『僕』6 僕の異常
朝、ベッドの上で僕は布団をかぶっていた。覚えている事は卓也にひたすら分かっている。分かっていると何度も言われた事だけだ。
そして今明確なのは、僕が今学校に行きたくないということだけだ。覚えている情報と、思っている自分の状況は以上だ。
そして、告げられた事実も頭の中にはある。僕は、学校に行ったあの日、クラスメイトに、大きなのゴミ箱を投げた、らしい。別に砲丸投げの練習をしていたわけじゃない、らしい。そして僕は、そのクラスメイトに向かってひどい暴言を吐いていた、らしい。
どちらにせよ、僕には自覚症状や記憶は一切ない。それが僕の抱えていた、『異常』だ。
だらだらと、何も考えずに、ベッドで今日一日を過ごすこと。それが今僕の出来る事だ。時計を見ると始業の時間はもうとっくに過ぎていた。別に今日休む僕が気にすることじゃない。
母には嘘偽りなく、学校に行きたくないとだけ告げた。母は何も言わずに学校へと連絡した。理解ある母親で助かった。
そんなことを思っている間に、メールの着信音が机の上の充電器に刺さっている携帯から聞こえた。もそもそと起き上がりながらメールを見る。差出人は卓也だった。
『来たくなったら来い』
何故彼は、僕に対してここまで理解があるのだろう。拒絶したり怖がったりしないのだろう。それが僕には分からなかった。
メールにありがとうとだけ打ち送信した。そして温かい布団をかぶり、目を閉じる。今だけはまた夢の世界に旅立ちたい。仮に夢を見られなかったとしても、今だけは、現実ではないどこかへと逃げ出したかった。
目を覚ます。長時間寝ていたらしく、頭がぼーっとしてうまく働かない。夢は見なかった。
布団から顔を上げる。いつもと変わらない部屋の風景があった。ただそこに例外があった。
「あ、起きた?」
僕の部屋には勉強机と椅子がある。だけど、そこにスケッチブックに何か絵を描いている女子高生を配置した記憶は無かった。
というかそこに座っていたのは、隣の席の毎度お馴染みの、彼女だった。
「……なんでいるの」
僕は反応の鈍い脳内から、そう質問を絞り出した。
「そこにあんたの家が」
「それはもういい」
僕は彼女の決め台詞を遮る。
「……なんで」
僕は同じ言葉を繰り返す。今の僕を、彼女に見せたくなかった。
『異常』を未だに持っていた僕を、見せたくなかった。
「暗くなる前には帰るから」
彼女は質問に答えず、淡々とそう述べた。彼女に帰れと拒絶してもよかったのに、僕は何も言えなかった。
布団の隙間から彼女を見る。スケッチブックに何かを描いている姿を見ていると、また彼女の絵を見たいと、思った。
「妹さんが通してくれてさ」
彼女は珍しくよく喋った。
「結構心配してたよ?」
嘘だ。妹が僕の心配をするはずがない。
「明日は学校来るの?」
行かない。だけど喋りたくないから無言でテレパシーを送るという事で対応した。
「まあ、来たくないなら無理に」
何しに来たんだこの子は。僕を引っ張り出しに来たわけでもなければ、何か僕に用事があるといった風には見えない。
ただ、話しかけながら、スケッチブックに絵を描き続けていた。
「今日はもう帰るね」
日も沈んで暗くなってきたのが布団をかぶっていてもわかる頃、彼女は椅子から立ち上がった。
「明日も来ていい?」
僕は何も言わなかった。
「ありがとう」
何も答えてないのに。相変わらず勝手な子だ。誰に似たんだ、全く。あ、僕か。それでも、不覚にもうれしいと感じていた自分がいた。
次の日も同じように彼女は訪れた。そしてぽつりぽつりと僕に話しかける。
話す内容は他愛も無い事だった。今日はクラスの子に初めておはようと言えたとか、卓也と話してみたら案外面白かったとか。長坂先生が来年くらいに結婚するかもとか、見た目の割に先生が実は三十代だということとか、そういった話を。まるで彼女が自分はこんなに社交的になったよ、と僕に伝えているようだった。
「私さ、自分の名前好きじゃないんだよね」
僕は好きだけどね。いつの間にか僕は頭の中で彼女に返事をしていた。
「明るすぎると思うし、ひらがなだけってのが、なんか」
なんかってなんだよ。僕の名前だって普通だよ。漢字一文字なのは結構気に入っていたりするけど。
「名字はまだいいんだけどね、控え目な感じが、結構気に入ってる」
君の名字は呼びやすいからね。僕はたまにしか呼ばないけど。
「あんたの名前は、結構好きだよ」
……始めて言われた言葉だった。
「なんか、あんたらしいと思う。どっか抜けてそうで、でも透き通ってそうな」
うるさいなあ。すかすか人間だって言いたいのか。
でも、その時間が終わってほしくなくて、まだ帰らないでほしい。そう心の中で、ずっと思っていた。
そして、彼女が暗くなり、部屋を出て行った後の、部屋の静けさが、嫌だった。
それから彼女は次の日も、次の日もスケッチブックに何かを描きながら僕に話しかけ続けた。僕は一言もしゃべらないのに。
彼女の目的が、僕には分からなかった。
「鶴の恩返しってどう思う?」
あの時覗かなかったら、いずれは毛が無いハゲた鶴を見る羽目になりそうだなって思う。
「恩返しなら、最初から何か持ってくればよかったのに」
何かとは?
「ほら、笠地蔵とかごんぎつねとかなら現物支給なのに」
そう言われてみれば、鶴の自己犠牲精神は敬意に値する。
「健気な生き物だよ」
「ねえ」
僕は約二週間ぶりに声を発した。それは自分が思っていた以上に乾いていて、彼女にきちんと届いたかどうかの自信が無かった。
何で喋ろうと思ったのかすら、動機は不明瞭だ。
「やっと喋った」
彼女が嬉しそうに言った。その言葉は、僕が彼女と初めて出会ったきっかけのものだった。
「で、何?」
僕はそう言った。
ききたい事は山ほどあると勝手に思い込んでいた。だけど、実質僕が本当にききたい事は、一つだけだった。
「何で来るの?」
それは最初に彼女にした質問と、同じものだった。
「そこにあんたの」
「そういうのは良いから」
彼女のいつもの決め台詞を強制終了させ、真面目な方向へと路線を変更する。彼女は決まりが悪そうに溜息を吐いた。
「謝られたんだよね」
彼女の主語が抜けた第一声には、もう慣れた。けれど、その言葉は予想できなかった。
「誰が?」
「私」
「誰に?」
「クラスの女子」
クラスの女子と聞き、考えを巡らせてみる。真っ先に浮かんだのが、僕がゴミ箱を投げつけた(らしい)女子生徒だった。
「もう悪口言いませんって」
……悪口?
「ちょっと待て、それが僕の家に来るのと何の関係が」
「あんたが怒ったんでしょ?」
沈黙が走る。
恐らく、僕の肝心な記憶が欠如した部分を彼女が持っている。それを断片的に言われたから、お互いよく分からない状態になっているのだ。
「どういう意味だ?」
「……あー、そっか」
何かを悟ったかのように彼女は言った。
「あの女子達、私が休んだ日に私の悪口言ってたらしいんだよ」
「……それが?」
「あんたがそれ聞いてぶち切れ」
その言葉でようやく分かった。僕の押さえていたと思った異常が再発症した理由が。
「……ごめん」
謝るべきだと判断し、謝罪の言葉を述べる。
「何が」
彼女は不思議そうに言った。
「いや……」
言葉に詰まる。けれど頭の中の言葉を絞り出した。
「僕さ、君に会う資格はもうないんだって思ったんだ」
「どうして」
相変わらず、彼女は感情を表に出さずに、そうきいた。
「普通の人間だって思ってたのが間違いだったから」
そう、僕は以前と変わらない異常者のままだった。
「……うん」
彼女は否定も肯定もせずに、僕の言い分を聞きいれた。僕は続ける。
「君に初めて会った時、君に関わらなきゃいけないって思ったんだ。君がずっと机に伏したままでいるのが嫌だったんだ」
何故なら、僕がそうだったから。僕もかつて、世界を拒絶して、他人を拒絶して、自分の存在を誰も受け入れてくれないと思ったから。そこから、卓也という友達もできて、症状も全然出てこなくなった。だから、僕は普通の人間だと考えられるようになった。
そう思えたから僕は彼女に話しかける事が、何かをしたいと決心できたのだ。
「それで僕が、君に何か出来る事は無いかなって探したんだ。それでも君に僕は何もできなくて、それで、あんなことしちゃって」
その『あんなこと』を僕自身が自覚できないのがとても腹立たしかった。
「つまりさ」
僕はまとめる。
「君に合わせる顔が無かったんだよ」
自分の中の『異常』に打ち勝っていない僕が、どうして君に何かしてあげられると思ったのか。そんな自分が嫌で嫌でたまらなかった。
「だから、もう来ないでほしい」
君に僕の顔を見られたくないから。
君が喋るたびに、僕は存在してはいけないんだという自責の念にかられるから。
「君の事なんか嫌いだよ」
と、大嘘を吐いた。
「……嘘吐き」
ぽつりと、彼女は自分の今の気持ちを告げる。窓に雨粒が当たる音が聞こえる。どうやら外は雨らしい。車が水たまりの上を走り抜ける音もした。
「十分だよ」
彼女は無感情に、スケッチブックに色鉛筆を走らせ続けた。その姿はとても綺麗だった。
でもそれは、天使や女神などと形容してはならない。誰の様でもなく、彼女として、彼女のまま美しかった。
「あのさ」
僕は言った。
「何?」
「僕さ」
僕は話すことにした。自分の普通ではない部分を。自分の過去を。
「中学生くらいのころに、クラスの友達……なのかな」
曖昧な部分は曖昧なまま伝える。嘘偽りなく事実を告げるよう努める。
「昔好きだった戦隊物を馬鹿にされたんだよ」
人から聞かされた、未だに疑わしい部分だけれど、僕はそのまま告げた。
「……それで?」
彼女が不快そうに僕に尋ねる。
「暴れた、らしいんだよ」
「馬鹿にされただけで?」
「うん……らしい」
彼女は、言葉の後につけている『らしい』に何一つ意見せずに、僕の話を静かに聞いていた。
「当然先生が事情を僕にきいた。そしたら僕はこう言ったんだ。何の話をしているんですかって。僕は、自分がしたことを何一つ覚えていなかったんだ」
自分が机を投げ飛ばして、クラスメイトに怪我を負わせた事も。その上ほうきで何度も何度も、頭を殴りつけた事も。
全ての事実が、記憶から消えていた。いや、無意識の僕が消していた。
「解離性同一障害って、診断された」
それが僕の抱える異常の正体だった。
「……へー」
彼女は無関心にそう言った。
「長いのね、名前」
「それだけかよ」
僕の症状や過去にではなく、病名に対してだけの意見だった。思わず拍子抜けしてしまう。
「ほんとは転校させられて、特別学級に入れられるところだったんだ。だけど、投薬治療とカウンセリングを繰り返して、どうにか抑えられたから、クラス替えだけで済んだ」
「それがなんでまた、今更になって?」
それには僕も真っ先に疑問を持っていた。そして、答えもすぐに出ていた。
「抑えたわけじゃない。ただ、使う必要が無くなってたんだよ。その、暴れる無意識の、もう一人の自分をね」
「……それは、今まで使ってなかっただけってこと?」
「そういうことになる」
どうして使わずに済んだか。それも分かり切っている。簡単な事だ。
「自分の事を、全部、他人事として、聞いてたんだ。現実から逃げだすことで、僕は自分を押さえていたんだ」
自分が批難されようが、叱られようが、罵倒されようが、冷たくされようが、それを他人事として処理してしまえば、暴れる必要も無くなる。そう、僕は割り切る力を手に入れただけなのだ。
「……」
彼女はそこまで聞くと、しばらく黙りこんだ。
何かを考え込んでいるのか、それとも何も考えていないのか。彼女の心が分からない。彼女は何を思っているんだ。こんな僕のどうでもいい過去なんかを聞いて、どんな印象を受けているんだ。
ふとんの温かさに逃げている僕に、それを知る術はどこにもなかった。窓にあたる雨粒の音と、彼女の座る椅子が軋む音だけが聞こえた。
「大変だったんだね」
最初に言われたのは、ねぎらいの言葉だった。
「……それほどでも」
あったな。正直、並大抵の苦労ではなかった。おかげで子どもの頃のクラスメイトの顔も覚えていない。どんな人と関わって、どんなことをしてきたのか、そういった類の記憶がほとんど消滅していた。どこから覚えているのかも、それを考えるだけで負担になるから、何も考えなかった。
「どうして、そんな病気が急に?」
彼女は僕にきいた。僕は最有力の説を言う事にした。
「多分、父さんが死んだ事だと思う」
しばらく間が開いてから、僕は言葉を続けた。
「僕、父さんが大好きだったらしいんだよ。これもらしいなんだけどね。覚えていないんだよ、そんなことも」
曖昧な自分が段々と嫌になってくる。その怒りをぶつけるように、言葉がどんどん速くなっていった。
「中学に入学してすぐくらい、電車の事故で父さんが死んだ」
「中学?」
彼女は驚いたように言った。
「それがどうかした?」
「……ううん、なんでもない」
ふとんの温もりに包まれたまま、僕は続けた。
「当然僕は葬式に出た。すると僕は、父さんの遺影を叩き割ったらしいんだよ。何か訳の分からない事を叫びながら。それから、アルバムの父さんの顔を見ても、他人としか解釈できないようになったんだ。それからすぐに、教室で事件を起こした。おしまい」
僕はそう話題を打ち切った。これで、僕の抱えている話は、全て終わりだ。
「……へー」
相変わらず無関心な相槌しか打たない。本当に聞いているのかこの子は。
そこから僕は、まだ話してない事を思い出した。これも話しておかなければいいけないことのような気がした。
「なんでさ、今更また出たのか、考えたんだよ」
「うん」
結論は、ついさっき出ていた。
「君の事となるとさ、全部現実のものって、嫌でも受けとめちゃうんだよ。他人事として、割り切れない」
そう。彼女は僕にとって、他人事のように扱えず、全て自分の事と同じように、受けとめてしまう存在になっていた。
「僕さ、多分君の為なら死ねるんだよ」
「気持ち悪い事言わないで」
彼女の足が僕の布団の上にのしかかる、言ってから自分の言った台詞に赤面する。どこの映画の台詞だよ。
「私さ、嬉しかったよ」
彼女の態度が変わり、声も少し明るくなった。
「何が?」
僕の問いかけに彼女はしばらく何も答えなかった。そして僕の机のノートを投げつけた。
「……好きとか言ったくせに」
引きこもってからすっかり忘れていた。僕は彼女に告白していた。
「いやあのそれは」
とりあえず言い訳の言葉を脳内から検索するが、該当する言葉は存在しなかった。
「もういいよ」
彼女はため息を吐いた。それはまるで、子どもがあたふたしているのを見て、ため息を吐く母親のように。
「言われた事無かったから」
彼女は気恥しそうにそう言った。
「へえ、以外」
「何で」
「顔は可愛い」
「黙れ」
鉛筆らしき細い棒が、布団に投げつけられた。今彼女はどんな顔をしているんだろう。
「まあ、付き合うとか、そういうのはちょっと」
彼女が椅子から立ち上がる音がした。何かを破る音と、ぴりぴりという、どこかできいた事があるような音が耳に微かに届いた。
「でも、ありがと」
その言葉は、拒絶の意ではなかった。けれど、その言葉は、悲しかった。失恋とは、いつの時代も切ないものだ。
彼女はそれっきり何も言わず、黙々と何か作業をしているようだった。数十分後、部屋のドアが開く音がした。
「あとさ」
彼女の声が少し離れた位置から聞こえた。
「何?」
「あんたは、あんたのままでいいよ」
その言葉は、ドラマや漫画で何度も多用されてきた台詞だろう。それでも、彼女のその言葉で、僕の中の何かが救われ、許されたような気がした。
「あんたのこと、別に嫌いじゃないから」
同時に、僕の部屋のドアはゆっくりと閉じられた音がした。
嫌いじゃ無い。その言葉は、僕の存在は、彼女に認められたという事なのだろうか。
上昇した顔の熱が更に上がっていく。何かにしがみつかないと、叫び出しそうで、布団にしがみついた。
そういえば、彼女のスケッチブックの絵を見損ねてしまった。どうせなら見とけばよかった。
布団からもぞもぞと、這い、脱出を試みる。そして、自分の顔と体を完全に布団から出し、床に敷いたカーペットに頭から降りて、そのまま寝転んだ。
部屋の北にある壁には。カレンダーと黒い時計がかかっている以外、何も無いはずだった。だが、そこには、最初からそこにあったように巨大な絵画があった。草原の中に一本の木が、大きくそびえ立っていた。風そよぐ感触や、草がなびく音、鳥の鳴き声が全身の五感に伝わってきそうだった。
横になったまま、頭と体が固まってしまう。
僕の目は、貼り着いたように、絵から離れる事ができない。見惚れていた。僕は純粋にこの絵に心を奪われてしまった。
胸がドキドキして、自分がさっきまで感じていた心の重しが、全て取り払われた気分になった。それほど、彼女の絵は魅力的だった。
床から体を起こす。重いと思っていた体は、いとも簡単に動いた。
立ち上がり、間近でその絵を見ると、それは巨大な一枚の絵ではなかった。
二十枚のスケッチブックの紙をジグソーパズルのように貼り合わせ、大きな絵画を完成させていた。
以前、テレビでやっていたCMを思い出した。小学生が一心不乱に紙を黒く塗りつぶし、精神を病んでいると勘違いされ、精神病院に入院させられてしまうというもの。だがそれは精神を病んでいたわけでなく、小学生は体育館一面くらいの大きさのクジラを描いたものだというオチだった。あのCMはあまりの不気味さに、放送禁止になってしまったが。
そこからは何も言葉は出ずに、ただ緩んだ涙腺から、涙が一筋、ポロリとこぼれた。
良い眺めだ、そう思った。
夕日が僕の部屋全体を、オレンジ色に照らし、彼女が置いて行ったであろう、絵本も夕日に染まった。表紙では、おじいさんとおばあさんが、飛んでいく鶴を、安らかな顔で見送っていた。




