

診察室から出るなり、高山さんが近寄り尋ねてきた。

「そ、それがね。先生はADHDだって……」

私はそう答えたものの、どこか他人事のような感覚でいた。自分は精神関係の障害を持っているのだという実感が、なかなか湧かないからだ。


 とりあえず、会計を待つために、待合室のソファに座った私と高山さん。

「自分がADHDだとわかる人が、最近増えているよ」

インフルエンザのように、よくある病気なのだろうか。

「あ、あの、高山さんもADHDなの?」

「……ううん、別の病気だよ」

私とは違う病気らしい。どんな病気なのかが気になるけど、聞かないほうがいいかもしれない。

 外見も中身も美人な彼女のことだから、きっとたいした病気ではないだろう。それに彼女も、頭の病気を持って生きているのだ。私も頑張らなくちゃいけないね。


「森村さん、お会計をお願いします」

受付女性が私を呼んだ。ソファからスッと立ち上がり、ポケットから財布を取り出しながら向かう。

「もしお金が足りなければ、ワタシが立て替えるよ?」

「ありがとう。でも、大丈夫そうだから」

薬代もあり、財布の残り具合は正直心配だ。けど、これ以上彼女のお世話にはなれない。



 それから二十分後の帰り道。私と高山さんは、栄の地下街を再び歩いている。ただ、私の足取りは非常に重い……。

 ADHDが判明したせいでもあるが、私の財布の中身が、悲惨なことになっていたからだ……。健康保険のおかげで三割負担だったけど、私の財布からお札が消え去るほど、医療費と薬代がかかってしまった。

 初診代も高かったが、それよりも格段に上なのは薬代だ。私に処方されたのは、『ストラテラ』というADHDの薬なのだが、風邪薬とは比べ物にならないほど高かった。ぼったくりに遭っているのではないかと思えるほどだ。しかも、これは少ない処方量で、まだ安いほうらしい……。

「お、お小遣いが……」

思わずそう嘆いてしまう私。この分だと、お小遣いはほとんど残らないだろう。ごくたまにお菓子を買えるぐらいだ。

「もうじき、今回の三分の一の値段で済むようになるから、それまで耐えてね」

「ええっ?」

ありがたい話に、私は飛びついた……。つまり、自己負担は一割で済むわけだからね。

「『自立支援医療』という制度でね。継続して通院治療を受ける場合に利用できるんだよ」

どうやら、彼女も利用してるらしい。節約のため、この制度を利用しなければ!


「……でも、どうしてそんなに安くなるの?」

お得な話には裏があるもの。

「どこかの役所が、公費で負担してくれるのよ。元々は、私たちが支払った税金というわけ」

「…………」

それを聞き、私は気が滅入ってきた。……税金。

 自分が払わない分は税金で救済される仕組みに、私は罪悪感を覚えた。なんとなく自分が、ズルい人間にすら思えてしまう。小心者なだけかもしれないけど……。

「……森村さん、後ろめたく考える必要はないよ」

彼女はそう言ってくれたけど、なかなか割り切れない私。

「気が重い……」

私がそう言うと、彼女は私の手を握りしめ、立ち止まり向き合う……。

 突然の行動に驚きながらも、私も立ち止まった。地下街の通路の真ん中に立つ私たち。行き交う人々が、ジャマそうに避けていく。


「いい? 森村さん?」

高山さんと、しっかり両目を合わせる私。彼女の大きな瞳は、とても綺麗だった。たいていの男は、彼女にこんな行動を取られた途端、その場でノックダウンだろうね……。

「ワタシたちは、税金という形で政府に投資をしているの。その配当を貰うというだけの話よ。確かに、他の人よりも少し多めに貰うことになるけど、得する人と損する人がいるのは、この世では当たり前のことじゃない」

そう説得してきた高山さん。強さを感じられる話し方だ。

「それもそうだね」

見事に説き伏せられてしまった私。でも、嫌な気分ではない。

 どちらにしろ、私はこの割引制度を使うことになっていただろうから、その「理由」を見つけられてよかったのだ。もし、罪悪感に襲われても、彼女が今言ったことを使えば、心の中で正当化してしまえる。


「じゃあ、森村さん。これ以上遅くなると、親を心配させちゃうから早く帰ろう」

高山さんは両手を離すと、左腕の腕時計を指さす。

「あっ、ホントだ! もうこんな時間!」

もう日没後の時間だ。学校で自習していたことにすればいいが、怪しまれずにすむ時間ギリギリだ。

「乗換の駅まで、いっしょに帰ろう」

「うん、ありがとう。……私のために遅くなっちゃって」

誘ったのは彼女のほうだが、私のためにしてくれたことだ。今回のお礼に、コメダで今度奢ろうかな?

 地下鉄の栄駅へ向かう私たち。金曜日のアフターファイブに入っているため、栄の地下街は大混雑だ。

 電車の席、座れるかな? 一席だけだったら、彼女に絶対譲ろう。



 そして、地下鉄栄駅に着いた。地下街同様、駅のホームも混雑している。帰宅途中のサラリーマンや大学生だらけだ。高校生もチラホラといたが、同じ高校ではなかった。クラスメートの誰かと会えば、マズい気がして仕方ない。


「高山さん、帰りの電車代を奢らせて?」

券売機を指差す私。今はせめて、電車代だけでも奢らせてほしかった。カード式乗車券『マナカ』には、けっこうな金額をチャージしてある。

「いいよ別に」

微笑みながら、顔を左右に振る彼女。

「でも……」

「『福祉特別乗車券』を使えば、地下鉄に無料で乗れるから」

「……んっ? なにそれ?」

「障害者手帳を取得すれば、いっしょに貰えるやつだよ。たぶん、森村さんも手帳を取得できると思うから貰えるよ。ただ、手帳の申請は、初診から半年が過ぎないとできないんだけどね」


 私は、なんとありがたい話なのだろうかと思った……。高齢者用の乗り放題パスポートが有料なのにだ。

 ただ、障害者手帳を取得しなくちゃいけないのは、世間体的には難関だろう……。


 改札を通過する私たち。高山さんは、その福祉特別乗車券というカードを使っていた。

「同じ高校の子に見られたら嫌だから、普段は使っていないんだけどね」

この福祉特別乗車券は従来のように、改札機の中を通す必要があるのだ。これでは違和感ありまくりだね……。



 地下鉄のホームにおりたとき、ちょうど電車が到着した。すでにホームには、乗る人の列ができており、私たちは最後尾に並ぶ。

 ドアが開いた途端、電車は降りる客を吐き出す。これから乗る人たちの脇を通り過ぎていく。その中に偶然、同じ高校の子がおり、私は無意識に顔を逸らす。なにしろ、精神科帰りだからね……。

「…………」

だけど、彼女は堂々としていた。しっかりとした綺麗な立ち方だ。

 ……考えてみると、私たちがいるのは繁華街の駅なので、今ここにいても不自然ではない。うっかり者の私は、余計なミスをしてしまったというわけだ……。

「座れそうにないけど、もう乗っちゃお!」

「うん」

混みつつある電車に乗り込む私たち。

 ドアが閉まる頃には、互い肩をくっつけ合うほどではないものの、車内はけっこう混雑していた。ホームの駅員による安全確認の後、私たちを乗せた電車は動き出す。



 揺れる電車内で、私と高山さんは吊り革に掴まっている。この混み具合だと、到着まで座れそうにない。まあ仕方ないね。

「…………」

「…………」

電車に乗ってから、私と高山さんは会話をしていない。なんとなく気まずい……。スマホをいじる気にもなれない。

 なにしろ、こちらから話しかけようにも、彼女のことをほとんど知らない。ここは学校じゃないから、趣味などについて質問するのはマズイ。

「あの、親や学校には、病気のことを知らせたほうがいいのかな?」

高山さんに尋ねた。他の話題は思い浮かばなかった。

「親には知らせたほうがいいんじゃない? 手続きの関係があるから。だけど、学校へは知らせないほうがいいと思う。クラスメートにバレちゃうかもしれないからね」

両親からは、どんな反応が帰ってくるだろうか……。甘えだとか、ただの性格だとか言われてしまうと予想しておこう……。

「どうしても、親に納得してもらえそうになかったら、手伝うから言って」

不安に気づかれてしまったらしく、彼女はそう言ってくれた。

「……あ、ありがとう」

そのときはお願いしよう。

 ホントに彼女を心強く思う。しかし、そんな彼女は、脳にどんな病気を持ってるのだろうか? 猛烈な親切心でもある病気かな?


「チクショウ! チクショウ! チクショウ!」

突然、怒声が響いてきた。私たちや周りの人々は、一斉に声のほうへ目を向ける。

 ……ボロボロの白いシャツブラウスを着た中年男性が、ドア付近に突っ立っていた。真っ赤な顔とフラフラした様子から、泥酔状態だと一目でわかる。ただ、汚れ過ぎのボロい服装から、飲み会帰りのサラリーマンではないらしい。

「俺が何したっていうんだよ!? チクショウ! なんで、俺がクビになんなきゃいけねえんだ!」

どうやら、リストラに遭った無職男らしい……。あの荒れた様子だと、どこにも再就職できないんだろう。

「おい、オマエら! なんで俺はクビになったんだ!?」

近くの人に絡む無職男。酒癖が悪いせいでクビになったんじゃないかな? 酒の席で誰かに絡み、訴えられたとか。

 面倒事に関わりたくないと、無職男から人々がソロソロと離れていく。座る人は寝たふりを決めこむ。私も目を逸らした。

「おい逃げるなよ! チクショー!」

自分が避けられている事実に気づけた無職男は、完全にブチ切れた……。顔の紅潮は最高潮に達している。


「キャーーー!」

「うるせえぞ! チクショウ!」

無職男は、ダメージジーンズの尻ポケットから金づちを取り出した……。蛍光灯のか細い光が、金づちを黒光らせる。

「チクショウ! チクショウ!」

無職男は発狂し、片手で金づちを振り回しまくる。ブンブンという風切り音は聞こえるほど、精一杯に激しく……。

「キャーキャー!」

女性客がヒステリックに叫びまくる。まるで彼女も発狂しているようで、男の神経を煽る気かな?

「うるせえぞ、チクショウ!」

女性客間近の壁を金づちで叩く。ガァンという強い音が響いた。

 命の危険を感じた人々が、無職男から早く離れようと、必死に押し合う。私たちも自然に押しやられる。

「早く奥へ行けよ!」

「ジャマだどけっ!」

無理やり引っ張ってまで、安全な奥へ行こうとするヤツもいた。

「オマエラ皆殺しにしてやる! どうせ俺は無職だ! 失うものなんて何もないんだ!」

無職男は金づちを振り続けながら、怒鳴り散らしていた。病的なレベルで酒癖が悪いらしい。男のアル中じゃない同僚から、どんな珍事が起きたのかを聞きたいものだ。


「えっ? ええっ?」

ふと気づけば、私は逃げ遅れていた……。逃げ惑う群れの一番外側にいるのが私だ。

「チクショウ! オマエだオマエ、ガキ!」

無職男は私をターゲットに決めた……。ヤツの左腕に、群れの外へ引っ張り出された私。眼前で仁王立ちする男からは、殺気と狂気しか感じない……。

「やめて!」

さっきのヒステリック女と変わらない叫び声を、私は思わず上げた。

「うるさい!」

ギリギリで空振りする金づち。

 外れていなかったら、私の頭頂部に命中してた……。たぶん、タンコブだけでは済まないだろう。失うものが無いヤツに殺されるなんて、最低最悪の結末でしかない……。

「チクショウ! 今度は外さないからな!」

金づちを振り上げる無職男

 ところが私は、あまりの恐怖心でフリーズしてしまっていた……。ただ茫然と、その場で立ち尽くす私。


「このっ!」

高山さんが群れの中から飛び出してきて、無職男を押し倒した……。まるで漫画のヒーロー御登場のように! こんな状況でも私は、無邪気にカッコイイと感じた。

「チクショウ! オマエを先に殺してやる!」

押し倒され体に乗られながらも、金づちを構えてみせる無職男。このままでは、彼女に金づちが当たってしまう……。


 しかし間一髪で、高山さんが金づちを掴んだ。片手でガッチリと掴む姿は勇ましい。

「チクショウ! なめやがって!」

子供である高校生に負けてたまるもんかと、無職男は金づちから彼女の手を引き離しにかかる。

「諦め悪いね!」

幸い無職男は、下敷き状態で腕力が入らないらしい。それでも、彼女は力強く見えた。

「このガキ! 俺には失うものなんて無いんだぞ! やろうと思えば、いつでも襲えるぞ! 夜道に気をつけるんだな!?」

負け惜しみのセリフを、早くも口走る無職男……。ここで抗うことを諦めたらしい。なんて情けない男だろう……。

「あら、そう?」

高山さんはそんな脅しなど、少しも怖くないという様子だった。強がりでもなさそう。

「それなら楽しみにしてるね! けれど、返り討ちになるだけだよ?」

不気味な怖さのある口調だった……。

 ぞっとした様子の無職男。私まで少しぞぞっときた。

「や、やれるもんならやってみやがれ! もし俺を殺せても、オマエは殺人犯だ! どうせ過剰防衛扱いだろうよ!」

無職男は言い返す。おそらく、男のプライドからの抵抗だろう。強がり丸出しだ……。


 すると高山さんは、無職男の胸ぐらを片手で掴み上げる。そして、もう片方の手でスカートのポケットから、小さな長方形状の物を取り出した。

 ……それは緑色の手帳だった。大きさや形は似てるけど、生徒手帳ではない。気になり、そっと覗きこむ私。

「これが何かわかる?」

目の前の無職男に問いかける彼女。

 ヤツの視線は、彼女から手帳のほうへ向く。その途端、男の表情はピタッと凍りついた。


「障害者手帳! それも精神障害者のか?」

彼女が手にしているのは例の『精神障害者手帳』だ……。実際に見たのは、それが初めてのこと。

「そう、一級のね。ワタシは『精神病質』で、俗にいうサイコパスという人間なの。……これでワタシが言いたいことは、きちんとわかったよね?」

口元に笑みが一瞬浮かんで消える。

「あ、ああ……」

男は言葉を失っていた。何かを失い、平静に戻った感じ。

 ……きっと、彼女が言いたいのは、「自分に責任能力は無いそうで、先手必勝でお前を殺したとしても、人並みに面倒な展開にはならないんだよ」だろう。物騒だけど、こんな男には当然のメッセージといえる。


「気をつけなきゃいけないのは、そっちだったみたいよね?」

ニコリと微笑む高山さん……。世間一般の微笑み方じゃない。

「…………」

ヤツは無言で震えながら、天井を仰いでいる。高山さんが体から下りた後も、仰向けのまま醜態を晒す。

 どうやら、酒酔いのほうは醒めたらしい。それに、夢もしくは現実からも……。

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