3rd wind -breeze.6-
「ねえ、私を抱いたこと、後悔してる?」
「まさか」
「そう、よかった」
その一言に安心したのか、ナツは目を伏せて僕の胸に鼻先をつけた。壁に掛かっていた時計の針は午前三時を指していて、外からの雨音も既に聞こえなくなっていた。
「俺、ナツに話していなかったことが二つあるんだ」
ナツの瞳が再び僕に向けられた。彼女には正直でありたい、素直になりたいと思った。
「実は中学二年の時、好きだった人がいたんだ。もちろん、ナツに振られた後のことだけど。最初の頃はそうは思わなかったんだけど、何度か会って話をしていくうちに、大切な人だと気づいたんだ。でも、当時その人には付き合っている人がいた。君の兄さんだよ」
「それって、まさか……」
「そう、海野先生だよ。もっとも、今となってはもうどうしようもないけど」
「私、何て言ったらいいか」
わからなくて当然だと思った。突飛なことを言ったのは僕のほうなのだから。ただ、ナツには知っておいてほしかったのだ。それ以上のことは望んでいなかった。
「……もう一つは?」
「俺、今付き合ってる子がいるんだ。実は、この間和泉が話してた子なんだけど、去年の春に大学で偶然に会って、それからまた付き合い始めたんだ」
「そう」
物哀しげなナツの声がとにかく痛かった。もっとも、そう感じる自分はもっと痛かった。
「でも、俺たちもう駄目なんだ。何か歯車が噛み合わないっていうか、最近全然うまくいってないし、そもそも彼女を好きなのかどうかもわからなくなってきたんだ。だから、もう別れるよ」
「それでいいの?」
「今俺が大事なのは、ナツだけだよ」
「信じていいのね」
そう念を押すナツに、僕はその丸みを帯びた額に口づけをすることで応えた。そう、僕はただ頑なに信じていたのだ。ナツとの新たな関係を築き上げることで穂波から、いや真波の影から完全に抜け出せることを。十四歳の自分の殻を脱ぎ捨てることができると。
その瞬間は意外に早く訪れた。三月に入った最初の日曜日の夜、二週間ぶりの穂波からの連絡は、明日ドライブに行きたいという電話だった。僕は、早速大学の友達に電話をして翌日の早朝に車を借り、ZARDのアルバムをひたすらに聴きながら、昼過ぎには稲村ヶ崎に着いた。
「ここに来るの、本当に久しぶりね」
穂波の声は、程なく薄く広がる白い雲に吸い込まれていった。晴れ間こそなかったが、公園の高台から見る江ノ島はいつもと同じ存在感を示していた。
「俺に何か話があったんだろ?」
「私たち、やっぱり別れたほうがいいみたいね」
予期していたこととはいえ、穂波の言葉は、真冬の海を渡る冷たい風となって僕の胸を刺していった。そして彼女の発した次の一言によって、僕は改めて男と女の間にある凡庸な複雑さを噛み締めることになった。
「好きな人ができたの」
六年前の時のアルバムが、鮮明な記憶となって目の前に蘇ってきていた。波の音は再び遠くに霞んでしまっていた。
「どんな奴なんだ?」
「年上の人よ。浩樹っていうの。去年の暮れに友達の彼を紹介された時に、たまたまその隣にいたの。会社の同僚だって言ってたわ。それから四人で、飲みに行ったり遊びに行ったりしてるうちに……」
「浩樹って、もしかして夏沢浩樹っていうのか?」
「そうだけど、どうして知ってるの?」
穂波の答えに、僕は偶然に彩られた現実を嫌というほど思い知らされていた。ここにもまた、浩樹の名前があったのだ。
「でも、もし同じ人なら、先月結婚したはずだけど」
「そうよ」
「穂波、お前はそれでいいのか?」
「どういうことよ。まさか浩樹は結婚したから、不倫になるからやめろとでも言うつもりなの? 非常識だとでも言うの? 冗談じゃないわ。大体あなたはいつもそうよ。昔から普通だ、常識だって言っては周りの目ばかり気にして。そう言うあなたはどうなのよ? 初めから、高校の時から私のことなんか好きじゃなかったくせに、どうして今まで付き合ってきたの? それがあなたの言う常識なの?」
それだけを一気に言い放つと、穂波は駆け足で立ち去っていった。一人取り残された僕は、彼女の言葉の一つ一つを自分に問いかけてみたが、やはり何一つ反論することはできなかった。全ては穂波の言うとおりだった。僕は、彼女を愛していなかったばかりか、その中に真波の影を追いながら付き合っていたのだ。最初から穂波の姿など見ていなかったのだ。僕は、未だに真波を想う自分の本質を知って身動きができなかった。複雑に見えた人生のジグソーパズルは、実はいともたやすく解けてしまうほど単純なものだったのだ。