Ⅷ 公園
「なんでさ、あんたいつも私のところに来る気になるの?」
横断歩道を渡り終えた時、彼女は僕にそう言った。
「そこに君がいるから?」
歩きながら答えを、さっきと同じようにそう濁す。
「なんじゃそら」
そう彼女は呆れて溜息を吐いた。君の口癖なのに。公園には桜が咲き乱れていて、花びらが風で舞っている。病院周辺の桜といい勝負だ。こっちの方が周りの景色と調和している。僕の好みだ。
「僕等が会ってから、もう一年くらい経つね」
こんな白けた現状を変えるのには話題を変えるに限る。
「なにいきなり。まあ、もうそうなるのね」
「机に突っ伏している君を思い出すよ」
「あんたよくそんなの覚えてるね」
恥ずかしそうに彼女は笑った。
「あの時は心配になったよ、本気で」
心配より、不安という言葉の方が合っている気もするが。
「あー」
彼女は昔読んだ小説の内容を思い出すように、気の抜けた返事をした。
「もう忘れてよ、恥ずかしい」
「僕がいてよかった?」
僕の思いつきの言葉に、また理不尽な彼女の罵詈雑言が浴びせられるかとも思った。だけれど、予想に反して彼女は何も言わなかった。肯定と受け取る事にしよう。
桜並木の道を歩きながら、ふと彼女の手をさっきよりほんの少し、きゅっと強く握ってみた。離れないようにと、祈りを込めながら。さっきよりも彼女の手が汗ばんでいるのがよくわかる。不快感は全くなかった。彼女の方も拒否の意を示さないので、そのまま歩き続ける事にした。杖をつく音が、歩くリズムを刻むようだった。
歩いていると、子どもの笑い声がだんだん聞こえてきた。それは歩みを進めるにつれて大きくなっていく。
「結構子どもいるみたいだね」
僕は隣の彼女にそう言った。
「人込み嫌い」
それはさっき教会の階段でも聞いた。
「まあちらほらみたいだし、大丈夫大丈夫」
桜並木の道を抜けると、遊具や遊び場がたくさんある場所に出た。砂場やジャングルジム、それに滑り台を大きくしてアスレチックのようにも改造していた。少なくとも子ども心をくすぐる設計をしている。その成果もあるようで、子どもたちは笑顔ではしゃぎまわっていた。小学生低学年から高学年まで、幅広い年代だ。お母様方同士のコミュニケーションの場としても栄えている。公園としては合格点をつけてもいいだろう。
まあ一つ言うのであれば、ブランコで高校生の四人組がとても楽しそうに靴飛ばしをして遊んでいる事くらいか。しかもそれは来る途中で通り過ぎた四人組だ。
僕のふざけた予想が当たっていた。
「いい年してなにしてんだか」
彼女が呆れ半分に、彼らを見た。彼らはそんな発言などが聞こえるわけも無く、楽しそうに遊び続けていた。
その風景を、見ていると心が和んだ。
「高校生だって遊具とかで遊びたい気持ちはあるさ」
「そういうもんなの?」
「と思うよ」
改めて辺りの景色を一望する。笑い声の集まる場所というのはいいものだ。そういう場所に訪れるだけで、不思議と心が休まる。
「僕さ、こういう景色見てるとさ」
「ん?」
「なんか、安心するんだよ」
「なんで」
疑問符をつけない上に、相変わらず声に表情がない。ただでさえ表情の変化が乏しいのに、声までそれに影響を受けるのはどうなんだろうか。
「世界はゲームっ子だけじゃなくて、こういう風に外で遊ぶ子どももちゃんといるんだって分かるからな」
「ゲームも悪くないのに」
これが入院してから一日の六時間ほどをゲームに費やす女子高生の言葉である。二画面の小型ゲーム機を貸したら、あんなにはまるとは思わなかった。
「僕がそういうの貸しといてなんだけどさ、目に影響とかは?」
「うーん、特に感じないけど。まあどうせ見えなくなるわけだし、ぎりぎりまで?」
何故かこっちには疑問符がついた。歩きながら彼女は辺りの遊んでいる人たちを見ている。ブランコの高校生達の靴飛ばしも接戦のようだ。
「たまにはさ」
彼女が不意に口を開いた。
「ん?」
「あんな風にやってみたいなーって思う」
彼女の視線の先の高校生軍団を見る。靴飛ばしで男子が女子に負けて悔しがっていた。女子の方は身長がとても高くて思わずぎょっとする。百七十は確実にあるだろう。
「やる?」
羨ましげに視線を送る彼女にきいた。
「いい」
彼女は繋いでいた手を離し、小走りで先に進んだ。杖を落とさないか僕をハラハラさせてくれる。道なりに沿って僕も追い付こうと後に続いた。彼女の運動神経の方は、思ったより問題はなさそうだ。
それでも拒否をするのは彼女が単に天邪鬼なだけだろうか。相変わらず謎が謎を呼ぶような存在だ。ところどころ分かりやすいくせに、分かりにくいところは、靄がかかったように難解だ。
「やりたいならやればいいじゃん」
追いかけながら僕はそう言った。彼女は嘘を吐くのが下手だという事を自覚しているのだろうか。嘘を吐く理由が分かりにくいのが難点だけれど。
「なんか悔しいし」
今回は正直に白状してくれた。有難いことだ。追いかけていると、波の音が子ども達の声に交じって聞こえてきた。ザーザーとした音が次第に大きくなる。そしてようやく、僕の視界に海が入った。
「海綺麗じゃん」
彼女は僕の方を向かずにそう言った。後ろにいてくれているという信頼からだろうか。だとしたらこれ以上に嬉しい事はない。
それに、彼女のさっきの言葉で、僕と同じ海を見ているという事が分かった。
それは、とても平凡なことなのだろう。だけど、その平凡を、心から強く願う人もいるのだ。例えば僕のように。
「座る、疲れた」
彼女は近くのベンチに腰をおろし、また自己主張の無い胸を反らした。
「あんたも座る?」
今度はエスパーは発動しなかったらしい。安心して僕は大人しく隣に座った。春と言えども、鉄のベンチは冷たい。見た目はおしゃれだが、お尻の冷たさだけはごまかせなかった。間違っても冬には座りたくない。
海から、春の暖かい空気が運ばれてきているのが分かる。海独特の生臭さはあるが、不思議とそれは優しく感じた。
思わず目を閉じて眠ってしまいそうだ。
隣に座っている彼女の体温を感じながら眠るのも悪くない。心臓の鼓動が少しだけ早くなり、顔が熱くなる。訂正しよう、眠れない。
「あんたもさー」
「ん?」
春の心地良さと彼女の存在のありがたさを体感している時に、彼女は僕にまた不意に切り出した。
「なに?」
「よく飽きないなーって思ってさ」
「君といて?」
「そう、私といて」
「飽きないよ」
僕はそう肯定する。それが真実だと分かってほしくて。何の疑いも無く信じてほしいと願って。
「なんで」
それはさっきの質問と酷似していた。だから返答に困った。自分のことを過小評価しすぎじゃないだろうか、この子は。
「まあいいけど」
彼女の中で自動的に処理されたようで助かった。これだから言葉の優しさは苦手だ。
言葉というのは、ナイフと同じだ。上手に使えば、他人を喜ばせたり、満足させたり、笑顔にしたりもできる。しかし、使い方を誤ってしまえば、悲しませ、傷つけることもある。場合によっては殺してしまう事もある。
しかもその言葉は非常に不便なときがたくさんあるのだ。
気持ちを言葉に変換しても、それが相手に正しく伝わるわけではないから。という事がこの前に読んだ小説に書いてあった。なかなかの正論だと思う。
それ故に、今やるべき事は、行動での意思表示だ。
だからこそ、僕は、彼女とアイスでも食べる事にしよう。僕は自分の体温で少しだけ温まったベンチから腰を上げた。心臓の鼓動はまだ早い。
「どしたの」
立ち上がる僕に彼女が言った。
「ちょっとお花摘みに行ってくる」
女性限定の台詞だっただろうか。まあいいか。僕はトイレに行く風を装いながら、近くの売店へと向かった。案の定、子連れのお母様方は多く、少し並ぶことになった。
大をしていると解釈してもらう事にしよう。
今頃の彼女の事だ。うたた寝をしている可能性が大いにある。顔への落書き用の油性マジックを準備してこなかったことを後悔した。
十分ほど、彼女の顔に落書きするとしたらなにを書こうかと妄想していると、いつの間にか順番が回ってきていた。
「ストロベリー二つ、カップで」
注文してから一分も経たずにアイスが出された。ピンク色の丸い二つの」メガネの店員さんからそれを受け取り、アイスのカップを両手に一つずつ持ち、小走りで彼女のもとへと向かう。
ちなみに何故ストロベリーかと言うと、当然僕も彼女もストロベリーが好きだからだ。彼女とストロベリーの素晴らしさを小一時間議論したのは、とてもいい思い出だ。というか昨日の事だけど。
少し走ってきたので、息切れをしながらベンチに到着した。座っているはずの彼女を、僕は探した。ベンチだけではなく周辺も。
彼女はどこにもいなかった。
ただ見えたのは、海と空の水平線と、何人かの親子ずれの姿だけだ。
何か彼女の機嫌を損ねる事をしただろうか。今日一日の自分の行動や発言を振り返ってみる。心当たりはない。
トイレだろうか?とりあえず考えても仕方がないと思い、僕はまた鉄のベンチに腰を降ろした。さっきまでの自分が座っていた時の温度はとっくに冷めていて、それが寂しさを助長させた。
三十分後。彼女は一向に姿を現さない。両手のアイスのカップの冷たさは既に失われていた。溶けてイチゴオレを注いだと言っても疑われない形状になってきている。甘い香りだけは健在だ。携帯をポケットから取り出し、彼女へと電話をかけてみた。心臓の鼓動が、さっきよりもまた速くなっている、不快な油汗が背中から滲んでいて、ちくちくと痒みを訴え始めた。
『おかけになった電話は、電波の届かない所にいるか、電源が切られているため、かかりません』
コール音は鳴らずに、無機質なアナウンスがそう告げた。メールを送ろうとも考えた。けれど、何となくやる気が起きない。何もしたくなかった。
両手をだらんと下ろし、全身の力を抜く。そして、空を見上げた。うんざりするくらい青く、雲一つ存在しなかった。太陽が僕の体を温める。心は生憎温まらなかった。
公園での子どもたちや、高校生の遊び声に、波の音を聞いていると、異常な脱力感に襲われた。
眠ろう。
これは彼女が今、僕の顔を見たくないという明白な意思表示だ。彼女が僕との約束を守らなかったり、時間にいい加減だったりするのは、今に始まったことじゃない。
いつもの、気まぐれな彼女の、当たり前の行動だ。
そう僕は自分自身の心に強く強く、言い聞かす。そして、ゆっくりと目を閉じた。子供たちの喧騒や、波の音と、春の日差しの下で、心地いい眠りの世界へと、僕は逃げ出して行った。




