2nd wind -breeze.6-
その後、頬を伝う海風に再び寒さを感じた僕は、真波の中からそっと抜け出すと、海岸通りから少し入ったホテルに向かって歩き出した。そうすることが正しいかどうかなど、僕はもう考えていなかった。たとえそれが圧倒的に非常識だったとしても、少なくとも今僕は、それを心から望んでいたのだから。
「ねえ、後悔してない?」
真波の一言が、真っ暗なホテルの部屋中に響き渡った。彼女は、窓から闇の世界に沈んでいる海を眺めていた。僕はベッドに腰を下ろしながら、彼女が背負う深い哀しみをその後ろ姿に見ていた。
「何をですか? 二人の年が離れていることですか? それとも、先生と生徒がこうなったことをですか?」
意地が悪いと思いながらも、そう言わずにはいられなかった。真波の気持ちを確かめたいというよりも、今現実に共有している時間の流れを楽しみたかった。
「年の差は関係ないわ。それに、前にも言ったでしょ? 私はまだ先生じゃないわ。その卵よ」
「じゃあ何ですか?」
「あなたはまだ若いわ。これからいろいろな人と出会って、様々な経験をすると思うの。でも、その前に私のような人間と……」
「本当の先生みたいなことを言うんですね。仮に、もしそうだったとしても、先生との出会いだって経験じゃないですか。それに、少なくとも俺は、今先生を求めています」
これからのことは、これから決めればいいと思っていた。時間は十分にあるのだから、ゆっくり考えればいいのだ。大切なのは今、この一瞬なのだ。考える前に行動しなければ手遅れになりかねない現在を逃して、後悔だけはしたくなかった。
「わかってるわ。でも、本当に後悔させたくないの。私は多分、あなたが思っているような人間じゃないわ。いずれあなたは間違いなく、私を持て余すようになるわ」
「それでもいいじゃないですか。先のことを考えてたら何もできないですよ。今を大切に生きればいいじゃないですか」
「やっぱりあなたは若いわ」
真波の呟きを、僕はそのすぐ後ろで聞いていた。自分の若さがどういうものなのかわからなかったが、今はそれを考える気も余裕もなかった。目の前に真波がいることが全てだった。それで十分だった。僕は彼女をきつく抱き締め、ベッドに横たわった二人は、お互いの体の隅々までを貪欲に確かめ合った。波の音は聞こえなかったが、僕は真波と重なり合いながら、その耳に彼女の心の叫びをはっきりと聞き取っていた。
でも、現実的に目を覚ました時、既に彼女の姿はなかった。時計は午前三時を示していて、隣には彼女が残したベッドの僅かなくぼみがあるだけだった。僕は夕べの出来事を思い起こしてみたが、それは何の結論も導き出さなかった。もちろん後悔などは毛頭なかったが、僕は真波の唇に、そして柔らかな白い肌にリアルな感触を見出せなかった。もっとも、しばらくしてそれが真夜中の闇と静けさの影響だとわかると、僕は味のないコップ一杯の水を一気に飲み、それから再びベッドの中に潜り込んだ。夜明けまでにはまだ時間がたっぷりあったからだ。
その後の一ヶ月は奇妙な毎日だった。真波を抱いたあの日から、自分の目の前にあるもの全てが二重に見え、その存在感が希薄になったような気がした。ナツとは相変わらずすれ違いの日々が続き、僕はそこに居心地の悪さを感じながらも、和泉と話をすることで一時的に自分の心のバランスを保った。でもそれは、根本的な解決にはならなかった。真波に会うために何度も電話をしたが、ただの一度も繋がることはなかった。僕は、あの日以来真波に会えないことに苛立ち、そのやり場のない想いに苛まれたが、無造作に流れていく時間を止めることはできなかった。
それは、十二月半ばのある寒い日曜日だった。期末試験の終わっていた僕は、クラスの仲間と街で遊んだ後、駅へ向かって家路を急いでいた。腕時計の針は午後九時を指し示していて、僕らは寒さが体に行き渡らないように早足で舗道を進んでいた。
「あれは……」
その光景は唐突に目の前に現れた。そこはラブホテルで、ちょうど二人連れが中に入ろうとしているところだった。でも僕が驚いたのは、それが女性同士であったことよりも、その一人の顔をはっきりと見てしまったことにあった。
「ちょっと待って!」
気がつくと反射的に叫んでいた。周りの仲間たちの視線も関係なかった。その女性が真波であることに間違いなかった。彼女は僕の声に気づいてこちらを向き、そのまま凍りついたように動かなかった。それが一秒だったのか一分だったのかはわからなかったが、次の瞬間連れの女性を引っ張るようにして、足早にホテルの中に入っていった。
「おい、何大声出してんだよ」
仲間の声で我に返った僕は、周りが真波に気づかなかったことに胸を撫で下ろしたが、同時に次々と押し寄せてくる疑問の渦に呑み込まれそうになっていた。真波がラブホテルに入っていったことはもとより、何故相手が女性だったのかがわからなかった。いや、うっすらと想像はできたのだが、その事実を認めたくなかったのだ。彼女が、過去の苦い経験から男性を好きになれなくなり、その活路を女性に見出したとしても、それはやむをえないことなのかもしれなかった。でも、だったら自分の存在は何なのか、一ヶ月前の出来事は何だったのかと考えると、僕は何もかもを投げ出したいようなやるせなさを感じた。真波は僕を裏切っていたのか……。再び何が真実なのかがわからなくなった僕は、最後の救いを求めるべく、次の日の放課後に全てを和泉に話す決心をした。