1st wind -breeze.4-
その翌日、授業を終えた僕は昇降口で靴を履き替えると、傘を忘れた自分にうんざりしながら校門に向かって走り出した。朝方は晴れ間も覗くまずまずの天気だったのだが、昼過ぎから降り出した雨によって、僕の楽観的な判断は脆くも崩れ去ってしまったのだ。程なく、当然のことながら水分を含んで重くなり始めた制服で走りを鈍くした僕は諦めて足を止め、すぐ横にあった体育館で雨宿りをすることにした。通り雨とも思えなかったが、このまま急いで帰るよりは、雨の勢いが弱くなった瞬間を狙って走ったほうがいいような気がしたからだ。もっとも、早く家に帰る無意味さを実感していたこともあったのだが。
「こんな所で何やってるのよ?」
体育館の入口に佇んでいた僕に投げかけられたその言葉は、気づかないうちに背後に立っていたナツから発せられたものだった。彼女は、白地にブルーのラインが入ったバスケのユニフォーム姿で、その長い髪が後ろで束ねられていることで、普段は見ることのできない小ぶりな耳がくっきりと顔を覗かせていた。
「ああ、ちょっと雨宿り」
「まったく、何やってるんだか。どうせ家に帰ってもすることがないから、ぶらぶらしてるんでしょ?」
「何だよそれ。まあ俺のことはいいから、さっさと練習始めろよ」
「純に言われなくたってやるわよ。あっ、ところで今晩私の家に来ない?」
願ってもない誘いだった。子犬のようにナツに擦り寄りたかったが、ここは努めて冷静に、声が裏返らないよう、慎重に対応することを心がけた。
「別にいいけど、何で?」
「夕べクッキーを作ったから、味見してもらおうかと思って」
「味見じゃなくて、毒見だろ?」
「まあ……いいわ。とにかく来てよね」
ナツはそう言い残すと、既に始まっていた練習の輪に入っていった。僕は、かすかに高鳴る胸の鼓動を必死に掻き消そうと、まだ弱まることのない雨の中に飛び込んでいった。それは天然のシャワーのように心地よく、次第に濡れていく制服の重さを感じることもなかった。
その夜、約束どおりナツの家を訪れた僕は、促されるままに二階にある彼女の部屋に入った。小学生の頃にはよく来ていたが、最近この場所に入るのは稀になっていた。久しぶりの空間はかつてとは異なり、女の子らしく柑橘系の色でまとめられていて、それが僕を否応なく刺激した。
「どうしたの? 何だか顔が赤いわよ」
「いや、学校から濡れて帰ってきたから、少し熱があるのかもな」
「大丈夫? 今、暖かいものを持ってくるから」
ナツはそう言うと一階へと降りていき、やがて二人分の紅茶と、彼女が作ったであろうクッキーの皿とともに戻ってきた。
「悪いな」
「とりあえずは、紅茶でも飲んで体を温めたら?」
僕は言われるがままに紅茶を口に含み、シナモンの香りのするハート型のクッキーを一枚食べた。
「美味いよ」
「それ、お世辞じゃないわよね」
「何で俺が、ナツにお世辞なんか言うんだ?」
「そう、よかった。お兄ちゃんも美味しいって言ってくれたけど、あんまり自信なかったから」
ナツは、嬉しいというよりもほっとした表情でクッキーの盛られた皿を見た。そこには、ハートの他に星や三日月が無造作に散りばめられていた。
「そうだ、今日お兄さんは?」
「大学のサークルのコンパなんだって。遅くなるみたい」
「何だか寂しそうだな」
僕が言うまでもなく、ナツの表情は明らかに曇っていた。そしてそのことが僕に、ナツの兄浩樹に対する軽い嫉妬の念を抱かせ、彼女への唐突な問いかけを呼び起こした。
「ところでさ、ナツには好きな男とかいるのか」
「何よ、急に改まって」
「いや、何となく訊いてみたくてさ。ほら、俺たち幼なじみみたいなもんだからさ、何となく気になるんだよ」
「……いるわよ」
伏し目がちに呟いたナツを見て、僕の心は激しく揺さぶられた。体全体から正常な感覚がなくなり、頭の中には何も浮かんでこなかった。そう、僕はその事実を受け止めるどころか、認識すらできなかったのだ。
「同じクラスの奴か?」
「違うわ」
「じゃあ、バスケ部の奴か」
僕の予想に対して、ナツは静かに首を横に振った。同じクラスにいないことがわかったことで、少なくとも自分である確率はなくなってしまったが、部活の関係も否定されたことで、僕はナツの好きな男が誰なのかが全く想像できなくなっていた。
「もういいじゃない。他の話をしない?」
その一言で、より深く訊き出そうとした僕の目論みは封じられてしまったが、それよりも、ナツに対して一直線に向かっていた自分のベクトルの行方を考えることで頭の中は一杯だった。自分の気持ちを抑えることなどできなったが、かといってナツに想いを伝えるのも怖かった。やり場のない切なさを胸の内に秘めながら、僕はただ甘さが感じられなくなったクッキーを食べ続けるしかなかった。