2nd wind -breeze.1-
「急に呼び出したりしてごめんね。でも、高村くんにはどうしても話しておきたかったから」
真波はそう言うと、伏し目がちに少し前に生えていた雑草の群れを眺めた。あたりには、一週間前よりもさらに重い鉛の雲が広がっていて、それが僕をひどく憂鬱な気分にさせていた。
「それで、話って何ですか?」
「この間、浩樹の妹さんに会ったの」
「ナツ……いや、純にですか?」
嫌な予感がしていた。ナツが真波と会う理由は、たった一つしかなかった。しかも、その原因を作ったのは僕自身だったのだ。
「月曜日の夜に電話があって、どうしても会って話したいことがあるって言うから、次の日の夜に下の喫茶店で待ち合わせて」
「それで、何の話だったんですか?」
「浩樹と別れてほしいって言われたわ。お兄ちゃんは私の大事な人だからって」
「どうしてそんなことを……」
「彼女、訴えるように話してくれたわ。五年前に両親を交通事故で亡くしてから、叔父さんの家に引き取られて、それからずっと兄妹二人だけでやってきたんだって。だから、私からお兄ちゃんを取らないでほしいって」
何故そこまで兄に執着するのだろうと、一人っ子で執着する相手を持たない僕は、どうにもやり場のない想いに苛まれ始めていた。そして、そこまで慕われている浩樹への嫉妬心をさらに募らせた。
「俺がいけないんです。一週間前に先生から話を聞いた次の日に、彼女にそのことを話してしまったんです。でも、どうしてそこまで拘るんだろう。いくら兄妹だからって、少し行き過ぎじゃないですか?」
「それが、そうでもないのよ」
その後、真波は自分の足元を見ながらしばらく押し黙った。二人の間を黄昏色の潮風が吹き抜けていったが、それでも沈黙は終わらなかった。
「私ね、浩樹と別れたの」
真波の唐突な言葉が、頭の中を駆け足で通り過ぎていった。僕は彼女の言った意味がよく理解できずに、ただその瞳の奥を見つめるしかなかった。
「この前ここで会った時、高村くん、私に言ったわよね。好きでもないのにどうして付き合ってるんだって。好きじゃなかったら最初から付き合わないはずだって。そのとおりだと思ったのよ。浩樹から言われたからとか、嫌いじゃないからとか、そういう受け身で付き合うのって、やっぱりよくないと思ったの。自分から好きじゃなかったら駄目だって。だから、浩樹に別れましょうって言ったの。一昨日、高村くんに電話する少し前だったかな。それで、こうなったのは私の責任だって正直に話したの。ある出来事がきっかけで、男の人を好きになれなくなったんだって。彼、わかってくれたわ」
「ある出来事って何ですか?」
僕の問いかけを、真波は気づいていないようだった。いや、本当はわかっていたのかもしれなかったが、いずれにしても彼女はそれに答えることなく話を先に進めた。
「それでね、私が全部を話した後で、彼も少しずつ話し始めたの。実は、俺にも隠していたことがあるって」
「それって」
「浩樹、妹さんと……純さんと関係があったの」
「……関係って」
「肉体的な関係よ。つまり……」
真波の言葉の最後まで、僕は聞き取ることをためらった。その事実はあまりにも非現実的で、ドラマ的なフィクションに満ち溢れていた。自分の友達が、それも大好きな女の子が兄と関係している……。それはどう考えても僕の理解を、そして常識を遥かに超えていた。
「高村くん、どうしたの?」
「いや、別に。ただ、かなりショックで」
「私も信じられなかったわ。そんなことが現実に、しかも自分の身近な人にあったなんてね。でもね、よく考えてみると、そういうことがあっても不思議じゃないと思うの。私だって……」
「俺、ナツが好きだったんです」
真波の言葉を遮るように、僕は自分の正直な気持ちを打ち明けていた。それは本当に自然な行為だった。そして、そう言わなければ耐えられないほどに、僕は次第に現実の重みをひしひしと感じ始めていた。
「ごめんなさい。だったら私こんなこと……。知らなかったから。本当にごめんなさい」
「いいんですよ。彼女に好きな人がいたのはわかっていたし、まあそれが兄さんだったっていうのには驚いたけど」
居心地の悪そうな真波を横に見ながら、僕は改めて、自分の気持ちをナツに打ち明けようと思っていた。全てはそこから始まるような気がしていたからだ。自分と真正面に向き合ったうえで、それからナツと向き合いたかったのだ。折りしも降り始めた雨が、二人の体をしっとりと濡らす中で、僕はただナツへの想いを心の中で確かめ続けていた。
その後二人はすぐに別れ、次第に雨足が強まる中を僕は駆け足で家に帰ったが、濡れた体を持て余して風呂に入り冷静になってみると、今度は自分の中に隠れていた常識が頭をもたげてきた。真波と話していた時は、ナツに対する秘めた想いも手伝って、その気持ちの高ぶりのままにナツと浩樹のことを理解した気でいたが、今こうして湯船の中で考えてみると、それはやはり不自然でよくないことだと思えてきた。確かに人と人との、とりわけ男と女の関係は複雑なのかもしれないが、度を越えた複雑さは混沌と非常識しか産み出さないはずだった。そして、そう考えてしまった僕は確かに常識的だったが、同時にどうしようもないほどの俗物に成り下がってもいたのだ。