1st wind -breeze.2-
「今日から教育実習生として、皆さんと一緒に勉強させてもらうことになりました、海野真波といいます。短い間ですが、よろしくお願いします」
濃紺のスーツをぎこちなく着込み、窓の外で降り続く雨音に掻き消されそうな、か細い声でそう挨拶した真波は、それからしばらくの間、僕のクラスの副担任と国語の授業を受け持った。もっとも、僕が彼女と実際に言葉を交わしたのは、実習期間も終わりを迎えようかという六月の終わりだった。
その日は梅雨にしては珍しく朝から晴れ間が顔を覗かせ、僕は昼休みになると、久しぶりに学校の屋上に出て音楽を聴いた。もちろん友達と遊んでもよかったのだが、僕はただ単純に一人になりたかったのだ。屋上のフェンス越しにはいつもと同じように海が見え、波の煌きにはそう遠くない夏の気配が感じられた。僕は、そんな自分中心の時の流れの中で、本当の時間がどの程度過ぎているのかがよくわからなくなっていたが、やがて右側に人の存在を感じて振り向くと、そこにはこちらをじっと覗き込む真波の姿があった。
「何か用ですか?」
「君、高村くんよね。いつも一人で音楽聴いてるの?」
『友達がいないの?』と言われているようで少し腹が立った。実習生のくせに先生面するな、と言いたい気持ちを顔に表したつもりだったが、真波にどこまで伝わっているかはわからなかった。
「何、聴いてるの?」
「……ZARDです」
「へえ、珍しいな」
「そうですか?」
「普通男の子って、もっと他の曲を聴くんじゃないかしら」
そう言われて返す言葉を失った僕は、そのまま黙ってコンクリートの足元を見つめた。せっかくの一人の時間を壊されたこともあったが、友達でも家族でもない相手から曲の好き嫌いを言われたくなかったからだ。
「ごめんね。別に変な意味で言ったんじゃないの。何か少し意外だったし……。私も好きだから。ほらZARDの曲って、女の気持ちを繊細に描いてるのよね。だから、共感できる部分がたくさんあるの」
「男の気持ちも繊細に描いてますよ」
「そうね。それに、爽やかなメロディーだけど、実は結構深かったりするのよね」
そう呟きながらじっと海を眺める真波に、僕は再び押し黙るしかなかった。遠くから鳥の鳴き声が聞こえたような気がしたが、すぐに昼下がりの静寂があたりを包み込んだ。
「ねえ高村くん、あなた一人っ子でしょ?」
「えっ、どうしてわかるんですか?」
「私もそうだからよ。だから、何となくね」
『何となく』と『ね』の間が妙に気になった。言いたいことがあるのなら、はっきりと言ってほしかった。昼休みは意外と短いのだ。
「どうしてそんなことを訊くんですか?」
「ただ確認したかったのよ」
でも、その時鳴ったチャイムによって二人の言葉のやり取りは唐突に終わった。僕は真波と別れて教室に戻り、五時間目の国語の授業で再び顔を合わせることになったが、不思議とその目を見ることができなかった。自分の心の中にさざ波が立っていたが、それが決して大波にならないことはわかっていた。何故なら、僕は既に一人の女の子の姿をはっきりと捉えていたからだ。
数日後、それは真波の教育実習最終日だったのだが、授業を終えて校門を出た所で、僕は背後からの唐突な叫び声に呼び止められることになった。
「高村くん、ちょっと待って!」
「ああ、海野先生。どうかしたんですか?」
「私も今日で最後だから、せっかくだから一緒に帰ろうかなと思って」
ようやくスーツ姿が様になってきた真波はそう言った後で、小ぶりな口元を少しだけ緩めた。彼女のかすかな笑みとともに、風に踊った長い髪が僕の目を捉えて離さなかった。
「どうしたの?」
「あ、いや別に」
「ねえ、海見に行かない?」
行きたくなくても、この道をまっすぐ行けば海岸通りに出るのだが、誘われて悪い気はしなかった。大体、言われなくても僕は、毎日のように海と話をしているのだ。
「実はね、同じ一人っ子として、高村くんに相談したいことがあるの」
真波はその言葉だけを残すと一人で足早に歩き出したので、僕はその意味を深く考える余裕も、まして傍らに青紫色の花を咲かせる紫陽花を愛でる間もないままに、とにかく彼女の後ろ姿を追うしかなかった。
そうして二人が辿り着いた海はやや波が荒く、頭上の雲行きがやがて降るであろう雨を教えていた。僕らは海岸通りから砂浜へと下る石段の途中に腰を下ろし、目の前で波と戯れるサーファーたちを眺めた。
「もうすぐ海開きよね。そうすれば、本格的な夏の到来ね」
「相談って何ですか?」
僕のフライング気味な問いかけに真波の唇が僅かに動いたが、そこから実際に言葉が発せられたのはかなり後だった。
「人間には男と女がいて、お互いに好きになったり愛し合ったりするけど、それって一体、誰が決めたのかしらね」
「……言っている意味がよくわからないんですが」
「人が人を好きになるのは当然のことだと思うけど、そこに男と女が絡んでくるとなかなか難しいわね」
真波の言葉に、僕はどう答えていいのかがわからなかった。というより、何を答えていいのかがわからなかった。ただ一つはっきりとしていることは、僕と彼女の間には漠然とした、でも決定的な違いがあるということだった。
「ごめんね。これじゃあ、何が何だかよくわからないわよね。ところで高村くんは、今好きな子とかいるの?」
答える義理も必要もないので黙っていたが、それがイエスだと直感したらしい真波は、さらに畳みかけるように尋ねてきた。
「同じクラスの子?」
「別に、先生には関係ないでしょ」
「まあね。でもいいなあ」
「何がですか?」
「若いってことがよ。私にもそんな時代があったな」
軽く息を吐くように呟いて立ち上がり、石段を下って砂浜を歩き出す真波を見ながら、僕は彼女の言いたかったことを自分なりに理解しようとしたが、どれだけ考えても答えは見つからなかった。その理由が自分の幼さにあることは十分にわかっていたが、一方でそれを認めたくない自分もいた。そう、僕は当たり前のように中途半端で、切ないほどにまだ中学二年生だったのだ。