3rd wind -breeze.7-
やがて、何とか現実を直視することができるようになった僕は、高台からゆっくりと石段を下ると、海岸通りを歩いて和泉の働くサーフショップに向かった。一人では、粉々に砕け散った心をまとめ合わせることができなかったからだ。
「よお、純じゃないか。どうしたんだよ、急に」
でも、その呼びかけに反応できなかった僕を見て、和泉はただならぬ気配を感じたらしく、オーナーに何かを告げた後、僕を二階の部屋へと誘った。正月に訪れた時と同じく、正面にはガラス越しの海が見えたが、下り坂の天候によって雲はその厚みを、やや高いうねりとともに波はその白さを増していた。
「悪いな。急に来ちゃって」
「そんなことはいいんだけど、何かあったのか?」
「俺、もう何が何だかわからなくなったんだよ。たった今穂波と別れてきたんだけど、アイツ、ナツの兄さんと付き合ってたんだ」
「穂波って……お前たちまた付き合ってたのか?」
そう言えば、和泉には話していなかったな、と思ったが、それも一瞬のことだった。僕はただ、誰かとこの不可解な状況を共有したかったのだ。理不尽な事実を聞いてほしかったのだ。
「ああ。でも驚いたよ、またナツの兄さんだよ。これじゃ、昔と同じじゃないか」
「でも、ナツの兄さんはこの間結婚しただろ?」
「付き合い始めたのはその前かららしいけど、まあ今となっては見事に不倫だよな」
「そうか。それは大変だったな」
「でも、そんなことはもうどうでもいいんだ。どうしていいのかわからないのは自分の気持ちのほうなんだ。穂波に言われてわかったんだ。まだ真波を好きなんだって。忘れてなんかいなかったんだ。やっぱり男と女は単純だったんだよ」
僕の矢継ぎ早の叫びを、和泉はただ黙って聞いていた。春の柔らかな日差しのように、あるいは夏の海で囁く風のように。
「人の気持ちって、そうは簡単に変わらないんだよ」
それは、和泉がおもむろに口にした言葉だった。そして、彼女はかすかな波の音をバックになおも続けた。
「私と純の関係だって、昔からずっと変わらずにきてるだろ? 確かに男と女の関係じゃないけど、どっちにしても本質的には同じような気がする。単純じゃなくて不変なんだよ。だから、純が海野先生を想う気持ちは当然だと思う。ただ、彼女は既に死んでしまったんだ。今の純の気持ちは大事にしなきゃいけないと思うけど、それに縛られてもいけないと思うんだ。私だって、心と体のねじれを受け止めながら、それに縛られないように、これでも毎日努力してるんだ」
「和泉、もし間違ってたら言ってほしいんだけど、お前本当は、まだナツのことが好きなんじゃないのか?」
僕の直感から出たその問いかけに、和泉は答えを与えてくれなかった。ただ口元をかすかに緩めて微笑んでいるだけだった。
「あっ、もうこんな時間だ。そろそろ店に戻らないと。純、いろいろ大変だと思うけど頑張れよ。また今度ゆっくり話そうな」
僕をはぐらかすようにそう言った和泉は、立ち上がるとドアに向かって歩き出した。窓越しに外を見ると、いつの間にか降り始めた雨が海岸通りを、そして白く波打つ海をしっとりと濡らしていた。僕は、そんな光景と和泉の後ろ姿を交互に見ながら、人の気持ちの不変さについて思いを巡らせていた。それは、何より僕自身が真波を通じて痛感していたことだったが、同じ意味でまた、和泉もナツを通じて感じているはずだった。はっきりとした根拠はなかったが、僕は彼女の言葉の端々からそれを感じることができた。何故なら、僕らはそれほどまでに親友だったからだ。そこにはもはや答えなど必要なかった。
その後の一週間は、僕にとって苦悩と忍耐の連続だった。穂波とは稲村ヶ崎で別れたきり、会うことも声を聞くことさえなかったが、それよりも僕は、彼女を通して見続けていた真波の幻影を見られない寂しさに打ちひしがれた。アルコールを使ってその想いを断ち切ろうとしたが、翌日の割れるような頭の痛みとともに虚無感を増すだけだった。ナツに会おうとも思ったが、真波への想いを打ち消すためであることを悟られる恐怖で連絡を取ることができなかった。
もっとも、そんな泥を舐めるような日々にも突然の終わりがやってきた。