4th wind -breeze.2-
その日は朝から季節外れの雪が舞い、僕はカーキ色のコートのポケットに両手を入れながら、夜九時過ぎの稲村ヶ崎駅に降り立った。そして、サーフショップの二階のドアを叩くと、白いトレーナー姿の和泉が顔を出したので、買ってきた白ワインを差し出すと、促されるまま部屋に入った。
「悪かったな、こんな時間に。店長に用事頼まれちゃってさ。でも、この時期に雪が降るとはな。寒かっただろ?」
いつもと同じ口調で話す和泉を見ながら、それでも僕はうまく話を切り出せずに、流れのままにワインで乾杯した後もひたすら飲み続けるしかなかった。
「それで、今日は何の話だ? 話したいことがあるんだろ?」
それはひとしきり時間が過ぎた頃だった。窓外にちらつく雪は次第にその勢いを増していたが、僕の心はそれ以上に冷え切っていて、和泉の問いかけに辛うじて反応するのが精一杯だった。
「この間、ナツのアパートに行ったんだ」
「そうか。ナツ、元気にしてたか?」
「俺、見たんだ。お前とナツが抱き合ってるところを」
その言葉にもかかわらず、和泉の表情は全く変わらなかった。でもその顔色は青白く、仮面を被っているように平板だった。僕は、何とか和泉の心の仮面を取り去る勇気を持とうと、ただ気持ちを落ち着けることに懸命だった。波の音は雪に掻き消されて全く聞こえなかった。
「突然何を言い出すのかと思えば、一体何のことだ?」
「半月くらい前のことだけど、穂波がマンションの屋上から落ちて死んだニュースをテレビでやっていて、俺本当に驚いたんだ。何て言うか、頭の中が真っ白になって、どうしたらいいのかもわからなくなって」
「そのニュースは私も見たよ。何て言っていいかわからないけど、大変だったな」
「そしたら何だか急に寂しくなって、誰かに自分の気持ちを言いたくなったから、部屋を飛び出してナツのアパートに行ったんだ。本当は和泉と話したかったんだけど、ここまで来るにはもう遅い時間だったから」
そこまで言うと深呼吸をし、僕は和泉の瞳の奥をじっと見つめた。そこにかすかな動揺を見出そうとしたが、和泉は相変わらず平板な表情を崩そうとはしなかった。
「ナツの部屋の前まで来て、それから何度もブザーを押したんだけど反応がなくて、でも鍵がかかってなかったから、少し迷ったんだけど中に入ったんだ。そしたらガラスの扉越しにベッドが見えて……ナツとお前が抱き合ってたんだ」
「純の見間違いじゃないのか? ナツはともかく、そんな状況でもう一人が私だって言い切れるのか?」
「いや、確かに部屋は暗かったけど、あれは間違いなくお前だった。俺にはわかる。俺たちはずっと友達だったんだぜ。見間違うわけがないさ」
「友達だった……か。もう過去形なんだな」
寂しそうな和泉に心が揺らいだ。後戻りのできない重圧をはねのけるだけで精一杯だった。
「本当のことを言ってくれよ。俺は真実が知りたいんだ。そうしないと、俺はこれから何を信じて生きていったらいいかわからないんだ」
その切実な訴えが和泉に届くまでにかなりの時間を要した。和泉は、伏し目がちに視線を落としたまま微動だにしなかった。僕はただ、投げかけたボールを和泉がキャッチしてくれる瞬間を待つしかなかった。
「信じられるのは自分だけなんだよ」
ようやく放たれた和泉の一言は僕に対しての答えのようでもあったし、単に自分に言い聞かせているだけのようでもあった。
「私は、小さい時から誰も信じてなんかいなかった。女の体を持った男の私は、親を含めた周りから疎まれ、時にははっきりと嫌がられた。誰も私のことを信じてくれなかったし、もちろん愛してもくれなかった。でも、そんな中にあってただ一人私を好きになってくれたのがナツだった。彼女だけが私の救いだったんだ」
「俺は……俺のことはどうだったんだ?」
「いい友達だったよ、少なくとも表面上は。でも、純は私を軽蔑してただろ? 本当の私を知った瞬間から」
「それは……」
「違うとは言わせないぜ。それに、ナツを好きなことも気に入らなかった。この私から、たった一人の友達を奪おうとしていたんだから」
和泉の真実を突きつけられた僕は、返す言葉もなくただ呆然とするしかなかった。和泉の言うとおりだった。少なくとも、彼女を特別視していたことは隠しようのない事実だった。