プロローグ&1st wind -breeze.1-
僕がその海沿いの駅……稲村ヶ崎に着いたのは、実に一年九ヶ月ぶりだった。江ノ電の車両からホームに降り立つと、いつもと変わらない懐かしい潮の香りがした。それは、僕に住み慣れた場所の空気のような安堵感をもたらしたが、同時に重苦しいような切なさと哀しみをも抱かせた。僕が高校を卒業してすぐにこの町を出たのも、都心の大学に通う不便さからだけではなかった。むしろ生まれ育った場所に染み付いた、青カビのような過去から逃れるためだったのだ。でも結局のところ、そこから逃げることは叶わなかった。何故なら、その過去の積み重ねから僕自身が出発しているからだった。
華奢で小ぶりな改札を抜けて狭い通りを歩き出すと、道端には数日前に降った雪の名残が留まっていた。北側に面しているためか陽は全く当たらず、真冬の海風が僕の顔を激しく刺していった。既に午前十時を過ぎてはいたが、すれ違う人は全くいなかった。そう、今日はまぎれもなく正月だった。もっとも僕は、実家の両親に会うためにここに来たのではなかった。あの時から、一年に一回必ず訪れるあの場所へ行くためだった。
小さなスーパーの角を曲がって小道に分け入ると、曲がりくねった上り坂は鬱蒼とした竹林のせいで薄暗かったが、小高い丘の上に辿り着くと視界が大きく開け、薄い雲のフィルターがかかった青白い空の下、右手には江ノ島が、やや左手には稲村ヶ崎が、そして正面には穏やかに凪いだ海の白波が見渡せた。全てが新しい太陽の輝きに満たされていたが、振り返ったその場所には、あの時のままの姿が静かに眠っていた。僕はそこに花を手向けると、灰色に佇む墓石をじっと見つめた。あれから六年の歳月が流れ、僕は今二十歳になったが、あの時の出来事を片時も忘れることはなかった。僕はただの中学二年生で、人の儚さや奥深さなど何もわかっていない存在だった。もちろん、中学二年生だからこそ感じた鮮烈な想いもあったが、いずれにしてもそれは失われた過去だった。永遠に戻ることのない憧景だった。でも、それが今の僕の礎になっていることもまたまぎれもない事実だった。全ては六年前の、秋の鎌倉から始まっているのだから。
あの時の僕は、海辺の町に暮らすただの中学二年生で、学校の校門を出ると、海に向かって一直線に伸びる道を歩き出していた。十月も半ばを過ぎ、二学期の中間テストを終えたばかりの僕は、周囲に広がる秋の気配や頭上に広がる空の高さも目に入らず、ただ試験を終えた開放感に満たされていた。
「ちょっと純、私を置いていく気?」
甲高い叫び声に振り返ると、そこには怒って頬を膨らます夏沢純と、その隣ではにかんだ表情を浮かべる青山和泉が並んで立っていた。
「別に、ナツと一緒に帰る約束なんかしてないだろ?」
「何ですって?」
「まあまあ、二人とも落ち着いて」
和泉の一言で僕と純はいがみ合いをやめ、いつものように三人で並んで歩き始めた。僕ら三人は同じクラスで、特に純とは家も隣同士で、小学校の頃からいつも一緒だった。二人とも純という名前だったので、お互いに呼びやすくするために、いつしか僕が彼女の名字からナツと呼ぶようになっていた。
「でもナツ、今日は部活いいのか?」
「今日はテストの最終日よ。バスケの練習は明日から」
ナツはそう言うと、通りすがりの風に乱された亜麻色の髪を両手でまとめ上げた。そこからはほのかに柑橘系の香りがした。
「さてと、テストも終わったことだし、これから三人で街にでも繰り出すか?」
「悪いな。私、これから波乗りに行きたいんだ」
和泉は短くカットされた前髪をいじりながらそう呟いた。彼女は特に部活にも入らず、暇さえあればサーフィンをして波と戯れていた。言葉遣いも男っぽく性格もさっぱりしていたので、和泉といると僕は、いつも男友達といるような不思議な気持ちになった。
「そうか。ナツは?」
「私も、今日はお兄ちゃんと出かけるから、早く帰らないといけないの。ごめんね」
そう言いながら、ナツが本当に申し訳なさそうな眼差しでこちらを見つめてきたので、僕はその大きな黒い瞳の奥を覗き込む恥ずかしさのあまり、自分の顔が赤くなっていくのがわかった。
「じゃあここで。また明日ね」
ナツの言葉とともに二人と別れたが、僕はそのまま家には帰らずに、海岸を走る国道を渡って砂浜に下ると、岬に広がる公園に向かった。天空から太陽が優しく見つめる中、僕は公園内の石段をゆっくりと上って、やがて見晴らしのいい高台に着いた。そこは小さい頃からよく来ていた場所で、穏やかな日差しに煌く海と、真正面には江ノ島がいつもの姿を見せていた。見慣れた光景ではあったが、僕はしばらくの間そこに佇み、囁くように流れる海風を感じながら、心の錘が取れた爽快感を味わっていた。
「もしかして、高村くん?」
不意に投げかけられた声に反射的に横を向くと、視界の中には見覚えのある、でも信じられない顔がそこにあり、僕らは現状を理解するためにただお互いを見つめ合うしかなかった。
「……海野先生」
「先生はやめてよ。まだ卵なんだから。でも久しぶりだね。元気だった?」
「ええ、まあ。でも、どうしてここに」
「私の家、この近くなの。ここの景色昔から気に入ってて、考えごとをしたい時にはよく来るのよ」
海野真波はそう言うと、遠い目をしながら彼方の江ノ島を眺めた。彼女は、少し前に教育実習生として僕の学校にいたことがあり、都心の大学に通う四年生だった。背丈は僕と同じくらい低かったが、切れ長の目と小粒の口元は性格的な大人しさと優しさを象徴し、ストレートな黒髪は背中まで長く伸びていた。
「何か、考えごとでもあったんですか?」
「ええ、まあ……。ねえ、せっかくだから、ちょっとその辺でお茶でもしない?」
真波に促されて、僕らは高台から下って公園を出ると、海岸通りを挟んで向かい側にある喫茶店に入った。ちょうど昼時と重なっていたことで込み合ってはいたが、運よく窓際の席を確保することに成功した。
「高村くんは、何飲む?」
「俺はコーヒーでいいです」
真波は、タイミングよく通りかかった店員にコーヒーを二つ注文すると、やや伏し目がちにこちらを見ながら問いかけてきた。
「四ヶ月ぶりよね。ちゃんと勉強してる?」
「まあ、そこそこには」
「頼りないのね」
でも、その後には何も続かなかった。僕は、かすかに流れる居心地の悪さを打ち破ろうと必死に言葉を探したが、どういう訳かそのかけらも思い浮かばなかった。真波も同じ気持ちだったらしく、僕と目を合わせることもなく、周囲の客の様子や窓外の景色を落ち着かない様子で眺めていた。でも、やがて運ばれてきたコーヒーが、図らずもその場のぎこちなさを解消することになった。
「そう言えば高村くん、相変わらず聴いてるの?」
「えっ、何をですか?」
「ZARDよ。前に話してくれたじゃない、学校の屋上で」
「先生はどうなんですか?」
「もちろん聴いてるわよ。まあ、今がそんな気分だっていうのもあるんだけど」
「やっぱり、何かあったんですね」
僕が尋ねても、真波は何も話そうとはしなかった。ただぼんやりとした視線を宙に彷徨わせているだけだった。僕はそんな姿を眼前に置きながら、改めて彼女との出会いを思い起こし、その悩みが何なのかを懸命に理解しようとした。そして、自分の記憶の断片とZARDの音楽が重なり合う中で、真波と初めて会った長雨が降り続く六月のあの日に戻っていった。