1st wind -breeze.6-
「でも、急に家に電話してくるんだもの。びっくりしちゃったわ」
「迷惑でしたか?」
「ううん、そんなことないわよ」
日曜日の夕方、僕と真波は岬の公園の高台に佇んでいた。朝から太陽が顔を出さなかったせいで頬を撫でる風は冷たく、目の前の江ノ島も曇り空の中で寒そうに身を震わせていた。
「一昨日、街で先生を見かけました」
「そう」
「男の人と一緒でしたね」
「見られちゃったんじゃ、仕方ないわね」
「その人、俺の友達の兄さんなんです」
「そうなの。世間って広いようで狭いのね……。そのことを言いに来たの?」
真波はそう尋ねながら少しだけ僕を見て、再び視線を海の向こうに戻した。彼女の着ていたベージュのコートが、深まりゆく秋をほのかに象徴していた。
「先生は、夏沢さんのことが本当に好きなんですか?」
とにかく、本当のことが知りたかった。中途半端な状況が嫌だった。白黒をはっきりつけてほしかった。真波は、寒さで少し赤くなった頬のまま正面を見続けていた。
「……好きじゃないわよ」
予期していたこととはいえ、真波の答えは僕の心を激しく揺さぶった。それが男と女の複雑さなのか、割り切れない人間関係の証明なのか……。堅く強張った彼女の横顔を見つめながら、僕はただその場に立ち尽くすしかなかった。
「じゃあ、どうして付き合ってるんですか?」
「嫌いじゃないからよ。だから、浩樹から言われて、もしかしたら好きになれるかもしれないと思って付き合ってみたんだけど、やっぱり駄目みたい」
「好きじゃなかったら、最初から付き合おうなんて思わないんじゃないですか?」
「私、男の人を本気で好きになったことがないのよ」
真波の言葉を、僕はうまく理解することができなかった。いや正確に言えば、好きでもない男と付き合うこと自体が、自分の心の価値観を遥かに超えていた。
「それは……どういうことですか?」
「私ね、昔から男の人に対して嫌悪感を抱いていたの。俗っぽさっていうのか、本能的な部分が耐えられなかったの。表面を優しい言葉や態度で包んでいても、一皮向けばみんな同じ……。でも、浩樹だけは違うような気がしたの。大学のサークルで知り合って、最近まであまり親しくはなかったんだけど、付き合い出してからいろいろなことがわかってきたの。彼の優しさや心の広さが。だから、浩樹とならうまくいくような気がしたの。でも結局、その先には行けなかった。男と女にはなれなかったのよ」
「でも、楽しそうでしたよ。いい感じに見えたけど」
「友達としては最高よ」
真波の一言を、僕は曖昧にしか受け止められなかった。確かに、友達と恋人の間に目に見えない一線があることは理解できた。でもそれは、単なる線でしかなく、すぐに越えられる程度のものであるはずだった。分厚い壁のような絶望的な存在ではないはずなのだ。だから僕は、真波の真意を図りかね、ただ浩樹に対するかすかな同情だけを抱いた。そして、僕の漠然とした想いは翌日、ナツに対する問いかけとして、象徴的に形となって現れた。
その日の放課後、僕は部活のなかったナツと一緒に、紅く染まった街路樹を見ながらいつもの帰り道を並んで歩いていた。自分で勝手に作ったような鼻歌を口ずさむナツは、部活がなくて早く帰れるからか、しきりにこちらに向ける笑顔と相まって、かなり機嫌はいいようだった。
「なあナツ、実はこの前、街でお前の兄さんを見かけたんだ」
「そう」
「女の人と一緒だった」
「えっ……嘘でしょ?」
僕は、ナツの一瞬の表情の変化を見逃さなかった。彼女の眼差しの鋭さが、驚きの奥で必死にその事実を否定しようとしているのが手に取るようにわかった。
「六月に教育実習に来ていた海野先生と、街中を親しそうに並んで歩いてた」
「嘘よ、そんなことない。絶対にないわ」
ナツはそう叫ぶと、そのまま通りを走り去っていった。僕はその後ろ姿を黙って見送りながらも、彼女がそこまで動揺する理由がよくわからなかった。それが兄妹というものなのか、一人っ子の自分にはわからない何かがあるのか……。様々な考えが浮かんでは消えていく中を、僕は再び家に向かってゆっくりと歩き出した。
それからの数日間、ナツの様子は、いつもとは明らかに違っていた。落ち込んでいたかと思うと急に明るくなったり、穏やかに話していたかと思うと急に苛ついたりと、その心の不安定さが態度や行動に如実に表れていた。その原因が浩樹と真波にあることは明らかで、僕は今さらながらナツに話したことを深く後悔したが、とはいっても、そこまで気にする理由もわからないまま、悪戯に時間だけが過ぎていった。