『僕』7 破片
朝、通学路を一歩一歩、靴の先端部分を目印に、僕は歩みを進めた。目的は、学校へ行く。即ち登校だ。引きこもり生活から、僕は無事に脱却を果たした。玄関から出て久しぶりに浴びた太陽は、いつもよりも眩しく、目がくらんだ。それも歩いているうちに、だんだんと慣れてきた。
久しぶりに感じる朝の空気や、アスファルトの感覚、風の音は、遠い昔のもののように思えた。
校門前に到着した。数え切れない生徒たちの挨拶や、笑い声が、耳障りなくらい聞こえてきた。これも久しぶりだ。別に感慨深くはならないけれど。
教室へ向かう、階段を一段ずつ昇る作業が、少しだけ苦痛だった。三階へ無事到着し、教室の扉を開ける。出来る限りクラスメイトと目を合わせないよう、自分の席へと向かった。誰がなにを話していようと、どんな視線を僕に送っていようと、気にする事ではない。そう自分に言い聞かせた。卓也は相変わらず読書に没頭していた。
そして僕は着席する。当然、隣には彼女がいた。
「……」
僕は、おはようと言おうとした。だが、途中で言葉が、喉の途中で押し止められ、出てこない。彼女に声をかけることが、できなかった。僕は、彼女のおかげでここに来られたようなものなのに。
彼女に、僕の存在を許されたような気がしたからこその、結果だというのに。
「あ」
彼女が僕に気が付いた。思わず僕は、目を反らした。
「……おはよ」
向こうから珍しく挨拶してきた。だから、僕は挨拶を返すべきだ。だけど、体がそれに従わない。僕は彼女に目を合わすことなく、机に顔を伏せた。
なにをしているんだ。これでは、立場が逆転してしまっているではないか。
何故、こんなにも。彼女の顔を見る事を、口をきくことを、恐れているんだろう。
「……どしたの」
彼女は心配そうに僕の肩を揺すった。どうして僕は彼女を心配させているんだ。今すぐ起き上がって、彼女にいつも通り、おはようと告げるだけで、事は済むというのに。
今、彼女はどんな顔をしているんだろう。いつも通りの、淡白な無表情か。
それとも、泣きそうな顔をしているのではないのだろうか。
顔を上げれば答えは見つかるはずだったのに、なにも、出来なかった。
移動教室の時も、彼女と違う道を無意識に通った。何度か挨拶もしてきたが、全て無視した。
「なんか、怒らせた?」
その日、心配そうに彼女は僕にきいてきた。今、彼女の顔を見たら、僕は泣いてしまいそうだったから、そのまま教室を後にした。放課後に美術室へよるという日課も、家に彼女を招くという日常も、無くなっていた。
「卓也、自販機行こう」
僕は昼休みの食後、卓也に誘いをかけた。。
「お前、ここ最近毎日だな」
「そうだっけ」
気が付くと、僕が引きこもりを脱却してから、一週間ほど経過していた。
「休み時間の度にトイレ行こうだの、ジュース買いに行こうだの、パン買いに行こうだの」
卓也は呆れ気味に、自分の食べた弁当箱を鞄へとしまった。
「僕といるのがそんなに嫌か」
「その言葉、お前に一番言いたいやつがいるんじゃねえのか」
嫌味ったらしく卓也は言った。僕の事をいつもより強い目で、睨みつける。
「なにが言いたいんだよ、卓也」
「……お前、最近話してねえよな」
「誰と」
誰かは分かっていた。彼女の事を指している。
「……わかってんだろ」
「……」
お見通しの様だった。何も言えず俯く僕に、卓也は続ける。
「どうしたんだよ、ほんとお前」
「どうもしない、これは僕の問題なんだ。卓也には関係ないだろ」
以前、卓也が僕に言った言葉を、そっくりそのまま返した。
「…………ちっ」
卓也は僕に苛立つように舌打ちをし、教室を後にした。行先は、いつもの図書室だろう。
「……なんだよ」
僕は卓也が出て行くのを見送ってから、教室を出た。無論、誰とも、彼女とも目を合わすことなく。
別に、彼女を嫌いになっているわけじゃない。ただ、顔を見たくないだけだ。
僕は、彼女の力になりたかったはずなのに。
彼女にとって、楽な存在であり続けたかったのに。
僕がこんなのでは、そんな目標は達成することはできなくなってしまう。
「……畜生」
そう呟いて階段を降りる。周りにいる生徒は、僕に目もくれず通り過ぎて行った。
もし、ここで体を少し前のめりに倒せば、当然僕の体は階段の下へと落ちていく。当然体への激痛もあるだろう。打ちどころが悪ければ骨折か、もしくは死んでしまうかもしれない。僕は少し。ほんの少しだけ、死にたいと思ってしまった。
いっそ誰かが、僕の事を怨んでいて、それで思い切り、包丁で心臓を貫いてほしい。
誰かに僕を殺してほしい。
殺されさえすれば、死んだ時の言い訳をしなくて済むから。
階段を降り、日差しの差し込む中庭を通り、食堂横にある自販機に到着した。
いつもと変わらず、ジュースやカロリーメイト、パンと種類は豊富だ。ここにアイスでもあったらもっと人気が出そうなものだ。飲むものも特に決めずに来てしまったため、悩んでしまう。手をポケットに突っこんだまま、自販機とにらめっこしながら考える。
コーラやスプライトもいい。だがミルクティやココアも捨てがたい。いや、あえてジュースではなく、パンというのはどうだろう。飲み物の横にあるパン専用自販機へと移動する。そう言えば、彼女もたまに、ここのパンを食べていた。クリームパンが好きだと、以前言っていた気がする。
そう考えると、なんとなくクリームパンが食べたくなる。サブミナル効果より強力な宣伝効果だ。好きな人の好みというのは。
小銭の投入口に財布から出した百円玉を入れる。そしてクリームパンが置かれている番号を押した。
「あら、クリームパン食べるの?」
ユーフォーキャッチャーのような機械が、クリームパンを運んでいるところを眺めていると、後ろから大人びた聞き覚えのある声が聞こえた。
振り返ると、厚手のカーディガンを羽織り、いつものように微笑を浮かべている長坂先生が立っていた。
「なかなか良いセンスね、あの子も好きだったのよ」
僕をためすように、先生はにやけた。そのまま先生が、隣の自販機に小銭を入れ、ボタンを押した。ゴトンとジュースが落ちる音がする。先生が子どもの様な無邪気な笑顔でそれを取り出した。
「先生は、フルーツオレですか」
先生の手には、紙パックのフルーツオレが握られていた。
「ええ、学生時代から好きなの」
先生はにっこりと僕に微笑む。指輪が光に反射する。フルーツオレのファンシーなパッケージと、長坂先生の笑顔は、妙にマッチしていて、CMのような組み合わせだ。
「お昼、もう食べたの?」
「デートのお誘いですか」
僕は真顔でそう対応する。もちろん本気ではない。先生はおかしそうに笑った。
「あなた、面白いわね」
「そんなことないですよ」
先生は笑顔を崩すことなく、僕を見つめた。またあの目だ。懐かしい、愛しいものを見るような、不思議な眼差しだ。
先生は、僕の背景の誰を見つめているのだろう。
「昼休みが終わるまで、あと二十分ね」
先生は左腕に着けた、ピンク色のかわいらしい腕時計をちらりと見た。大学生のまま先生になったような人はいるが、長坂先生の場合だと、子どものまま先生になったみたいだ。
容姿が大人びているというのに、雰囲気がそれに追い付いていない。
「ですね」
「もう教室に戻るの?」
「ええ、まあ」
別段教室に戻る用事もないのだが、とりあえず肯定する。新手のナンパを僕は受けているのだろうか。年増の人妻にモテても困るのだが。
できたら教室は避けたいスポットなので、先生のナンパに乗るのも一つの手だ。
「旦那さんもいるのに、ナンパはいけませんね」
とりあえず自分のペースを崩さないことを最優先した。
「あら、まだ婚約しただけよ」
先生はしてやったりと僕を見た。
「特に急ぎの用事もないなら、美術室に行かない?」
なんとも身近なデートスポットだ。そしてそこは、僕もここしばらくずっと行っていない、観光スポットだ。
「じゃあ、行きますか」
人生初の逆ナンに乗ってみる事にした。
「決まりね、行きましょ」
先生はそう言うと、すたすたと僕より先に歩みを進める。僕はクリームパンを左手に持ちながら、先生の後方一メートルほどの場所から後に続いた。
校舎に入り、廊下を進み、階段を昇る。放送部が校内にかけている流行りの邦楽がスピーカーから学校中に流れていた。そこに弁当の匂いや、生徒の談笑の声、そして体育館からは、笑い声とボールの音が聞こえてきた。
「またバレーやってるのかしら」
先生は振り返ることなく、階段を昇り続ける。長いスカートの為下着は拝めそうにない。
「あなた、バレーは嫌い?」
「あまり好きでは」
「あら、そうなの」
そこで会話は打ち切りとなった。階段を昇り切り、廊下へと出る。
僕自身、運動は下手ではない。だけれど、チームや団体と言うのが苦手な人種だ。体育の時間に、二人組になってと言われても、余るタイプの人間の気持ちは、他人になかなか分かってもらえない。
「団体は、私も苦手だったなあ」
「そうなんですか?」
意外な言葉に思わずきき返す。先生はなにも言わずに、窓の先にある、旧校舎を見つめていた。その表情には、いつもの笑顔は伺えなかった。
先生にも、学生時代は当然あったはずだ。だとしたら、どんな学生時代を送ってきたのだろうか。そんなことが少しだけ気になって、妄想してみる。
そこには、フルーツオレを飲みながら、ただ窓の外を見つめる姿が、とても鮮明に、そして容易に想像できた。その光景があまりにも現実感を帯びていて、かつて見た事がある気すらしてきた。
「どうしたの?」
先生の言葉で我に帰る。ありもしない記憶を思い出していて、僕の足は止まっていた
「いや、」
続きを言おうとしたが、どうにもうまく表現できない。夢で見たわけでもない。既視感というわけでもない。強いて言えば、覚えていないのに、覚えている。そんな感じだ。
だけれど、それを言ったとして、混乱させるだけだ。
「なんでもないです」
そう簡単に誤魔化した。
美術室には、以前と変わりなく、生徒たちの作品や、彫刻、大量の机が置かれていた。
そして更にそこに、彼女が今まで描いてきたであろう絵も飾られていた。
彼女が持つ、独特の色彩とセンス、そして左下にあるイニシャルで、簡単に分かった。
「これが、最近あの子が描いたやつなの」
絵に見とれている僕の横に、先生が一枚のキャンバスを持ってきた。上にはカバーがかかっている。
「これを見ながら、おやつの時間といきましょう」
彼女の絵を前に置き、椅子を並べる。秋の涼しい風が、美術室を満たす。画材の匂いがそれである程度薄らいでいた。
「どうぞ」
先生は椅子を僕に譲った。大人しく従い座る。背もたれがいつもより硬く感じ、背中が冷たい。
「じゃあ、お披露目しますか」
先生が、宝物を見せる子どものような笑顔を見せた。
「いいんですか?勝手に」
「いいのよ、最近あの子サボり気味だから」
「来てないんですか?」
「そういうわけじゃないんだけど、インスピレーションが浮かばないとか、ぐだぐだ言いながらその辺のものスケッチするだけ」
やはり、絵というものはそういう発想のようなものが降りてこなければ描けないのだろうか。
「文化祭の時に絵、お披露目できなかったから」
先生が残念そうにキャンバスを撫でた。
「見る?」
先生がカバーに手をかけた。
「あの」
思わず声が出た。クリームパンを握りしめた右手に力が入り、つぶれそうになった。
「どうしたの?」
「……放課後、ここ来るんで……その時に見ます」
そう、しどろもどろに言った。なんとなく、今見るのは駄目な気がした。彼女の許可が、そして言葉がこの絵には必要な気がしたから。
「……ほんと、真面目なのね」
先生は、また懐かしそうにそう言った。真面目と言われても、褒められた気はしない。
「駄目ですかね」
「いいえ」
先生は首を横に振り、フルーツオレにストローを刺した。
「とっても素敵よ」
その言葉は、僕に言っているのだろうか。
「おいしい」
先生は僕の返答を待たずにフルーツオレを飲み始めた。
「あなた、あの子に言いたい事あるんじゃないの?」
先生の唐突な言葉に、思わず焦る。背中に滲んだ汗が乾き、痒みを訴え始めた。
「どうして、そう思うんですか?」
「うーん」
先生は彼女の真似をするように表情を変えずに唸りだした。
「女の勘?」
「教師の勘じゃないんですね」
「私だって、一人の女なのよ」
先生は得意気に言った。僕はとりあえず愛想笑いを返す。
「まあそれに、最近あの子寂しそうだからね」
「僕にどうしろと」
少しムキになって言った。手に持つクリームパンをさっきよりもまた強く握りめる。クリームが少しはみ出たかもしれない。
「怒んないでよ」
「怒ってません」
先生は子どもをあやすように笑った。
「暇だったら、構ってあげてって話」
なんとなく、自分が責められているような思いがして、自然と視線がまた下へと向く。
先生の口調の優しさの裏には、何があるのだろう。
「……別に、避けてたとか、そういうわけじゃないんです」
僕の視線は、先生の顔から、木目の床へと貼りついたままだ。怒られているわけじゃないのに、怒られている気分になってしまう。
「いや、避けてたのは確かなんですけど……えと、別に……その」
先生はなにも言わずに話を聞いた。怒っているわけでも、急かすわけでもない。僕も言葉を探すため、言葉の引き出しの開け閉めを繰り返した。
「怖かったんですかね?」
出てきた言葉は、シンプルで、曖昧なものだった。
「私にきかれてもね」
それはそうだ。先生の余裕のある対応に、思わずたじろぐ。
「ほら、例えるなら、土管のある空き地で野球をしていたとしましょう」
立ち向かうように、僕は顔を上げた。
「随分と例えが具体的ね」
さっき見渡した時に有名なネコ型ロボットの落書きがあったから、それを例え話しに応用しているだけだ。
「別にいいでしょ」
「ごめんなさい、続けて」
先生が笑ってごまかす中、僕は一息ついて続きを話した。
「僕の打席になりました。ピッチャーのデブが投げたボールを打ち、ホームランとなりました。打たれたボールの先は、空き地の隣のおじいさんの家です」
「あらあら」
「そしたら次の瞬間、何かが割れた音が聞こえました」
「ふんふん」
先生は興味深そうに僕の話に聞き入っていた。僕は続ける。
「割れたのは、そのおじいさんが大切にしていた盆栽です」
「大変じゃない」
先生は演技をするように大袈裟に反応する。まるで幼稚園の先生だ。僕は子どもかよ。怒りを腹の底に押し込み、話をまた続けた。
「僕等はこう思うわけです、怒られるだろうなあと」
「で、逃げちゃうわけ?」
「いいえ、善良な僕たちは、丁寧におじいさんのところに謝りに行くんです」
「善良な?」
先生が疑わしそうな声で、にやにやと僕を見る。
「はい、善良な」
僕は凛としてそう返した。
「続けます。意外な事に、おじいさんは許してくれるんです」
「あら、よかったじゃない」
「しかも笑顔で」
「ますます最高じゃない」
「その通り、僕等善良な少年たちは、ほっと一息吐くわけです」
「ふむふむ」
先生があごに手を当てて、僕の話を面白そうに聞いていた。
「ではここで問題です」
「クイズだったの?」
無視して言葉を続ける。
「次の日から、僕等善良な少年たちは、いつもの空き地で野球ができると思いますか?」
先生はしばらく考えると、なるほどとうなずいた。
「できるわけないわね」
「その通りです」
いくら許されたからと言って、僕等善良な少年たちには、『盆栽を割ってしまった』という罪悪感に囚われてしまう。だから、仮に次の日も変わらずに、野球をいつもの空き地やったとしても、昨日の罪悪感が脳裏に嫌でもちらついてしまう。
結果、野球はできないのだ。
「つまり、気まずいってことね」
……僕の長い例え話を、たった四文字で表現された。
「あなたも随分めんどくさい子ね」
「もってなんですか、もって」
先生は呆れたように溜息を吐いた。
「放課後ここに来るんでしょう?」
「あ」
自分で言っていた事を忘れていた。
「あなたは、隣のおじさんに謝るどころか、顔も合わせてないじゃない」
「……」
なにも言えない。反論の余地も無ければ、話題を反らす別の話題も見つからない。
「隣のおじさんのことが大切なら、逃げちゃダメでしょ」
「別に大切とか、そんなんじゃ」
先生の顔を見ず、左の石膏の像を見ながら、僕は嘘を吐いた。
「私はこっちよ」
先生は長い手を僕の頭まで伸ばし、顔を自分の方へと向けた。至近距離に先生の顔が来て、またたじろいでしまう。
「発言をするときは、目を見て言いましょう」
この人には敵わない。そう思った。先生の長い髪から、シャンプーの香りがした。
放課後、僕は美術室にいた。いるといっても、椅子に座っているとか、歩き回りながら作品を吟味しているわけじゃない。
強いて言うのであれば、潜んでいるが正しい。なぜなら今僕は、美術室にあった、巨大なダンボールの中にいるからだ。見つけた時、中身は空っぽだったから、なにが入っていたかは全く分からない。シンナー臭がすることから、画材道具が詰め込まれていたんだろう。
そんなことは今どうでもいいとして、僕は今日、彼女と話をするために、ここに来たんだ。
十分くらい前に来たときは、彼女はまだかな、とそわそわし、動き回ったり、座ったり、立ったり、スクワットしたりといろいろ繰り返したものだ。結局、ダンボールの中が一番落ちついたから、ここにいる。
「……あー」
どれくらい自分の声が響くかやってみた。寂しさが増すだけだった。
「……はあ」
溜息を吐いて目を閉じる。まるで世界が終わったかのように、ダンボールの中は静寂に満ちていた。心が落ち着き、自分もこの真っ暗な世界に融けていくようで……
眠たくなってきた。意識が遠くなり、僕は眠りの世界へ突入した。
「おい」
意識が暗闇の中から戻っていく。小さな声で、僕は呼びもどされた。自分が人間で、僕が僕だと判断するのに、数秒かかった。周りがさっきとくらべて明るい。窓からオレンジ色の光が差し込み、自分の右半身に、床の冷たさを感じた。旧校舎の古びた姿も同時に映し出される。
体育座りをしていたつもりが、いつの間にか横になって、胎児の様な格好になってしまっていた。視線を上に移動する。すらっとした足が見えた。パンツが見えるかと思ったが、スカートの長さで遮られた。さらに視線を上に向ける。
その先には、切りそろえた前髪で隠された、無表情の彼女の顔があった。そして僕と彼女の視線が、十センチ間でまじりあう。
「君って、そんな顔してたんだ」
「……なにそれ」
久しぶりに話すのに、その発言はないだろうと言いたげだ。僕は気だるい体を起こし、彼女の方を見た。
「……なに」
見つめる僕に彼女は無愛想なままだ。
「いや、別に」
いろんなものを忘れていたんだなあと思う。久しぶりに彼女の姿を上から下まではっきりと目に焼き付ける。
改めて、彼女の顔や、身長や、仕草や、目や、声が、脳内から薄れていた事に気が付いた。そして、それら全てが、世界最高の芸術のように感じた。
そして、僕は、自分の感じていたもの全てを思い出せた。
「絵、見せてよ」
僕は笑って彼女の目を見た。
「……いいけどさ」
彼女は納得いかないと言わんばかりに、不満げな顔をした。
「なんであんた………」
彼女はそこで言葉を止めた。
「あーもう、いいわ」
「なんだよそれ」
「もういい、めんどくさい」
彼女はそう言って僕の足を蹴った。上履きの先っぽが当たると、相当痛いということを知った。
「どうでもいいわ」
彼女は僕に背中を向け、自分のキャンバスの前に立った。布を取り、絵を僕に見せる。
「おお」
描かれていたのは、海の底から、二匹のクリオネが上へ上へと昇っていくところだった。海底から見上げる空の光が、スポットライトのようにクリオネを照らしている。その周りは、卓球の球くらいの大きさの、カラフルな球体が、ぱらぱらとちりばめられていた。おとぎ話のような、その幻想的な世界に、僕の意識は吸い込まれていきそうだった。
「……すごい、いいよこれ。すごく」
「そう?」
つい今日までやってきた僕の余所余所しい態度は完全に霧散していた。
思いつくままの称賛を口にしようとしてみるが、ばらばらで、しどろもどろで、上手く出てこない。何でこう、言葉というのはもどかしい存在なんだ。僕が本当に伝えたいと思う事を、何一つとして伝えてなんてくれない。不良品の伝達システムだ。メーカーにクレームを入れてもいいくらいだ。
「……ごめん、うまく言えなくて」
「いいよ」
彼女はそう言った。僕の視線は絵に釘つけになっているから、彼女の顔は見えないけれど、なんとなく、笑っていればいいなと思った。
「ありがとね」
彼女のその言葉で、また僕の心の中の氷の様なものが、少しずつ溶けていった。
いつもこうだ。彼女の優しい、静かな、短い言葉で、僕は救われ、報われるんだ。
「帰ろうか」
僕は後ろの彼女を見た。
「あのさ」
彼女は返答の前に、僕に言った。
「なに?」
「家、来る?」
帰り道、僕の家を通り過ぎ、南側のローソンの方向へと向かった。
ローソン前の横断歩道で立ち止まり、電柱に設置された、歪んだ押しボタン信号を彼女が押した。
『間もなく、信号が変わります。青になるまで、お待ちください』
その間、僕と彼女は、一言も会話を交わさなかった。どちらかが声をかけようともせずに、ただ淡々と道を歩き続けていた。
『青になりました。左右の安全を確かめてから、わたりましょう』
急かすように、ボタンのアナウンスがそう言うと、僕等は横断歩道を渡った。歩道の向こうにある狭い道路を抜け、川へとたどり着く。一本の二車線分の幅がある大きな橋が架けられていた。近くの小さな公園から、子ども達の遊んでいる声が聞こえる。遊具が明らかに撤去されたであろう何も無いスペースがいくつかあった。
まず、何故僕を家に呼ぶのか、意図を全く知らされていない。ただそのまま承諾して、そのまま学校から無言でここに来た。意味が分からない。なにが目的なのだろう。
「入って」
いつの間にか彼女の家に着いていた。彼女の家は、橋を渡った先の住宅街の中にあった。見た目も普通の一軒家で、ドラえもんののび太の家のデザインに少し近かった。
「お邪魔します」
僕はそう言って彼女の後に続いた。
玄関はシンプルで、物も靴も少なく、一見奇麗に見えた。けれど良く見ると、ところどころ埃がたまっている。掃除をする習慣はあまりないのだろうか。下を見ると、一足だけ脱ぎ捨てられた黒いヒールがあった。
「これ、お母さんの?」
「……違う」
彼女は少しためらってから、首を横に振った。その直後、奥から静かな足音が聞こえた歩き方は少し弱々しい。そしてその足音の主は、すぐに僕等の前に顔を出した。
「……誰、彼氏?」
足音の主の女性はそう言った。三十代前半くらいだろうか。化粧で顔が整えられ、見た目よりも年は上かもしれない。ただ彼女の方がかわいいのは間違いない。けれど、あまり彼女の母親のようには見えなかった。
「疲れてるから、静かにしてね」
彼女はその女性の言葉になにも反論せず、ただ黙っていた。そのまま女性は何も気にせず、奥へと戻っていった。
誰だったんだ、あの人は。
「ねえ、今の」
「二階」
僕の質問を拒否するように、彼女は靴を揃えて脱ぎ、奥へと向かった。僕も続いて靴を揃え、階段を昇る。
きわどい位置に、スカートから伸びる太ももが目に入った。
「パンツ見えるよ」
一応警告しておく事にした。
「死ね」
彼女はいつも通りの声色で罵倒してきた。もう彼女にはなにも警告しない事にした。
「すいません」
とりあえず謝っておいた。
二階に上がると、狭い廊下のスペースにでる。そこにはドアが二つあった。
「ここね」
右手のドアを示し、彼女はノブを捻り、奥へと開けた。
最初、そこは何かの空き部屋かと思った。むしろそうであってほしいと思った。そこにあったのは、布団と、本が詰め込まれているカラーボックスだけで、それ以外に家具はなかった。床には、カーペットも何も敷かれておらず、冷たそうなフローリングのみだ。
いや、家具以外のものも、床を形成していた。画用紙が辺りには散乱していた。そこには、彼女が描いたであろう、抽象的な色彩で埋め尽くされた奇妙な落書きが大量に飛散していた。小さな美術館を破片にしたように見えた。
「えっと」
彼女がどもって、何かを言おうとする。そして辺りを見回して、少し誇らしげに言った。
「ここが、私の部屋で、私の世界です」
それっきり僕はなにも言えずに、ただ拳を握ったまま立っていることしかできなかった。
「あー、疲れた」
彼女は客人の僕にお構いなしに、布団に横になり僕に背を向けた。僕はどうしていいか分からず、立ったままの姿勢を崩せない。背中に汗がにじんで、動機が激しくなる。
「なんかさー、最近目にゴミ入ったのかどうか分かんないけど、黒い点見たいのがずっとある。口内炎まで出来てさ~、痛い」
それは結構心配なのだが。かなり深刻な相談をされていないか?今。
「眼科とか行った?」
「今度行く」
夏休みの宿題のようにだらだらと先延ばしにしそうで怖い。
「てかさ」
彼女は僕に目を向けないまま、また話題を変えるように切り出した。
「なに?」
僕は冷静に返答する。
「なんかごめんね」
彼女は背を向けたまま謝罪した。どこに彼女の謝る要素があったんだ。暖房のきかない室内の冷えた空気が、一層冷たく感じる。
「どして」
「急に呼び出したりして……」
彼女は続ける。
「それに、あの人に会わせて」
「あの人?」
あのよくわからない女性の事だろうか。
「あの人さ、私の叔母さん」
「叔母さん?」
「うん、両親も、おじいちゃんもおばあちゃんも死んだ」
彼女は、淡々と、まるで友達の事を紹介するように、説明を続けた。
「ついでに叔父さんも」
「……何で?」
「別に」
僕の何で?が、どういう意味での言葉なのか分からなくなった。
何で死んだか、とか、何で僕に行ってくれなかったとか、どれが正しいのかわからなかった。
「で、ここが叔父さんの部屋」
彼女は両手を広げて、部屋全体を指し示した。
「家具も全部捨てられて、布団とか、カラーボックスとかは、安かったの自分で買ったの」
この部屋の無機質なもの全てが、彼女が自力で揃えたものだった。
「君の部屋は?」
「ない」
彼女は別に大きな問題ではなさそうに、簡単に言った。
彼女の発する事実が、どうしても現実的に感じられず、思考が追い付かない。
「まあ、ここが私の部屋みたいなもんだし」
「……」
それっきり、なんの言葉も出なかった。
「ごめん、なんかこんな話して」
「それはいいんだけど……どうして、また急に?」
「知ってもらいたかったから」
彼女は依然として、声のトーンも、体の向きも変えない。
「私は、こんな環境で育って、こんな人間ですってこと、伝えたかったの」
僕はなにも答えずに、彼女の続きの言葉を待った。
「別に、こんなこと最初は言うつもりなくて、言ってもどうにもならないことだし。あれ?じゃあ私なんでこんなこと?」
彼女は自分で悩みだす。うーんうーんと唸り、答えを探す。
「ごめん分からん、頭おかしいわ私」
「そんなの知ってるよ」
「あんたに言われたくないし」
「そうかよ」
いつものように、二人でまた笑い合った。
「僕がさ、あんな態度とってたのは」
僕は、はっきりとしない事実を、どうにか伝えようとした。
「僕は、君の力というか、君にとって居心地のいい存在になりたかったんだよ。そんな役目を僕は負いたいって、思ってたんだ」
「……なんか言ってたね」
「それなのに、僕は君に助けられてばっかりだ。君に励まされて、君の力で、僕は学校に来れたんだ。ただ、なんか……それがさ」
僕は事実となる一言を絞り出した。
「悔しかったんだよ」
「あはは、何それ」
彼女が馬鹿にしたように笑う。
「だってあれだよ、ドラえもんがのび太くんに助けられたら、ドラえもんも悔しいだろ」
「誰がのび太くんなのよ」
彼女は枕を僕の方へ投げた。こっちを見ていないので、枕は壁に直撃した。
「理由とかさ、もうどうでもいいって」
彼女はまたため息を吐いた。
「男がベラベラ喋るんじゃない」
また彼女に怒られた。
「たださ、一個言わせて」
彼女は姿勢を変えないまま、僕に言った。
「なに?」
「結構寂しいもんだね」
「なにが?」
主語を抜いた説明ほど、人を混乱させるものはない。そう言えば彼女は現代文の時間も熟睡していたな。
「……あーもう!」
僕の短い反論に腹を立てたらしく、布団をばさっとめくって僕に投げつけた。今度は僕の体に、それは覆いかぶさった。とりあえず冷静に手でどかした。
「あんたがいないってのも、結構寂しいものなの。確かに鬱陶しいときもあるし、だるいなって思うときもあるけど」
「あ、あるんだ」
「ある」
結構ショックだ。今まで何回鬱陶しがらせてきたんだろう。心当たりはないぞ。
「でもね、あんたのおかげで、あれ描けたんだよ?」
「あれ?」
僕は、クリオネの絵や、草原の絵など、いくつか思い浮かべたが、どれを指してるのか分からない。
「もういいわ、死ね」
「嫌だよ」
彼女の命令を僕は拒否した。
「君の為なら死ねるとか言わなかったっけ?」
「一緒に死ぬなら考えるけどね」
「……気持ち悪」
彼女はまたそっぽを向いて、横になった。スカートから彼女のすらっとした太ももが伸びている。きれいだなと思った。
「あのさ」
彼女は立ちつくす僕に話しかけた。僕以外いないから当然だけれど。
「なに?」
「一緒に寝よ」
「……え?」
一瞬耳を疑った。なんだ、彼女はそういう気だったのか?僕はそういったことに対して、全くと言っていいほど経験もないし、心の準備すらしていない。昨今の若者は乱れているとよく言われているが、ここまで乱れているのか。驚きだ。僕の理性とかそういったものがもういろいろとびっくりで、今にも心臓だけでなく、全身の臓器が口から吐き出され、僕という存在がただの肉の塊となってしまいそうだ。
「いやそういうんじゃなくて」
そういうのじゃなかったらしい。少し残念だ。
「抱き枕になれ」
「僕は人間だ」
「うるさいさっさと来い」
彼女の強引さに従い、とりあえず布団を持っていき、隣で横になった。
「枕持ってきて」
彼女は、壁にあるさっき投げた枕を指さした。
「嫌だ」
少しいじわるする事にした。彼女の不満げな声がかわいい。いとうつくしい。
その後に、彼女の細い腕が、僕を強引に抱き寄せた。彼女の髪からシャンプーの香りがして、鼻腔に入る。その小さな体に凹凸はあまりないが、柔らかく、気持ちいい。僕も腕を回し、彼女の全身を抱いた。彼女の呼吸音が、耳元で聞こえた。
部屋の冷たさを全て忘れるほどの温もりが、僕の全身を包み込んだ。彼女の手の感触から、体の感触まで、愛おしかった。
僕にだって、一応性欲はある。だから少なからず興奮しているのは確かだ。理性が持つかどうかも不安で、怖かった。
だから、そのことを忘れるように、彼女を安心させることだけを考えた。腕の力を調節しながら、優しく彼女を包む。彼女の腕の力がぎゅっと入り、体が締め付けられるようだった。痛くも不快でもない。ただ、温かく、ここに帰ってきた。そういう気分になった。安心感だけが、そこにはあった。
「あんたあったかいね」
彼女は顔を僕の胸にうずめながら言った。
「君もな」
「そう?」
「そうだよ」
「自分じゃわからない」
彼女はそう言うと、また抱きしめる腕に力を入れた。彼女の細い腕に触れてみる。心地良さや愛おしさを上回る、何か別の感情が全身を駆け廻った。それと同じ時に、僕の服に少し暖かいものがしみ込んできた。
それは、彼女の涙だった。彼女を包む腕の片方を腰からはずし、彼女の頭を撫でてみた。彼女の呼吸のペース落ちつき、ゆっくりとしたものになった。
「ありがとね」
彼女のその言葉で、僕の心もまた、安定したものへと変わる。
「僕は、まだ君の傍にいてもいいのかな」
「……」
彼女は黙り込んで、そのまま体を僕にゆだねた。
「ねえ」
彼女は言った。僕は答える。
「なに?」
「……絶交してみる?」
その言葉を、僕は知っている。その意味も知っている。だが、それを誰かに持ちかけられたことは、それまでに一度として無かったと思う。
「……え?」
だから思わずきき返す。信じたくなくて、認めたくなくて。
「ごめん、冗談」
慌てたように彼女はそう言うと、僕に背中を向けた。そして数分後には、呼吸が安らかなものとなり、眠り始めた。
一時間くらい経っただろうか。陽はすっかり沈み、夜がやってきていた。
彼女は熟睡しているようで、声をかけても反応がない。その間僕は、ただ彼女の横でずっと布団に寝転んでいた。
僕は彼女を起こさないように、鞄を持ち、立ち上がった。
彼女の顔をもう一度間近で覗きこんでみる。小さく弾力のありそうなっピンク色の唇があり、整ったまつげが閉じた瞼を覆っていた。そしてすっとした鼻に、薄い眉毛にふっくらとした、綺麗な頬を、一つ一つ、確認する。 腰をおろし、彼女の寝顔と顔の高さを近づけた。
そこから、顔を近づけ、頬に唇を重ねた。柔らかく、その感触に、胸が高まった。
その途端、急に、罪悪感が芽生えだした。
「……ごめん」
どうしたらいいかわからず、慌てて聞こえるのはずのない、小さな謝罪を済まし、部屋を出た。
真っ暗な部屋で寝転がる彼女の後姿は、暗闇に飲み込まれてしまいそうだった。
彼女の匂いが、まだ制服の袖に染みついていている。さっきまでの一連のやり取りや、彼女の寝顔が脳裏にはっきりと焼き付けられている。急に恥ずかしくなって、頬の内側を噛みしめた。
押し倒す勇気など僕になければ、付き合っているわけでもない。
ならば、何故彼女は僕と添い寝をしたがったのだろう。
そんなことを考えながら、階段を降り切った。廊下には、叔母さんがいた。叔母さんは僕に対して、珍しい生き物を見るような、奇妙な視線を送った。目つきの悪さで、今まで苦労してきただろう。
「おじゃま……しました」
僕はしどろもどろになりながら挨拶をして、おばさんの横を通り過ぎようとした。
「あの子の彼氏?」
「は?」
間抜けな声が思わず出てしまい、気まずい空気が流れる。玄関にある時計の秒針の音がやけにうるさく聞こえる。
「いや、そういうわけじゃないっす、あれです、相棒みたいなもんです」
いつも通り思いつくがままの言葉を口にする。ふざけることに全力を注ぎながら、心を閉ざす。
「ふーん、あの厄病神とよくやってけるわね」
「厄病神?」
その言葉に顔をしかめる。どういう意味だ。彼女が厄病神?天使の間違いじゃないのか?いや、それはそれで天使に失礼な話だが。
「どういう、意味ですか?」
その言葉に腹が立って、僕はきき返す。
「……そのままよ、あの子と関わったら不幸になる」
「それはないですね」
そんなありえない妄想染みた発言に、真面目に取り合ってはいけない。
そんなことはないと、僕の中で完璧に立証されている。
「それがあるのよ、あの子の周りの人、みんな死んじゃうのよ?私の旦那も死んだわ。私は家にいない事が多いから助かったんだけれど」
おばさんは僕に構わず話し続ける。
「私の旦那、働いてなかったのよ、なにもしないし、ただだらだらしてるだけ。それでも私は、その人の事を愛していたのよ。頭がおかしいと思われるかもしれないけどね」
誰もそんな事はきいていない。多分、自分の事を喋る機会がほとんどない人なんだろう。かわいそうに。
「だから、自分が大切なら、あの子には」
「うーん、まあ、でもそれはないと思いますよ?」
さらに続けようとする叔母さんの言葉を遮った。
「どうしてあんたはそう思うの?」
もちろん根拠はある。かの有名なビーグル犬も言っていた。
「まあ、根拠があるからですよ」
言葉にするのは、何か違う気がするから、僕はそれを言わない。そのアメリカ生まれのビーグル犬も、心で思うだけだったから。
僕も、心で思う事にした。
僕は、あの子と出会ったときから、とっくに幸せになっているのだから。
「おじゃましました」
僕は叔母さんの顔を見ずに、靴を急いで履いて、逃げるように家から飛び出した。
正面の道路に出ると、至近距離を大型のトラックが通過した。大きな風圧が体を押し返し、心臓がばくんとはねる。目の前の塀の上のネコは、驚いて向かいの路地裏へと姿を消した。力が抜け、尻もちをつく。
道路の向こうを走り去るトラックを、ただ茫然と見ていた。
振り向くと、おばさんが何か勝ち誇ったような笑顔をして、僕をじっと見下ろしていた。
僕も負けじと、ざまあみろと言わんばかりの、満面の笑みを浮かべ、腰を上げた。




