勝谷峠
県道××号線はD県S市とK市の山間部を東西に走る道路である。S市の山間部は海のある北に向かって谷川がいくつも流れており、県道××号線はその谷底平野の集落をつなぐ役割を果たしていた。県道の両端はそれぞれ市街地に向かう国道につながっている。
山々を横切る道路だが、建設費を抑えるためかトンネルは一か所しか存在しない。故にアップダウンが激しく、薄暗い森の中を通る箇所も数多く存在した。
県道××号線の全線が開通したのは高度経済成長期も終わりが見えた頃である。完成当時は山間部の人口も多く、交通量もそれなりの道路だった。しかし、時が経つにつれ、山間部の過疎化が進行し、道路の利用者も減少した。
次第に老朽化が進み、路面の状態も悪化していったが、利用者が少ない、かつ市街地から離れた管理しにくい山間部の道路を補修する余力がD県には残っていなかった。そのため道路の補修はほとんど行われず、特に森の中を通る部分については落ち葉が積もってセンターラインが隠れていることも少なくない。
そんな寂れた道路には、とある噂がある。
“勝谷峠では、つまずいてはならない。”
勝谷峠とは、県道××号線を国道◇◇号線から東に六キロメートル程度進んだ場所にある峠の名称だ。県道××号線でも、特に廃れた区間である。
背の高い広葉樹が道路の脇から伸びて空を覆っているため峠は昼でも薄暗い。道端の苔は水を含んで、歩くたびに靴に汚れを作る。路面の状態も悪く、路側帯の白線は落ち葉で隠れ、アスファルトには三十センチメートル大の穴がいくつも空いていた。
ところどころに墓もあり、そこに供えられた花の多くは色褪せている。
道を歩いていて、何か嫌なものを感じない人間の方が少ないだろう。
「よぉ、久しぶり」
峠の頂上付近、道路の脇から伸びる急勾配の階段の先にいくつかの墓が並んでいた。笄坂芳次は墓花と水、たわしの入ったバケツを持ち、墓の前に立つ。
「じゃ、始めますか」
芳次は目を閉じて手を合わせた後、水のしみ込んだたわしを握り、墓石を軽くこすって汚れを落としていく。初夏ということもあり、地面からは嫌な湿気が立ち上ってきた。芳次は首にかけたゴワゴワのタオルで汗を拭きとりつつ作業を進める。
休むことなく作業を進めること約15分。見違えるほど、とは言えないが、来た時よりは格段にきれいになった墓石にポンと手を置き、芳次は息を吐いて手を止める。
「ん?」
芳次がリュックサックから取り出した水を飲んでいると、下から話し声が聞こえてきた。
「何もないねー」
「こんなもんだろ、有名でもない心霊スポットなんて」
大学生くらいだろうか。男女のカップルが駄弁りながら坂を上がってくる。衣服と髪型のせいだろうか、両者ともいかにも最近の若者という雰囲気を漂わせていた。外見だけは同年代なのに、ヨレヨレの白シャツ、ジーパン、色褪せた薄ピンクのタオルに黒いリュックサックの芳次とは容姿への金のかけ方が比べ物にならない。
「ほーら!」
「おい、押すなって!」
女が男の背中を軽く押す。ケラケラと笑いながら峠を登っていく様子を芳次は隠れるように覗き見ていた。幾ばくか時間が経ち、カップルの声も聞こえなくなったところで、芳次は蝋燭にライターで火を付け、線香に火をつける。細い煙がスーッと伸び、周囲に香料の匂いが広がった。
「なんまいだぶなんまいだぶ、と。困るよなぁ生活圏が心霊スポットとかになると」
芳次はため息をついて立ち上がる。人数は多くないとはいえ、赤の他人が家の前や墓の周辺をうろつくのはあまりいい気分がしないものだ。空き缶やペットボトル、吸い殻も昔に比べて増えてきた。
「よし、今日の分終わり」
芳次は腕時計を見て蝋燭の灯を消し、荷物をまとめる。もう11時だ。そろそろ腹もすいてくる頃である。
「さっきの学生組はどこまで行ったのか……」
階段から道路に降りてきた芳次はカップルの歩いて行った方を見る。二人が前を通って10分程度。既に数百メートルは先に進み、下りも中盤に差し掛かっているだろう。すれ違ったら挨拶でもしようと考えていたが、その機会はなさそうだ。
芳次は薄暗い峠の道をゆっくりと歩く。昨日の雨のせいで道路の縁は湿っており、かなり滑りやすい。基礎が滑ったことでガードレールが歪んでいる部分もあり、下手をすれば急斜面を転がることになる。
「おっと、第一村人?はっけーん」
峠も終わりに近い場所に、自撮り棒とスマホを持った金髪の男がいた。男は芳次を見つけると、スマホのカメラを向けたまま近づいてくる。
「こんにちはー、俺、配信者のレオっていいます!ご存じですか?」
「こんにちは……あいにく存じ上げないですねー」
芳次は配信者と言う単語を聞いて一瞬表情を歪めたが、すぐ元に戻しレオと名乗った男の持つスマホの方を見た。
「あちゃー、俺もまだまだだな‼まあいいや、お兄さん、今峠から降りてきましたよね?俺この峠の噂について動画にしようと思ってまして、お兄さん顔出しOKだったりします?」
ぐいぐい来るレオに一歩引きながら芳次は苦笑いする。
「あー、モザイクつけてくれると助かります」
「了解です!じゃあ、アップするときはそうしますね」
レオが鞄からメモ用のノートと筆記具を取り出している間に、芳次はスマホを取り出し、レオという配信者をブラウザで調べた。汎用性が高そうな名前だが、それなりに有名な配信者らしく、チャンネルはすぐに見つかる。サムネイルに映るレオ以外の人物の顔にはモザイクが掛かっていた。モザイクをかけるという発言は信用していいらしい。
「チャンネル、これですか?」
「それです!ぜひ登録してください‼で、早速ですがこの峠の噂について聞きたいんですけど……時間は大丈夫ですか?」
「ええ、まあ……少しなら。面白い話はできませんが……」
この後、特に予定は入っていない。とはいえ、このテンションの高い配信者に長時間付き合うのは疲れる。芳次は数問答えて切り上げようと心に決め、カメラの方を向いた。
「えーっと、まずお名前を教えてください。あ、本名じゃなくて大丈夫です」
「じゃあ、ヨシでお願いします」
「ヨシさんですね。分かりました。ヨシさんはこの辺りにお住まいですか?」
芳次はスマホをしまい、腕を腰に置く。
「ええ、地元です」
「勝谷峠の、つまずいてはならないという噂はいつ頃からありましたか?」
「かなり昔からありますね。まあ、大方急斜面なのでつまずいたら危ないよ、って意味だったのに尾ひれがついたのだと思いますが」
当たり障りのないことを話す芳次。当然、この峠に対するレオの興味を削ぐためのものだ。その作戦が嵌ったのか、レオの声は最初と比べて明らかに抑揚がなくなっている。
「つまずいてはならない、と言われていますが、つまずくとどうなるか、についてはよく分かっていません。ネットでは行方不明になってしまうとか、不幸な出来事に襲われるとか言われていますが、実際どうなのでしょうか?」
勝谷峠でつまずいたものがどうなるか。この時代、嘘だとしてもネットに体験談が転がっているものだが、全くヒットしない。このことも、勝谷峠を有名にした要因の一つである。
「うーん、何も起きないからじゃないですか?」
「そうですか……」
レオはつまらなそうに相槌を打つ。芳次の目的は悪評による野次馬を減らすこと、対するレオの目的は人が食いつくような情報を集めること。二人の目的は正反対と言っても過言でない。
「この道が計画された時、反対活動のようなことは起きなかったんでしょうか」
「どうでしょうねぇ……昔の話だし」
「両親やおじいさん、おばあさんから聞いたことは?」
「ないですね」
レオの目は既に芳次を見ていない。次に話しかける人を探しているようだ。とはいえ、こんな田舎道、滅多に人が通るものではない。それでも非協力的な人間の前にいるよりは散歩でもしていた方が良いと判断したのか、レオは撮影を止め、峠の方向につま先を向けた。
「オッケーです。ありがとうございました」
芳次の方を見ようともせずに立ち去るレオ。芳次はその背中をゆっくりと目で追う。
「レオさん。あなた霊感はありますか?」
話しかけられると思っていなかったのだろう。レオは驚いた表情で芳次の方を振り返った。芳次は振り返ったレオの顔を見てピクリと瞼を動かす。
「え、ええ。多少はある方だと思ってます。それが配信業を始めたきっかけですし……」
芳次はいくつかのサムネイルを思い出す。どうやらレオは心霊スポットや民間伝承をテーマにした動画を撮っているらしい。
「あー、そうですか……。いえ、何でもないです。活動頑張ってください。足元にもお気をつけて」
レオは不思議そうな表情のまま、ぺこりと頭を下げた。芳次は少しだけその背中を見つめ、帰路に就いた。
◇ ◇ ◇
(はぁ~、外れだな)
レオこと、満田怜雄斗は勝谷峠の頂上付近の路肩に腰を下ろす。
時刻は既に16時過ぎ。森の中は蒸し暑く、座っていても汗がジワリと肌着を湿らせる。不快さを感じた満田は、冷感シートを手に取って服の間に突っ込み、乱雑に汗を拭った。セミの鳴き声も非常に不快だ。何をするにも集中できない。
(ヨシさんが言うように、注意喚起以上の意味はないのかもな)
古い資料を見ると、『滑谷峠』と表現されているものもある。読んで字のごとくだ。もう一つ、『蛞谷峠』とした記載もあったが、これは音に漢字を当てはめただけだろうと満田は推測していた。その資料は峠の名前以外でも、明らかに誤字としか思えない記載が多かったからだ。
(ネットに書いてあった地元の反対も反対運動じゃなくて、勝谷峠辺りは工事が難しいから避けた方がいいって助言程度みたいだし……)
実際、工事にはかなり苦労したらしい。岩や樹木が多く斜面も急。山に日光を遮られるせいで湿気が多く、岩肌は苔と落ち葉で覆われ、立ち入り調査もやりにくい。だが、あくまで工事費が想定を大きく上回ったという話であり、凄惨な事故が起こったり事件があったりしたわけではない。むしろ、体調不良者を地元の人が快く介抱してくれた、という美談の方が目立つくらいだ。
(にしても、最後霊感について聞いてきたのは何だったんだろうな)
満田は芳次と最後に言葉を交わした際にちょっとした違和感を覚えていた。声の発せられる場所が微妙にずれているような、そんな違和感だ。気のせいと言われればそれまでだが、声色も少し変わっていたように思える。
(ま、いいや。距離があったから少し声が変わって聞こえただけだろ)
気にしていても仕方ない。満田はそう結論付け、足に力を入れて立ち上がる。距離はそれほどないとはいえ、何度か坂を上下したのだ。足には疲れが溜まっている。
(帰りは温泉でも行くか)
満田は峠の麓の空き地に停めてある車を目指し、闇が支配しつつある峠道を足元に気を付けながらゆっくりと歩き始めた。所々落石もあり、路面の状態も悪い道路だ。運が悪ければ大きな怪我をしてしまう。つまずいてはならない、との教えはアスファルト舗装がされた今でも健在らしい。
しばらく歩くと、汗が再び顔を湿らせ始めた。踏み込む度、足元の苔に含まれた水が押し出され、白い靴底を汚していく。
足が痒いと思ってよく見ると、靴下の上には蟻が二匹歩いていた。満田は無感情に、その蟻を潰す。
峠の中央辺りに差し掛かった。満田はハンカチで汗を拭き、ペットボトルに入ったお茶を口に含む。とはいえ、特段喉が渇いていたわけではない。視覚、聴覚、嗅覚の全てが不快と訴えている。その情報を少しでも味覚で紛らわせたいという思いが起こした反応だ。
(おっと、あぶね)
満田は足に何かが引っ掛かったように感じ、とっさに足を引く。ツタでも這っていたのだろう。満田は足を上げて歩くことを意識しつつ帰路を急ぐ。そのせいで苔から染み出る泥水が跳ね、ズボンに汚いシミを作った。
(ん、またか)
再度、足が何かに引っ掛かる感覚があった。足元には落石と思われるごつごつとした石。そして、斜面の下の方に並んでいる古い墓標が視界に入った。
墓石の傍には枯れた花が捨てられている。捨てられた花には、まだ少しの色が残っているため、そこまで古いものではない。誰かが管理しているのだろうか。しかし、墓につながる道はどこにもない。急斜面には背の低い笹が生い茂り、足を踏み入れる気にもならない。
満田が笹から視線を逸らした時、カサリと何かが動く音がした。はっ、として音のした方に目を向けると、笹の隙間から大きなヤマカガシが顔を覗かせているのが見える。ヤマカガシは数秒間、満田と目を合わせた後、逃げるように反対側の斜面の草むらへ消えていった。
満田は先に進む。緩く斜面側に膨らむカーブにて、またもや足元に違和感を覚え、つんのめった。足元には赤茶色のツタ植物が横たわっている。
そのツタ植物が絡まる苔むしたガードレールのポールの上に、蛙が一匹。鳴くこともせず、目をぱちぱちさせながら正面の何もない空間をじっと見つめている。
(……)
満田は数歩、進む。そしてまた、足元の何かに引っ掛かった。
足元を見る。今度は、そこに何もなかった。
(ふぅ……)
焦りは禁物だ。心霊スポットでは、その場の雰囲気に飲み込まれてパニックに陥ることも珍しくない。パニックによって通常では考えられない行動をとってしまい、その結果が積み重なることで心霊スポットはその知名度を増していく。そういう仕組みだ。
(帰り道に不思議な感覚に陥ったって感じでネタにできるか?長尺の動画は作れないけどショートなら……)
満田は動画のことを考えて気を紛らわす。しかし、その思いと相反するように、足元を襲う正体不明の感覚は強くなっていった。
靴底が砂利と擦れる。苔を踏む感覚が、ぐにゅりとしていて気持ちが悪い。くるぶしの辺りを冷たい何かが這う。力を入れた爪の先が痛い。嫌な汗が首を伝い、胸をなぞる。
複合的に体を襲う感覚が、嫌に研ぎ澄まされた神経を逆撫でる。満田はその感覚を追い出そうと腕をつねって痛覚に頼った。だが、どうしても体を襲う気味悪さは消えてくれない。
(ちょっとまずったか?)
満田はこれまでにも何度か心霊現象としか説明できない事象に襲われたことがある。今回が初めてではない。それでも、これほどまでの不快感に襲われるのは初めてだった。
『───』
「……ッ!」
音が聞こえた。背後から、重い体を引きずるような音が。
『───』
音との距離は、まだ五十メートルは離れている、はずだ。満田は重い足を引き上げ、前に進む。ゆっくりと、ゆっくりと。つまずかないように気を付けて。
足元を襲う奇妙な感覚は消えてくれない。それどころか、さらに多くの何かが足に絡まってくる。紐のような、粘液のような、重りのような、何か。今、地面に手を付けば、その手まで絡めとられてしまう。そんな、嫌な確信があった。
だから、決してつまずかないように。一歩。また一歩。
『───……』
背後の存在は単調な音を響かせる。それはつまり、背後の存在は進行速度が変わっていないということ。
満田は、ふとナメクジを想像する。ナメクジが這う音など聞いたことはない。コンクリートや石を這うナメクジの音など、耳には入ってこない。
でもきっと、その音が聞こえるのであれば。今聞いているような音がするのだろう。
(クッソ!)
背後の音は着実に大きくなっている。カーブの先にはまだ出口が見えなかった。道は蛇のように森の奥へ曲がり、その先を見せてくれない。
つまずかずに歩くことがこれほどまでに困難なのかと、満田は息を切らして考える。背後を振り返る勇気はない。見たところで何かが解決するわけでもないだろう。それに、進むべきは前だ。こんなに足元が悪い中、いつ障害物にぶつかるか分からない。
『───………!』
背後の音は途切れることなく、空気を伝ってやってくる。いまや手を後ろに延ばせば、そのナニカに触れてしまうかもしれない。
「クッ……!」
満田は遂に我慢の限界を迎えた。無理矢理足を上げ、走り出そうと前傾姿勢を取る。少し考えれば、その行動の結果は明らかだった。しかし、その少しが今の満田には遠かった。
「しまッ!」
瞬間、何かにぶつかったように、体勢が崩れる。足は走り出した場から動いていない。視界は一瞬の暗闇の後、無慈悲にも路面を映し出す。濡れた落ち葉の鼻を突く匂い。
目に映る、その葉の上には、無数のナメクジが這っていた。
クチュ、クチュ、クチュ、カリ、カリ
(ヒッ……!)
声にならない悲鳴を上げる。
初めて、ナメクジの這う音を聞いた。ナメクジが食事をする音も。
クチュ、クチュ、クチュ、カリ、カリ
その音がどうしようもなく不快で、満田は積もる葉を手で振り払おうと力を籠める。だが、手は動かない。
ゆっくりと視線を右手に向ける。見なくても分かる。その手には、灰色で、滑りのある体液を持つ、不快な生物が這っている。
ひんやりとした体。這った後に残る透明の汁が空気に触れて縮み、敏感になった皮膚が引きつるような感覚を必要以上に脳に伝える。逆立とうとしている産毛を押しつぶすように灰色の体と粘液が上から覆いかぶさる。
クチュ、クチュ、クチュ、カリ、カリ
「あ、ああ!」
さっきまで汗が伝う感覚であると思っていた。汗にしてはやけに進行速度が遅いと思っていた。
いや、そう思い込もうと必死になっていただけだ。本当は、汗ではない何かであることは分かっていた。
クチュ、クチュ、クチュ、カリ、カリ
音は途切れない。不快な音は何重にもなって満田の鼓膜を揺らす。
(気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い‼)
金切り声にも似た声を出す。でも、口を開くと口の中にまでナメクジが入ってきそうだ。それだけは、何としてでも避けたい。
クチュ、クチュ、クチュ、カリ、カリ
だが、無情にもナメクジは満田の体を隅々まで探索しようと、あらゆるところを這っている。二の腕、太もも、脇腹、毛髪の間、耳、瞼……耳の中、瞼の内側。
クチュ、クチュ、クチュ、カリ、カリ
背後の音は、今や地面を這う小さなナメクジの音で上書きされてしまった。聞こえたところで意味はないだろう。だって、同じ音がしているのだから。
クチュ、クチュ、クチュ、カリ、カリ
クチュ、クチュ、クチュ、カリ、カリ
◇ ◇ ◇
「おい」
「はッ‼」
満田は目を開け、跳び起きる。そして体中を無我夢中で搔きむしった。ボロボロとナメクジが落ちてくるような感覚がいつまでも消えてくれない。
だが、その手は誰かに留められる。振りほどこうとしても、やけにその力が強く、満田の動きは完全に止まってしまった。
「落ち着け。大丈夫だ」
「……ヨシさん?」
声には聞き覚えがあった。ちょうど、今日の昼に聞いた声だ。
「あー……いや、まあそれでいいや。どうせすぐに忘れるわけだし」
「どういう……」
芳次は木にもたれかかっている満田の額に人差し指を当てる。そして、困惑している満田に何も説明することなく、フッと息を吹いた。
その息が宙に消えていくのに合わせ、満田の体から力が抜けていく。目も虚ろになり、最後は眠るように気絶した。
満田の気絶を確認した芳次は、力の抜けた体を抱え、峠を下る。そして、麓の空き地にある県外ナンバーの車の横に満田の体をそっと寝かせた。
「はぁ、霊感がある奴は狙われるから困る。お前の声が聞こえていたからそうだろうとは思ったが……」
「な?私が声かけてよかっただろ?」
芳次の隣に立つ誰かが軽い口調で話す。
芳次はそれに応えることなく、朝に上った峠をもう一度歩き始めた。上り始めにある急カーブを抜け、山の裏手の薄暗い道に入る。当然、そこには化物の姿も奇妙な風景も広がっていない。ただ寂れた道が次のカーブまで伸びているのみである。
「変化なし」
「変化なしだな。死体もない」
二人はリモコンの電池切れを確認するかのような声色で呟いた。そしてそのまま峠を上り、20分ほどかけて反対側の麓に着く。
「人が襲われる度にパトロールだ。これが面倒だから客が少ないに越したことはないんだがなぁ」
芳次は後頭部を掻きながら足元に落ちていた小石を蹴った。小石はころころと転がり、路肩から斜面へ落ちていく。
「昔は悪い噂のある場所には近寄らない者が多かったけどね。ここ百年で大きく変わってしまったよ」
「結果論だが失敗気味だよな。ここに道が通ること自体もかなり想定外だし」
「強く反対したところで二人の力じゃ何も変わらなかっただろう」
芳次の隣に立つ誰かも何か思うところがあるようだ。峠の下から見えるいくつかの墓標を見て目を細める。
「そう言えばお前、明日はバイトじゃなかったか?」
「ああ、午後からな。午前中は動ける。逆にお前は午前中シフト入ってたろ」
そう言えばそうだったと、芳次の隣の誰かは笑う。芳次はそんな誰かを置いて峠を登り始めた。
「おーい、待ってくれよ。私が襲われたらどうするんだ」
「襲われた方が都合がいいんじゃねぇか?」
「それもそうだね」
声は、芳次の右斜め前から聞こえた。いつの間にか追い越されている。
芳次は、何も言わなかった。
少し前を歩く誰かを、心底面倒そうな目で見つめながら、芳次は峠を歩いた。
明日も、墓を掃除しなければならない。
何かは分からないが既視感がある気がする。




