1st wind -breeze.3-
「高村くん、どうしたの?」
頭の奥から響いてくる声で我に返った僕の目の前には、十月の真波がこちらを怪訝そうな目つきで眺めていた。あまりにまっすぐな視線に、僕は飲む気のないコーヒーに口をつけてごまかした。
「いや、ちょっと」
「高村くん、なかなか鋭いわね……。実はね、私付き合っている人がいるんだけど、どうもこううまくいかないの。歯車が噛み合わないっていうか、呼吸が合わないっていうか。付き合い始めて日が浅いせいもあるんだろうけど、何かこうしっくりいかないの」
「先生は、その人のことが好きなんですか?」
「いい人よ。優しいし男らしいし、私のことを好きだって言ってくれてるし」
「それじゃあ、答えになってないですよ」
表現があまりに抽象的で、真波の持つ悩みの核心に触れられないもどかしさから、声の大きさもトーンも上がってしまった。真波は少し驚いた表情を見せたが、程なく元の柔らかさを取り戻した。
「そうね……。正直、わからないの。付き合い始めたのも、彼のほうから言い出したことだし、一緒にいると楽しいし」
「でも、好きじゃないんですね」
僕の言葉は、明らかに真波の気持ちの核心を突いたようだった。彼女はしばらくの間何も言わずに、ただ目の前の冷めたコーヒーを眺めていた。僕は少なからず後悔の念を抱いたが、後戻りができないこともわかっていたので、黙って彼女の口元を見つめた。
「ねえ、人を好きになるって、一体どういうことだと思う?」
「それは、自分自身が一番よくわかることなんじゃないですか? 好きなものは好きだし、嫌いなものは嫌いだし」
「やっぱり高村くんは若いな。ストレートで……。私も、多分そうだと思う。でもね、物事にはそう簡単にいかないこともあるのよ。特に人と人との問題はね」
「そうかな。わざと複雑にしているだけじゃないんですか?」
「さてと、そろそろ出ましょうか?」
僕の質問を遮るようにそう切り出した真波は、半分以上残っていたコーヒーも飲まずに席を立って歩き出した。僕は、そのまま会計を済ませて店を出た彼女を追うように海岸通りに出た。
「今日はありがとう。でも、中学二年生に話すことじゃなかったわね」
「年は関係ないですよ」
「ともかく、また会えるといいわね」
その言葉を最後に、真波は僕に軽く手を振りながら駅へ向かう路地に身を隠していった。僕は、隣に漂うほのかなコロンの香りに浸りながらも、その場を離れて歩き出し、通りを横切って砂浜に下った。真波の悩みや言葉の半分も理解できなかったが、少なくとも自分の言葉に嘘はないと思っていた。真波を含めた大人たちは、物事をあえて複雑にして勝手に悩んでいるだけで、本当はストレートで単純なものであるはずなのだ。それを子供だと言うことのほうが問題なのだ。僕は自分の幼さを正当化しようと、ただそれだけで頭の中が一杯になりながらも、彼方に現れた見覚えのある顔に手を振った。
「和泉!」
そう叫びながら駆け寄ると、和泉は驚いた様子もなく、大して面白くもなさそうな表情でこちらに顔を向けた。ひとしきり波に乗った後らしく、黒いウェットスーツを身にまとった彼女の短い髪は、洗った直後のように濡れていた。
「何だ、純か」
「どうだ、今日の波は?」
「ちょっと物足りないかな。まあ、これだけすっきり晴れてるんだから仕方ないけど」
前髪をいじりながら話すのはいつものことながら、その仕草に突然女の子を感じてしまった僕は、和泉との距離感がまったく掴めなくなってしまった。打ち寄せる波には、見透かされたような気がした。
「でも、和泉は大したもんだよ。女なのにサーフィンやってるんだから」
「女が波に乗っちゃ悪いのか?」
「いや、別にそういう意味じゃないけど」
「純こそ何暇そうにぶらぶらしてるんだよ。やることないならさっさと家に帰ればいいだろ」
「別に暇じゃないんだけどさ……。なあ、ちょっといいか?」
僕らはその場に並んで腰を下ろし、ぼんやりと真正面の曖昧な水平線を眺めた。そこは、どこまで行っても交わらないはずの空と海が渾然一体となっていて、僕はただその不思議さと神秘さをありのままに受容していた。
「何か話したいことでもあるのか?」
「なあ和泉、人と人との関係ってそんなに難しいものなのかな?」
「えっ?」
「男と女って、複雑で難しいっていうけど、それって自分たちがわざとそうしてるんじゃないかな? 好きなものは好きだし、嫌いなものは嫌いだし……。違うかな?」
珍しくまともな僕の問いかけに戸惑ったのか、和泉はかなり長い間口を噤んでいた。初老の男性が、犬に引っ張られるように目の前を通り過ぎていった。
「確かにそうかもしれないけど、割り切れない部分っていうのもあるんじゃないかな。もちろん、男と女に限らないだろうけど。好きや嫌いっていっても、人によっていろいろな種類や形があるし。純だって、私とナツに対する気持ちとじゃ違うだろ?」
「でも、少なくとも俺は、和泉もナツも大好きだぜ」
「まったく同じようにか?」
確かに、和泉の言っていることは正論だった。僕は和泉もナツも好きだったが、その種類や形に違いがあることは明らかだった。でもそれは、複雑さや難しさとは別の次元のように思えた。友達としてだろうが、女の子としてだろうが、好きという事実に変わりはないからだ。
「和泉は、好きな子とかいるのか?」
「さあね。強いて言えば、海が恋人かな」
「言ってくれるな。でも不思議だな。和泉といると、まるで男友達といる気がするんだ」
「男も女も関係ないだろ。だって私たちは……」
「友達だから」
僕が付け足したその一言に、和泉は白い歯を見せながら笑顔で返した。何がどうであろうが、難しい理屈は関係ないのだ。今目の前には和泉がいて、僕らは誰よりもお互いのことを理解しているのだから、それ以上のことは不要だった。打ち寄せる波の音を耳に感じながら、僕はその事実を胸一杯に受け止められる喜びを噛み締めていた。