『俺』 彼女はフルーツ牛乳の妖精 後編
「私ね、好きな人がいるの」
フルーツ牛乳の妖精は、キャンパスの絵に集中したまま俺にそう言ったんだ。変わり映えのしない、静かな美術室でな。
別に美術部に入ったわけじゃない。彼女の絵が見たいがために来ただけさ。
「そうなのか」
彼女と仲良くなってから、もう何週間になるだろうな。でもよ、そんなことはどうでもいいんだ。俺があんな頭のおかしい行動を繰り返したにも関わらす、友達になってくれたという事実は、驚きのもんだろう。
「意外?」
妖精は、いたずらがばれた小学生みたいな顔で言ったんだ。
「いや、やっぱりなあって感じだな」
彼女と話していて俺はあるものを感じていた。それは、例えるなら、しっかりと一本の線が通った、ぶれない柱の様なもんかな。変わらない何かを思い続け、強く自分という存在を保ち続けている。そんな気がしていたのさ。
だからだろうか。彼女に好きな人がいるという事実は、案外すんなり受け入れられたんだ。心も、そこまでざわざわしなかったしな。
「どんな人だったんだ?」
別に嫉妬したからきいたんじゃない。純粋な興味さ。彼女が今まで、どんなものを感じてきて、どんな人を好きになったか、知っておいて損はないだろう。
「そうね……」
彼女は絵を描く手を止め、筆を静かに置いた。そして何かを思い出すように、美術室の後ろの黒板を見た。
「あの絵を描いた人」
教室の後ろの黒板は、あまり使う機会が無いものだ。精々連絡事項のプリントとか、そんなくだらないものばかり貼るだけさ。でも、そこに見えたのは、くだらないものなんて言葉は、全然相応しくないな。
後ろの黒板に描かれていたのは、巨大な落書きなんてもんじゃない。巨大な絵画が、そこいっぱいに完成していたんだ。不思議の国のアリスに出てきそうな、家具の配置が上下左右バラバラに置かれていたり、あたりに植物が大量に絡みついていたりしたんだ。さらによ、かわいらしい動物たちが、ちらほらと描かれていたんだ。
一言でいえば、奇妙だったな。あまりの不気味さに、お化け屋敷にでも飾ってそうだ。だが、それは美しくも思えたんだ。何か、心の中の冷たい部分を吐きだしても、その奥には春みたいな暖かさが、上手に隠されているんだ。
「すげえなこれ、先生も消さないんだろ」
感心して俺は言ったんだ、この絵の噂だけは知っていたさ。だけど、これを消そうとするやつは、誰もいないんだ。
こんな素敵な絵を消すなんて、何百万も払わなきゃいけねえ気分にさせてくるんだからな。
「留学する直前に、二人で描いたのよ」
「二人で?」
「そう、美術部の、二つ上の先輩」
そして彼女は、静かに、物語を子どもに読み聞かせるように、語り始めたんだ。幼いころから知っていた、近所の物静かで、それでもかっこいいお兄さんの事を。そしてその人は、とてつもない絵の才能を持っていた事を。そして、去年から留学していることを。
「好きってさ、言えなかったんだ」
その時の彼女の顔は、とっても寂しそうだったんだ。つぶれてしまいそうな心を、もしかしたら隠していたのかもしれないな。
「何でさ」
「何でって?」
「理由だよ、好きって言えなかった理由さ」
彼女は、言いたくないと俺に訴えるように黙り込んだんだ。
俺も人の事は言えねえけど。彼女と友達になりたいって理由も、乳製品好きな女の子の友達が欲しかったなんて、中途半端な嘘で誤魔化したんだからな。間違っても一目惚れしただなんて言えるわけがないだろ。気恥しいなんてもんじゃねえ。顔から火が出ちまう。
恋の悩みでよくあるやつだ。告白をしてしまえば、関係が壊れてしまうというものさ。
しばらくの沈黙が続いた。彼女は黒板の絵画を見ながら、何かを思い出しているように、黙り込んでしまっていた。
「もうすぐ、イタリアから彼、帰ってくるの」
彼女は質問のことは聞かなかった事にしたらしい。まあ妥当な判断だ。
「まじ?」
「ええ、夏休みに、少しだけね」
彼女は嬉しそうに話す。終業式は、二日後へと迫っていた。
「会ってみてえな、どんな人か」
「面白い人よ、いっつもイチゴ牛乳飲んでいるの」
しくじったと思ったな。その言葉で、俺がイチゴ牛乳を飲んでいる時に睨んでいる理由がようやく繋がった。彼女にとって、イチゴ牛乳は、その彼だけのものだったんだ。永久欠番の、イチゴ牛乳だったのさ。
「私の気持ちを知ってか知らずか、いつだって優しい言葉をかけてくるの。もう困ったわ。顔が赤くなってるのを隠すのに必死でね、いつも顔を下に向けてたわ」
「なんだ、可愛いところもあるじゃねえか」
「私はいつも可愛いの」
彼女はふざけた様にそう言ったんだ。まあ、お世辞抜きで、この子はかわいいと思うけどな。一目惚れの相手だからそう見えるだけかもしれねえけど。
「今日は帰りましょうか」
彼女は画材道具を片づけながら俺に言った。
「そうだな」
俺も同意して、画材道具の片づけを手伝った。
校門を二人で出て、お互い別々の方向へと歩き出す。家がお互い反対方向なんだな、これが。悲しい事によ。
帰りながら彼女の事を考えた。好きな人が、フル^つ牛乳の妖精にはいた。俺にも好きな人はいる。それがあのフルーツ牛乳の妖精だ。好きってことは大切ってことだ。つまり、彼女にとっての一番の幸せを願うべきなんじゃないのか?
「なあ、どう思う?」
家で俺は姉ちゃんにきいてみた。相談相手に、家族っていう選択肢を、忘れちゃいけねえだろ。
「あんたねえ、自分が幸せにしてやるーとか、そういうかっこいい言葉の一つや二つ言えないの?」
呆れたように姉は言った。やっぱり人生の先輩は言う事が違うね。
「言えねえな、姉ちゃんの彼氏じゃねえし」
「臆病者め」
姉ちゃんは皿洗いをしながら、茶化すように言ったんだ。
姉ちゃんの彼氏はサーカス団員だったんだ。もちろん親父のサーカスのな。偶然知り合って向こうの甘いアプローチでコロッといっちまったらしいんだ。全く、単純な姉を持つと、俺まで単純になっちまう。
「あんたはさ、どうしたいわけなの?そのフルーツ牛乳ちゃんに」
俺は珍しく、頭を使ってみた。彼女にとっての幸せってのは、当然好きな人といることだ。なら結論ってのはとっくに出ていたんだ。考えるまでもないだろう。
彼女と留学した先輩との仲を応援する事だ。
「あんた、ほんとにそれでいいの?」
姉ちゃんは何も言わない俺にそう言った。いつも思うけどやめてくれねえかな。自然に人の考えている事読んで応えるやつをよ。
「まだ何も言ってねえよ」
「わかるわよ、あんたが何考えてるかくらい」
「親か」
「姉よ」
それはそうだな。あんな生意気な母親がいたら、とっくに俺なんてぐれちまってるよ。
「まあ、あんた別に若いんだし、そんなすぐに結論を出さなくたっていいわよ」
「そういうもんなのか?」
「そういうもんなの」
確かに俺は、初めての感情に惑わされて、結論を急ごうとしていたのかもしれない。だからこそ、彼女とただのんびり仲良くなっていくって言うのも、悪くない選択肢だ。
「ありがとよ姉ちゃん、息子の名付け親には俺がなってやるぜ」
特にお礼をするもんがなかったから、苦し紛れに選んだのがそれだ。名付け親なんて、こんな名誉な事、他にねえだろ。
「えー、どうしよっかなあ」
「なんだよケチ」
「考えとくわ」
皿洗いが終わったらしく、水道の水の音がやんで、テレビの音がはっきりと聞こえ出したんだ。
「まあ、とりあえず子育ては手伝ってもらうかもね」
「俺いつか叔父さんになるのかー」
この年で叔父さんの呼び方はくるものがあるぞ。ただでさえ老け顔だと言われたりすんのに。
「まあ、まだ先の話よ。結婚の話すらまだ出てないんだから」
「でもよ、甥っ子ができるってのは良い気分だな。いっぱいいろんなこと教えてやろ」
俺は年齢からして、必然的に甥より人生の先輩になるってことだ。それで、自分が知っていて、甥が知らない事があるなんて、もったいない話だろ?
「変な事教えないでよ」
「なんだよそれ」
「あはは」
そんな感じで、いつも通りの家での風景だった。姉ちゃんの子どもに、まずは中島のことを話してやりたいなって思ったんだ。「つーわけで、お前の事も話してやるよ」
「そいつはどうも」
学校でさっそく俺は中島にそのことを言ったんだ。他にも彼女の事とかな。
「なんというかなあ」
中島はなんだかやりきれないって感じの顔をして、俺を睨んだんだ。いつだってこいつは、何か物を言う前に、表情に出すんだ。分かりやすいから、楽っちゃあ楽だけどな。
「いや、お前の姉ちゃんの言ってた事と被るけどさ、もっとこう、自分大事にしろよ」
「そうか?」
「そうだよ」
おかしいなって思ったんだ。俺の生き方は自分本位なものが多かったからな。なんとなく、こいつの言い方に違和感があったんだ。
「実質お前、身を引いてるじゃん」
中島はそう言ったんだ。俺に説教するみたいに、少し声を荒げていた。何でこいつは怒っているんだ?時々こいつがわからなくなる。めんどくさい野郎だよ、本当によ。
「まあ、そうだな」
中島の意見は否定しない。だってよ、その通りだから、否定なんてできっこないだろ。でもよ、彼女にとってのその先輩のポジションを奪うなんて、そんな傲慢なこと、俺にはできない。だから、実質身を引く形になるのは、ある意味必然じゃねえのかな。
「憶病なんだよ、俺は」
不安定な自分の気持ちってやつを、改めて言葉にしたんだ。そうすることで、理解できたんだ。自分に自信がないから、勝負しようとしない。つまりはびびってるだけなんだってな。
「なににビビってるんだよ」
「下手に自分が、彼女の一番になろうとして、余計な事言いそうになるのがさ」
「それだけ思えたら十分だよ」
中島は続けたんだ。
「言葉がナイフと同じって理解している人間は、そういう過ちをしないさ」
言葉がナイフ、か。なかなかいい表現だな。中島らしいぜ。
「でもそれだけじゃねえんだ。美術室の絵を見て、俺には無理だなって思ったんだ」
言い訳がましく、補足の意見を追加した。物事を何か誤魔化すとき、俺はいつだって、何か適当な、それらしい要素を一つ追加することで、意味とか、自分の抱えている感情を軽くしようとしてたんだ。
背負い込むことが怖かったのさ。だから、チキン野朗なんだよ。
「なんというかなあ」
中島はまた、もやもやしたように頭を抱える。
「幸せになるべきなのはさ、きっとお前みたいな人間なのにな」
頭を抱えたまま、吐き出すように中島は言ったんだ。
「お、なんだ、嬉しい事言ってくれるじゃねえか」
中島の背中を、ばしばしと手のひらで叩いた。これも何かを誤魔化す時のテクニックの一つさ。体の触れあいで、おふざけみたいな雰囲気にする。それで初めてそれがなかったことになるような気がしないか?
でも、どうにも俺には、中島の言葉を肯定しようという気は起こらなかったんだ。なんとなく、自分に幸せなんて甘いものは向いていない気がしていたからだろうな。
「俺よ、いつかやるかもしれない、あの子の結婚式に呼ばれたいぜ」
偽りか、真実か、どっちつかづの願望を俺は告げたんだ。
「お前、ほんとにそれでいいのか?」
「ああ」
俺みたいなやつにはそういうポジションの方がお似合いだろう。自分って存在は、あくまで何かを引きたてる、ピエロの様なものでいいんだ。だから俺は、ピエロが好きなんだ。
「自分の事はどうだっていいんだな、お前は」
中島は、生徒を叱る先生みたいに、俺をキッと睨んだ。
「そうか?」
「……もういいよ」
そう言って中島は水筒のお茶を、グイッと飲み干した。
そこから、俺はいろいろなことを、こいつに話してみた。
彼女と仲良くなってから、知ったいろいろなこと。
杏仁豆腐が好きな事とか。フルーツ牛乳は先輩によく奢ってもらった事とか。その子の好きなものとか、嫌いなものとか、絵を描いていた時、どんなことを考えていたかとか、あの絵は永遠に完成しないんだとか。そんな、俺には理解できないようなことでも、頭には自然に吸い込まれていったんだ。一字一句が、脳みそのノートに記載されているみたいだ。
中島はそれを黙って聞いていてくれたんだ。何も文句も言わずに、否定もせずにな。今思えば、それはすごいことだったんだ。
「お前、充実してんなあ」
ひとしきり俺が話し終わった後、中島は吐き出すように言ったんだ。
「そうか?」
「なんだかんだで仲良くなってるし」
「だな」
今の現実はそういうことだろう。彼女と仲良くなれている。美術室にも行く事を許されている。それってとってもいいことじゃねえか。幸せ者さ。
「自分で損な生き方してるとか思わないのか?」
さっきから中島はしつこいくらいに俺を気づかってくるんだ。うんざりしてきたな。心配はされて嫌なもんじゃねえけど、度を過ぎると、さすがに億劫にもなってくるさ。何事にも、ほどほどが一番なんだよ。
「いいんだって、俺以外の奴が、得するだろ?」
また中島は頭を抱えたんだ。
「お前、いいやつなんだな」
何かを諦めたように、中島は微笑んだんだ。でもその顔は、少しだけ誇らしげだった気もするな。
「お前ほどじゃねえよ」
そう言ってから、俺たちはお互いの水筒で乾杯をしたんだ。
「俺たち名コンビがいた証を、どこかに残さないか?」
ふと俺は、思いついた事を言ってみたんだ。高校生ってのは、校舎にそういうのを残したいもんだろう?
「おお、いいな」
「だろ、彫刻刀でよ、どっかに何か掘るんだよ」
「どこになんて?」
それはもう、とっくに考えているさ。
「NY、ここにありってな」
「ニューヨーク関係ねえだろ」
中島は即座にそう言った。全く、察しが悪い野郎だ。
「NYは、ニューヨークじゃなくて、俺たち両方の名字からとったんだ」
中島は、ああ、と納得した。
「まあ、気が向いたら、掘りにいくか」
「そうだな」
そう言って、俺たちは笑い合ったんだ。美術室の下とかでもいいな。教室でもいいけどよ、なんかありきたりに感じちまうんだ。ありきたりは、俺の中で一番嫌いな言葉なのさ。
それから二日後のことだな。なんとなくテレビをつけたんだ。先輩が来るのはもうすぐだなーって思いながらな。そしたら臨時ニュースがかかっていたんだ。
「イタリアからの日本への便が墜落」
それ以外の言葉もあったかもしれない。でも、俺は何一つ覚えていない。覚えているのは、その言葉だけだ。俺はその時、その言葉だけがただ聞こえた。
いや、何一つってのは言いすぎた。もう一つ覚えていることは、日本人乗客の名前のリストだ。そこには、フルーツ牛乳の妖精の初恋の相手の名前が、なんでもないような、どこにでもいるような普通の名前に挟まれて、出ていたんだ。
何かの間違いであってほしかった。同姓同名とか、見間違えとか、そういう都合のいい夢みたいなことを妄想してたんだ。どこまでもぴったりすぎて、怖すぎたから、そうするしか俺にはできなかったんだ。
その日一日はただただ俺は放心していて、自分が今日何を食べて、何をしていたか、全く分からなかったし、今思いだそうとしても、思い出せやしない。
ただ、夜は中島の家に電話して、いろいろ話していた気がする。苦し紛れに、唯一俺ができた行動が、親友への相談だったんだ。
こっちも残念な事に、何も覚えていないと来た。
だけどなんとなくこんなやりとりはしていた気がする。
「俺さあ、どうしたらいいの」
「どうしたいかじゃないのか?」
ありきたりな言葉だろう。今思えばそうだった。だけど俺も若かったんだろうな。こんな簡単な言葉だけで心が動かされちまっていた。
次の日には、俺は夏休みの初日だっていうのに、学校へと足が向かった。理由はもちろん、フルーツ牛乳の妖精がいるであろう、美術室に行く事だ。
何故彼女がいるか分かったかって?サーカス団員の卵の勘だよ。
「お邪魔します」
何故か走ってきた俺は、息を切らしながら美術室の扉を開け、そう言った。誰かいるのは、気配でわかっていた。
「お邪魔されます」
いつも通りの、見た目に反した明るい声で彼女は言う。俺の勘も、案外馬鹿にできないな。
俺の目に、フルーツ牛乳の妖精の後姿が映し出される。いつものキャンパスの前の椅子に座って、ぼーっと後ろの黒板を眺めていたんだ。退屈な映画を見るように、何も感じていないみたいにな。半袖の白いセーラー服の後姿が、ほんの少しだけ、小さく見えた。ただ、油絵独特の鼻を刺す匂いが部屋に密集しているのが、ここが現実だと思い返させてくれて、妙にほっとして、呼吸が落ちついたんだ。さっきまで息切れしてたのにな。
「暑いねー」
彼女は俺の方へぴくりとも顔を動かさなかった。まるでカセットテープを入れた人形みたいにな。目が釘つけってのは、まさにこのことさ。
「そうだな」
同意するしかできなかったな。彼女もそこから先の言葉を出そうとはしなかった。わかっていたんだよ、最初から彼女は、俺の事をな。彼が死んだ事を俺が当然知っていた事を。だからここに来たってことも。
そして、俺が何をどうすればいいのかわからないことも。
そこからは、どちらも会話を切りだす事ができなかった。言葉を探す気が、起きなかったのさ。どんな言葉も、誰かに不正解って言われそうでな。太陽の熱が込もって、蒸し風呂みたいな状態になっている教室で、お互いに距離を取りながら、ただ黙っていたんだ。そういえば窓が全て閉まっている事に今気が付いた。汗が首すじから、雨水みたいに垂れて、ただ不快だったな。
「窓、開けなよ」
我慢できなくなって、絞り出した言葉がそれだった。
「うーん……めんどくさい」
そんな簡単な動機で熱中症の道を選ぶんじゃない。
俺は鉛のようになった足を思い切って動かして、窓を開ける事にした。案外足は簡単に動いたな。やってみると、物事ってのは案外スムーズに進むからな。
窓のカギを開け、生温かい取っ手を握り、窓を開けた。夏独特の生温かい風が美術室全体をへ入ってくる。そんな風が入ればよ、どんよりとした、ヘドロみたいな空気が、少しは明るく、軽くはなっただろう。
「どうだ?」
俺は短くそう言った。
「ありがと」
彼女も、俺の真似をするみたいに、短くそう返したんだ。彼女は後ろの黒板から、何一つ変わらずに、顔をぴくりとも動かさなかった。黒板全体に広がる、不思議な部屋の絵。これが、彼女と、死んだ男を繋ぐ、唯一の絆だったのかもしれないな。絵だけがよりどころで、思い出だったんなら、そうなるのも当然か。
そう考えると、この絵が妙に愛おしく思えたんだ。気味が悪いとすら、思っていたのによ。絵の中にある歪んだ茶色のドアが開いて、彼女を救いの世界へと連れ出してくれる気がしたんだ。俺も、この絵が、何か希望になればいいって、いつのまにか祈っていたんだ。
だけど、当然ながらその扉は開く事はないんだ。歪んだ扉は決して開く事はない。絵と言うのは、そういうものさ。立てつけが悪いとか、そういう問題以前にな。
だから、俺は彼女の隣に椅子を持ってきた。絵が彼女を救いだしてくれないなら、一緒に俺も隣で絵を見ていたかったのさ。バカみたいな、幼稚な行動かもしれねえけど、一緒に開かない扉が開く、夢みたいなことを祈りたかったのさ。
彼女の瞳から一粒の雫が頬を伝って、スカートの裾へと落ちたんだ。こんな晴天の日に、雨漏りなんてあり得ないだろ?彼女の涙だということは、すぐに理解できたさ。
「ごめんなさい」
彼女の声は、震えていたな。今にも全てがバラバラに砕けてしまいそうだった。それほどまでに、心のどこかが不安定になっていたんだろう。
「いいよ」
だから俺はそう受けとめた。彼女の涙を受け止め、共に横で座っていたかったのさ。それが、俺の唯一の選択肢だからな。
何か間違っているか?好きな人が悲しんでいて、その人の隣で一緒に悲しみたいっていうのはさ。
そういうときに重要なのはよ、中島の奴が前に言っていたんだ。優しい言葉を、多用しちゃいけない。場合によっては、相手を傷つけるから。だから、出来る限りこういうときは、何も言わないのが正解なのさ。親友の教えに従うのも、悪いもんじゃないぜ。
その日、俺とフルーツ牛乳の妖精は、陽が沈んで、暗くなるまで美術室にいた。何かをお互い待つようにな。もちろん、何にも迎えにも来てくれやしなかったさ。淡い期待になんて、何一つ応えてくれるものはない。現実っていう、残酷な張り紙が、俺たちの目の前にぺったりと貼りついているみたいだった。
たまに彼女は口を開いて、彼との思い出を語ってくれたんだ。どんな人だったかとか、何が好きだったかとか、こんな事を話してくれたかとか、そういうことをな。
自分の昔の話もしてくれたんだ。
家族の事や、小学校の頃の事に、中学生の頃の事。ぽつりぽつりと、、静かに語った。
俺も、彼女のペースを乱さないように、静かに相槌だけを打った
その時間が、妙に心地よくてよ、それが永遠に続けばいいのにって、願ってたな。
「あの絵はね、未完成なの」
その時、彼女は確かにそう言ったんだ。
「未完成?いつ完成するんだ?」
「うーん、いつかしら、ずっと」
「ずっと?」
「ええ、いつか、続きを描くの」
「君が?」
「それもいいけど、アシスタントが欲しいわね」
「俺じゃ不満か?」
「そうね」
「なんだよ、そこは否定しろよ」
「いつか、この絵を描く事で、その誰かにとって、何かが変わればいいのよ、そういうものなの」
そして、俺たちはまた絵を見たんだ。その絵を描く事で、変わる必要がある人がどこかにいる。そういうことなんじゃないだろうか。
だから、俺は、この絵を描くには不十分なんだ。俺は、とっくに、満たされていたからかもしれないな。
陽はいつの間にか沈んでいて、俺は彼女と教室を出た。蒸し暑い夜道を、暑苦しいのに、手を繋いで歩いたんだ。
どちらが差し出したのかとか、そういうのはどうでもいいんだ。ただ、その時には、繋ぐ必要があったから、繋いだ。それだけで、十分じゃないか。
「ってことがあったんだ」
俺は翌日、中島の家で漫画を読みながらその美術室のことを、あほみたいにぺらぺらと喋った。やつの部屋はいつも通り、ごちゃごちゃと天体観測の道具や資料があって、ジャンプで連載している警察官の漫画がずらりと観賞するアートみたいに並べてあった。これ、いつまで続くんだろうな本当。
「なかなかやるじゃん、あんなに消極的だったのに」
中島は茶化すようにそう言った。いやに今日は機嫌が良さそうだったな。鼻歌でも歌ってしまいそうだったな。気味が悪かったぜ。
「まあ、俺も男ってことさ」
上機嫌な中島に乗っかるみたいに、俺は指をピースしてそう言ったのさ。
「なんか、やらしいなその台詞」
「そんなことねえだろ」
やらしいのは中島の頭だろう。全く、これだからむっつりスケベは。男はみんなスケベなのさ。それを隠すのは、鳥が羽を隠すのと同じ事のようなものだ。
「まあ、大変だったな、お前も。仲良くやれよ」
中島はそう言って、ばしばしと俺の背中を叩いた。ここまできたら、なんだか別人みたいに見えるってもんだ。加減を知ってほしいぜ。
それに、勘違いをしているかもしれないな、こいつは。
「勘違いするなよ、俺は別に、死んだあの人の枠を埋めれるなんて思いあがってねえぞ?」
他人のポジションなんてものは、そう簡単に埋められるもんじゃねえ。俺は俺のポジションを確立する。そのために、俺はできることを、少しずつしていく。そういうもんだろ?
「いつか結婚できたらなあって程度だ」
最終目標はそれに決まっているけどな。
「下心丸だしじゃねえか」
「ははは」
俺は笑ってごまかした。でもよ、好きな人と結婚したいってのは当然の気持ちじゃねえのかな。
「それよりさ、俺、彼女の家に電話するときさ、お母さんとか出た時、変に緊張するんだよな~」
「あー、人んち電話するときって大抵そうだね」
「なんかこう、小型の電話を一人一人が持てる時代ってのがいつかきたらいいのにな」
まあ、そんな夢みたいな話があったら、どれだけ素敵な話だろう。持ってみたいもんだ
「確かに。それでさ、僕たちの子どもとかはみんなそれを持ってるなんて、想像してみろよ」
「うわー、ぞっとするぜ」
そんな冗談を言いながら俺たちは笑い合っていた。だってよ、電車やバスで、全員が小さな電話で誰かと話をしているんだぜ?それってよ、どんなホラー映画よりも、怖いと思わないか。機会に人が、がんじがらめにされているみたいだ。
こいつとくだらない話をしながら、いつもと変わらない夏休みが、じっくりと過ぎて行く。こいつとの仲は、これからも続けばいいなって、そう思ったな。
「子どもかー」
中島が感慨深そうに言った。
「どうした?」
「いやさ、いつか子どもとか、そういうのができたときに、自分の学生時代の事とか、たくさん話したいなーっておもってさ」
「ああ、分かるぜそれ。姉ちゃんの子どもとかに、いろんなこと教えたいって思うしな」
「あんまり変な事教えてやるなよ~」
この野郎、姉ちゃんと同じことを言いやがる。
「教えねえよ馬鹿」
「どうだか」
中島は初めて会ったときは無口だったって言うのに。一年前との変わりざまが怖いくらいだ。
「でもよ、お前のことは話そうかな~って思ってるぜ?星好きの変わりものの男だって」
「おいおい、恥ずかしいな」
多分俺は、こいつの事を話してから、自分の子どもや、姉ちゃんの子どもにこう言うんだろう。大切な友達を、助けあえる友達を、少なくて良いから一人は作っとけって。
それと、友達は大切にしろってな。
「でも、こんな子どもになってほしいっていう、理想はあるかも」
突然、中島が言いだした。
「へー、どんなだ」
気になったな。こいつは、いつだって本心を心の奥底の方に鍵をかけて封じている節があるんだ。だから、たまに見せるそういう心の裏側ってのが、妙に興味深いんだな、これが。
「友達がいじめられていたり、悪く言われたりするのを、放置するだけの人間には、なってほしくない」
それが、思ったよりも情熱的で驚いた。氷の様な冷静さをこいつ持っている割に、たまに見せる情熱ってのが、他の人からいつも群を抜いているんだ。だから、俺はこいつと友達になったのかもしれねえな。こいつの情熱がうらやましくて、それを自分のものにしたかったんだ。
「いいじゃねえか」
そう、俺は言った。中島のアイデアはいただきだったな。でも、こいつは普段は引っ込み思案なんだ。何かに立ち向かおうだなんて、酒の力を借りてでも、到底想像なんてできない。
「でもよ、どうしてそう思えたんだ?」
気になった俺は、やつにきいたんだ。
「僕がさ、そういう人間じゃないから、誰かの為に、死に物狂いで頑張るとか、そういうことが」
さっきまで上機嫌だった中島は、急にそうしょぼくれたんだ。全く、忙しいやつだ。
「なればいいだろ?」
「え?」
中島は、信じられないと言ったような顔で、俺を見たんだ。
「今から、変わって行けばいいさ。変わるのに、遅いなんて事はない。だからよ、応援するぜ」
そう、過去は変えられないものだ。どうあがいても、自分がやり損ねたことなんて自体は、一生戻ってくることなんてない。馬鹿な俺でも、それくらいはわかるのさ。
だから、こいつなら、明るい未来をつかみとれる、そんな気がしたんだ。
「喉乾いたか?」
嬉しかったのか、顔をそむけて中島が俺にそう言ったんだ。
「ああ、少しな」
炎天下の中自転車を漕いでいたら、誰だって喉も乾くだろう。こいつの家に着くまでにはでっかい坂を越えなきゃいけねえんだ。高校生の俺でも息切れするんだ。おじさんおばさんとかは、よく平気であんな坂を登れるぜ。
「麦茶取ってくるよ」
「おう」
そう言って中島は部屋から出て行った。階段を降りて行く音が一歩ずつ小さくなっていった。
そして一つ思い出したんだ。
フルーツ牛乳の妖精の小学校時代の話で、中島の話が少し出てきたことをな。なんでも、小学校の頃は仲が良くて、よく遊んでいたらしいのさ。あんまりサラっと言っていたから忘れてしまいそうだった。
よく考えたら、中島は仲が良かったなら、なんでその事を俺に言わなかったんだろうな。彼女は小学生時代、こんな子だったとか、そういうことを教えてくれてもよかったはずなのに。
まあ、もしかしたら、そんな昔の事、ほとんど覚えてないのかもしれない。
……それにしては不自然じゃないか?奴が彼女に送っていた視線は、記憶がうろ覚えのやつに対して送るものではなかったような気がする。
俺の考えすぎであればよかった。だけど、その時だったんだ。致命的な、出来心だった。俺の足はやつの机の方へ自然と向かっていた。
机の本棚にアルバムか何かがないかと探してみたのさ。どこかに、彼女の情報が無いかって探したくてな。
その時だった。机のに敷いているマットが、俺の目に飛び込んできたんだ。緑色の、分厚い、机に敷くマットだ。それを、何を思ったか俺はめくってしまっていた。
そこにあったのは、写真だった。
しかも一枚や二枚じゃ無い。大量の写真が机のマットの下に敷き詰められていたのさ。だけどよ、重要なのは、それが何の写真かって言う事だ。
その写真に写っていたのは、幼いころであろう中島と
一人の女の子だったんだ。
そしてそれは、明らかに幼いころの、彼女の、フルーツ牛乳の妖精の
長坂ちさと本人の写真だった。
それからなにがわかるかなんてことは、一発でわかったな。俺はそれを判断してからすぐにマットを元に戻した。
「……」
何も言葉が出なかったな。心臓の鼓動がさっきより激しくなる。その時の気分は、例えるならそうだな、テレビのホラー特集を見たときが、一番似ているかもな。
なんで中島の机のマットの下に、長坂さんの写真が?
答えなんて、もうでていたのに、俺はそれを認めようなんてしなかった。
「おまたせー」
俺が机の前で立っている間に、中島はもう麦茶をお盆に乗せて帰ってきていた。まるで最初からいるみたいにな。
「どした?」
中島は怪訝そうに言う。そりゃあやしいよな。何もせずにただ立っているだけなんだから扇風機の風が体を冷やし、汗が乾く。おかげで全身の寒気が増した。鳥肌が、全身を駆け抜けるように立ち上がった。
「なあ、中島」
さりげなく、違和感のないように心がけて、俺は言ったんだ。
「なに?」
「お前さ、好きな奴とか、いるの?」
即答するかと思っていた。いや、即答してほしかったな。俺の願望とは裏腹に、中島は何かを考え込むように黙り込んだんだ。それが、嫌な予感を、的中しないでくれって、心から祈ったな。
そして、やつは頬を緩めた。
「いや、いないよ?どうしたんだよ、山下。急にそんなこと」
中島は、迷いがないようにそう言った。
そして、何かを誇るかのように、静かに微笑を浮かべていた。
あいつに、あの時俺は、一言言ってやりたかったな。友達として、言いたい事があったのに、俺は何も言えなかったのさ。間抜けなことにな。彼女と仲良くなる勇気があったくせに、友達への一言すら言えないなんて、バカみたいな話だろ?
「いや、別に」
ただ、愛想笑いをしながら、なんでもないように、俺はそう返したんだ。
そうすることしか、できなかったのさ。
だってよ、その時のそいつは、あまりにもかっこよかったんだからな。
彼女はフルーツ牛乳の妖精 完




