Ⅸ 私の話
「いつもありがとね、山下君」
彼が引きこもって数日のことだ。彼の家から帰る途中、私は彼の友人の山下君と歩いていた。夕日に照らされた通学路に、子ども達の笑い声が遠くから聞こえる。住宅街からはカレーの香りが漂ってきた。
親のカレーを最後に食べたのはいつだっただろうか。
「いや、別に」
「山下君がいなかったら、私何もしなかったから」
「……」
山下君は何か言いたげに口もごもごと動かしたが、断念して溜息を吐いた。
「あんな死んだ目してたらな」
「そんなに私死んでた?」
「死んでたな」
自覚が無かった。
彼がいない一日があんなに退屈だとは知らなかったのもある。
「とりあえず、もう明日からお前が一人で家庭訪問行けよ、俺とお前がいるなんて知られたら、あいつ、なんて思うか」
「……考えすぎじゃない?」
山下君はいつだって神経が過敏だ。それなのに興味がない事に対しては、一切の反応を示さない。
まるで昔の私だ。
「いつも思うんだけど、一階で妹さんと何話してるの?」
私が彼といる間、山下君はいつも妹さんとリビングで二人きりなのだ。迎え入れる妹さんの表情は、どこか嬉しそうだった。
「まあ、いろいろあるんだよ、こっちにもな」
山下君は目の前にある水たまりを、軽快に飛び越えた。
「ていうかさ、なんで私にあいつん家行かせたの?山下君が行けば」
「俺の言葉なんて届かねえよ」
私が言い終わる前に、山下君はそう遮った。その乱暴な口調が、まるで自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
「案外そう思ってるの、山下君だけかもしれないよ」
不登校のあいつのために、話しかけた事のない私に声をかけた。その行動は、ほとんど人と喋らない山下君にしては、とても珍しい、あり得ないことだった。
そこまでの行動が出来るのなら、彼に対して、それなりの信頼はある気がする。
「分かったようなこと言うな」
「……ごめん」
機嫌を悪くしたらしく、山下君は歩くペースを速め、私を置いて行こうとした。
「……ありがとよ」
山下君は、私と距離を置き、こちらを向こうとしなかった。何に対してのお礼かは分からなかったけれど、とりあえず「どういたしまして」と返した。
「ところで、もう一つききたいんだけど」
山下君は、私の声色が変わったのを察したのか、歩みを止めた。
「なんだよ、改まって」
「今日、あいつ自分の事喋ってくれた」
山下君は振り返り、ただ私の言葉をじっと待った。
「あいつの、過去の事。異常な事」
出てきた言葉は、それだけだった。説明が端的すぎて不十分だったかもしれない。けれど、私の中にある、一つの違和感だけは、なんとか解消したかった。
「なんの話だ?」
「本当に、知らないの?」
山下君は、明らかに何かを知っていた。これまでひっかかっていた事が、次々と言葉になる。
「あいつと、山下君、本当に一年ちょっとの付き合い?」
山下君は黙り込んだ。表情はさっきとは変わらない。無愛想で、睨んでいるような目つきは、何かを激しく嫌っているようだった。
「だったらどうなんだ」
未だに山下君は表情をピクリとも動かさない。無表情に徹し、心をどこかに隠す様子は、まるで、昔の私のようだった。一歩ずつ私に近づいてきた。まるで私を、敵と認識しているように
「もしかして、もしかしてだけど」
弁解するために、そう前置きする。そこから、辿りついた一つの仮説を口にした。
「山下君とあいつって、幼馴染?」
山下君は、私とあと数歩の距離のところで、歩みを止めた。こわばった表情は崩れ、困ったようにぼりぼりと頭を掻き、肩をすくめた。
「……そうだよ」
山下君は、観念したように、目を閉じた。
「どうしてわかった?」
「……女の勘?」
あいつの悪癖が移ってきたかもしれない。悪い傾向だ。
でも、そう考えたら辻褄が全て合うのだ。山下君が妙にあいつに肩入れするのも、妹さんと仲がいいのも、たまに寂しそうな顔をするのも。ピースの一つ一つが、その結論というパズルに綺麗にはまるのだ。
「でもさ、何であいつ、山下君のこと……あ」
あいつが山下君の事を覚えていないのか。そうきこうとした時、あいつの異常のことを思い出した。小学中学の頃の記憶が、あいつの中で、全て飛んでしまっているのだ。山下君の事を覚えていないのは、当然だ。
「そういうこと」
私が察したのを、把握したらしく、何も言わなくても、山下君には伝わった。
「でも、ならどうして、あいつと高校で仲良くしたの?」
教室で暴れ出すような事件があれば、あいつとは、もう仲良くしないのが普通だ。よほどの変人で無い限り、理由が見つからない。
「お前さ、あいつが暴れた理由なんだったか知らねえの?」
理由は、戦隊物を馬鹿にされたから……いや冷静に考えたらおかしい。あいつは、そんな人間じゃ無い。自分のことだけのために、そういうことをするようなやつじゃない。
いや、するしないの話じゃ無い。彼には不可能だ。
「あれ、嘘だからな」
私がまた何も言う前に、山下君は、何でもなさそうにそう告げた。超能力でも持っているのだろうか。
「山下君、勝手に人の心読まないでよ」
「読んでねえよ、予想してるだけ」
それでも、いつもドンピシャで当たっているから、恥ずかしい。
「俺の陰口言ってたやつが、中学の時にいたんだ。そいつらを、あいつが殴りに行った」
説明はそれだけで十分だった。私の時と、全く同じだった。彼は、いつだって、誰かの事で精一杯なのだ。
それを、別の人格がやったという形で処理することで、心に傷をできるだけ残さないようにする。そういうやりかただろう。
「理由が戦隊物ってのは、多分言ってたやつらが、適当に言ったんだと思う。俺の悪口言ってたなんて知られたら、あいつの頭がおかしいって事実が、強調しにくいからな」
山下君は、残念そうにそう補足した。まるで笑い話のように、彼は淡々と過去を語った。
「で、俺は、そんな時に何も言えなかったんだ。何もできなかったんだよ、臆病だったからな」
もしかしたら、あいつは昔、友達が多かったのかもしれない。でも、一度の事件で、手のひらを返すように、彼の友人は一人残らずいなくなったのだ。山下君以外全て。
勝手な想像かもしれない。でも、それなら、山下君が他人に無愛想な理由も分かる。
一度でも、人の黒い部分。残酷な部分を見てしまったら、信用なんて、出来るはずもない。私なら、それがわかる。
「それに、友達は大切にしろって、叔父さんの口癖だったからな」
そのときの山下くんの目は、睨んでいたものから、穏やかなものへと、少しだけ変わっていた。
「それって、山下君は辛くないの?」
並みの精神ならありえない。自分との思い出を、殆ど失っている友達と、もう一度友達関係をゼロから結ぶなんてことは。それは、今までの、自分との過去を、全て無かったことにされているのと同じだ。
昔の山下君は、あいつの中でいなかったことになっている。
「まあ、友達だしな」
山下君は、照れくさそうに頬を掻いた。
「それによ、俺のために、記憶を変えてまで暴れてくれた友達のこと、見捨てれるわけないだろ」
当然の事のように山下君は言う。
あいつが、山下君の事を気にいるわけだ。自分の為にそこまで考えていてくれる人間を、無意識にあいつは分かっていたのだ。
そして、あいつはそれを知ることは、恐らく一生ない。なんで、この世界に生きている人は、みんな不器用なんだろう。
その日から数週間後のことだ。
彼が引きこもりを脱却して、しばらくして、私は病院へ行った。
以前から出来ていた、大量の口内炎は痛いし、陰部のところに変なぶつぶつはできていたのだ。もっと気にするべきだったのかもしれないが、病院には行かなかったのだ。それくらいは、自然に治るだろうと、高を括っていた。
しかし、視界嫌でも移る黒い影。それが日に日に大きくなっていくのだけは、どうしても我慢できずに、医者に診てもらう事にした。
「ベーチェット病かもしれないね」
診察を終えた直後、花粉症だね、と告げるように、医者はそう言った。聞いた事のない病名に、首をかしげる。
「なんですか?それ」
動揺した私は尋ねる。
「症状はいろいろあって、これが絶対、ってのはないんだけど……まあ、簡単に言ったら、口内炎や肌の異常、消化器官から視力にまで影響を与える難病なんだよね。随分とひどくなってる。どうしてこんなになるまで放っておいたの?」
医者が呆れたように言った。本当に難病なのだろうか。小汚い太った医者は、自分の脇をぼりぼりと掻いた。
「ごめんなさい、めんどくさくて」
「はあ、困るなあもう。で、君の場合は目の症状がだいぶ進行が早いわけよ。表の皮膚にあまり異常は見られないけどね」
そんな軽いノリで言われても困るのだが。頼むから危機感を持って接してほしかった。
「治るんですよね?」
「うん、まあ投薬を続けてみよう」
その言葉を私は信用した。縋るものなど、他には存在しなかったから。
けれど、保健体育の時間に習ったセカンドオピニオンを覚えていれば、こんなことにはならなかった。
彼はとんだ藪医者だった。
私の失明が確定しのは、数カ月後のことだった。
日に日に暗くなる視界が、周りの人との世界とは、違うものに移行していく。世界が黒くなる。闇に徐々に、私の世界は侵されていった。
だからあのクリスマスの夜、私は彼から逃げ出した。
世界から放り出される瞬間を、彼に見られたくなかったから。だから私が入院すると同時に、彼との連絡を絶とうとした。
別に彼の事が嫌いなわけではない。嫌いじゃないからこそ、関係を終わりにしたかった。彼との時間が楽しかったからこそ、私はあの日から、彼とはもう会わないと決めたんだ。
彼といるのが幸せすぎて、どうしようもなかったのだ。それに、数か月の検査入院が入るから、ここら辺を潮時にするのが好都合でもあった。
だが、彼を甘く見ていた。
春休みに入って二日後のことだ。天気は良く、窓の外には雲一つない青空が広がっていた。静まりかえった真っ白な個室の病室に、静かにノックの音が聞こえた。
「お邪魔します」
私が返事をする前に扉は開いた。その次に聞こえたのは、うんざりするくらい、記憶の底にこびりついた声だった。
「お帰り下さい」
反射的にそう返した。クリスマスから連絡を絶ったはずの彼が、そこにはいた。
まさか、町中の病院をしらみつぶしにあたられるとは、予想外だった。まったく、彼はどれだけ私の事が好きなんだ。愛されるのも困りものだ。それでも私は、不覚にも感じてしまったのだ。
彼が来てくれてよかった。
そう頭で自覚した途端、無意識に涙が出そうになって、窓の外へ視線を向けて誤魔化した。その時にくれた花束は、何故かくしゃくしゃに萎れていたけれど、プレゼントの腕時計は、私の好みだった。失明したら意味はないのだが。
それからは、あいつに毎日のお見舞いを許した。何度も自分に駄目だと言い聞かせた。辛い思いをする未来が先に待っているだけだ、と。そして、その思いが、今日爆発した。
私は、また彼から逃げ出した。
彼がトイレに向かって行った隙をついて、私は公園から退散し、病院へと急ぎ足で戻って行ったのだ。
公園から杖を付きながら、慣れない運動で息を切らし、ひたすら逃げることだけを考えていた。そして、いつの間にか、病室のベッドの上で、丸まっていたのだ。
原因は分からないけれど、理由くらいはわかる。怖かったからだ。何が怖かったのだろう。彼の優しさ?愛?ひたむきさ?わからない。ただ、今日彼といる間に感じたいろんなキラキラしたものが、私には眩しすぎて、とても我慢できなかったのだ。
それより、彼が今頃心配しているのは明白だ。本当に何をしているんだ私は。早く戻って……いや、その前に電話かメールでもして彼に謝らなければ。頭ではそんなことくらい、理解している、それでも、私の手は全く言う事をきかない。頭を乗せている枕が湿っていて気持ち悪い。
ああ、そうだ。私は泣いていたんだ。
何故?自分の為?彼の為?誰の為の、なんの為の涙かすら、分からなかった。考えるのも無駄か。そう開き直った。
何をする気も起きないんだから、私に残された選択肢は、目を閉じる事だけだった。
久しぶりの外出で疲れていたのもあって、目蓋はとても重い。
そして私は目を閉じた。薄暗く、曖昧な、私のいる世界が暗闇へ閉ざされていく。そして、心地良い眠りの世界へと、落ちて行くんだ。
そこだけが、今の私に唯一許された避難所だった。
目を閉じながら、今日のことを思い出した。
彼の声を思い出した。
壊れたフェンスを思い出した。
教会の螺旋階段を思い出した。
公園での子ども達の笑い声を思い出した。
ベンチの前に広がっていた、きらきらと光っていた、海を思い出した。
ひらひらと舞っていた桜の花びらを思い出した。
雲一つない、青空を思い出した。
そこまでで、私の意識は途切れた。
夢の中で私は、
に睨まれ
洞窟で
檻の中 から
つい
で
だった。
追いかけら れ、つまづ
足の先に
嫌だ嫌だ嫌だ
そして私は泣いていた。
まどろみの向こう側から、夕方五時にかかる、トロイメライの音がする。その優しい音色に、私の意識はゆっくりと覚醒する。
ああ、もうそんな時間か。随分と眠ってしまっていた。
夢を見た気がするが、記憶を辿っても思い出せない。頭に残っていたのは、胃が痛むほどの不快感だけだった。悪夢だったことに間違いはない。
思い出すのを諦め、私は閉じていた目蓋を開いた。
本来、目の前に見えるのは、いつもの真っ白で、無機質な天井のはずだった。
だから、今自分が見えている世界が信じられなかった。
目の前に広がっていたのは、暗闇だった。
何かの間違いだと思い、もう一度目蓋を閉じた。そこにもあるのも暗闇だ。再び開く。暗闇だ。もう一度閉じる。結果は変わらない、暗闇だ。
停電かとも思った。耳を澄ましてみる。看護師や入院患者の雑談の声、機材を運ぶ音などが、いつも通り聞こえた。停電ではなさそうだ。
本来あるであろう窓の方向へと顔を向けた。顔のあたりが少し暖かくなって、暗闇にほんのりとオレンジ色が加わる。
それだけだ。
手を頭上へと伸ばす。手にあたる柔らかい感触から、枕の存在を確認する。そして、横に置いてある、彼がくれた腕時計の存在も同時に確認した。そして、ボタンの位置を手で探り、押した。
『ただ今の時刻は、午後、五時、三分です』
手に持っていた時計を、元の場所へ戻した。ああ、そうか。私はようやく理解した。はっきりしていたのに、受けとめるのが嫌で、無意識に逃げていた。
私は、光を失った。
自覚した瞬間に、胸のあたりが押しつぶされそうな痛みに襲われた。頭も痛い。体が心の衝撃について来られなかった。それから、次第に涙が一滴、一滴、やがてはとめどなく、洪水のように溢れてきた。手で頭皮をバリバリと掻きむしり、布団を、思い切り噛みしめた。頭を布団に打ち付ける。当然それで、現実が変わるわけでもない。でもそうしないと、叫び出してしまいそうだった。しゃっくりのような嗚咽が病室の中に響く。涙と共に出てきた鼻水が垂れ、口に入る。当然しょっぱかった。涙も続いて入ってくる。口の中のしょっぱさは二割増しになった。
昼寝をしたら失明なんて、考えもしなかった。どこか、自分の病気の事を他人事のように感じていた。現実を目の当たりにしての、私のこの現状に、ひどく苛立った。
最初から分かっていただろ?私。なら、やることはとっくに決めていたじゃないか。泣いている暇があるなら早く実行しろ。さあ、早くしろ早くしろ。時計の横に置いてある携帯電話を取れ。そして、何度もこの日の為に、目をつぶって練習していた動作を思い出すんだ。メールメニューを開き、下書きボックスを開け。あらかじめ打っていたメールを、送信しろ。いつだって、私の事を気にかけてくれて、傍にいてくれた、彼に。さあ、送るんだ。
ピロリンと、送信完了の音がした。うまくいったようだ。重い溜息を吐き、携帯を普段開く方向とは逆向きに力を入れた。バキッと鈍い音がした。壊す事に成功したようだ。どんな形になっているのか、残念ながら見る事はできない。
これでいい、これでいいと、自分に何度も言い聞かす。
たった今私は、視力を失い、彼の見ている世界と、私のこれからの世界は、共有できるものではなくなった。今日から私は、彼とは別の世界で住む事になったのだ。
腰かけていたベッドから、手さぐりで杖を捜す。右端の方に、棒らしきものが指にあたった。手で棒の形を確認し、先の方へスライドする。案の定でっぱりがあった。杖に間違いない。
杖を手に持ち、ベッドから立ち上がる。見えていないからか、思いのほか立った時にバランスがとれなかった。歩く練習をしてきて正解だ。
一度後ろにあるベッドを触り、自分が部屋のどの方向を向いているかを再確認した。前へと歩みを進める。杖を前に突き出しながら歩いていると、何かにあたった。壁かドアかわからないので、右手で形を確認する。ドアノブを発見した。
ドアノブをひねり、扉を開く。正面に誰もいない事を音と杖で確認しながら、二歩ほど歩く。点字ブロックを確認した。
よし、ここまでは練習通りにできている。
息を吸うと、もうすっかり慣れた病院独特の薬臭さが、いつもより強く感じた。視力を失ったせいか、他の感覚が強くなっている気がする。しばらく吟味していたいところだけれど、怪しまれるとまずい。練習通り、廊下に貼られている点字ブロックを進む。途中で人が通った気がした。申し訳程度に振り向き、頭を下げる。
こんにちは、と若い男の人の声が聞こえた。少し嬉しかった。
廊下を進むと、予定通り階段の分岐点へ到着した。ここは右だ。左に行けば下の階になる。
目的地は屋上だ。
杖で階段の一段目を確認する。これも夜な夜な練習し、繰り返してきたことだ。そして、練習通り慎重に、一段一段丁寧に確認しながら登って行く。今の場面を誰にも見られないことを切実に願った。
階段を登り切り、踊り場へ出る。これも点字ブロックを辿れば問題ない。ブロックを辿り、次の階段も杖で確認した。また段ごとに確認しながら登る。十四段目で、階段をついに上がり切った。杖を付きながら前へ進み、壁らしきものにあたった。いや、これはドアだ。
右手でも、実際に触り、ドアだという事を確認する。間違いない。
完璧だった。どこまでも。
私は手をポケットへ伸ばし、中をまさぐる。ビスケットなんて美味しいものは入っていないけれど、一本の鍵ならあった。
鍵をドアノブに触れながら確認した鍵穴に、回しながら形が合うところを検証する。これも何度も練習してきたので、すぐにはまった。
鍵を時計回りに、ゆっくりと回した。かちゃ、と解錠の音がした。ゴールは目前だった。
ドアノブを捻り、手前へと引っ張る。その瞬間、温かい風が、私の体を吹き抜けた。
春独特の甘い、温かい風は、私を抱きしめているようだった。めいいっぱい深呼吸し、肺に新しい空気を満たした。
さあ、歩こう。
壊したフェンスまでは、二十三歩だ。一歩一歩、杖を付きながら歩幅を一定に保つ。
歩くごとに、私の心臓の鼓動は早くなり、足が震えているのが分かった。一体私は、何をしているんだ、という気分にさえなった。だけど、これは私が、自分なりに考え、悩んで、出した結論だ。
彼は優しい。とてもだ。言葉では言い表せないくらい、私に優しさを与えてくれた。
喜びをくれた。笑顔を教えてくれた。温もりを思い出させてくれた。愛を感じさせてくれた。そして、大切な居場所をくれた。
そんな彼だからこそ、私は決めた。決める事が、できたのだ。
彼の事が、あなたのことが
「好きだから」
初めて本音を口にした私の声は、ひどくかすれていた。風の音に打ち消され、私の耳にすら届くのがやっとだった。
失明してから、初めて言葉を口にしたかもしれない。
厄病神と呼ばれ、たくさんの人を不幸にしてきた私には、十分な人生だった。
あいつのことだ。どうせ私が失明しようが、両手両足を失おうが、脳みそだけになり、ホルマリン漬けにされようが、私を、死んでも見捨てない。
その確信があった。
けれど、私と彼が、失明した後でも関わり続けるとしても、そのうち彼は思い知るだろう。彼が見ている世界、そして私が見ている世界は、どんどん離れて行くということに。
世界が離れ、彼の中にある私への思いが、日に日に絶望で、埋まっていくところなんて、見たくない。そして私も、そんな現状に絶望してしまうのだ。
世界が共有できなくなるというのは、そういうことじゃないだろうか。
ならばどうするかと、私は自分の胸に問いかけた。答えはすぐに出た。
私がいなければ、彼が絶望する未来はやってこない。つまり、私が消えればいいのだ。私が死んで、彼は彼なりの幸せを見つけられる。
彼を不幸になんて、するものか。
これを決めたのはいつだったかなんて、覚えてはいない。日に日に現実というものが近づいてきている間に、自然とこの結論が出てしまっていたのかもしれない。まあ、どうでもいいか。
右手をのばす。ちくっとした刺激が手に広がる。私が自力で鋏を駆使し、壊したフェンスに間違いない。そこからさらに二歩進む。ここが、この屋上のぎりぎりの位置のはずだ。
左手にある杖を後ろに放り投げた。カランと音がする。もう私にあれは必要ない。場所を確認するために、しゃがんでみる。アスファルトの手は付かず、風を感じた。間違いはなさそうだ。
私が今いる場所は、完全に把握した。
さあ、行こう。
再び立ち上がり、息を吸う。そして吐いた。彼の幸せを願い、厄病神は、この世界から退場させてもらおう。
せめて、目が見えるうちに、もう一作くらい絵を完成させたかった。
彼に見せて、またバカみたいに褒められたかったな。
そう感傷に浸っているうちに、バン!と扉が開く音がした。風で開いたのだろうか。
「おじゃまします」
風に紛れて聞こえたのは、うんざりするくらいの聞き覚えのあるものだった。彼の声だった。
「おかえりください」
今日彼と会った時と、同じ対応をする。
何故来た。
何故ここが分かった。
たくさんの『何故』が私の中で渦巻く。
「あのさ、帰ってよ、気持ち悪いから」
その疑問を払拭するために、思いついた言葉を適当に並べた。余裕を持って喋ろうとしても、声は震えてしまっていた。
「まあまあ、落ちつきなさい、お譲さん」
彼の態度は私と間逆で、軽口を叩きながら、自分を崩さない。視力を失った私には、彼の表情は分からない。彼は今、どんな顔をしているのだろう。
そんな風に、すっかり彼のペースに乗せられてしまっている間に、風に紛れて足音が静かに聞こえてきた。そしてそれは、だんだんと大きくなってきた。
「こないでよ」
声の震えはひどくなっていた。
今の私は、彼の優しさを、受け取る事はできない。もう、この世界に未練を残したくないのに。
私の言葉を、彼は聞いていないのか、足音は鳴りやまなかった。
「気持ち悪いって言ってるじゃん。意味わかんないんだけどほんと。もうほっといてよ、あんたなんか嫌いなの。もううんざりなの、関わりたくないの。帰ってよ、お願いだからさ、さっさと忘れてよ、私の事なんて、全部さ、だから……だから……」
言葉をこれ以上紡ごうとしても、もう何も出てこない。本心を嘘で塗り固めるしかできない。これが正しいのだ、と自分に言い聞かせることしかできない。
だから、涙声になりながら、声が上ずって、格好悪くても、彼を拒否することしかできなかった。
それでも、彼は何も言わない。ただ、足音だけが鳴りやまなかった。一歩ずつ、どんどん近づいてくる。
やがて足音は止まった。感覚で明らかに分かった。彼は今、私の真横に立っている。
「おー、良い眺め」
私の意見になど、何一つ耳を貸さずに、能天気そうに彼は言った。
「なに、あんた。止めに来たの?馬鹿じゃな」
馬鹿じゃないの?と言おうとした。
「なに言ってるの?」
それを彼は遮った。私の言葉を待たずに、彼は不思議そうにそう言った。そこには焦りは微塵も感じられない。相変わらず人の話を聞かないやつだ。
「僕がなんでここに来たかわかってないだろ」
それはそうだ。だって言ってくれないのだから。
「なんでなの」
「僕は、いつだって君の意志を尊重してきたつもりだ」
「は?」
まるで理解のある父親のような台詞を吐いてきた。思わず間抜けな声が出る。なんのつもりだ。
「言ったじゃん、家出したいとき、自殺したいときは僕に言えって」
「だから?」
何が言いたいのだこいつは。あんなメールを送っているのにここにきて、それで止めに来た様子ではない。じゃあ、一体。
「だからだよ」
相変わらず、彼の声は優しかった。いつだって、彼の声は優しかった。
次の瞬間、私の体が、何かで包まれた。彼の腕だとすぐに分かった。春の暖かい風以上に、彼の腕から、強い温もりを感じた。そこからぎゅっと強く抱きしめられる。ほんのりと優しい、いつもの彼の匂いがした。彼の少し伸びた髪が、私の鼻をくすぐる。それだけで安心して、胸の奥がぽかぽかと暖まった。
ああ、私はもしかしたら、ここをずっと、ずっと求めていたのかもしれない。
愛されるのが怖かった。
愛されたら私も好きになるから。
私が好きになった人は、みんないなくなってしまうから。
それが怖くて、人が嫌だったんだ。
でも、彼といて、くだらない話をしている時、少なくともその時間だけは、昔の事は忘れられたし、楽しかった。ドキドキした。わくわくした。
私はとても幸せだったんだ。
そんなとても簡単な感情を、私はちっとも自覚していなかったんだ。バラバラになったパズルのピースが、一つ一つぴたりとはまるように感じた。
その後に彼は言った。
「一緒に死のうか」
一瞬何を言っているのか、分からなかった。
自分の胸の中から、小さな光が見えた瞬間、彼の一言で、それが打ち消された。
こういう場面だったら、普通なら。綺麗事を淡々と並べ、説得する。それがお決まりのはずだ。
そう言えば忘れていた。
彼は変わりものだった。
私は彼を甘く見ていたようだ。
「よし、行こう」
何も反論できないまま、私と彼は、宙に向かって倒れ込んだ。
状況は分かっているが、頭の理解が追い付かない。叫びたい気持ちはあるけれど、声が全く出なかった。
死にたくない。
下へ下へと、重力に従い、落ちている間、確かに私はそう思っていた。




