まずいことを思い出した。
とにかく一刻も早く気ままな一人暮らしを取り戻さねばならない。
家族のもとへ連れて行ってやろうと、少年の言う住所を航空写真まで使って調べてみたが、その住所は存在しなかった。彼が生前通っていたと主張する高校さえも。
正直言って手詰まりである。
「現状を整理しよう。君の主張する死亡年月日は、確かに昨日。でも、ニュースにさえなっていない。君の家も学校も、地図上には見当たらない。そこまでは理解しているね?」
「んー、俺が死んだせいで、関係者が悲しんだりしないように俺に関するものが全部消えたとか、そんな感じ?」
「君はナニサマだ。自分が地形にまで影響を及ぼせるなんて、本気で思ってる?」
むしろ死んだショックでよく似た別な世界、いわゆるパラレルワールドにはじき出された、と考えるほうがまだ理解できよう。もしくはこの年になって自分の住所も学校の名前も間違って覚えていたか、だが。
いくらなんでもそこまで阿呆ではなかろうな。
それに、だ。これを言うとギャーギャー喚きだしそうなので黙っているのだが、実は少年の言う高校名に、なぜか覚えがあった。
なんだったかなぁ。四宝学院。あのあたりにそんな地名はない。ってことは、四宝というのはどこからついた名前だろう。四つの宝。あぁ、頭の右上辺りがなんだかぴりぴりする。すっきりしないな、気持ち悪い。
「参考程度に聞きたいんだけど、その高校の名前って、何か由来でもある?」
「ゆらい?」
彼はしばらくうーん、と唸ると、不安げな視線を寄越した。
「えーっと、由来ってゆーか、学園に隠された四つの宝を集めると何か起こるらしいって噂はきいたこと、ある」
「なんだそのありがちなせって……い……」
呆れ気味に発したはずのセリフは、しかし、しりつぼみに終わらざるを得なかった。さっきから私を悩ませていたあのぴりぴりしたものが、突如稲妻のごとき存在感を持ったために。
ちょっとまて、あれはたしか……。
「なになに、どしたの?」
「そこで待ってて!」
寝室には入らない約束だ。私にだってプライベートが必要だから。
そのプライベート空間の更に奥、クローゼットの片隅に、開けていない段ボール箱が一つ。
私の記憶が確かならば、おそらくあの中だ。あの中にあるはずだ。
あぁ、できることなら開けたくなかった。箱の中身はいわば黒歴史。忘れたいけれど処分もできない、そんなものが詰まっているのだ。何かの拍子に見られては困ると、実家にも置いておけず引き取って、ここでもう何年も眠らせていたのに。
ガムテープでぐるぐると巻くように封印されたその箱は、開けたくない、見たくないと思えば思うほど開けにくい。イライラしながら、やっと中身を引きずり出した。ノート、ルーズリーフ、コピー誌。そんなものを。
その中で、一際目立つノートが私の目的だった。
表紙には友人の手によるイラストと、凝った字体で書かれたタイトル。あぁ。見るからに痛々しい!
律儀にも立ち入り禁止令を守っている少年が、ソファーのほうから焦れたように問いかけてくる。
「なに、手がかり?」
「えーっと、ちょっと黙ってて。少し混乱してるから。ほら、ゲームでもしていなさい」
表紙には、4人の気の強そうな女の子達が描かれている。「天上天下『ゆい』が独占!」というタイトルが私の目を焼く。神経を焼く! くあぁ、どうしたらいいんだ、この気持ち!
内容は確か、「ゆい」という名を持つ4人の女の子による、学園超能力バトルものだった。テーブルトーク用の台本として作った話を、調子に乗ってノベライズしたのだ。私が。
あああああぁ、忘れていたかったのに。
ともかく、その舞台こそが「四宝学園」で……。四つの宝がどうこう、というのも私が作った設定だった。彼が主張した所在地も、そういえば覚えがある。イラストを描いてくれた子のおばあちゃんの家が確かその県にあって、適当に設定をしたのだ。
じゃぁ、何か? 彼は私の小説の中から出てきた人物だというのか? 10年以上前に書いた話の中から?
え、じゃぁ本当に、彼にとっては私が神様なのか?
「ねぇ、気になるんですけどー?」
あぁ、一人になりたい。一人になってその辺の壁に頭を打ち付けてもう一度忘れてしまいたい。なのにせっつく人物がいる。早く一人暮らしの平穏を取り戻したい!
何て説明すればいい? そもそも確信などないのに。作品には主人公の4人以外は、名前さえないモブとしてたまに登場する程度だ。彼が出てくるシーンなんてなかった。
大体、人死になんて想定していない話だ。それでも私は、彼の言うように「責任」とやらをとらねばならないのか? なんの咎で? 小説内で、高校の屋上に鍵を掛けておかなかったから? ばかな!
「そっち行ってイイ?」
「だめっ!」
私は咄嗟にノートを隠した。そうだ、確かに彼が私の作った世界の住人であると確信が持てるまではこんな話を聞かせるべきではないし、仮にそうだったとしてもややこしい事にならないよう、隠し通すべきだ。絶対。でも、じゃぁどうやって成仏させればいい?
「おねーさん、今何隠したの?」
「何のことかな」
ち、目敏いガキめ。カーテンを閉めてから発掘作業にとりかかるべきだったか。
「……今、ぜってーなんか隠した! なんだよ、見せろよ!」
ムキになった少年は、寝室不可侵条約を破ってこちらにやってきた。
やめろ、来るな! このノートの他にも、いっぱいあるんだ、見られたくないものが!
私は思わず、適当に取り出して積み上げた紙の山に覆いかぶさった。見るな、見ないでくれ! やめろぉ!
「プライバシーの侵害だ、人権侵害だ! 出てけ、私の家から出てけ!」
私の身体だけでは隠しきれないあんなものやこんなものが、ところどころ雪崩を起こして彼の前に崩れ落ちる。ギャー!
「えーっと、『創世暦八一四七年、クラティア大陸に一人の』……」
「ぎゃーーーー!」
過去の作品を目の前で音読されるほど残酷なことってあるだろうか。いや、ない!
「『わたしはこの世に存在する全ての慈しみであり、憎しみである。わたしは』……」
「ぎゃー、ぎゃーー!」
「『その獣に名前はない。ただ人々はソレを獣と呼び、恐れ敬った。獣が彼なのか彼女なのかさえ、人々は』……」
「ぎゃあああああああああ」
次々にめくられていくのはよりによって「思いついたシーンだけ書いとけノート」。
次々と、今ではもう何に使いたかったのかわからないフレーズやら設定やらが出てきて、私は耳を塞ぎながらついに叫んだ。
「も、もうやめてぇ! ゆるして! 言うから、言うからあぁ!」
こんな拷問、もう耐えられない。
「君は多分、私が昔書いた小説の登場人物なんだとおもう!」
……ネタ帳の朗読がやんで、私はおそるおそる顔を上げた。