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鐘の音が聞こえる  作者: ろくなみ
24/35

『僕』8 家出



「私メリーさん、今あなたの家の前にいるの」

 時刻は丑三つ時。というわけでもなく、午後八時。僕の携帯の受話器から、怪談話の有名な台詞が聞こえた。声の主は別にメリーさんという得体の知れない不審者などではない。僕の隣の席の彼女であった。もちろんガールフレンドではなく、シーの方だ。

「今からドア開けるから入ってきなよ」

 特に追求せずに、電話越しに冷静にそう告げた。

「メリークリスマスとメリーさん、かけたんですけど」

「いや知らないよ」

 そう言って僕は携帯を切った。

 というかダジャレにしては難易度が高すぎる気もするが。自分の察しの悪さを中途半端に反省し、玄関へと向かった。

 そう、彼女の言う通り、今日は十二月二十四日。

キリストの誕生日の前日を祝う、みんな大好きクリスマスイブだ。

「こんばんは」

 玄関の先には、虹色のマフラーが忍者のように口を覆っている彼女がいた。暖かそうな茶色のダッフルコートを羽織り、足の方はそれとミスマッチなジャージを履いている。足元は、コートと同じ色のブーツだ。

「お邪魔します」

 彼女は僕の返事も聞かずに、ブーツを脱ぎ、丁寧に並べ出した。夏休みの日課を思いだす。

「どうしたの、急に」

 突然の来訪、しかもこの時間だ。理由がないことはないだろう。

「うーん、何か嫌になって」

 主語を抜いて会話を進めようとする癖はいい加減に治してほしい。

「まあとりあえずリビング開いてるから」

 僕は追求を中断し、嬉しい気持ちを隠すようにそう伝えた。リビングへと向かうために冷えた廊下を進む。後ろから彼女が付いてきている静かな足音が聞こえる。

「ごめんね急に」

 一応急だという事は理解していたみたいで安心した。

「いいよ、親も妹も今いないし」

「どして?クリスマスなのに」

「妹は友達の家でクリスマスパーティ。母さんも職場の人と忘年会だと」

 毎年の事なのでもう慣れていた。自分の友達の少なさに思わず涙が出そうになるかと思いきやそうでもなかった。慣れというのは恐ろしいものだ。

「山下君は?」

「家族で過ごすとさ」

 ちなみに山下とは卓也の事だ。何故か彼の事は下の名前で呼んでしまう。自分でも理由はよくわかってないが、単に呼びやすいからだろうと納得した。

「あんた悲しくないの?」

 彼女が後ろからさらりと辛辣な言葉のナイフを僕に突き刺す。

「君はどうなんだ」

 言葉のナイフを抜き取り彼女へ投げ返した。

「……」

 お互い気まずい沈黙が流れだしたので、会話はお開きとなった。なんと悲しいコンビであろう。

 リビングへと先に入り、部屋の様子を確認する。そんなに散らかっている様子も無いので、目で入ってもいいことを合図した。

「こたつ!」

 急に彼女が子供のようにこたつへと細い両足から腰まですっぽりと入りこんだ。その姿は芋虫の様だ。

「私ん家こたつないんだよね~おばあちゃん家にはあったけど」

 こたつに入った途端、彼女のご機嫌メーターは、上限を振り切ったようだ。それはそれで嬉しい事だ。僕も彼女と直角になる位置へと足を入れた。

「おなか減ってきた」

 彼女はいつもより舌の回りもよくなっているだけではなく、頭の回転も速くなってきているようだ。そろそろ僕が晩御飯の準備をしようと考えていたのに感づいたらしい。

「鍋でもしようか」

 もともと一人で鍋を食べながらテレビを見る予定だったから、一人増えたところでその予定は変わらない。

「賛成」

 彼女は体を横に倒したままグーっと腕を伸ばした。それから虹色のマフラーとコートを脱ぎ、セーターとジャージだけになる。僕は安堵と共に溜息を吐きながら、軽い足取りで台所へと向かった。なにより彼女の顔を見るのも、声を聞くのも久しぶりなのだ。

 彼女はあの日、僕を自分の家に招待をしてから、学校に来る日が少なくなっていた。

 来る日はあっても、早退する日も結構あり、丸一日学校にいる日というのが貴重になってきていた。

 理由を尋ねても「別に」と、どこかの芸能人のような対応をするだけで、なんの説明もしなかった。それから日にちは経ち、二学期も終了し、冬休みへと突入した。

 彼女にメールを送っても、返事はほとんど来ることはなく、自分の中のエネルギーが低下しているのも事実だった。食欲も激減して、ここ最近で五キロは痩せた。

 その事実が少しだけ怖かった。

 僕は彼女からの連絡が途絶えている時、心配であったし、何より不安だった。

 自分の予感が的中したのではないかと思ったからだ。彼女と初めて出会った時の、彼女が、取り返しのつかないような落とし穴に落ちたのではないか、と。

 だがそれは、クリスマスの今日、無事解消された。彼女の気の抜けた声と顔を見ていると、不思議と食欲もわいてくる。これ以上痩せてたまるものか。

 それに彼女の顔からは、今のところ悲しそうな表情もうかがえない。限りなく、いつも通りだ。それがなによりの安心要素だった。

「お父さんなに鍋~?」

 君みたいなでかい子は作った覚えも産ませた覚えもない。

「ちゃんこだよ娘よ」

「わーい」

 バラエティをやっているテレビの笑い声と、彼女のクスクスと聞こえる静かな笑い声を聞きながら、包丁でリズムよく具材を切り刻んでいく。夏休み、彼女にチャーハンを作った時を思い出した。

 具材を全て切り刻み、それをこたつへと持っていく。

「しいたけある?」

 具材を置いた時の彼女の不満そうな第一声がそれである。

「見ればわかるだろ」

 案の定、茶色く丸い、しいたけ様の姿がそこにはおられた。しかも四つだ。

「食べてよクソ親父」

 お父さんという称号から、急降下した。

「君も食べなさい」

 僕はそう言ってだしを入れていた鍋を取りに台所へと向かった。


 野菜はあれが駄目これが駄目という彼女の文句を聞き流しながら、コンロの火をつけ、準備を整えた。ごはんを茶碗によそい、二人分並べる。

「ありがとう」

 彼女がさらりと僕に言った。顔がにやけるのを隠すよう努めた。不意打ちにそういう事を言うのは勘弁してほしい。嬉しすぎて僕の寿命が縮んでしまいそうになる。

 数分後、鍋が食べごろだと言わんばかりに、グツグツと鳴りだした。

「それじゃ、食べよっか」

 お茶を注いだグラスと取り皿にお箸。それにさっきの茶碗と鍋を目の前にして僕等は手を合わせた。

「いただきます」

「いただきます」

 互いにそう言って、鍋を直箸でつつき合った。だしのしたたる白菜や、肉団子を味わって食べながらテレビを見る。味もなかなかの絶品だ。肉団子は、熱々の肉汁を中にしみこませており、それは口全体に花火のように広がった。野菜類もとても柔らかく、食べやすくなっている。

「案外器用だね、あんた」

彼女は具材を上から見下ろした。たしかに、ニンジンを花形に切るのには、少しばかり苦労した。別に味は変わらないけれど。

「それはそうとさ」

 僕は本日、一番気になっていることをきこうとした。。

「なに?」

「何で来たの?」

「家が嫌になって」

 ……要するに家出だろうか。見たところ荷物はなく、非常にラフな格好をしている。

「ほら、前あんた言ってたじゃん。家出したくなったり、自殺したくなった時は頼れって」

 覚えていてくれたのか。案外僕は彼女に信頼されているのかもしれないと勘違いしてしまいそうだ。

「わかった、それはいい。じゃあもう一個、なんで学校休む日が増えたんだ?終業式も来なかったし」

「あんた、進路希望何書いた?」

 どうやら意地でも話したくないらしい。

「進学、大学は未定」

 将来の事を早々に決めたくない。過去の事が曖昧なんだ。未来の事なんてそんな簡単に決めたくない。というか僕なんかを雇ってくれる仕事があるのか心底疑問だ。いっそ作家にでもなってやろうか。

「君は?」

「あー、この鍋美味しいね」

 この子は神に誓って自分の事を喋りたくないらしい。大人しく僕も鍋に意識を戻す事にした。

「もうすぐ九時来るけど、君いつまで?」

「泊まっちゃ駄目?」

 特に、さみしいとかそういう雰囲気は見せずに、無感情に彼女は言った。

それはもう是非と言いたいところだけれど、僕の母親に見つからないことを考慮すると、めんどくさいものがある。まず、どこを寝床にするかという問題だ。こたつでも別に構いはしないが。

「どっか行こうか」

 僕はそう言った。もちろん泊まられるのが嫌だったわけじゃないけれど。こたつで寝かすのはこっちとしても心もとない。

「泊まりは?」

「狼の横で寝る気か君は」

「なにもできないくせに」

 彼女は僕を見下すように目を細め、口元をゆがめた。僕が彼女をめちゃくちゃに犯す妄想をしてみた。押し倒す段階で恥ずかしくなったのでやめた。

「変なこと想像するな変態」

「してません」

 慌てて真顔で否定した。


 完食し、ほぼ空になった鍋を、簡単に流しへ置いてから二人で外へ出た。空気は張り詰めていて、息を吸うと肺全体に氷が入ってくるようだ。

「寒い、帰りたい」

 そう言ったのはさっき鍋のおじやを完食した彼女である。白いセーターの上には茶色のダッフルコートを羽織り、虹色のマフラーを巻いていた。先っぽには丸いもふもふした何かがついている。

「家出人間の言う台詞か」

「別に家出ってわけじゃないし」

 彼女は口をとがらせてぶつぶつと不平を言う。とりあえず目的地も決めずに歩く事に決めた。

「そのマフラーの先っぽのそれ、何に使うの?」

 僕は隣の彼女のマフラーを右手で弄んだ。

「いや使うもんじゃないでしょ」

「切りとったら?」

「何でそうなるの」

 彼女は弄ぶ僕からマフラーの先っぽを奪い、その部分を僕にぶつけてきた。痛くはなかった。

「ところでサンタさんに何お願いした?」

 車の通りの少ない道路を歩きながら僕はそう話題を変えた。止まれの標識が寂しそうに佇んでいる。

「いないからね、現実見ようね」

「そんな諭すように言うなよ」

 よく考えたら彼女の家の事情から、そういうのは無縁な気がする。僕の家もあまりそういう習慣もなかったから、なんとなくわかる。

「あ、そうだ。目的地決めた」

 僕は言った。

「どこ?」

「川へ行こう」

「川?なんで」

「人の七割は水でできてるんだよ?」

「それがなに?」

「いや、特に何も」

 僕の思いつきで喋る癖はいい加減にどうにかするべきだと思う。自分でそう思うくらいなんだからもっと具体的な解決策を出すべきだな。無理だろうけど。

 目的地はどこでもよかった。ただ、今まで行く機会のなかったような場所へ行ってみたかった。

 彼女と歩幅を合わせながら、ポケットに手を入れ、ゆっくりと歩く。彼女も同じポーズで、着かず離れずの距離を保っている。手を伸ばせば、届きそうな距離だった。

 手を繋ぎたいという欲望は、腹の底に沈みこませた。

 時間が、僕らの歩幅に合わせるよう、穏やかに進む。

「なんかさ」

 僕は言った。

「なに?」

「僕、君に話そうって思ってた事がいっぱいあったはずなんだよ」

 羞恥心に打ち勝てずに、正面を向いて、ポケットに手を突っこんだまま会話を続ける。

「うん」

「でもさ、君に会った途端それが全部わからなくなる」

「いつもわけわからないことベラベラ喋ってるくせに」

「喋る事が分からなくなるから、ベラベラ喋って何喋りたいか探してるんだよ」

 それにこれも、彼女に話したかった内容というわけじゃない。僕の気持ちと無関係に、無意識に言葉が漏れ出すのだ。

「よくわからない。喋りたい事があれば喋ればいいのに」

 彼女が鬱陶しそうに不満を口にした。

「そんな高度な芸当、僕にはできない」

「てか、どうして急にそんなこと?」

 横断歩道の前に差し掛かった。車は通っておらず、テレビの音をミュートにしたように、道路は静かだった。もう少しで、川へ到着する。

「さあ」

 僕には僕の事がよくわかっていないんだ。恥ずかしい事に。

 横断歩道を渡り、佇む住宅の間を抜けると、川にかかる橋に到着した。凍りつきそうな冷気が川と道路から漂ってきている。生えている草がぱさぱさ揺れ、川のせせらぎも混じり、静かに夜のコンサートを奏でていた。この季節だから、虫の出現は心配しなくてよさそうだ。

「寒い帰りたい」

 彼女が体を震わせ、そうぼやいた。

「それさっき聞いた」

 彼女はポケットに手を突っ込んだまま不満そうにまたマフラーの先っぽの部分を僕にぶつけた。

橋の横には、石でできた階段が河原まで続いている。そこを降りたら目的地の川原だ。彼女に視線でこっちに来いと伝え、階段を一段ずつゆっくりと二人で降りた。彼女が転ばないか不安だったので、気になって彼女の方をちらちらと見た。

「なに?」

 僕の視線に気づかれた。

「いや、別に」

 そう誤魔化し進行方向へと視線を戻す。腕を引っ張ってやろうかとも思ったけれど、なんだか今の彼女に触れることは、許されない気がした。単に恥ずかしかっただけかもしれない。

 階段を降り切ると、草や苔の生えた石以外に、よく見ると捨てられた雑誌や空き缶、ペットボトルや電池まで転がっている。

「いろいろ落ちてるもんだね」

 僕は震える彼女に声をかけた。

「そうね」

 彼女はそれからお尻が汚れるのも構わず、ぺたんと座り込んだ。僕も何となく横に座る。風の音が急に静かになった気がした。辺りの音が水の流れる音だけで満たされる。不思議とさっきまで歩いていた疲労を忘れてしまう。まるで、ずっとここに座り込んでいたようだ。

「もともとね、火が燃える音や、水が流れる音とかには癒し効果があるらしいよ」

 テレビで得た知識を、前みたいに何となく披露してみた。

「へー」

 興味もなさそうに彼女は川を眺めた。それから何を思ったか急に立ち上がった。右手には平らな石が握られている。

「そいやっ」

 奇妙な掛け声を出しながら、彼女は石を、手裏剣を投げるように、横に構え、しゅっと川へと投げた。彼女の手から放たれた石は、水面に波紋を作りながら跳ね上がる。そしてまた水面へ着地し、飛び跳ね、円が浮ぶ。それが三回繰り返され、川へと石は、死んでいくように沈んだ。

「上手いね」

 彼女はガキ大将のようなポーズをしていた。

「でしょ」

 さっきより彼女は得意気に笑った。僕も周辺を見渡し、平らな石を探した。調度右手の下にあった、拳に収まるほどの石を見つけた。立ち上がり、川へと彼女のように石を投げる。放たれた石は、なんの形も生み出さずに、川底へと無念の戦死を果たし、沈んだ。

「下手くそ」

 横から彼女にそう言われた。悔しくてまた石を探す。

「いや、まだだ」

 僕は拾い上げた、さっきより少し小さな石を、また投げた。今度は一度は跳ね、波紋を作るが、二段目の地点で力尽きた。

「下手くそ」

「うるさい」

 僕はまた石を探そうとした瞬間、また彼女は石を投げた。今度はさっきより跳ねる感覚が短く、生き物のようにぴょんぴょんと石が水面を踊っていた。

「そんな特技あったんだな」

 勝機はないと諦め、素直に称賛した。

「特技ってほどじゃないよ」

 彼女は照れたらしく、顔を俯けながらまたぺたりと座りこんだ。ただでさえ切りそろえている長い前髪なのに、頭を下げていたら、表情は殆ど見えなくなる。髪は自分で切っているのだろうか。だとしたらあまりセンスはない。

「あのさ」

 僕は彼女の隣に座って、いつものようにそう切り出す。

「なに?」

 彼女は僕の方を向いた。月明かりに彼女の表情が仄かに照らされ、白く光る。僕と彼女の視線が静かに交差した。慌てて川に視線を戻す。

空に雲はほとんどかかっておらず、川には星がぽつぽつと映っていた。まるで川と宇宙が繋がっているようで、夢の中にいる気分になった。夢落ちは駄目だと手塚治虫も言っているんだ。これは夢じゃない。

「もう、なんなの?」

 沈黙を決め込む僕に、彼女はじれったそうに言う。困った僕はまた思いついた事を口にした。

「どっか行こうよ。どっか山の方とかでさ、二人で暮らすんだ。僕は仕事を適当に見つけて、君は家で寝てるだけ。素敵じゃないか?」

この間読んだ本の主人公の真似をした。ライ麦畑で逃げ回る、子供たちのキャッチャーになりたがった、落ちこぼれのアメリカ人の。

 僕がそう言うと彼女は笑いだした。

「嫌に決まってるじゃん。きもい」

「笑いながらそういうこと言うなよ」

 僕もなんだか釣られて笑ってしまった。静かなクリスマスの夜に、川のせせらぎと僕等の笑い声だけがこだました。

 笑いがおさまると、また水と風の音だけになる。彼女は何も言わずに、また俯き、前髪を垂らす。

「メリークリスマス」

 僕はそう言った。

「メリークリスマス」

 彼女もそう言った。

「鍋美味しかった?」

「結構なお手前で」

「それはよかった。星綺麗だね」

「そうだね」

「学校に行ったあの日みたいだ」

「ああ、あったね」

「あったねって、適当だな」

「あはは、ごめんごめん」

「あのさ」

「なに?」

「ハグしていい?」

 続いていた会話が、そこで途切れた。風がまた吹いてきて、草や木がざわざわと音を立て出す。彼女の方は、また顔を膝の間にうずめていた。

「なんで?」

 彼女は俯きながらきいた。

「寒そうだし」

「嘘吐くな」

 僕の嘘が見破られていた。

「ごめん、本当は僕がしたいだけだ」

 白状したのに、彼女は何も言わずに、ただ俯いている。何かに脅えるように、膝を抱き抱えていた。

「あ、ごめん。嫌なら……」

「……ん……うーん」

 肯定するでも否定するでもなく、彼女は唸り続ける。その時間はしばらく続いた。十分か、はたまた一分か。時間の感覚が曖昧になってきた。そんな曖昧な感覚の中、彼女はいつのまにか俯いたまま立ち上がっていた。そして何かを観念したかのように、深く息を吐いた。白い息が、口から出ていた。

「いいってこと?」

 とりあえず確認を取る。

「あーもう、いいからさっさと」

 彼女はじれったそうに、地団太を踏む。全く、厄介な子だ。

 それ以上に厄介なのは僕だ。

 彼女の姿を目に入れるだけで、胸の中にためている、大きな感情を貯蔵しているダムが、いとも容易く壊れてしまいそうになるのだ。

 僕は膝に力を入れて立ち上がる。吹き始めた風の冷気が全身を浸食していくのを感じる。そのまま僕は彼女の正面に立った。

「意外とちっさいね、君」

「そんなことないし」

「手が調度いい感じに頭におけるよ」

 右手を彼女の頭に置く。さらさらと彼女の髪の感触を感じる。添い寝をしたあの日の映像が脳裏から再生される。。

「髪綺麗だね」

 彼女の、長すぎず、短すぎない髪を撫でながら僕は言う。

「そんなことないし」

「あるから言ってるんだよ」

「気持ち悪い」

彼女の声も、髪の感触も、全てが愛おしくて胸全体が締め付けられる。その気持ちを、形として示すように、僕は両腕を彼女の体に回し、抱き寄せた。

「……」

 彼女の小さな体が僕の体の中に収まる。小さな肩幅や、細い体は力を入れたら折れてしまいそうだ。髪からはシャンプーの甘い香りが漂い、彼女の胸のあたりからは心臓の鼓動が小刻みに体を震わす。胸の自己主張は控えめなので、あまり柔らかい感触は感じなかった。コートなので当然と言えば当然だが。

「尻」

 彼女はそう言いながら僕の尻を揉みだした。慣れない感触が全身を電流のように駆け抜け、ゾクゾクする。

「どこ触ってるんだよ」

「ハグしたお返し」

「君がさっさとって言ったんじゃん」

「それはそれ」

「卑怯者が」

「うるさい」

「あのさ」

「なに?」

「君はどこにも行かないよね」

 何気なく、いつものように、静かに。頬の内側を噛み、感情を表情に出さないようにして、彼女の耳元に囁いた。

「……もう帰ろう」

 彼女は僕の質問には答えなかった。風は強くなり、体温をさらに奪っていく。確かに、時間はもう遅い。

「そうだね、帰ろうか」

「うん」

「またね」

 僕は彼女の体をゆっくりと離しながら言う。

「うん、ばいばい」

 彼女は、僕の顔を見ながら、寂しそうにそう言った。

「あのさ」

 僕は言った。

「なに?」

「もう一個、いいか?」

「……なに?」

「握手しよう」

 手と手を、繋ぎたかった。彼女との絆を、確かめたくて。今そこに彼女がいることを、もう一度確かめたくて。風が少し弱まり、辺りから音が消えた。

 彼女が小さな右手を差し出す。いつも絵を描いている、細い指がすっと伸びている。

 何も言わずに僕は右手でそれを掴む。冷たい彼女の手が僕の右手に包まれる。激しくなっていた胸の鼓動が収まり、何故だか心も落ち着いた。

「あんた手でかい」

 彼女が僕の手の感触を確かめるように、握る力を強めたり、弱めたりしながら言った。

「君のが小さいんだ」

「そんなことないし」

「あるから言ってんだろ」

 そう言って、僕等は笑った。

「おやすみ」

 そう言って手を離したのは、彼女からだった。

「うん、おやすみ」

 僕はそう言って、彼女の小さくなる背中を見送った。彼女が、振り返る事はなかった。

 彼女の背中が見えなくなって、僕も踵を返し、家へと戻ることにした。帰り道、何故か僕は涙が一粒零れた。それは雨の降り始めのように、一粒一粒、アスファルトに染み込んでいく。

 そして声を出して泣いた。

 嗚咽を漏らしながら、どうにもできない事実を受け止められない子どものように。その涙がどううしてもと止まらなくて、立っていられなくなった。

 車も通らず、人も通らない、寂しい道路で、僕は膝をついて星空を拝む。星達が憎たらしいほどキラキラ光っていた。

 光って言うのは僕の目に届くまでには時間がかかるらしいから、あれはある意味過去の星の光なんだろうな。

 そんなことを考えていても、僕の涙は止まらなかった。

 道路で一人で泣いていると、自分が世界で一人ぼっちなんじゃないかと感じた。



 そして新学期、彼女は学校には来なかった。


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