3rd wind -breeze.4-
翌日、軽い朝食を済ませた後、僕と和泉はそれぞれの場所へ戻るべく、ナツの部屋を出て近くの駅に向かった。ナツは僕らを送ろうと一緒についてきたが、口数こそ少ないもののあまりにもさっぱりとしたその態度に、僕は夕べのことが夢であるかのような錯覚に陥った。あの時確かにナツは、僕のことを好きだと言ったのだ。そしてその告白に、僕は胸が打ち震えるような感動を覚えたのだ。決して夢であってほしくはなかった。でも結局のところ、夢であれ現実であれ、僕の取るべき選択肢は一つしかないはずだった。
僕は駅でナツと別れ、更に鎌倉に戻る和泉と別れると、そのまま電車を乗り継いで自分の部屋へと戻った。僕のアパートは中野の北の方の西武線沿いにあり、小田急線沿いにあるナツのアパートからは新宿で乗り継いで四十分ほどかかった。一旦家に帰った僕は、シャワーを浴びて丁寧に髭を剃ると、服を着替えて再び新宿まで戻った。昼の十二時に人と待ち合わせていたためだったが、街はそんな僕とは無関係に容赦ない時の流れを刻んでいた。僕は既に長い春休みに入っていたが、周囲に漂う雰囲気はまぎれもなく普通の月曜日のものだった。働く人々が舗道を激しく行き来し、僕はその光景に少なからず後ろめたさを感じたが、待ち合わせ場所の喫茶店に入ってその顔を見つけた頃には、いつもの自分の世界に身を置きながら口元を緩めていた。
「五分遅刻ね」
少し神経質そうな笑みを浮かべて僕を軽く窘めた香田穂波は、同じ大学に通うクラスメイトで、一年近く前から僕と付き合っていた。彼女と知り合ったのは高校二年の時で、それは夕べ和泉が延々と話していた子に他ならなかった。当時の僕が穂波に惹かれたのは、お互いにZARDが好きだったこともあったが、何よりも何気ない仕草や雰囲気が真波に似ていたからだった。僕は無意識のうちに、半ば強引に穂波と真波を重ね合わせようとしていたのだ。でも、当然のことながら二人は別人であり、進級と同時に別のクラスになったこともあって別れた。僕は真波を引きずり続ける自分に愕然とし、そのことで穂波を傷つけたことを激しく後悔したが、真波に次いで彼女をも失ってしまった事実に自分自身を更に損ねてしまった。やがて大学に入った僕は、フランス語のクラスで偶然にも穂波を見つけ、お互いが成長したこともあったが、以前とは違う感覚で彼女と接することができ、新しい男と女として付き合えるようになった。それが僕の、一年の浪人生活に由来しているかどうかはわからなかったが、僕はその間に過去の自分を、身の回りに起きた様々な出来事を改めて整理し、時のアルバムにしまい込んだ。その試みはある程度成功した。もちろん、穂波自身の変化も大きかったが、いずれにしても僕は、ようやく真波から独立することができたと信じていた。
「そんな所で何ぼんやりしてるのよ。早く座ればいいじゃない」
「ああ、そうだな」
記憶の糸を手繰り寄せていた僕は、穂波の不躾な一言でようやく現実に立ち返ることができた。彼女の切れ長の目尻はほんの少し上がり、小ぶりな唇とともに表情の薄さを見事に象徴していた。背中まである長い髪がやや茶色く染められていることを除けば、その姿に高校時代の面影がかなり色濃く残されていた。
「何にする?」
「俺はコーヒー」
「違うわよ、これから見る映画のことよ。今日の純、ちょっと変よ」
苛立ちながら怪訝な表情を浮かべる穂波を前に、僕は既に自分の心のベクトルがぶれ始めていることに気づいていた。一体俺はどこへ向かおうとしているのか。無表情に交差点を行き交う人々を窓越しに眺めながら、僕はノアの箱舟のように揺れ動く自分を図りかねていた。
僕らは、口数も少ないままお互いにコーヒーを飲んだ後、近くの映画館で恋愛ものの映画を見た。それは無名の俳優を使った無名のフランス映画で、僕は最初の数分でハリウッドのアクションものにしなかったことを後悔したが、スクリーンを見つめる穂波の眼差しは真剣そのものだった。彼女の手には黄色いハンカチが強く握り締められていて、僕は結局その手をぼんやりと見ながら大半の時間を過ごした。
「さて、これからどうするかな」
それは、退屈な時間もようやく終わって映画館を出てきたところだった。腕時計の針は既に午後四時を告げていて、あたりにはほのかに夕暮れの雰囲気が漂い始めていた。
「悪いけど、私これから用があるの」
「そんなこと聞いてないぜ」
「だって、言ってないもの。じゃあまたね」
平板な言葉に唖然としている僕を尻目に、穂波は足早に人込みにその姿を隠してしまった。慣れていたことではあったが、最近の穂波にはどことなく素っ気ないところがあり、それが僕を半ば呆れさせ、苛立たせた。付き合い始めた頃の新鮮さを失ったお互いの倦怠感のせいかとも思ったが、僕の本能がそれとは違う警告を発していた。具体的にはわからならかったが、彼女に何かあったことだけは間違いなかった。僕は頭をゆっくりと左右に振りながら、それでも淡々と、夕闇に自分を紛れさせていくより他に方法がなかった。