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今日…髪を切ります【短編】

作者: satori_kahi

 包み隠さずに、ただ事実が知りたい。


 綾香は其れだけを念願してきた。


 そう思うようになったのも淳司のお陰かもしれない。


 「何があっても一緒になろう」


 不安で押し潰されそうな、そんな毎日を送っていた綾香には淳司の言葉はにわかには信じがたいものでもあった。


 「本当に?」


 綾香は何度も淳司に確めた。


 言葉だけだと直ぐに消えてしまいそうだったから…


 ある日、淳司は家へ上がりもせずに玄関口で茶封筒を綾香に手渡した。


 「心が折れそうになったら、中を見るといいよ」


 後で考えてみると、その時の淳司の目が少しだけ泳いでいた訳が分かって思わず笑ってしまうのだが、茶封筒を受け取った時には淳司の態度に内心イラっとしたものだった。


 「ふんっ」


 まだ表面上淳司には強がりを見せていた時期だっただけに、中身を見る事もせずに、でも何だか御守りのような気がして肌身離さずに持ち歩いてはいた。


 …元々は淳司が見つけたようなもの…


 そう、最初に綾香の身体の異常を見つけたのは淳司であった。


 二人、身体を求め合うようになって半年が過ぎた頃、ポツリと淳司が綾香の耳元で呟いたのだ。


 「何か、綾香の胸、しこりがないか?」


 言われてみるまで気が付かなかった訳ではない。


 ただ、言われてみて初めて何かが繋がった。


 淳司の言葉で綾香の脳裏に、ある一文字がイメージとして浮き上がってきた。


 …癌…

 その時は、淳司を心配かけてはいけないとの思いで必死に平静を保っていたが、やはり一度気になってしまうと不安が不安を呼び、仕事にも手が付けられなくなってしまった。


 「一緒に来てほしい処があるの」


 一人で行く勇気がない綾香は、淳司に行き先を告げずにお願いをした。


 休日には婦人科は開いていない。


 だから淳司には休みを取ってもらい一緒に病院に行った。


 「最初は僕たちに子どもが授かったのかと思って内心ドキドキだったんだぜ」


 一週間の検査入院中に見舞いに来てくれた淳司は何度も同じ事を言っては一人馬鹿笑いをしていた。


 「もしそうだったら淳司どうした?」


 この時初めて淳司に面と向かって告白させる事に成功した綾香は、結果として誘導尋問に引っかけるように言わせてしまったその一言に、この後どれ程助けられた事か…


 「何があっても一緒になろう」


 と…


 そして一度退院してから数日後に淳司は茶封筒をぶっきらぼうに綾香に手渡したのであった。


 明日が検査結果の診断が下される日の夜、いよいよ綾香の不安はピークに達し、何をどう考えても悪い方にしか頭が働かなかった。


 いっその事、淳司に電話を掛けようかと携帯を握り締めたが、ディスプレイに表示された数字を見て諦めた。


 「もう直ぐ2時か…」


 携帯を胸に当てながら布団の中で丸まっていた綾香に淳司の顔と共に茶封筒が思い浮かんだ。


 …心が折れそうになったら、中を見るといいよ…


 綾香は部屋の電気を付けてバックから茶封筒を取り出し、震える手で中に入っている紙を取り出した。


 「…淳司…」


 綺麗に折りたたまれていた薄い用紙には淳司の名前と判が押してあった。


 そして良く見ると、用紙の左上に婚姻届と書かれてあるのに綾香は息を呑んだ。


 「癌かもしれない私と結婚…」


 あまりの衝撃に綾香は涙すら流れず、朝を迎えるまで淳司の手書きの文字から目が離せなかった。


 「結果としてちょっと歪だけど、おっぱい残って良かったね、淳司」


 初期の発見であったため乳房の全摘出は避けられたのを綾香はそう言って淳司をからかった。


 だが、抗がん剤の治療が綾香を待っていた。


 主治医からも綾香の年齢からして完全に病根を叩いておいた方が良いでしょうとの診断に綾香は同意したのだった。


 副作用の件も説明を受けた。


 吐き気やめまい…そして再発のリスク…


 「淳司…お願い、今日何時になっても良いから家に来て」


 綾香は昼間電気店で買い物をして家に帰ると、仕事中で留守電になる事は承知の上で淳司の携帯にメッセージを入れた。


 そしてテーブルの足をたたんで壁に立て掛けると新聞紙を敷き詰めて椅子を真ん中に置いた。


 「よし、此れで準備OK…」


 何時来るか分からない淳司を食事も取らずに待った。


 じっと淳司から貰った婚姻届を見つめながら…


 夜7時少し前に淳司は綾香の家に着いた。


 どうやら出先から無理を言って直帰にしてくれたようだった。


 「何事だ?」


 部屋に上がるなり一面の新聞紙を見て淳司は綾香に聞いた。


 「うん、今から二人だけの儀式をしようと思って」


 自然に微笑む事が出来たのか自信はなかったが、淳司の顔を見てやっと覚悟が定まった。


 「此れで私の髪切って…」


 そう言って綾香は淳司に昼間電気店で買った物を差し出した。


 「此れって…バリカンじゃないか…」


 淳司の目が手にしたバリカンから一時離れなかった。


 綾香はビニールシートを自分の首に巻くと一面の新聞紙の中央にある椅子に座った。


 「もしかしたら此れが最後の私の髪になるかもしれないから」


 抗がん剤治療に入る事は淳司も知っている。


 ただその副作用に脱毛がある事は言ってはいなかった。


 毎朝、何気に整えていた髪が、高校時代失恋して思いっきりショートにした髪が、淳司に触られネコのように預けられていた髪が、抗がん剤治療で全て抜けてしまう。


 ならば、最後に淳司に見守ってもらいながら、明日への一歩として自分にけじめを付けたかった。


 「バッサリとお願い」


 綾香は自分の真剣さが淳司に伝わるか内心不安で堪らなかった。


 「わ…分かった」


 淳司の目元から涙が溢れ出しているのを見て、初めて自分がどれほど愛されているか綾香は身体の芯から理解できた。


 「ちょっと、待って」


 首に巻いたシートを取り淳司から貰った婚姻届を手にした。


 そして淳司の目の前で空欄になっていた部分に自分の名前を記入した。


 今まで、この時まで、淳司を汚したくないとの思いで書くことをためらっていた綾香は判を丁寧に押すと淳司に手渡した。


 「お願いします」


 どうなるか分からない人生だが、淳司になら、いや、淳司に何かあった時には側にいて欲しい。


 そして逝く事になったとしても淳司に見送られたい。

 我がままなのは分かっている…だが女として一世一代の決心を淳司の目の前で披瀝できて綾香は幸せだった。


 だから、今から髪を切ってもらうのである。


 「相撲取りの断髪式みたいだな」


 淳司は手にしていたバリカンのスイッチを入れながら笑って言った。

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