3rd wind -breeze.1-
そうして永い記憶の旅から舞い戻ると、二十歳の僕は灰色の墓石を眺めながら佇んでいた。真波が白い灰となってこの下に眠ってからの六年は、僕にとって本当に無意味で無価値な歳月だった。目の前の出来事が全て嘘に思え、繰り返される日常は透明で存在感が希薄だった。もっとも、緩やかだが確実に前へと進む時の流れは、僕とその周囲を決して待ってはくれなかった。ナツは、僕との居心地の悪い関係を残したまま、中学卒業と同時に、ひと足早く都心で一人暮らしをしていた兄浩樹のもとへ行った。そして和泉とは、同じ高校に進学してからも親友として数多くの時を過ごしたが、卒業して僕が都心の大学へ進学したことで離れ離れになった。高校の三年間はどことなく重苦しく、岬の公園の高台に行く度に、そしてZARDが新曲を出す度に胸が鈍く痛んだ。ある女の子と一年程度付き合ったこともあったが、何百時間言葉を交わしても、何度となく体を重ね合わせても、心に空いた絶望的な風穴を埋めることはできなかった。そんな僕にとって唯一の救いは、他でもない和泉の存在だった。僕らはお互いの欠けた一部分を補うかのように支え合い、同じ価値観を共有し合った。でも、高校を卒業して大学に入ってからは、クラスやサークルの仲間には決して心を開かず、自分だけの、いや真波とのささやかで非現実な世界に身を置き続けた。それが自分をいい方向に導かないことは十分にわかっていたが、僕はただ他人との不用意な関わりを恐れていたのだ。そしてその意味で、僕は十四歳の自分に安住の地を求め続け、現状からの逃避をひたすらに望んでいた。
雲の隙間から恥ずかしそうに顔を覗かせる新年の太陽は穏やかで優しかったが、不意に背後から肩を叩かれて振り向いた僕は、そんな安らいだ気持ちをさざ波が立ったように乱された。かなり久しぶりに見る姿は、それほどまでに意外なものだった。
「久しぶりだな」
そこに立っていたのは浩樹だった。二十八歳になっているはずの彼は、相変わらず僕より背が高く、スーツにネクタイ、それにロングコートを全て黒にまとめて着込んでいた。短い髪は整髪料で固められ、大学時代と比べると別人のように見えたが、こちらに注がれる柔らかな眼差しと、笑みを見せるために緩めた口元は明らかに昔のままだった。
「どうも、こんにちは」
「大きくなったな」
浩樹は感心しながらそう言って、僕の頭を軽く撫でた。あまりいい気はしなかったが、彼にとって僕は、やはり中学二年生のままに見えるのだろう。
僕らは、そのように挨拶を済ますと、立ち話も何だからと、かつて何度となく通った海岸通り沿いの喫茶店に向かって歩き出した。正月とあって店の入口には『準備中』の札が掲げられていたが、浩樹が店の勝手口らしい所から話をすると、程なく扉が開いて中に入ることができた。
「ここのオーナーとは知り合いなんだ」
浩樹はその言葉とともに、春の木漏れ日のような笑顔をこちらに投げかけた。程なくコーヒーが運ばれてきて、僕らは改めて二人だけの空間で話をすることになった。
「真波がいなくなってから、もう六年になるんだよな」
「毎年来てるんですか?」
「ああ、俺にとっては大切な人だったからな。彼女のことは、今でも忘れることができないよ」
「俺もです」
「好きだったのか?」
浩樹にストレートに訊かれた僕は、言葉の代わりに深く頷いた。その後二人の間に沈黙が広がったが、決して重苦しいものではなかった。むしろ、その時テーブルに注がれていた日差しのように柔らかいものだった。
「ところで、純は今、何してるんだ? 大学に行ってるのか?」
「ええ、都心で一人暮らしをしながら」
「そうか。じゃあ今度俺の家に遊びに来いよ」
「今も、ナツ……いや純と一緒に住んでいるんですか?」
「いや。純は、高校を卒業すると同時に出ていったんだ。今は大学に通いながら一人暮らしをしてるよ」
「そうなんですか」
気負い込んで訊いたわりには、先へ続く言葉が見つからずにうつむくしかなかった。自分から言い出したこととはいえ、ナツのことを持ち出したことで、二人の『非常識』な関係を思い起こしてしまったこともあった。もちろん今さら、それについて僕がこれ以上訊くことはあまりにも不躾で無意味であり、またその資格もないと思った。
「ああ、そうだ。実は俺、来月結婚することになったんだ」
「えっ、まさか……」
浩樹の唐突な一言に、僕は反射的にナツの名前を口から出しそうになったが、辛うじてそれを飲み込むことに成功した。落ち着いて考えてみれば、彼が妹と結婚できるはずもなく、僕は早とちりな自分を窘めながらも、ナツの切ない想いを感じてかすかな哀しみが胸に広がった。
「そんなに驚かなくてもいいだろ? 俺だってもういい歳なんだから」
「そうですよね。おめでとうございます」
「それで、もちろん式には出てくれるよな」
「出席してもいいんですか?」
「当たり前だろ? 大切な妹の親友なんだから」
浩樹はそう言うと、残っていたコーヒーを一気に飲み干した後で再び微笑んだ。でも僕は、それに対して笑顔で返すことができなかった。浩樹が放った「親友」の一言が、僕の頭をひたすらに駆け巡っていた。そう、僕とナツは小さな頃からいつも一緒で幼馴染のようなものだったし、淡い恋心を抱きながらも様々な出来事を共有し合ってきたのだ。僕とナツは、いや和泉を含めた三人はまぎれもなく親友であり、決して切れることのない固い絆で結ばれているはずなのだ。僕は改めてナツという存在の重みを感じ、できるだけ早くその絡まった糸を解きほぐそうと決意していた。