僕1 隣の席の違和感
僕の物語です。
彼女との出会いの物語です。
『僕』1 隣の席の違和感
僕の通う学校には、旧校舎があった。勉学に励む新校舎の目の前に広がる広いグラウンド。その向かい側に、ひっそりとその旧校舎はそびえ建っていた。旧校舎にはお化けが出とかいう、噂があるけれど、僕はそんなものに、興味がわかない。
解体工事が中止になったのは流石に不気味だとは思うけれど、それをお化けなどに例えるなど、非現実的だ。全く、お化けに失礼だろう。
そんな些細な噂にも心を動かされないまま、僕の学年は、高校二年生へと上がってしまった。誰にも頼んでいないのに、困ったものだ。
そんな二年生になってからの数週間後の事だ。
真っ先にあったものは違和感だった。今日はいつもと何かが違う。そう思ったのは今朝自分の席に着いた瞬間からだった。
今日も昨日となんら変わりない一日のはずだった。別に机の数が一つ減っていたり、クラスメイト全員の性別が入れ替わっていたり、黒板に怪しげなメッセージも残されているわけでもない。煩わしいクラスメイトの雑談の声が響き、朝日が窓から差し込む、無味無臭の、いつも通りの教室だった。じゃあ、この違和感の正体は?
視線を教室全体から身の回りに変更する。見回して数秒足らずで正体が分かった。僕の隣の席だ。隣の机には、飾り気のないセミロングの髪型をした女子生徒の後頭部が乗っかっていた。もちろん体は付いている。うちの高校のセーラー服もきちんと着用している。手入れされた人形のように、いたって清潔そのものだ。僕の学校で机の上に女子生徒の頭部が置かれるなど、そんな猟奇事件は起きていない。
要は顔を机に伏せて寝ている女子生徒がそこにいた。
僕の隣の席は、クラス変え以降埋まっている日はなかった。つまりはクラス替えしてから数週間、僕の隣の席の人間は休んでいたということになる。
学校に来ているという事は、それは引きこもりなんて肩書は合わない。立派な学生という称号を与えられるに相応しい。世から引きこもりが一人更生した、それは十分めでたい事実だ。そんな彼女に初対面で馴れ馴れしくするのも失礼だろう。もともと人の事情に踏みこむ気も無い。自分の事情まで踏み込まれてしまったら、困るからだ。とりあえずは隣の席の元引きこもり女子の事は忘れ、読書にでも没頭することにした。僕は鞄から行きつけの本屋で昨日買った推理小説を取り出し、ページをめくる。新書独特の、インクや紙の香りがした。
読書はいい。現実に起こり得ない事を、文章にして、それを楽しませてくれるのだから。現実から、僕はこうやって逃れる事が出来るのだ。
けれど、現実から逃げようとして、すぐのことだった。
無意識に、チラリと視線が左に移動してしまう。いかんいかん、読書に集中するのだ。読書こそ日本人の文化じゃ。いや日本以外にも読書の習慣はいくらでもあるだろうけど。
僕は本に視線を戻す。どこまで読んだかわからなくなっていた。本に書かれている文字の羅列を見ていると、目が回りそうになった。まあいい。もう一度このページの頭の文に視線を戻す。
またチラリと目線が左へ移動する。
駄目だ。全く集中できない。
僕はどういうわけか本の内容より彼女の存在が気になっていた。始業のチャイムまで、あと少しだというのに。
視線の先の彼女の後頭部をジッと見てみる。髪はぼさぼさではなく、きちんと整えられている。その上シャンプーのいい香りがして、僕の鼻腔をくすぐった。更に観察を続けてみる。
顔を伏せたまま、ピクリとも動かない。生きているのだろうか。もし死んでいたら犯人扱いされるのはごめんだ。僕は無実だ。
観察を続けるうちに、どういうわけか、僕の胸がざわつき始めた。ときめきとはまた違う、別の胸の痛みだ。その理由は分からない。ただ、この正体に一番近いものを挙げるなら、不安だった。
彼女がいつか消えてしまいそうな、そんな儚さのようなものだ。そしてその消えてしまう時の彼女の周りにはきっと、誰もいないのだ。
そんなありもしないただの妄想を続けていると、僕は怖くなった。他人に対して僕は関心を持たない事に決めていたのに、彼女が消えてしまう事が、何故か嫌で堪らなかった。
彼女が一人ぼっちでいることが、どうしようもなく気に入らなかった。胸のざわつきがさらに加速する。いつの間にかかいていた冷や汗は渇き、肌寒さも感じた。
いつの間にかその不安は、あまりにも自然な形で。このまま彼女を放置することは許されない。そういう思いに、変わっていた。
動かなかった僕の心が、時計の針のように初めて動いた。
「おはよう」
まさか自分から誰かに挨拶をする日が来るとは、これっぽっちも思っていなかった。
ぴっと手を挙げて、軽く言おうとしたつもりだったが、緊張のあまり極端に低い声が出てしまった。手の形もパーともグーとも言えない曖昧な形になってしまっている。もっと僕はさわやか好青年な声とポーズが出せるはずなのに。本気を出したらの話だが。
さあ、どう来ると身構えていると、彼女は少し顔を上げてこっちを見た。『やった!』という高揚感が真っ先に来た。小さくガッツポーズを机の下でする。真っ先に目に入ったのは、長く、ぱっつんの状態に切りそろえた前髪だった。少し顔を前に倒せば、表情は隠れてしまう。その前髪の下の彼女の目は、大きくぎょろりとしていた。それはまるで西洋の人形の様な、吸いこまれそうなガラスの様な瞳をしていた。だが、そこに輝きは、全くと言っていいほどない。希望を失ったように濁りきっていた。あまりにも、不自然なほどに。見ていると、どんどん心が不安定になっていきそうだった。
それが、僕と彼女が目を合わした最初の瞬間だった。
「………」
彼女は僕をまるで汚いものの様に一瞥し、無言で机に顔をまた伏せた。思わず表情が固まり、彼女の為に挙げた右手も顔と同時に固まる。今の僕をよくできた銅像ですと言われても否定はできない。いつの間にか教卓に立っていたバーコード(先生)が席に着くよう騒いでいる生徒に注意をし、ホームルームを始めていた。
そこから一週間、彼女を観察してみた。
どのクラスにも一人くらいは、物静かで、自分の意見を言う事が苦手な引っ込み思案な子はいる。彼女はその中の一人であるかときかれたら、僕は否定できない。
だが肯定もできない。彼女は確かに、引っ込み思案だ。大人しいし、騒ぐこともしない。だが、度を越していたのだ。彼女は外的刺激のほとんどを拒絶していた。例えば彼女が学校に来たその日の昼休みのことだ。
「ねえ、一緒にお昼食べない?」
クラスのムードメーカー(自称)が彼女に気を遣ってか、にこやかに昼食の誘いをかけた。返事を待つように、前かがみに彼女の表情を伺おうとする。顔を伏せているから無駄なのに。
「……」
彼女はだるそうに、むくりと重い顔を上げる。
「おはよう」
誘いをかけたムードメーカー(自称)は、彼女にそう言った。彼女は表情を変えず、間髪いれず
机の上に乗せていた、プラスチックの白いペンケースを投げつけた。
「痛っ!」
ムードメーカー(自称)の額にそれは直撃した。床に金属音を立てながらペンケースは落ち、開いた口から中の文房具が水しぶきのように散らばった。そのまま時間が止まったように、教室の空気は凍りついた。呆然とするクラスメイトに目もくれず、彼女は椅子から立ち上がり、何事もなかったように、ふらふらとした足取りで教室を出て行った。明らかに五度程、教室の体感温度は下がっていた。
当然翌日から、彼女に不用意に話しかけようとする生徒はいなくなった。
次の例は授業中の先生の指名だ。先生が授業中に生徒を指名することは恐らくどこの高校にもあることだ。当然彼女があてられる事もある。いや、あった。
「じゃあ、次、出席番号二十二番」
彼女の声がようやく聞けると期待したが、それは無駄だった。
「おい、答えろ」
先生の厳しい口調に対して、彼女は何も言わず、机に顔を伏せたままだ。それこそ、飾りのように、自分なんて存在しないと、主張するように。
マネキンと化した彼女に十分間程先生が説得を試みるものの、全て失敗に終わった。先生によっては怒鳴りつける人もいたが結果は同じだった。
もちろん、たまにではあるが、授業中に起きている時もあった。だがその時も指名された途端に、スイッチをオフにするように、机に顔を伏せ拒絶の意を示した。それを二日も三日も続けると教師陣も諦めモードに入り、彼女を指名してはならないという暗黙のルールまで出来上がった。
何があろうと彼女は、頑なに口を開く事はなかった。
まとめると、彼女は普通ではなかった。結果報告は以上だ。
そして本日昼休み、僕はクラスでの唯一の友人と飯を食う事にした。
弁当箱と水筒を鞄から取り出し、自分の椅子を彼の席の正面へと移動した。その際彼女の席をちらりと見てみた。彼女はゼリー状の十秒飯を面倒な作業のように、吸いこんでいた。多忙なサラリーマンのような昼食だった。そんな彼女に興味を示すクラスメイトは存在しない。
「卓也、ランチと洒落込もう」
視線を彼女から彼、卓也へとうつした。
「普通に昼飯を食おうとは言えねえのかお前は」
卓也は起き上がりながら、表情を何一つ変えず、冷静に返答した。流石卓也だ。僕の小粋なジョークにちゃんとつっこみを入れてくれる。こいつと漫才コンビを組んでお笑い界の頂点を目指す、そういう人生も悪くないかもしれない。
「僕と組んでお笑いコンビにならないか」
この間コンビニで立ち読みした漫画のセリフを拝借し、卓也をお笑いへの道へと誘い込んだ。
「いや、安定した収入目指してるから、俺」
公務員志望だった。今の世の中珍しくもない、安定した願望だった。まあもちろん本気じゃ無い
「僕も了承されたらどうしようかと思った」
「なら最初から言うなよ」
そう言って卓也も弁当と水筒を取り出す。彼が取りだしたのを合図に僕は弁当箱のふたを開けた。二人で行儀よく手を合わせ、卓也は中身のタコさんウインナーを口に頬張った。
「かわいいもの入ってるじゃん」
僕はタコさんを箸で示した
「ああ、これか?」
「うん」
最高に似合わないけど。
「一応自分で作ったんだぞ、これ」
僕は右手の力が抜け、思わず箸を落とした、開いた口もふさがらない。本日二度目の石化現象だ。
どうしたんだこいつは、自分であのタコさんを作ったとは、とても信じられない。油断したらまた石化しそうだ。
「自分であれを?」
「ああ」
卓也は二個目のタコを口に頬張った。タコさんの他にも詳しくききたい要素がいくつかあったが(具体的にはリンゴのうさちゃんなど)あまり入り込みすぎると卓也の反感を買うことになるため、大人しく相槌を打った。
「……そう、なのか」
「親が仕事で最近家出るの早くて、仕方なくな」
それであのタコか。ノータッチノータッチと自分に言い聞かす。
「はあ、ところでなんの仕事?」
「サーカスの運営」
また予想外の答えだった。本日三度目の衝撃でまた石化し、箸を落としそうになったが、なんとか歯を食いしばり、持ちこたえた。ただ口はさっきと同じように開いたままだった。
「そんなにびっくりするなよ」
あの弁当の内容を見せられた上に彼の家庭事情まで知ってしまった。恐らく今月はこれ以上衝撃の事実はないと信じたい。
「友達の親がサーカスの運営やってるとか聞いたら、誰でも驚くから」
「元サーカス団員なんだよ、ついでに言うと叔父さんも」
「卓也もなるの?」
「考え中」
安定した収入はどこへ行った。無言の僕を尻目に弁当に入っている冷凍のタコ焼きを卓也が頬張る。マヨネーズから青海苔まで手が込んでいる。でも目まで作る事は無いだろう。お前の弁当はいつから動物園になったんだ。
「考えてるんだ」
「考えてるな」
「バンジージャンプの練習なら付き合うよ」
サーカスと聞いて僕はバンジージャンプが真っ先に浮かんだ、いつかは飛んでみたいと思っていた。あの高さから飛び降りるなど、人類の夢じゃないか。少なくとも僕はそう思う。自分がスカイツリーの頂上から飛び降りる場面を想像し、思わず顔がにやける。
「なににやけてんだよ、気持ち悪い」
弁当が動物園状態の男子高校生に言われたくない。
「スカイツリーバンジーとかいいなあって」
人がゴミのように見える高度六百三十四メートルから、風を切り、重力に身を任せる。考えただけでぞくぞくする。
「いや無理だろ」
僕の夢は彼の心ない一言で潰えた。
「バンジージャンプよりかは、ジャグリングとかやろうぜ」
卓也の追加の提案は、地味極まりないものだった。
「それで何が楽しいの」
「空き缶でジャグリングしながらゴミを捨てられる」
僕が休み時間にコーラを飲み干す。喉も潤い上機嫌だ。そこで僕は空き缶をジャグリングのごとく空中で回し、ゴミ箱に投げるシーンを想像した。とても奇妙だった。
「バンジーがいいです先生」
「やるなら場所を決めて、安全にな」
場所さえ整えば練習させてくれるということか、よし、今度までに探しておこう。無駄な話で盛り上がってしまったが、本題に入るのを忘れるところだった。
「ところでさ」
主夫への道を辿りつつある卓也に、僕は話題を一旦打ち切り、本題の要求に移る事にした。いいやつ日本代表になれそうな心温かい彼なら、なんとかしてくれる。彼はそんな国民的ネコ型ロボットの様な男だ。
「僕の隣の席のあの子、わかるか?」
卓也は彼女へと視線を送る。
「……あー、まあ、有名人だしな。いろいろな意味で」
いつの間にか十秒飯の粗食を終え、机にさっきまでのように伏せている彼女を卓也は箸で指し示した。
「そうそう、でさ、なんと僕、先週話しかけたんだよ」
少し得意げに僕は言う。
「いや、そんな得意げに言われてもな」
「僕はやればできる子だから」
「…で?それがどうした」
「シカトされました」
「……そりゃなあ」
あきれ顔で水筒から移したお茶を飲み最後に残ったプチトマトを卓也は口に運ぶ。(もちろんヘタはあらかじめ取ってある)というか、フォローの一つくらいしてくれてもいいだろう。
「まあ、仲良くなりたいわけですよ」
めげずに僕は続ける。
「いや、俺に言われても」
「親友だろ」
卓也は少しためらうように顔をしかめた。だがすぐに元の顔に戻った。
「……一年ちょっとの付き合いだろ」
親友に時間は関係ないと某海賊漫画で言っていたのに。なんとロマンが無いやつだ。だが、そんな卓也の表情は、どことなくさびしげに見えた。
「おはようで返事してくれない子とどうやって仲良くなれっていうんだ」
僕は口をとがらせて言った。
「それはもう諦めろよ、つかあいつの奇行は知ってるだろ?」
卓也はため息をついて憐れみの視線を僕に送る。訂正する。彼は冷たい人間だ。どうせ僕が暴虐の王のところに襲撃をかけて処刑されそうになっても、妹の結婚式の為に彼は身代わりになってくれないだろう。今まで楽しかったなどと簡単な台詞で別れを済まされるに決まっている。
「セリヌンティウスよ、貴様はそんな奴だったのか」
僕はセリヌンティウスではなく卓也に言った。
「お前メロスみたいにたくましくねえだろ」
「じゃあ僕はどうしたらいいんだ……」
わざとらしくため息を吐き、ちらちらと卓也を見る。
「……そもそも、なんでそんなにこだわるんだ?お前らしくない。しかも、あんな頭のおかしい女子なんかに」
卓也は弁当箱を鞄にしまい、お茶を片手に不機嫌そうに僕に抗議した。僕も考える。
どうすれば彼女は反応を示してくれるだろうということよりも、卓也の言い分の、何故僕はあの子にそんなにこだわっているのか、という事だ。もともと他人と関わっても、僕はロクな事にならないという思想なのに、卓也は例外として、何故こんなことを考え出したのか。しかもあの奇行だ。今のところ長所らしき長所は見当たらない。客観的に考えてもいい子だとは言えない。でも何故か、僕の中で、彼女を一人にしてはいけないという義務感のようなものが、湧いてきたのだ。それは何故?そんな自問自答が頭の中で繰り広げられた。
答えは出なかった。
「さあ」
仕方なく曖昧な返答をする。
「まあ、何にせよそれはお前の問題だろ?一人で頑張れ」
「だから、どうすれ――」
僕が言い終わる前に卓也は立ち上がった。
「そんなの自分で考えろ」
そう言って卓也は立ちながらお茶を飲み干し、水筒も鞄にしまった。そして僕には目もくれず図書室へ向かおうと、教室の出入り口に向かった。出入り口前では、うちのクラスの女子と、恐らく隣のクラスの、ショートカットの女子が、明らかに通行の邪魔になる場所で、雑談をしていた。しかも声がうるさいと来ている。いつからここは動物園になったんだ。動物園は卓也の弁当だけで十分だ。
「どけ、じゃま」
そう言ったのは、卓也だった。
「あ……ごめんなさい」
「いいから早くどけ」
卓也はさっきより少し声を大きくして、頭を少し下げる二人を威嚇するように言った。ポケットに手を突っ込んでいる上に、目つきも悪い。傍から見れば、脅迫のようにも見えるだろう。
女子は半泣きで卓也から後ずさり、入口から離れた。
「なにあの人、怖い」
「あいつ、いつもあんな感じだから。気にしなくていいよ」
女子二人の会話を皮切りに、教室の空気が殺伐とした。
また卓也のやつはやってしまった。彼はいつもこうだ。どんな他人に対しても気づかいや遠慮を知らない。僕自身、彼が自分と仲良くしてくれているのが不思議なくらいだ。出会った当初も、話しかけてきたのは卓也からだった。人の交わりと言うのは不思議なものだ。
僕自身も、何故か彼だけは、拒絶しようと思えなかった。
彼の遠慮しない物の言い方が、かえって僕には安心できた。相性がいいということだろう。
「相性……ねえ」
彼女と僕は、はたして相性はいいのだろうか。いや、まだ会話すら交わしてないのだが。
弁当と水筒を鞄にしまい、椅子を戻し自分の席に着く。隣で寝ている彼女を横目に、ただ腕を組み考える。卓也の言う通り、これは僕の問題だ。僕自身が必死で考え、結論を出さなければならない。昼休みが終わり授業を聞くふりをしながら、少ない脳みそをフル回転させる。僕の中にある脳細胞たちよ、働けと暗示をかける。
気がつくと野球部の掛け声が窓の外から聞こえてきた。夕日が僕をさびしく照らしている。一人で見るオレンジ色の空ほど切ないものは無い。黒板の上の時計に目を向けると、針は五時を示していた。隣の席を見るが、当然彼女もいない。僕の貴重な一日が考えるという行動のみで終わった。
翌日、また僕はいつものように席に着く。隣ではいつものように彼女が死んだように寝ている。結局夜通し考えたが何も出なかった。ネットの知恵袋にもロクな回答がなかった。
どうすれば彼女と繋がりが持てるのか、そう考えている間に始業のチャイムが鳴った。バーコード(先生)も教室へはいってくる。卓也は相変わらず本を読んでぼさっとしていた。
何も変わらない、いつもの教室だ。今日も同じ結果なのだろうか。今までどおりの日常で一日を終えるのだろうか。それも嫌だ。
けれど、一つ大きな心配があった。彼女が誰ともかかわらずに学校生活を送る恐れがある事だ。
僕といたら毎日が楽しいよ、などと保証出来るはずもない。僕は面白みの溢れる人間ではないし、普通の人間でもない。何か得意なことがあると言うわけでもない。これといった特徴すらない。いや、ないこともないのだが、あまり良い特徴ではない。むしろ短所の部類に入る。
それを全て把握したうえで、僕は彼女を放っておけなかった。
それを客観視すれば、不自然極まりないことだろう。けれど、僕自身の心は、それを自然な思考と受け止めた。それは親が子を守るのは当然だという感情に近い。こういう育てられかたでもしたのだろうか。記憶は曖昧だ。
とにかく僕は、彼女との何か、細くても、曖昧でも、繋がりが欲しい。そのためのきっかけを今日、作りだすんだ。
「はい、じゃあ先生のお友達から、沖縄のお土産のちんすこうを貰ったので、みなさんにおすそわけをします」
ホームルームに、バーコード(先生)がちんすこうの話をしている。ちんすこうか。名前が卑猥だと思うのは僕だけだろうか。僕以外の人間にちんすこうは卑猥ですかといったアンケートを取ってもらいたいものだ。
そんなくだらないことを考えているうちに、ちんすこうが配られる。みんな一個とってはプリントと同じ形式で後ろへと回す。隣の彼女もしぶしぶと体を起こし後ろに回していた。
「じゃあ、みなさん、いただきましょう」
バーコード(先生)がいただきますの号令をした後、すぐ食べる者もいれば、鞄にしまう者もいた。大体こんなぱさぱさのお菓子、お茶も無しに食べろなんて人としてどうなのだ。ご近所一の甘党の僕が抗議してやろうか。
そんな時だった。ちんすこうのパッケージを見ていると、僕の中で一つの最低な考えが浮かんだ。実行するかどうか、普通なら躊躇して当然のはずだった。いや、躊躇どころか、実行には移す愚か者はいないと断言できる。だが、僕の中に迷うという選択肢は存在しなかった。実質選択肢は一つだった。
隣の席に顔を向ける。そして、僕は言葉を紡ぐ。これで何かが、良い方向へと変われ。そんな願いをかけながら。これが何かの始まりだと思いたくて。
「ねえ、ちんすこうの『す』と『う』を除けて言ってみて」
言ってから気が付いた。これはセクハラだ。一応ずっと寝ているけど彼女は女の子だというのに。(証拠は見ていないが)僕の馬鹿野郎。
馬鹿野郎馬鹿野郎と、自責の念と格闘している時だった。彼女は昨日のおはようと言った後の冷たい目をした。そして口を開いた。
「自分で言えば?」
一週間聞く事の出来なかった彼女の声は、甲高くはなく、かと言って男のように野太い声ではなかった。
それはとても静かで、耳の中へ、心地よく溶けていくような、不思議な、子守唄の様だった。
そして彼女は、巻き戻し再生のように、机に顔を伏せる。
この場合、もう駄目だと感じるだろう。そして彼女に話しかけることは二度となくなるだろう。それが大半の人間の行動だ。それくらいは理解できる。
だけど僕は違った。彼女の声を聞いた時に湧いてきた感情。それがそのまま零れるように言葉として、僕の口から放たれた。
「やった、喋った!」
少し声が大きくなった。若干周囲の視線が刺さった気もするが、高揚感に包まれた僕に、恥は感じられなかった。そんなことよりも、彼女が喋ったのだ。僕に返事をしたのだ。それはつまり僕という存在を認めたということだ。
それが最高のことじゃ無いという人間がいるのなら、そいつの首根っこを掴んで幼児用プールに落として、子どもからの冷たい視線を向けさせてやりたいところだ。
今彼女は僕の方に顔を向けている。彼女の目は、昨日の汚いようなものを見るような目ではなかった。それはとても不思議なものを見ているようだった。だがその不思議な何かを、拒絶するわけでもない。そんな目だ。恐らく宇宙人と遭遇した人は、今の彼女の様な目をしているのではないだろうか。また言葉が口から水のように漏れ出す。
「いや、その君さ、ずっと寝てたから、喋ってくれないのかなって思って、んでこれくらいしたら喋るかなって、いや…まあ、うん、それだけ……です、はい」
頭がパニックになり、顔が熱くなる。思わず口が小さくなり、ぼそぼそとした声になってしまう。僕は駄目だ。肝心な時にいつもこうだ。今の僕をチキン野朗どころか鶏がら野朗と罵られても文句は言えない。
パニック状態のまま僕は彼女の顔をもう一度見た。笑いを堪えるように、口を押さえていた。明らかに頬は緩み、不機嫌な雰囲気は感じられなかった。無駄じゃ無かった。僕はそう思えた。
委員長のちんすこうのゴミをまとめて下さいの声は、今の僕の耳には入らなかった。
二日連続で僕は石化してしまった。
彼女の瞳の、死んだ魚のような濁りは、少しとれていたような気がした。
今日の空は、いつもより綺麗に見られそうだ。
このパートが、話としては一番長くなります。
楽しんでくれたら幸いです。
次は私パートです。




