2nd wind -breeze.3-
「何だよ、相談したいことって」
それは、ナツが僕の部屋を飛び出してから十日ほどが過ぎた金曜日の午後だった。学校の都合で授業は午前中で終わり、これから波に乗るという和泉の後を追うようにして、僕はいつもの砂浜に来ていた。黒いウェットスーツ姿の和泉は相変わらずだったが、まだ海に入っていないことで、渇いた短い髪はかすかに潮風になびいていた。
「話そうかどうかかなり迷ったんだけど、俺も、もうどうしていいかわからなくて、和泉の意見も聞きたくなってさ」
「だから、何の話だよ?」
「ああ、ナツのことなんだけど」
「何だよ、またその話か。それで、今度は何だ?」
呆れたような表情を見せながらも、真面目に話を聞こうとする姿勢が嬉しかった。やっぱり和泉っていいな、と思った。
「アイツに好きな男がいるっていうのは、この前話したよな?」
「誰かわかったのか?」
「兄さんなんだ」
「そうか、やっぱりな」
「何だ、知ってたのか」
何もかもをお見通しの、全知全能の神のような和泉を尊敬すると同時に、軽い嫉妬の念すら覚えた。和泉には悩みなんて何もないような気がした。
「直接訊いたわけじゃないけど、まあ長い間付き合っていればわかるよ」
「それだけじゃなかったんだ」
「えっ?」
「その……セックスもしてたんだ」
僕がためらいがちに放った一言には、さすがの和泉も驚いたようだった。こちらを唖然とした表情で見ながら、次の言葉を発するのに少し手間取っているのが見て取れた。
「……そうか、そうだったのか」
「俺さ、二人の間にそういうことがあったというよりも、兄妹と男女がイコールだっていうのがどうしようもなくひっかかるんだ。頭で理解しようとしても、何て言うか、それってやっぱり非常識じゃないかって、ナツを色眼鏡で見ちゃうんだ」
「でも、そういうことがあってもいいんじゃないかな」
「本当にそう思うか?」
「男と女は、いや人間関係ってそういうものだろ。大体何が常識で何が非常識なんだ? どこにそんな線が引かれてるんだ?」
和泉の言い分はもっともだったが、あまりに抽象的で現実性に乏しいように思えた。今目の前で起きていることを、一般論で解決しようとしているような気がして釈然としなかった。
「それはそうだけど」
「男と女が結ばれるのが常識で、女と女が結ばれるのは非常識なのか? そんなことどうでもいいじゃないか。自分が相手のことを好きならそれで」
「和泉、誰か好きな奴がいるのか?」
僕の問いかけに、和泉は少しためらう素振りを見せたが、やがて意を決したらしく、こちらに鋭い眼差しを向けながら言った。
「私、ナツのことが好きなんだ」
「えっ、だって……」
「私、本当は男なんだ」
和泉の一言を、僕はうまく理解することができなかった。目の前にいる彼女は明らかに女で、その小さな胸のふくらみが事実を端的に表していた。僕にはもう、波の音しか聞こえなかった。何が真実で、何が間違っているのかさえわからなかった。
「男って言ったって」
「確かに体は女だけど、中身は男なんだ」
「それって一体……」
「私さ、生まれた時からずっと、自分は男だって思ってたんだ。ピンクの服を着せられたり、女らしくしなさいって言われるのも耐えられなかった。もちろん、自分の体が女であることにも。ずっと、心と体に違和感があったんだ。この体を脱ぎ捨てて、本当の男になりたいって思ってた。だから、弟が羨ましかった。どうして私が女で弟が男なんだろうって、親を恨んだりもした。仕方がないとはわかってたんだけどね」
僕の頭の中は、セメントを流し込んだように固まっていた。和泉の声はよく聞こえていたが、それを言葉に変換し、内容を理解する機能が麻痺していた。和泉の肩越しに見える江ノ島も霞んで見えた。
「俺、何かうまく言えないけど」
「純は、こんな私を軽蔑するか? 男か女かわからないような、どっちつかずの人間を」
「しないさ。確かにちょっと、いやすごく驚いたけど、少なくとも俺にとってはどっちだって構わないんだ。だって俺たちは……」
「友達だから」
僕の代わりにそう付け加えた和泉は、こちらを見ながら白い歯を見せて微笑んだ。もっとも僕の心の中では、それとは全く反対の想いに満たされていた。和泉の辛い状況を理解しようとする一方で、それを不自然でありえないことだと否定してもいた。僕は、今まで以上により深い混迷の渕に迷い込むことになり、そこから抜け出そうと必死になったが、結局のところ一人の女性に助けを求める以外に術はなかった。だから僕は翌日の夜に電話をかけ、日曜日の夕方に再び真波と会うことにした。