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鐘の音が聞こえる  作者: ろくなみ
11/35

夏休みと深夜投稿

夏休みの宿題は、高校時代終わらしたことがなかったです

『僕』4 夏休みと深夜登校


 夏休みという単語ほど、人の心を揺さぶるものは無いだろう。小学生はもちろんの事、中学生や高校生も同じウキウキ感は変わらないはずだ(もっとも受験生の三年生は例外だろうが)

 ただ僕の場合は違う。人は土日に対しても夏休みと同じようにウキウキできるかとアンケートをとれば、大半は否定派になる。そう、つまり僕にとっては夏休みは長い土日があるだけにすぎない。そんな長期休暇に僕という人間は、家でゲームや漫画や小説を読みふける運命でしかないのだ。

 その上、いつもなら僕は今日も一人のはずだった。強いて言えば昨日も一昨日も一人のはずだった。

 僕の座っているベッドの右横数十センチ先で、彼女はベッドに寝そべっていた。もちろん悲しい事にガールフレンドという意味じゃ無く、英語でいうシーの意味だ。

「エロ本どこ?」

 彼女は百巻以上出ている長期連載の日常系警察官漫画を読みながら僕に言った。

「ありません」

 ちなみに昨日も一昨日も同じことをきかれている。

「つまらん家」

「じゃあ帰れよ」

 もちろん本当は帰ってほしくない。当たり前だ。

 どうしてこの様な状態になったかというと、夏休みが始まって三日後のことである。


 家で家族共有のパソコンを妹に強奪されてから暇を持て余していた僕は、卓也の家でくつろいでいた。

 彼の家でやれることと言っても、ジャグリングの練習か、マジックの練習かゲームの三択になる。ちなみに彼のこの手の技術は、情人なら呆然としてしまう程の領域に達している。三角コーン四つを使ってジャグリングができる人間を、僕は彼しか知らない。恐らく日常生活で役に立つ日は来ないだろうけど。

 そんな彼の家で、僕もジャグリングの練習をしている時だった。

「あ、俺明日から八月終わりくらいまで叔父さん家行ってるから」

「………え?」

 僕はようやく回転しだしていたジャグリング練習用のゴムボールをぽろぽろと落とした。

 八月の終わりくらいまでとは、それは夏休みの終わりくらいまで彼と遊べないというわけだ。言い換えれば、数少ない僕の遊び相手を、夏休み中失うということだ。

 まあ一人で過ごす休日など手慣れている。卓也の家に行っても、ジャグリングか格闘ゲームくらいしかすることがない。以前にオセロなどのボードゲームに手を出したが何度やっても僕が勝利することはなかったため、全て指定の黄色のゴミ袋に全てつっ込んでおいた。もちろんばれて弁償した。

 というわけで僕は翌日から部屋でだらだらして過ごそうと考えていた。そんな卓也宅からの帰宅中、家の近くのコンビニでイチゴオレを買おうと思い、自転車を止め、立ち寄った。

イチゴオレを発明した人はノーベル賞を取ってもいいはずだ。世界は何をやっている。

 店員の気の抜けた「らっしゃ~せ~」という挨拶を背中に乳製品のコーナーに向かうはずだった。店内に入って右を向く。当然そこは雑誌コーナーだ。もちろんそこに人がいて、立ち読みをしていても不自然な事は何もない。店側からしたら迷惑極まりないだろうが。

「………」

 仮にそこに、花柄のボーダーシャツにハーフパンツというシンプルだがとてもかわいらしい格好をした女子高生が、週間の少年誌を読んでいて笑いを堪えていたとしても、なんら不自然なことなど無いのだ。というか、隣の席の彼女だった。

「あ」

 僕の視線に気が付いたのか、少年誌を開いたまま彼女は視線をこっちに向けた。

「ども」

 礼儀として頭を下げておく。彼女も条件反射かぺこりと頭を下げた。

「なに読んでたの?」

 彼女の手にある漫画雑誌を指さしてきく。彼女が言ったタイトルは、万能の巡査長が葛飾で毎週大騒動を起こす国民的漫画だった。

「それ、家に全巻あるよ」

 僕がその言葉を発した十分後には、彼女はすでに冷房の利いた僕のベッドで漫画を読みふけっていた。

「なんであるの」

 読みながら彼女はきく。

「死んだ父さんの」

 一瞬の沈黙が走ったが、彼女は何事もなかったかのようにふ~んと受け流した。父さんに関しては記憶が曖昧だから、あまり気にしなくてもいいのに。

 その翌日だった。僕が部屋で惰眠をむさぼっている間にインターホンの音が微かに聞こえた。思考がぼんやりとする中、タンクトップにトランクス、おまけに寝癖もばっちりな格好で玄関に出た。

「うぃっす」

 そこにいたのは彼女だった。時刻は一時過ぎ。僕はとりあえず彼女を部屋に入れる事にした。

 その翌日もインターホンが鳴る。

「たのもー」

 案の定また彼女だった。というかほぼ毎日だった。

「やっぱ面白いよねこれ」

 その日も自宅の如く僕の部屋に押し入り、だらだらと寝転がり、漫画を読みながら彼女は言った。

「そうだね」

 と椅子に腰かけた僕は返す。

 窓から、厳しく照らす明るい夏の日差しが差し込んでいた。その日差しが照らすこの僕の部屋という空間は、なんとなく、優しく穏やかな空気で満ちていた。セミの声もどこか遠くの世界から聞こえてくるようだ。

「おなか減ったね」

 彼女は漫画から顔を上げ、唐突にそう言った。声はいつも通り淡白で、無表情なのは変わらない。その言葉につられ、僕はベッドの向かい側の黒い壁かけ時計を見る。時刻は午後一時を回っている。ランチタイムにしては、少し遅いくらいだ。

「君、今日は食べてこなかったの?」

「うん、めんどくさいし」

 人の三大欲求の一つを、めんどくさいという動機だけで彼女は拒否した。まあ昼食くらい抜いたところで、特に生きる上で支障はないが。

「……なんか食べる?」

 空腹を無言で訴え続ける彼女の要望に応える事にした。かのトーマス・エジソンも、一日三食を提言したのだ。偉人の言葉に従って損はないだろう。

「え、いいの?」

 遠慮の言葉を吐きながら、その顔には、食欲という欲望の色で輝く瞳が二つあった。

「いいよ」

 断る理由もない。今日は妹もどこかへ出かけているようだし、キッチンに降りて何か簡単な物でも作る事にしよう。

 僕はベッドからゆっくりと腰を上げた。

「下、行くよ」

 僕がそう言うと、機械のように冷たいかった彼女の表情は、また柔らかくなっていた。

 けれどもその表情は、すぐに陰りを帯びた。顔を下に向け、切りそろえた前髪が瞳を隠した。

「どしたの」

 僕がそう声をかけると、慌てて彼女は顔を上げた。

「いや、別に」

 二人でぶつからないよう階段を降り、降り切ったところの廊下を進み、リビングへと入った。

「あつっ」

 後ろの彼女が言う。部屋は相変わらず小ざっぱりとしていて、大きめなソファと、ガラステーブル、そして液晶のテレビが置かれていた。カーテンはこっちも全開で、夏の日差しがさんさんと窓越しに降り注ぐ。僕の部屋はクーラーという現代の科学文明が生み出した宝が、冷たい風で冷やしている。だがリビングには誰もおらず、当然クーラーも消してある。

「今クーラー点けるから、待ってて」

 彼女は僕が言いきる前に、ソファへとダイブしていた。顔をうずめ、死んだように静止した。

「あー、ひんやりしてる、ちべたい」

 静止の次は、子どものようにごろごろと転がり出した。整えられたセミロングの髪がぐしゃぐしゃに乱れていった。

 クーラーは静かに音を立てながら、ゆっくりと部屋を冷やしていく。

「……ぬるくなった」

 彼女はそこで転がるのをやめ、また静止した。僕は呆れながら、乱れた彼女の後頭部を見つめた。

「何か飲む?」

 間を持たせるためそう提案した。

「なにがある?」

 僕は台所へ向かい、冷蔵庫を開けた。すぐ右にある棚の飲み物を一個ずつ読み上げる事にした。

「麦茶、牛乳、レモンティー、やさ――」

「レモンティー」

 僕が野菜ジュースと言う前に、彼女は間髪いれずにそう答えた。まあ、レモンティーなら仕方がない。僕はパックのレモンティを開け、食器棚から取り出した透明のグラスに注いだ。

「どうぞ」

 注いだレモンティーを、ウェイターのように差し出す。

「うむ、ごくろう」

 彼女は貴族がワインを飲むように、レモンティーを優雅に味わった。ここをあたかも自分の家のように扱っているようだ。

「な、なんだこれは」

 何故か料理漫画のようなリアクションをしだした。

「レモンティーですお客様」

 とりあえず小さく腰を曲げ、丁寧に対応した。

「シェフを呼べ」

 僕は彼女のボケを受け流し、自分用のレモンティーも彼女と同じ形のグラスに注いだ。いつもよりおふざけモードの彼女を見ていると、心がじんわりと温かくなっていった。別に夏のせいじゃない。

「で、昼ごはんなにが良い?」

 僕はレモンティーをテーブルに置き、ソファに腰かけた。普段学校では十秒飯ばかり食べている彼女の好みなど、わかるはずがない。ここでゼリーとか言われたら困るけれど。

「なにが作れるの?」

「うーん、チャーハンとか、親子丼とか、簡単なのなら」

 僕自身、料理は結構好きな方で、お菓子作りとかも、休日にはよくしたものだ。

「チャーハン!」

 彼女の声のボリュームが、一桁から二桁くらいになった。

「好きなの?」

「好き!」

 勢いで彼女は前のめりになった。

「よし、作ろうか」

 少し得意げに、僕は言った。台所に立ち、コンロの上に大きめのフライパンを置く。

コンロのつまみを回し、強火にする。我が家にはオール電化などという、洒落たほどこしはされていない。ガスコンロだ。フライパンを火で温めている間に、冷蔵庫の野菜室から白ネギを一本取り出した。次に冷凍庫から冷凍のごはんを取り出し、冷蔵室から卵を一つ取りだした。

ご飯をレンジで解凍するために、振り返った。キッチンでは、彼女が得意気にまな板を取り出し、包丁をセッティングしていた。

「待っててって言ったのに」

「……手伝わしてよ」

 彼女は、唇をぎゅっと噛みしめた。何かを我慢するように、気づかいを見せる。いや、決意のようにも見える。どちらにしよ、迷いと決意が同居する、奇妙な表情を見せた。

「君、できるの?」

 心配になってきいてみた。

「………できるよ」

 少し間が空いたのが気になったが、彼女は既に包丁を手に取っている。ふむ、自信はあるみたいだ。

「じゃ、適当に五センチくらいざくざくと」

 観念して僕はそう彼女にお願いした。

「……うん」

 先ほどの、奇妙な表情から一切変化はなく、寧ろ悪化しているようにも見えた。ネギをまな板に乗せ、包丁を近づける。そのまま刻み始めるのかと思った。包丁は、ネギにあたる数センチ手前で、ぴたりと制止していた。

「どうした?」

 彼女は答えない。ただ、虚ろに包丁とネギを見つめていた。彼女の意識はまるでそこにはないようで、遠くへ行ってしまったようだった。

「おい」

 反応のない彼女に、もう一度声をかける。その瞬間、彼女の意識は辺境の地から我が家の台所へと戻って来たようだ。目を見開いて、僕を見る。

「……あ」

 魂が抜けていたように、朦朧としていた。

「おい、大丈夫?」

 彼女の様子がいつもと異なる事に、少し不安を覚えた。どうしたらいいか分からず、僕の頭も制止する。手に持った冷凍のご飯が重く、冷たく感じた。冷たさは、手に刺すような痛みへと変換され、静かに右手の痛覚へ襲いかかってきた。

「あの……ごめん、やっぱ待ってるね」

 彼女は僕に目を合わすことなく、また早口で、弁解するようにそう言った。そしてそのままリビングへと小走りで戻る。バフンとソファに飛び込む音が聞こえた。

「テレビつけていい?」

 ソファに顔を押し付けているのか、こもった声だった。

「いいよ、適当に」

 そう言うと数秒後、テレビから大きな笑い声が聞こえた。適当なバラエティを点けたらしい。チャンネルを変えることなく、音はそのまま流れ続けた。心なしか音量がいつもより大きい気がした。

 

「出来たぞ」

 湯気が立つ出来たてのチャーハンを入れた二つの皿をお盆に乗せ、リビングに向かった。ネギや卵が焼けた香りが、部屋中に広がる。テレビの音が、冷房の音と混ざってうるさく響く中、彼女はソファに顔を伏せたままだった。

「どうした?」

 そうきいてから、お盆をテーブルに置き、皿を並べた。蓮華もお互いの皿のところに添えた。

「……別に」

 彼女は体を起こさないままそう答える。どうやら追求するのも無駄なようだ。

「食べよう」

 その言葉を合図に、彼女はもそもそと体を起こした。目はとろんとしていて、少し赤くなっていた。彼女に置いていた蓮華を渡す。

 僕は手を合わせた。彼女も一緒に合掌した。

「いただきます」

「いただきます」

 僕等は言った。

「……お茶どこ」

 ……この子は、どんなときにも自分のペースを忘れないのか。

 お茶をグラスに注ぎ、二人分置く。彼女は蓮華をゆっくり口に運び、チャーハンを食べる。チャーハンは黄金色に輝いていて、ごま油も程良く馴染んでいる。具材はネギとにんにくのみとシンプルにしたため、二つの香りが混ざりあい、絶妙なかぐわしさを堪能させてくれた。僕自身、ここまで昇り詰めるのに一年は要した。チャーハンはただ、パラパラさせるだけではなく、ほどよくしっとり、そして味わい深い香ばしさも必要なのだ。

「どう?」

 もそもそと小動物のように粗食する彼女にきいた。

「……美味しい」

 彼女の表情が、とても穏やかなものになった気がした。二口、三口と、チャーハンを自分の口へと運ぶ。ペースも心なしか速くなってきたようだ。

「あんた、こんなの作れるんだ」

 感心したように、彼女は言った。

「僕の唯一の特技だ」

 チャーハンづくりが得意と言うのも、また地味なものだが。彼女が美味しそうにチャーハンを頬張る姿を見ていると、なんだかとても報われた気分になった。僕も蓮華を手にとり、チャーハンを口へ運んだ。具材の香ばしさが鼻腔をくすぐる。口の中に入れ、一口一口噛みしめる。しっとりとした味が、口いっぱいに広がる。我ながらとんでもないものを作り上げてしまったかもしれない。

「なんであんたが一番美味しそうに食べるの」

 馬鹿にするように彼女は言った。

「いやまあ、美味しいし」

 感情に正直になるのはいいことのはずだ。

「……自分で言ったらダメでしょ」

 彼女は呆れ気味にチャーハンをまた口へと運んだ。小さく鳴る食器の音と、テレビの声が交じりあう。リビングに来てもやはり音量が大きな気がする。リモコンを手にとり、音量を下げた。

「あ、ごめん。大きかった?」

 彼女は慌てて僕に言った。

「いや、別にいいよ」

 テレビの音量で何かを書き消したいというのは、わかっていた。

 食事を再開した時、彼女はぽつりと言った。

「なにもきかないんだ」

「スリーサイズは?」

 以前から気になっていた事を、ラッキーと思いながらきいた。

「死ね」

 質問はないかときかれたからきいただけなのに。理不尽極まりない。

「まあ、別にいいけど」

 彼女はふてくされたようにチャーハンに意識を戻した。彼女の赤い目の腫れが、やけに気になった。

 数分後、お互いチャーハンを完食して、食器を台所へと片付けた。

「食器洗おうか?」

 また彼女が気づかってきた。まるでいたずらを反省する子どものように見えた。

「いいよ、無理しなくて」

 僕がそう断ると、彼女はふてくされた様に部屋を出て行った。階段を昇る音が聞こえてくる。恐らくまた部屋で漫画を熟読するつもりだろう。まあ、平和でいい。それに彼女らしい。

 というか、部屋を結構自由に練り歩かれているが、これは信頼関係なのだろうか。だとしたら不思議な信頼関係もあるものだ。

 食器洗いも終盤に差し掛かり、ふきんで食器の水気を取ろうとした途端、玄関の扉が開く音が聞こえた。ただいまを言わないという事は、妹だろう。足早に廊下を走る音も聞こえる。そのままリビングへと駆け込んできた。ラケットを床に置く音も聞こえた。僕は気にせず作業を続けた。

「……靴、誰の?」

 妹は台所に入ってくることなく、僕にそうきいた。泡を水で漱ぎながら、僕は答える。

「友達」

 誰かは言わなかった。小さな不安から、背中のあたりがぞくぞくする。

「……卓也さん?」

 名指しで誰か予想してきた。靴のサイズで分からなかったのだろうか。

「いや、違うよ」

 そう言えば、妹は何故かやけに卓也の事を親しげに呼ぶ。あまりあいつを家に呼んだ記憶はないのだが。

「……あっそ」

 妹はそう言うと、リビングを後にした。玄関の扉の開く音がまた聞こえ、自転車のストッパーを外す音も続いて聞こえた。僕の両手は、水道の水に長時間あてていた事で、すっかりふやけてしまっていた。

 それから間もなくして、彼女がまた台所へと降りてきた。

「誰?」

 僕はふきんを手にとり、漱ぎ終わった食器を拭き始めた。

「妹だよ」

「あ、いたの」

「うん、いたよ」

 僕は出来る限り笑顔を取り繕うよう努力した。彼女は怪訝な顔をした。

「あんたの笑顔きもい」

「努力くらい認めてくれよ」

 彼女はそれ以降、僕と妹の関係を言及することはなかった。



 チャーハンを食べたその翌日も翌日も、彼女は僕の家に来た。あの日以降も、妹に「誰よあの女」とどやされる事もなく、健全な夏休みライフをお互いが漫画を熟読するという形で過ごした。

「大体、こんな基本一話完結の漫画を何年も連載続けることなんてなかなか出来ることじゃないと思うの」

 何を思ったか彼女が急に熱弁しだした。

「ネタが被ってる事もそりゃあるよ?それでも読者側が面白いと思い続けられる作品を作るってすごいと思わない?」

 子どもがこの間テレビで好きな電車について話していたのを思い出した。あの子どものテンションの高さは、視聴者全ての記憶にこびりついただろう。

「君だって絵が描けるじゃん」

「あれは違うでしょ」

 もともと彼女の作品は漫画やアニメのような現代チックなものとは少しばかりかけ離れたものだったのを思い出す。そういえば、彼女の絵を夏休み前の部活の見学以降、まだ一度も目にしていない。

「部活はないの?夏休み」

「気が乗らない」

 三度の飯より睡眠と絵を描く事が好きな彼女にしては珍しい。まあ毎日毎日描きたいと思う事の方がおかしいのか。僕は納得し、手元の漫画に視線を戻した。

「暑いから行くのだるいし」

 明らかにそちらが本命だった。

「美術室にクーラーは?」

「行くまでが暑い」

 うんざりとそう彼女は言う。振り返って後ろの窓から外を見る。照りつける太陽と、窓から遮断されている騒がしく鳴き喚く蝉の声が微かに聞こえる。陽炎までもがゆらゆらと道路の上を揺らいでいる気がした。

「まあ、確かにそれには同意するけど、なんで僕の家には来るの?」

 こんなことを言って「じゃあもう来ない」などと言われれば、恐らく僕の喉はイチゴヨーグルト以外をしばらく通さなくなるだろう。現に彼女が日課のように僕の家に来ている日常は、とてもかけがえのないものになっている。

つまりこれは、いつもの僕の思いつきだ。いい加減な思いつきで発言する癖だけは治したい。無理な話だが。

「だって学校より近いし」

 理由と言えば理由だが、どっちにしろ僕の家に来るのであれば灼熱のアスファルトの道路を渡る事に変わりはない。

「それに漫画あるし」

 またもう一つの本音が出た。

「家は漫画喫茶じゃないんですけど」

「レモンティーはまだか」

「もう出ません」

 ご注文の品が出ないと分かると、彼女は舌打ちして読書(漫画)を再開する。このままでは彼女が僕の家の座敷わらしと化してしまう。もし本当になったらと想像した。

想像するだけでいい事づくめだった。赤毛のアンもびっくりだ。

冗談は置いておき、また僕はまた思いつきで提案する。

「明日学校行こう」

「……えー」

 とても面倒くさそうだった。お使いを頼まれた小学生の嫌悪感を二割増しほどしたら今の彼女の表情になる。

「暑いし」

 それはさっきも聞いた。

「じゃあさあ」

 暑いならば、僕がそれを見越した上での提案をしたならどうなる。

「夜に行こう」


 只今の時刻は午前一時十五分。場所は我が家の前にある通学路のど真ん中。前方数メートル先にはジャージにTシャツとラフな格好の彼女が両手を広げ、くるくるとやじろべえのごとく回っている。

「車全然走ってない!」

 彼女の言う通り、道路には車一台ネコ一匹いなかった。静寂に包まれた、アスファルトのファッションステージだ。

「あんまり大きな声出さないように」

 彼女は僕の言葉に耳を貸さず、まだくるくると回り続けていた。酔って吐かれても困るのだが。エチケット袋を持ってくるべきだったかもしれない。

「というか、本当に出てきてよかったのか?」

 いくらこの子と言えども、こんな遅い時間の外出は、あまり褒められたものではない気がする。

「いいのいいの」

 能天気に彼女は返す。

「別に怒られないし」

 本人からしたら放任主義の自分の家を自慢したつもりなのだろうが、なんとなくその言葉の裏に、冷たい表情がうかがえた。彼女の背中が、遠くなるにつれて小さくなっていく。慌てて僕は追いかけた。

僕が、深夜徘徊計画を持ちだしたとき、彼女が乗ってきたのには正直驚いた。その時の彼女の目の輝きは忘れられない。ただ時間指定を深夜一時にしたのは、彼女だった。

「ところで何でこんな時間?僕は夜の八時くらいのつもりだったんだけど」

 八時も少し遅い気がするけれど。塾に追われる現代っ子などにしてみれば、活動時間真っ只中なのかもしれない。

「だってこんな時間に出ようなんて誰も思わないじゃん」

 当たり前のように彼女はそう言う。

「それはそうだ」

 僕は同意した。

「だからよ」

 ……ああ、納得した。普段しないような事、つまりは非日常を彼女は楽しみたかったのだ。

そしてそれは、独りでは意味がないのだろう。誰かと、非日常を分け合いたかったのだ。決め付けは良くない気がするが、なんとなく確信が持てた。

「どこまで行く?学校?」

 僕の先を上機嫌に進む彼女にきく。

「うん!」

 普段の彼女ならあり得ないほどの、大きな声だった。相当機嫌はよさそうだ。今なら願い事の一つくらい叶えてくれそうだ。

「文化祭に絵は出すの?」

 夜の通学路を歩きながら、僕は彼女にきいた。

「一応、今は気が乗らない」

「気分で変わるもんなの?」

「変わる変わる、気が乗らなかったら筆持つだけでもう嫌になっちゃう」

「で、今は駄目と」

「うん、長坂先生いないし」

「え、そうなの?」

 彼女は頷く。

「何でも婚約者の家にごあいさつとか」

 長坂先生の薬指の指輪を思い出す。あれは婚約指輪だったのか。てっきりもう結婚しているものかと思っていた。

「いつ戻ってくるの?」

「あー、どうだろ」

 どうしてそう肝心な事を知らないんだ。

「静かだね」

 絵の話題から話を反らし、彼女は道路の両脇に、パズルの様に並ぶ田んぼを眺めた。稲が夜の風になびいてざわざわと響いている。その音は決して騒がしいものではなく、かえってその場所の静けさを引きたてた。

「だね」

 僕も同意する。田んぼの道を越え、住宅が立ち並ぶ道へ出た。見通しが少し悪くなる。道路を照らす電灯が、一つ一つ貴重な道標だった。

「君にとって絵ってなに?」

 道中、テレビのドキュメンタリーのように質問をしてみた。

「どうしたの、突然」

「なんとなく気になって」

 本当なら、旧校舎の一人肝試しの詳細をききたいところだけれど。そこにはもう踏み入らないと心に誓いを立てたのだ。

「うーん、なんだろ、自己表現……ってのもなんか硬いしな」

 彼女は悩んだ末に、こう言った。

「オナニー?」

「こらこら」

 年頃の女の子がなんて言葉を使うんだ。

「だってそうとしか言いようないんだよね、自分の溜まってたもの発散するというか」

 まあ、それならその表現も間違ってはないかもしれないが。彼女の表情からは羞恥心は伺えない。女子高生としてのプライドもなさそうだ。

「蒸し暑いもんは蒸し暑いね」

 話題を打ち切り、小さな手で顔をぱたぱたとあおぎながら彼女は言った。

「夜でも夏だしな」

「じゃあ夜は砂漠も暑いの?」

「砂漠は逆に寒いんだよ」

「え、そうなの?」

 テレビでの受け売りの知識を披露してみた。

「砂漠では昼間に熱を砂が吸収して、夜にそれが放出されるから逆に寒くなるらしいよ?」

 知識の方はうろ覚えだが得意げにそう言ってみた。彼女は不快そうなまだ顔あおいでいる。

「じゃあどっちにしろ快適な時間は無いんだ」

「まあそうなるね」

 砂漠に快適もなにもないだろうが、とりあえず肯定する。

「決めた、私一生砂漠には行かない」

 謎の決心を固めていた。

 話しているうちに学校に到着した。彼女と僕は大きな校門の横にある、鍵の開いた狭い入口から中へと入る。いつも思うが、いくら田舎だからといって学びの場の警備の管理が杜撰とはどういう了見だろう。

「校門乗り越えるのだるかったし、助かったわ」

 彼女は言った。僕は苦笑しながら歩みを進める。

「で、どこ行く?」

「屋上」

 即答だった。学校の屋上に行く計画が彼女の中で既にあったのだろう。声のトーンでわかる。校門を通ると、左手には見飽きた二階建ての立体駐輪場がある。右手にはサッカーのグラウンドだ。どちらも夜に見ると、まるで違う世界のもののように思えた。その向こう側にあるのは、例の旧校舎だ。夜に入るとすれば不気味だろう。しかし、彼女は怖がる様子も無く、懐かしそうに旧校舎を見つめた。僕もあの旧校舎を見ると、不気味さと同時に、どこか懐かしい、胸の奥底をくすぐられる様な気分になるのだ。トトロを初めて見たとき、こんな気分になった気がする。

正面玄関は、当然閉まっている。だけど、この学校は、右側から回り込み、中庭に入る事ができる。そこには、蛇が校舎に巻きつくように螺旋階段が伸びていた。当然そこは屋上に続いている。どういう意図で設計したかは不明だが、生徒には好評だ。屋上で弁当を食べる者も多い。砂ほこりとかが入らないか心配だ。

僕等は校舎をぐるりと回り中庭に入る。そして二人で歩幅を合わせ、螺旋階段を上りだした。カンカンと僕等の足音だけがその空間を支配する。静けさのせいか、足音がいつもより大きく聞こえた。

「なんかワクワクする」

 まるで子どものように彼女は言う。

「小さいころ、こういう探検みたいなのしたことなかったの?」

 僕は隣の彼女に言った。

「うん、あんまり。家でいるのが多かった」

 彼女は続ける。

「若いうちにこういうことできてよかった」

「なんで君はいちいち思想が老けてるんだよ」

 僕は笑いながら言う。彼女は何も言わなかった。

「小さいころ、僕はよくいろんなとこ探検したんだ。近所の神社、田んぼの脇道。自転車が手に入ると行動範囲は広がった。ちょっと離れたとこに行って、面白そうな道に入って探検する。小学校の頃の遊びはそれだったな」

 曖昧な記憶の中にある断片を、一つ一つ紡ぐように喋った。

「あんたも友達いなかったんだ」

 鋭いところを指摘された。どうだったんだろうか。恐らく僕の場合はアウトドアの一人遊びに力を入れたということだ。多分。

「あんたもさ、普通に話せば友達できそうなのにね」

「……そうだね」

 曖昧にお茶を濁し螺旋階段を昇り切った。広い屋上に出る。端っこにある人工衛星のような給水塔や、大きなパイプが通っている。椅子の様なくつろげるものは何もなかったが、校舎で一番見晴らしがいい場所なだけあって、解放感だけは十分あった。

 空を、特に何も意図せずに、見上げてみた。

「うお」

驚いて思わず声が出た。

「どうしたの?」

 上を向いたまま僕は答えた。

「星すごいよ」

 彼女も見上げる。彼女は口を開けたまましばらく声を出さなかった。

「…………うわあ」

 その声は、何かを懐かしむような、感嘆だった。

見上げた先には、満点の星空が広がっていた。夜は長い。僕は、八時くらいの夜空だけで満足していた。けれど、それは間違いだった。

小さい星、明るい星、暗い星、大きい星。たくさんの星が夜空というキャンパスを大小の光が埋めつくしていた。最初に家を出た時点で、空を注意深く見ようとは思わなかった。

けれど、いざ屋上という周りには何もない空間で夜空を見上げるとそれは圧巻の一言だった。

それをただ綺麗という言葉だけで終わらせてしまうのは何かが違う気がする。

だから、僕も。ひょっとしたら彼女も、何も言えなかったのかもしれない。


 五分くらい座ったまま見上げていた。沈黙の中最初に口を開いたのは、彼女だった。

「夏の大三角形を三つ答えよ」

 彼女は先生のように、そう言った。

「えーっと、デネブとアルタイルと…」

 小学校の頃の理科の教科書の記憶を辿る。だが三つ目が出ずに言葉が詰まった。

「ベガ」

 彼女が星へ指を伸ばし、そう補足する。

「それだ」

 疑問が解けすっきりする。習ったとしても、だいぶ前なのに、彼女もよく知っているものだ。

「星の事は分かるの?」

 僕は彼女にきく。

「星の事はって……失礼な」

「ごめんごめん」

 不満げにぼやく彼女にとりあえず平謝りする。

「昔、保健の先生がね、色々教えてくれたというか、一人で喋り続けてたというか」

 保健の先生か。懐かしい言葉だ。僕もそう言えば保健室の本棚の、『漫画で分かる体の仕組み』のようなタイトルの本を読むため、保健室に入り浸っていた気がする。それともう一つ、何か特別な意味があった気もするが。

うまく思い出せない。記憶を辿ると、脳みそがちりちりと焦げるような痛みが走った。慌てて考えるのをやめた。

「大好きだったな、保健室」

 僕の頭痛には気づかず、彼女は懐かしむように、そう言った。彼女は頭を少し前に垂らし、切りそろえた前髪で、表情を隠した。

「そっか」

 僕は、特に意見は出さずに、そう受けとめた。

「うん」

 彼女は頷く。また僕らはしばらく星を見た。夜風はゆっくりと空気を冷やし、心の中の何かが、その空気と共に安定していった。

「私さ、絵好きなんだ」

 彼女は言った。

「うん、知ってる」

「何か、特別な意味とかじゃなくてさ、それがあったから、今の私があるんだ。ただ、それだけなの」

「うん」

 また短く頷く。その言葉に、何か僕が余計な言葉を付け加えて、補足するのが嫌で、何も言えなかった。

「ねえ」

 彼女が言う。

「なんでさ、あの時私に話しかけたの?」

 それは、もっともな疑問だ。それは不安感だったり、恋心に近いものであったりと安定しない。ただ彼女の傍にいる事がときめきにも繋がるし、安心にも繋がるのだ。

だがそれは、明確な答えとは言えないし、それ以外でも言い表す事もできない。何か言葉を発して答えを表そうとしても、それが嘘になってしまいそうで。

だから僕は言葉が苦手だ。納得させるための建前の答えを用意するしかないのだ。

「好奇心?」

 彼女の真似のように、疑問形で僕は答えた。

「へー」

 僕の浅い答えになんともないように返す彼女。まあ当然か。思いつきできいたことなのだろうし。

「ありがとね」

 予想外の言葉が出てきた。普段言われない言葉だから気恥しい。

「何が?」

 できるだけ冷静を装った。

「いや、こんなわがままに付き合ってくれて」

「言いだしたの僕だよ?」

「時間指定したのは私」

 そう言って僕の背中を彼女はバシンと叩いた。安心させるためなのだろうか。それともただの気分か。彼女の心が読めない。背中に小さな痛みがじわりと波のように広がった。また風が吹いて、中庭の木がざわざわと音を立てた。体にしみ込んだ汗が涼しさを運んできた。

「あのさ」

 いつの間にか僕の口から言葉が漏れ出していた。それは雨水の貯まったダムの隙間から水が出るように。

「消えないでね、いつか」

 言葉の引き出しのどこに、こんなものがあったのかわからない。それでも僕は続けた。

「家出とか自殺とか、したくなったら言ってくれ。僕はいつでも付き合うから、今日みたいに」

 彼女の返答を待たずに、僕は言った。言いたい事がまとまらないまま、思いつくがままにそうするしかなかった。

「怖いんだよ」

 混ぜこぜになった感情を、静かに伝えた。胸の奥が締め付けられる気分になり、不思議と涙が出そうになる。慌てて歯を食いしばる。彼女の目をできるだけ見ないように、顔を大きく横に反らした。僕の感じているものが、どれだけ不安定で、意味不明なものかを、悟られたくなかった。

屋上のざらざらとした鉄筋コンクリートの感触が、頬に伝わる。砂が目に入りそうで、慌てて目を閉じた。

「……うん」

 彼女は、小さくそう言った。自信がなさそうに、それでも誰かに言い聞かせるような、妙な意志が詰まっていた気がした。顔は見えないけれど、頷いていたかもしれない。

 そして、僕は何故か、その二文字が、嬉しくて堪らなかった。我慢していた涙がついに、一粒零れて、コンクリートを濡らした。

「あのさ」

 僕は言った。涙声だったかもしれない。

「何?」

「頭、撫でていいですか」

 彼女に触れていたいと思った。どこかに消えてなくなってしまいそうな、雪の様な彼女の存在を確認したくて。

女の子の頭を触るのは、実際タブーなのかもしれないが。

「……仕方ないなあ」

 冷たい言葉で一蹴されると思っていたのに。いつものように彼女は偉そうに承諾した。

震える右手を僕は、隣の彼女の頭に、静かに置いた。ふわりとした髪の感触が手に広がる。あまりくしゃくしゃにならないように、力加減に気をつけながら、僕は彼女を撫でた。

さらりと、流れるように僕の手に伝わる彼女の髪は、とても美しかった。

僕の胸の中の、何か真っ黒で、ドロドロとした何かが、溶けていった。そして胸に残ったのは、真っ白な安らぎだった。

「ありがとう」

何に対するお礼か、自分でも分からないまま、僕は告げた。

「……あんたはさ」

 今度は彼女が僕に言った。僕は彼女の頭に、依然手を乗せたままだ。

「消えないでね?」

 ふいに言われた言葉に、驚きは何故か感じなかった。『消えないよ』と、意志を示すように僕は頷く。どんな言葉も駄目な気がして、声が出なかった。言葉を口にすると台無しな気がするから。何も言えなかった。

そしてまた、広い、星たちの輝きで埋めつくされた夜空を、大の字になって見上げた。

流れ星が、一本の線を残し、流れて消えた。

 願いは何も言えなかった。


チャーハンに凝っていた時期がありました。

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