2日目 7時00分
眠りが浅いと夢を覚えているって事は、夢を覚えてないことは深い眠りの証左なのか。
どうだろう。自分の中に問うてもきっと答は出てこないに違いない。
目を覚ます。
いつもと変わらぬ部屋。カーテンの向こうの日差しはやや強め。
悪夢を見ていたかのように汗だくの自分に、嫌気が差す。
いい加減にしてくれ。ここん所ずっとこれだ。
それに昨晩あんな事があった後なのに、余計眠れないではないか。
時計を見れば、まだ七時。……せっかくだし、あの事を確かめておかねばなるまい。
起き上がろうとする身体の、節々が軋む。昨日は一杯一杯で気付かなかったが、肉体的には相当疲労が溜まっていたらしい。
テレビをつけて適当にザッピングする。
『ドキュメンタリー、"エジプトの事故から二年"です。エジプト北部に隕石が落下し数百人が死亡するといういたましい事故から今日で二年が経ちますが、現場は過去の米、中、豪、独などと同様に今も尚厳重に封鎖されており――』
……。
ちょっと待て。
もう一度チャンネルを回す。
違和感が段々と現実味を帯びてくる。既に目はしっかりと覚めていた。
「何でだよ」
やってない。近場で死体発見のニュースなんて、一つもやってない。
あんな凄惨な他殺体が、電車の飛び込みや一家心中などとは違って報道されないはずがない。
どういう事だ? そう思ったとき、枕の向こうの携帯電話がずっと震えている事に気付いた。
着信55件という執念にも近い数字をチラッと目にしながら、電話を取る。
「もし――」
『遅い! ツーと言えばカーと、学校で教わらなかったのかしら!?』
黄色い声。
というか、そもそもそれってそういう意味じゃないから。
「っていうか、あなたはどなたで――」
『あら? ……あぁ、海外で電話変えちゃったからね。番号変わったの教えるの忘れてたわ。……私よ、私。ねぇ樹雨。分からない?』
そもそも電話を通した声は空気を伝わって耳に届くから、自分の声でさえも判別がつきにくいというのにだな――とまで考えて、ようやく記憶の中の何かにぶつかった。
黄色い声。食い気味に話を被せてくる癖。そして何より、俺の事を知っている人物。
「……パスタちゃん?」
『パスタ言うなっ!』
耳をつんざくよう、という表現を生まれて初めて使わせて頂こう。どこで話してるのか知らんけど、公衆の面前なんじゃないのか。
『公衆の面前ではないわ。――あなたの家の前よ』
――何だと!?
思わずその場から飛び出し、玄関から外を見る。
管理人が数年前に無理を言ってコンクリートで舗装したにもかかわらず何にも使われていない場所に、一台の黒い車が留まっていた。
俺が外に出たのを見計らうかのように、運転席の扉が開く。
金髪にサングラス、白い肌。それとは対称的な黒いスーツに黒いスラックス。一見すれば――
「ほう。最近の借金取りはなかなか容姿端麗だねぇ。時代の流れはどんどん若い方へ若い方へと進んでいくのかな」
いつからそこに居たのか、阿賀盾さんがそんな感想を述べていた。
寝間着姿が色っぽい。
「俺の知り合いを借金取り扱いしないで下さい」
「成る程、君は義侠の世界に生きる人間だったか」
「だからって俺をやくざ扱いしないで下さい」
気がつけばその黒ずくめ外人女性が、俺の目の前までやって来ていた。
「やっ。最後に会ったのは高一の夏だったかな?」
外されたサングラスの向こうには、青色の瞳が輝いていた。
ニューア・ペンネティ。通称パスタちゃん。
一時期、同じ学校で学んだ仲なのだ。
「今日は、何でまた? そりゃ、大学入る前にちょっとメールはしたけどさ」
「ええ。まぁ、色々と」
ニューアはチラリと野次馬の阿賀盾さんを見てから、家に入りたいと促してきた。
彼女の目もあってか、無碍に帰れと突っぱねるわけにもいかない。
「――何も出せなくて、悪いな」
普段から柑菜ちゃんとかが入り浸ったりする関係で他人用の湯飲みの用意がある事が、ここで初めて役に立ったと思う。
「いいの、気にしないで。押しかけた私の方が悪いから」
悪いと思ってるならもうちょっと時間を調整して来てくれ。
「見ない間に、随分と成長したな」
あらゆる所が、と言う事で俺の視線を誤魔化す作戦である。
「あなたも。声、低くなったね」
背丈は未だに同じぐらいだけどな。女性特有の背の伸びにくさを考慮に入れれば、彼女は伸びてる方だと思うが。
声が低いのは昔っから。まだテノール張れるって信じてるから。
「今、何してるんだ?」
「働いてるわ。その関係でこっちに来たの」
俺と同い年なのに自分の車持てるぐらいの稼ぎの仕事って何だ。
気になる。
それを察してか、彼女はちょっと慌てたように付け加えた。
「あ、外の車は社用車だから。私は所詮小間使いよ」
ふーん、と俺は茶を啜る。
「で、こっちにはどれぐらい居るつもりなんだよ?」
「半永久的、かな」
え、と手が止まる。
「今言ったでしょ、仕事の関係上。だから国籍も取ったの。もう私、ニューア・ペンネティじゃなくて、実羽々梨新阿って名前があるのよ?」
右上がりの綺麗な書体で彼女は自分の新しい名前を記した。
読みにくっ。
お前がどんなに策を弄そうとも、俺はパスタちゃんって呼び続けるからな。
滅多にしない覚悟をさせた罪は重いぞ。
「貴方は大学?」
絶賛不真面目学生ライフ満喫中である。
「お前からすりゃバカ学生に見えるんだろ」
パスタちゃん、飛び級入学という漫画みたいな事を本気でやってのけた才女でございますから。
「別にそんなことは。人間に大事なのは何をしたかじゃなくて何をするか、でしょ」
それでいて社交的、マルチリンガル、美人って。
神様が彼女のパラメーターを弄るときだけ、酒に酔ってたのかもしれない。そう思わざるを得ない。
「そう言えば、彼女は元気?」
彼女……柑菜ちゃんの事か。
俺は昨日の彼女の姿を思い出す。
「……元気だよ。すっごく」
いや。今ここでどうこう出来る話じゃない。少なくとも、今目の前に居る彼女には関係のない話なのだから。
「そう、それならよかった。同棲とかはしてないの?」
口に含んでいたお茶を吹くかと思った。
「ちょっと待て、俺はそんなの――」
「知ってる知ってる。昔っからそうだもんね、樹雨は」
昔っから。その言葉を、噛み締める。
不思議と、最初に感じていたブランクを今はさほど感じていなかった。彼女の話し方が上手いのか、酌み取り方が上手いのか。
それとも、俺が――あの頃から全く変わっていないだけなのか。
「ねぇ、樹雨」
あくまでも、それは期待。
プラスに運びうる可能性がある要素でしかなかったのだ。
「――まだ、超能力は嫌い?」
その言葉に、俺は時が止まったような感覚に陥る。
改めて、目の前の女の顔をじっと見る。
碧眼、金髪、白い肌。
あの頃と唯一違うのは、屈託のない笑顔が消えて、奥ゆかしい笑みに進化したところか。
「冗談だったら、やめてくれよ」
声に怒気を隠せない。それでも、あの頃よりはまだマシだ。
「まさか。私、樹雨が冗談でもその話を振られるのが大嫌いだって知ってるもの」
当時、家がバラバラになって、悩みを打ち明ける暇も相手も無いままに、俺は小学校に入った。
その時の話し相手というのが、主に柑菜ちゃんか彼女だった。男友達が出来るようになったのは、中学以降の話になる。
「私、昔からご機嫌取りには自信があったんだ」
パスタちゃんは正座をやめてあぐらをかく。
「悪く言ったらそうなるんだけど、よく言えばみんなを笑わせるのが好きだったっていうか。だけど、私がどんなに頑張っても笑ってくれない人が居たの。それが、あなた」
ムキになってたのよ、と彼女は自嘲気味に茶を啜る。
「でも、分かったの、人は変わる事もまた必要だって。私だっていつまでもごまをすって生きていける程下世話な人間じゃいられないし、あなただって何時かは自然に笑うようになった。でしょう? さっきの隣の彼女に見せた笑顔、作り笑顔だったとしても昔じゃ考えられなかったもの」
彼女は結論を述べる。
「だからこそこれ以上、悪意を以て夜木斎に踏み込まないで欲しいの」
それは、井戸端会議の最中、突然井戸に落とし込まれたような感覚だった。
何の脈絡もない、ように見える。それは、俺の主観だからか。
本当は、何もかもが繋がっていて――。
「どういうことだよ、それ──」
「私は調べたの。事件の全てを解き明かすことで樹雨が笑えるように、って」
だから知ってるの、貴方が夜木斎探偵事務所跡にいずれたどり着くことを、と彼女は言った。
「昨日、死体が発見された事も知ってるでしょう。事件に関しては特級機密だから、報道管制がかかったけどね」
何でだ。
何でこいつは全てを見透かしてるんだ。
「やめてくれよ」
言ってはいけないことだと思ってた。
でも。理性で抑えられない部分を何度も突かれている気分だったから。
「……!」
彼女も彼女で、俺が怒ることも予想済だったようで、澄ました顔をしている。
「お前が何を知ってるんだよ」
返る答は予想がついた。
「「恐らくは、貴方の知りたい全部を」」
一字一句零さず言ってあげたら、さすがに彼女も驚いた顔をした。
「そうやって何もかも見透かしたようにしゃしゃり出てくる奴が大嫌いなのを、お前は知らなかったで通す気かよ」
人より毛が一つ多く生えてるからって傲岸不遜な態度をとる超能力者が嫌いなのに起因してるだとか、そんなこと一々説明するのもばかばかしい。
既に彼女は立ち上がり、踵を返している。
「そう。じゃ、今日はここまでね」
その手を、放すまいとガッシリ握っていた。
「あら、随分と乱暴ね。男の人っていつもそう」
ひょっとしたら俺は昔のままだったのかもしれないと、ついさっき自嘲したばかりだったが。
どうやらそうでもないらしい。
「そうじゃない」
俺だっていつまでもそうやって詮無い態度を取るガキじゃない。
勝手にお前だけ大人になるな。
「嫌なことはいつまで経っても嫌なことだろうさ。トラウマだってある。だけどそれを何時までも拒絶していたって新しい自分は見えてこないって事ぐらい、この歳になれば誰だって分かるさ」
……いや、実際の所そこまでの保証は出来かねるけど。
「あら。じゃあ、もっとお話ししてく?」
「まだ話は途中じゃないか」
きっと昔の俺だったら、このままニューアを追い返していたに違いない。
だけど、今は違う。
超能力者は両親の仇、その認識は変わらない。だけど出会い頭に頭を打ち抜くのは、あまり気が進まないというだけの話だ。
「人間、誰しも昔のままじゃ居られないんだ」
「……へぇ。てっきり、このまま直帰コースかと思ってたんだけど」
彼女の笑みは、先ほどの冷めたようなそれとは違い、少しだけ嬉しそうなそれになっていた。
「やっぱり変わったんだね、樹雨」
俺は、自分をそう思った事は一度も無いけどな。
だからこそ、この数分で自分に対する評価が一変したワケだし。
「じゃあ、今度はこっちから詳しく聞かせて貰おうか」
何故お前が昨日の死体の件と、夜木斎の件を知っているのか、を特にな。
パスタちゃんは浮かんでいた笑みを隠すと、至極真面目そうに話し出す。
「そうね――あまりあれこれ話しても樹雨が混乱するだけだから、仮に今私が働いている所を"勤め先"として話すわ」
勤め先の目下の行動はこれ、ととある英字を書く。
"ストレンジャー"。昨日も、そして夜木斎の事務所でも見たアレだ。
「これ、どんな意味か分かる?」
「さてね。変な人、って事だろ」
その時、彼女はほんの一瞬だが口の端に笑みを浮かべた――気がした。
「ま、私達にもよく分かってないんだけど――この一連のストレンジャー事件の謎を追っているの」
……ちょっと待て。
「一連? 死体は一つじゃないのか?」
すると彼女は携帯電話の地図アプリを起動し、ここ周辺三十キロぐらいを俯瞰して見せた。その地図の特定の箇所に、何かを示した針が置いてある。
「これが、『昨晩見つかった、死体のあった場所』よ」
驚愕した。針は十は無さそうだが、五本以上は明らかに刺さっている。
「七件よ。それが昨日、一斉に起きたの」
目眩がしそうだった。
……と言うかお前が事件を追ってるって事は、"勤め先"ってのはひょっとして?
彼女は首を横に振った。
「警察じゃないわ。私が警察だったら今頃貴方を任意で事情聴取してるでしょうね、死体発見当時の状況を聞くために」
それをしない、って事はつまりどういう事だ。
今の物言いでは、俺達が死体の第一発見者であることも露呈しているような感じだ。それでも尚、俺がこうして自由の身であるって事は、何を意味しているんだ?
話を聞かなくても犯人が分かっているのか?
逆説的に言えば、俺等は明らかに犯人じゃない事が確定している?
「ごめんなさい。今、それに応えるのは性急すぎるかもしれないわ」
……分かった。ここは引き下がろう。
怒鳴って情報を引き出すのは自由だが、せっかく繋いだ絆をぶった切るのは得策ではない。
お互いに。
「とりあえず、事件が表に出てないのは秘匿情報だからってのは聞いたけど――死因とかは?」
「他殺、もしくは心不全ね」
は?
それだけ?
「脳が内部から焼け切れて死んでる、って言われて他殺以外の言葉を使える?」
何だそりゃ。聞けば聞く程に意味が分からん。
「死因を明かすって事は、それもどうでもいいって事か」
「それはまぁ、お察しね」
「分かった……死体についてはもういい。夜木斎の事について教えてくれ」
「いいわよ。でもそれなら、ここ以外にもっと適切な場所があるんじゃないかしら?」
やっと彼女が相好を崩したのもつかの間、刃物を突きつけられたような感覚に陥る。
「何だよ。探偵事務所跡に連れてけ、って事か」
「平たく言うと、そうね。連れて行ってくれないなら、この部屋を荒らして帰るわ」
地味な嫌がらせだな!
考えながら彼女の背後にある時計を見上げる。
同時に、携帯電話が鳴動する。
「出たら?」
「……いや、見たことのない番号なんだけど」
「間違い電話なら、そんなにずっと鳴らさないんじゃないかな」
うーん、どうだろう。見たところ海外ではないようだし、出てみるか。
「もしもし」
『やぁ。不躾ですまないね』
この声は……つい最近聞いたような。
……いや、つい最近ってのは最近も最近で。
「阿賀盾さん、驚かさないで下さいよ。なんで電話なんですか」
パスタちゃんはチラッとこっちを見たら、あとは気にせずお茶を啜っている。
『いや、うん、まぁね。ひょっとしたらひょっとしてという私の配慮だったんだけど、これまたひょっとしたら過剰なお節介だったら心証を悪くされそうだからね、こうして電話越しに君に語りかけているというわけさ』
「だから、一体どういう――」
『きっ君! ねぇねぇきっ君!』
ぞわっ、と一瞬冷や汗が垂れた気がした。
それは紛れもなく、虚濱柑菜の明朗闊達な声。
『外見てみてよ! すっごい黒くてゴツい車が駐まってるの! ひょっとして入れ墨してる方達の車なのかな!』
そこで俺は一瞬で、阿賀盾さんの"配慮"の意味を悟る。
「柑菜ちゃん!? もう、大丈夫なのか!」
『うん! えい――ミスティアちゃんが介抱してくれたおかげで、すっかり元気百倍だよ!』
英璃ちゃんに対する細かい配慮が身に染みる。
しかし、事態はやや面倒である。
「あら? ひょっとして私はお邪魔かしら?」
「……お前まで何言ってんだ」
お前と柑菜ちゃんは、そういう間柄じゃないだろ。
『えっ何? きっ君メイビーお客さん? 浮気? 援助交際?』
乙女らしからぬワードが飛び交いそうになったので、柑菜ちゃんを静止する。
「いいから、阿賀盾さんに代われ」
『ちぇー。私には何もかも隠してさ』
お前もな。
そう言いたい心を必死に抑える。
「阿賀盾さん、勘違いですって。俺と今部屋に居る彼女は、そういう関係じゃないですから」
『おお? そうか成る程、私としては本当は小さい彼女を部屋にこっそり送り込んで、本物の"修羅場"というものを目撃してみたかったものの、流石に刃傷沙汰となっては色々悪目立ちしそうだからこういう手段を取ったのだが、ひょっとすると全て余計な事だったのかな?』
久々に。かなり久々に、衷心から嘆息した気がした。
だから、二度とこういう誤解を招かない為にも、こう言っておかざるを得まい。
「勘弁して下さい。俺、主人公とかそういうの、向いてないんですから」
<PERSON>が更新されました "実羽々梨新阿/ニューア・ペンネティ" <WORD>が更新されました "ストレンジャー事件" ▼